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その四

すべてを割り切ってしまえば、日々の暮らしはいとも簡単なことではあった。

自分を必要とする職場はあるし、友と呼べる者もいないわけではない。狩野家を自分のものとし、ただ淡々と家族を養うことに勤めれば、何十年先の安泰すら見える。

しかし、自分の為に生きようと思うときに必ず、義弟の悲しそうに睨む目が浮かぶのだ。その度に己が心の出口から踵を返して、また元の場所で悩み続ける。

必要とされるほどに、自分の居場所にいるはずだった義弟への思いがやまない。友と笑いあうたび、長男を失職した恥ずかしさに外を堂々と行けぬ義弟に今度は清次郎の方が顔を向けられなくなっていた。


そうして、三年の年月が流れた。

巡ってきたのは、梅の蕾がほころび始めようかという季節である。義弟の元服も控え、にわかに家の中は慌しかった。


清次郎と家族は、あれから必要以上に親しむことはなかったものの、丁度良い同居の距離を心得、それなりに不自由を感じずに暮らしていた。

父親の具合も、医者を変え、また清次郎のおかげで心に追うものがなくなったせいか、依然よりもずっと良く、このままこれが続くものと家中の誰もが疑わずにいた。


ところがある日、清次郎は仕事に出た後、まだ日の高いうちに屋敷へと戻ってきた。家のものが血相を変えて迎えたのは、それが戸板に乗せられての帰宅だったからだ。

聞けば突然仕事場で倒れたという。直ぐに医者を呼ぼうと言ったが、清次郎は頑なに「帰る」と言い張ったらしい。


父親の医者代薬代で苦労をしていることは、皆が知るところであったから、清次郎が自分までもがそうなるのかと心配をしているであろうこともきちんとわかっていて、備えていた気付けの薬を飲ませると、気心の知れた同僚が運んできてくれたのだ。

実のところ、その同僚が医者代を持つといったのだが、律儀な清次郎は眉間に苦しそうなしわを寄せつつも丁重に断った。


狩野の両親はともにすっかり狼狽して、息子に急ぎ行き着けの医者を呼びに行かせた。

さすがの清次郎も、父親の心遣いにはおとなしく従い、部屋に寝かされるとおとなしく医者を待った。

義弟に伴われた医者は来るなり息も絶え絶え清次郎を診たが、ろくに診もせずにすぐさま首を横に振る。

「これはいかん」


医師は家族を外に出し、弟子とともにじっくりと清次郎を診察した。

しばらくして出て来たのを義父がすがりつくように聞けば、心の臓が相当に悪くなっているという。

原因は、三年に渡る慣れぬ江戸暮らしのせいらしい。所謂、江戸病だと。

江戸病と言われるものがあるのは知っていたが、心の臓迄悪くするとはみな初耳であった。


家族は思い悩んだ。一番の薬は里に返すことであるが、それは出来ない。

さりとてここに置いたところで、以前よりぐっと安くなったとは言え父親の医者代で精一杯で、清次郎のそれまでは首が回らない。

どうしたものかと三人が顔を突き合わせていると、そこに医者が口を挟んだ。


「どうだろう、私の元に預けてみては。どの道ここで寝ているだけではどうにもならんが、私の元であればいつでも診てやれる。

私も一度江戸病と言うものを、どう治すべきかじっくりと向き合いたいのだ。ゆえに代金は戴かぬ」


突然の申し出に家族は困惑した。有り難くはあるが、言わば実験に使われるのではという心配が心を巡る。養子とは言え、清次郎は柘植家お預かりした立場であるのだ。


返事を言い淀む義父に向かい、医者はすべてを見越したように付け加えた。

「何より、今まで清次郎殿には色々と心遣いを頂いているのでね、少しはお返し致したいのだ。それと、私がこの件、諸処書き付けを致すので、申し立てをなさって弟君を跡継ぎに致すとよかろう。

仕事をするにはもとない年頃かも知れぬが、清次郎殿の弟君ともあれば、みな良くしてくれよう。まずは清次郎殿に書状を書いてもらえばよい。」


義父は、自分を診てくれているから、と清次郎が折りにつけて挨拶や贈り物をしているのを知っていたが、医者のこのとんとん拍子の寛大すぎる申し出にはさすがに疑問を抱いた。

