反魂香
わたしの意識を呼び起こしたのは、いつもの目覚まし時計の音ではなく、チュンチュンという小鳥のさえずりだった。いつもは寝起きがあまり良くないけれど、今日は珍しく快適な目覚めで、わたしを悩ませる頭痛もない。カーテンの隙間から射す暖かな光が心地よい。今日は良い日になりそうな予感がする。
「おはよう、梨花。よく眠れた?」
視界がぼやけてよく見えないけれど、この声は間違いなくお姉ちゃんの声だ。
「梨花はいつもお寝坊さんね。目覚ましをかけ忘れてたでしょう?」
そう言われて、わたしははっとして目覚まし時計を手に取る。極度の近眼だから、顔をまじまじと近付けないとよく見えない。ボタンを触って確認すると、確かに目覚ましをセットし忘れていた。
お姉ちゃんの言う通り、わたしはよく寝坊をする。ここ最近は特に酷くて、お姉ちゃんに起こしてもらわないと起きられないことも多い。まだ冬休みのはずだから、絶対にその時間に起きないといけないという決まりは無いけれど、学校が始まってからが心配だ。
「熱は大分下がったみたいね」
いつも「おはよう」と「おやすみ」のときはそうするように、お姉ちゃんはわたしの額にキスをした。そのとき、いつもとちょっと違う香りがしたのに気付く。今まで嗅いだことのない、けれど、とても良い香り。
「これ? そうそう、香水を変えたのよ。どうかしら?」
やっぱり。どんなメーカーの香水だろう? フルーツ系ともフラワー系とも違う香りは、何だか新鮮で、妙な安心感がある。
香織お姉ちゃんは、有名な大学を出た、立派なお医者さん。今は何かすごい研究をしているらしい。しかも美人で、彼氏が居ないのが不思議なくらい。仕事が忙しいから、そういう暇が無いのかも。とにかく、すごい人なのだ。
対するわたしは、病弱でいつも周りに迷惑をかけてばかりだし、運動はもちろん、勉強だって苦手だ。だけど、いつか病気が良くなったら、お姉ちゃんみたいになるのが夢なのだ。
「朝ごはん、できてるからね」
テーブルの上に何かが置かれている。わたしは生まれつき病弱なだけでなく、目も良くないものだから、何が置いてあるかはよく見えないけれど、なんだかとても良い匂いがする。
お姉ちゃんはほとんど完璧超人だけれど、料理だけは昔から下手で、手料理よりも、近所で買ってきたお惣菜の方が慣れ親しんだ味だった。だから、お姉ちゃんの手作りのご飯と聞くと、少し警戒してしまう。昔作った焼き魚なんかは酷いもので、ほとんど炭になっていたのを、今でもよく覚えている。一応、今回のはちゃんと食べ物だとわかる匂いだった。それを口に入れてみた。
「……美味しい?」
正直なところ、口に入れるのが恐かったけれど、食べてみると美味しい。何の肉かはわからないけれど。
「そう。気に入ってくれて良かった。作るの、結構苦労したのよ。お口に合わなかったらどうしようかと思ったわ」
『修理のことなら何でもお任せ! 鳥居リペアラーが午前七時をお知らせしまーす!』
朝のラジオではニュース番組をやっていて、そのスポンサー企業の名前を元気よく紹介していた。病気で目がほとんど見えなくなって以来、娯楽も情報収集も、テレビよりラジオを頼ることが多くなった。
『……次のニュースです。新型ウイルス感染拡大に伴い、緊急事態宣言が発令されました』
新型ウイルスの話は、毎日必ず報じられるニュースだ。テレビでもラジオでも新聞でも、もう一年以上やっている。新しい感染者の数が何人だとかいう話を聞かない日はないし、緊急事態宣言だって、今回が初めてではない。わたしは生まれつき身体が弱いから、もし感染したら、多分、ひとたまりもないだろう。
「……お買い物行ってくるから、留守番をお願いね。良い子にしてるのよ。最近物騒だから、呼び鈴が鳴っても出ないようにね」
わたしは努めて元気よく頷く。ただでさえ、お姉ちゃんには人一倍苦労をかけているのだから、この上心配までかけてはいけない。
でも、大人しくベッドの上で寝ているだけというのは、とても退屈だ。病気のせいでほとんど目が見えないから、テレビもゲームも漫画も駄目。となると、引き続きラジオに耳を傾けるくらいしか、できることが思いつかない。
『新型ウイルス感染拡大に伴い、病床の不足が深刻化しています。これにより自宅療養を余儀なくされた患者の容態が急変し、死亡するケースも多発しており……』
『――T県K市K駅のホームで、女性の遺体が発見されました。死亡した女性はT駅の売店にお勤めの豆塚緑さん、二三歳であることがわかりました。凶器は鋭利な刃物と見られており……』
『――T県K市のショッピングモール『ヘンリーローズ』に、暴徒化した感染者の集団が押し寄せています。彼らは生鮮食品を求めており……』
どこものラジオ局のニュースも、こんな暗い話題ばかりだ。特に最後のニュースは、近所のスーパーでも少し前にあった同じような事件があって、これもニュースでもやっていた気がする。直接現場の近くを通ったお姉ちゃんが言うには「まるでゾンビ映画のワンシーンみたい」だったらしい。
陰鬱な気分になったので、わたしはチャンネルを替えた。
『地獄へ帰れ、このクソッタレ野郎ども!』
チャンネルを替えた瞬間、こんな怒鳴り声が聞こえてきて、ちょっとびっくりした。多分、何かのラジオドラマだと思うけど、それにしても、随分乱暴な内容みたいだ。暗い話題ばかりのニュース番組にはうんざりしてはいるけれど、バイオレンスもわたしの性に合わないので、またチャンネルを替えた。
『すみませんねえ、こっちは今、満員なんですよ……ええ、ご迷惑をおかけしてます、はい……』
すると、今度はまた別のラジオドラマがやっていた。途中から聞くと、何がなんだかさっぱりわからない。わたしはすぐ退屈になって、またチャンネルを替えた。
『――本日は高野香織博士にお越しいただいております』
高野香織、という名前に、わたしは表情を明らめた。お姉ちゃんだ! お姉ちゃんがラジオに出てる!