しかし、医者の提案の他に良い考えがあるわけではない。

もし何か起こっても、医者に預けて養生と治療の限りを尽くした、となればご実家も咎めはすまい。打算して、しぶしぶ義父が首を縦に振ると

「清次郎殿は納得なさるであろうか」

とだけ聞いた。

医者は長い髭を指でひねりながら

「それなら心配いらぬ。先ほどすべて説明いたした。」

と穏やかに笑みさえ浮かべてに答えた。


そうしてまるで夜逃げの如くその日のうちに清次郎のすべての荷物はまとめられた。

と言っても、三年前、ここに来た時の荷物そのままである。

白河より共にした今も愛用の筆は、時を経たのも感じさせぬほどに美しく保たれていた。



日も暮れて人の目が少なくなった頃、中間に背負われた清次郎は義父とともに医者の元へと向かった。

背に揺られた清次郎が空を見上げればそこにはぽっかりと月が浮かび、まるで洞穴の出口のように煌々と光る。わざわざそれを横切るように、雁が飛んでいった。

冷え始めた空気に、梅の香が遠慮がちに載れば、頭をよぎるのは三年前にただ一度振り返った家の風景であった。


そうしてもう夜も五つのになろうという時分に、やっと医者の持ち物である神田は亀井町にある長屋に着くと、義父は医者の元へと向かい、中間は部屋の中に敷かれた布団に清次郎を下ろして、荷物を置いて火鉢に火をおこすと、とそそくさと行ってしまった。

義父が入れ替わりに来た父は、申し訳ございませんご養生なさってくださいとだけ言って一礼し、余りにもあっけなく部屋を出た。


目も合わせぬ父親の態度は決して情のなさを表しているのではなく、自分の不甲斐なさを責めているであろう。清次郎は少なくともそう理解することに務めていた。

家を出る時、義弟が盛んに「ついていく」と言ったが、もう遅いからと清次郎は丁重に申し出を断った。どんな理由であれ、少し嬉しかった。



しかしこの長屋の部屋は、今まで過ごした中で一番酷い部屋である。江戸へ来る道中の旅籠にもひどいものはあったが、これはそれと同等か、ともすればそれ以下だ。

破れた障子の隙間からはぴゅうぴゅう風が入り込み、壁は煤だらけであった。

しげしげと部屋の弱点を探っている最中、突然腰高障子が開く。


「やあ、無事に着いたようだね」

昼に清次郎を診た医者である。彼は口髭をひねりつつ、話を続けた。

「もう、皆行ったよ。」

それを聞くなり清次郎は

「いやあ、はは。どうにも悪い商売は出来そうにないなあ。」

と笑いながら上半身を起こすと、寝たきりで凝った肩に手を当て、首を回してこきこきと鳴らした。

ばかに朗らかなその様子を見て、医者は心配そうに顔をしかめる。

「良かったのか。大変になるのは清次郎殿だ。御主が立派に働いていればあの家族は何の心配もないのだぞ。」


清次郎の病気は、実のところ全くの嘘であった。

朝早く起き、夜は早く寝、食べ物の好き嫌いもなく、毎日少し離れた仕事場まで歩いていく。体の悪くなりようもない清次郎は健康そのものであったのだ。

「なに、弟には算術も読み書きもしっかりと教えましたし、私の仕事のことも話してあります。直ぐに慣れましょう。もしかしたら、私よりも要領が良いかも知れない。」

そういうと清次郎はまた満足そうに笑った。

医者は岸本と言ったが、岸本は清次郎の人の善さに思わず呆れて笑った。


今から二月ほど前、年の瀬で診療が終わろうかという頃に、清次郎は岸本の診療所を訪ねてきた。

年の明けるまで診療所を閉めるつもりであったので、薬を余分に貰いにでも来たのかと特に不思議に思うわけでもなく、部屋へとあげた。

清次郎は出された座布団に遠慮がちに座ると、どこかそわそわと落ちつかない様子で、岸本は清次郎の父に処方する薬を探す手を休め、向かいの座布団に座った。

「どうかなさったのか、何だか落ち着かないようだが」

岸本は、狩野家の事情も十分知っていたので、さては年始の入用で薬代が無いのではと察した。


「いえ」と何かを言いよどむ清次郎を横目に、岸本は紙に包まれた薬を引き出しから取り出し

「もう勘定を締めてしまったので、御代は来年お願いしたい」

といい、それを差し出した。


すると清次郎はきょとんとした顔をして薬を受け取った。

「はあ、父の薬はもう切れていましたでしょうか」

清次郎がへんなことを言うので、岸本もきょとんとした顔で首をかしげる。

清次郎は何かに気づいた様子を見せて、慌てて薬を岸本の前へと差し戻した。

「今日伺ったのは、薬を受け取りに来たわけではございませんで。紛らわしいことをいたしました。」

岸本は、先ほどの心遣いが清次郎に悟られたかという不安がよぎったが、幸い真面目一辺倒の清次郎には察せられることが無かったようで、ひとまず胸をなでおろした。

「では、一体」

岸本が聞くと、清次郎はうなづき観念して話を始めた。

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