何を隠そう、お姉ちゃんはただのお医者さんではない。今回の新型ウイルスの研究の第一人者として、よくテレビやラジオに出てくるくらい、有名な人なのだ。
『……まず彼らは、新鮮な生肉を好みます。胃液の消化酵素が変質しているので、肉類以外はほとんど受け付けなくなっていると言っても過言ではありません。自宅療養中のご家族の方がおられるのであれば、新鮮な肉類を与えてあげてください』
『その他の症状として、記憶力と思考力の低下が見られます。発症する以前のことは覚えているようなのですが、新しいことを覚える能力が極端に低下するのです。恐らく、彼らは昨日あったことは全く覚えていないかと思われます。彼らが以前の習慣を繰り返すのは、こうした症状に由来しています』
『また、彼らはほとんど目が見えず、代わりに嗅覚が発達しています。臭いで敵、仲間、食料を区別しているんですね。したがって、彼らにとっての味方と同じ臭いのする香水を身につければ、治療薬とワクチンが完成するまでの間、彼らと平和的に共存することも期待できます』
『ワクチンと治療薬につきましては……』
お姉ちゃんは流石にこの病気を専門に研究しているだけたあって、どうしたら感染者の人たちと共存共栄できるかの策を打ち出していた。そんなお姉ちゃんでも、新型ウイルスの治療法は目処が立っていないらしい。
『次のニュースです。K県A市にお住まいの小学生、香坂琴音ちゃん八歳の行方がわからなくなっているとの通報があり、警察は行方を追っています。また、同地域では同様の行方不明事件が多数報告されており、警察は関連性があるものとして調べています』
女の子が行方不明になったというニュースだ。しかも、K県A市といえば、うちの近所での出来事で、似たような事件が何度も起こっているらしい。最近も物騒になったなあ。元々身体の弱いわたしは、ほとんど外を出歩けないけれど、こんな話を聞くと、余計に外に出るのが億劫になってしまう。新型ウイルスのこともあるから、外に出るのが恐い。
「ただいま。良い子にしてた?」
お姉ちゃんは帰ってくるなり、わたしの額に手を当てた。
「……うん、熱はもう大分下がってるみたいね」
それを聞いたわたしは、少し安心した。大体の病気は熱が出る。熱が下がっているというのは、良い傾向に違いない。
「そうそう、今日はお土産があるのよ」
お姉ちゃんが持ってきたのは、美味しそうな匂いのする、大きな袋だった。
「近所で仕入れてきたの。たくさんあるから、好きなだけ食べて良いわ。後で食べやすい大きさに切ってあげる。今日は豪勢なディナーよ」
そうして食卓に出てきたのは、とても美味しいお肉だった。甘いものは別腹とは違うけど、こういう美味しいものは、いくらでも食べられる気がする。
「良かった。わたしも頑張った甲斐があったわ」
そう言ってお姉ちゃんは、わたしの口をハンカチで拭った。
お腹いっぱいになったら、なんだか急に眠くなってきた。それを察したお姉ちゃんは、わたしの手を取って、ベッドまで誘導する。
「おやすみ、梨花」
そして、いつも「おはよう」と「おやすみ」のときはそうするように、わたしの額にキスをした。わたしの一日はこうして終わるのだ。
わたしの意識を呼び起こしたのは、いつもの目覚まし時計の音ではなく、チュンチュンという小鳥のさえずりだった。いつもは寝起きがあまり良くないけれど、今日は珍しく快適な目覚めで、わたしを悩ませる頭痛もない。カーテンの隙間から射す暖かな光が心地よい。今日は良い日になりそうな予感がする。
「……おはよう、梨花。よく眠れた?」
視界がぼやけてよく見えないけれど、この声は間違いなくお姉ちゃんの声だ。
「梨花はいつもお寝坊さんね。目覚ましをかけ忘れてたでしょう?」
そう言われて、わたしははっとして目覚まし時計を手に取る。極度の近眼だから、顔をまじまじと近付けないとよく見えない。ボタンを触って確認すると、確かに目覚ましをセットし忘れていた。
お姉ちゃんの言う通り、わたしはよく寝坊をする。ここ最近は特に酷くて、お姉ちゃんに起こしてもらわないと起きられないことも多い。まだ冬休みのはずだから、絶対にその時間に起きないといけないという決まりは無いけれど、学校が始まってからが心配だ。
「熱は……うん、昨日より大分下がったみたいね」
いつも「おはよう」と「おやすみ」のときはそうするように、お姉ちゃんはわたしの額にキスをした。そのとき、いつもとちょっと違う香りがしたのに気付く。今まで嗅いだことのない、けれど、とても良い香り。
「これ? そうそう、香水を変えたのよ。どうかしら?」