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6 「グレイ・グー」

 世界は、容易く、もろく、崩壊する。

                    ―*―

ー「『NNN』より、臨時放送をお送りいたします。

 本日の感染者は、以上の皆さんでした。

 それでは地球の皆さん、おはようございます。」ー

 

                    ―*―

 全世界で同時にあらゆる映像を流せる装置から、この異様な放送は行われた。

 ネットワークの名前から日本の有名都市伝説をもじったと思われる放送は、真っ赤な背景に浮かび上がる赤系に色調処理された荒れ果てた戦場の静止画が流れ、そこへ白い文字で無数の人名が流れるというもの。

 哀愁漂うBGMが脳裏に響き、それとともに、流れている人名が英語で読み上げられていく音声が頭の中へと聞こえてくる。

 誰もが、何事かと思った。ホラーチックであまりにも異様なその放送に、全人類が凍り付いたー名前を読み上げられた人間以外は。

 本来ならば、ここでケロリ平然としている人間が異常者とされるべきだったのかもしれない。

 しかし。

 米中ロを始めとする大国では、末端の組織が市民からの問い合わせに応えようと対応を考え始めた矢先、上層部や「やんごとないところ」からの要求で対応も詮索も止めるように命じられたり、酷ければ武装集団の突入を受けて壊滅してしまったりしていた。


                    ―*―

 中国、雲南省。

 地方政府のメンバーたちは、各地から殺到する問い合わせに必死に対応していた。

 人民解放軍や共産党上層部からは、「NNN臨時放送」については一切反応しないようにとの通達が来ている。しかし、彼らは、市民の不安を解消することを優先していた。

 誰もかれも、多かれ少なかれ頭痛をこらえながら、それでも目をきょろきょろと動かして必死に仮想キーボードを操作していく。

 「これか?」

 「同志楊、何がわかった?」

 「金同志、臨時放送があったころに、中央病院から医療用ナノマシンへの不明なアクセスが多発しています。」

 「…つまり、臨時放送の異常性に気づかない人間は、ハッキングされた医療用ナノマシンから干渉されている、と?でも、そんなことが…」

 「李書記長、日本から、暗号文通信が!今回のことについて、EB社からの発表だそうです!」

 「読み上げて!」

 ーそれは、EB社からあらゆる公式機関に送られたメールだった。

 ナノマシンネットワークが知性を持ち暴れ始めたこと。

 ネットワークは既に、人間に干渉するばかりでなく、在来の医療用ナノマシンやインプラント式電子機械へのハッキングを行っていること。

 それらまで読み進めたあたりで、誰もが頭を押さえ、膝をついた。

 「…そのメッセージを削除しなさい。」

 「了解。」

 感情のこもらない会話がなされ、メールが消されるー末尾の「問題のナノマシンは自己複製しもはや止められないと思われるので、あきらめてください」という一文は、気付かれることはなかった。


                    ―*―

 ロシアでは、よりいっそう面倒な事態となっていた。

 問題のナノマシンは、もともと、シンギュラリティ未到達人工知能では実在を保証できるほどの観測力がないためにカメラなどを人工知能ではなく人間につないで2世界の融合点を監視・観測させることで融合後に残るのが地球世界になるようにするためのもの。その事象固定力は観測者の数に応じて強くなる。

 一方、ロシアは、すでに戦艦「アンノウン」が近くを通ったことでモスクワを放棄させられ、人海戦術で(観測者)を集めることでモスクワをなんとか死守したもののほぼ同じ位置に旧都レイ=シラッド市を持つアディル帝国がせめて郊外都市だけでも融合後に残したいとごねたためにいくつかの都市をあきらめざるを得なくなり、しかも今も「アンノウン」通過地点を軸に世界の融合による領土の危機は続く状況にある。

 ロシア政府が、手っ取り早い動員力である兵士たちにナノマシンを接種させて観測力を上げ自国国土保持に努めようとしたのも無理からぬことで。

 不安を訴える一般市民を、感染者である軍隊が脅す…そんな救いようのない事態が国中で発生していた。

 ナノマシンの接種はワクチンなどの注射薬や飲用薬を経由していた場合がほとんどで、広く人口が散らばるロシアという国の特徴上あまり感染者内で増殖、他者へと伝染した例もなく、従って優先順位が低かった地方・東部の軍隊は、ロシア軍ならではの即応力と精強さで今回のナノマシン事変への対応を始めた。

 幸い、EB社からのメールのおかげで、ナノマシンのパンデミックというとんでもない非常事態に陥っていることは把握できていた。そして、「あきらめろ」と言われてあきらめないのが人間の悲しいさが。

 ただちに、西部との往来の遮断、それに臨時放送を異常と感じなかった人物や体内から機械的な電磁波を放出している人物の拘束が始まった。

 後は、なんとかして、ナノマシンを除去する薬か処置が登場するのを待てばよい…そう考えたものの、すぐに想定は覆される。

 セルゲイ・コジンスキー大統領らロシア連邦中央政府は、地方軍のこれらの動きを反乱と断じ、ロシア連邦軍全軍に異世界への侵攻準備の西進と東進しての反乱軍討伐を命じた。

 反乱軍と断じられた、主に東部軍管区のロシア陸軍は、いさぎよく降伏したりはせず、戦闘を選ぼうとして、まず核兵器の差し押さえに入った。

 交戦においても、ロシア「反乱軍」は、「ウイルスではなくナノマシンであるため、人間からだけではなく機械からでも感染する恐れがあり、また、空気・飛沫・経口・接触といった従来知られるウイルス感染と異なりナノマシン自身が感染者に自らの排出を促させる『随意感染』があり得る」といったEB社からの警告を良く守り、ドローンを中心にロボットなどの無人兵器やレーザー・砲・ミサイルなどの遠隔兵器を使ってなるべくナノマシンを近づけないようにする徹底ぶり。

 病院はすぐに閉鎖され、電磁波兵器を使ったナノマシン破壊措置を受けなければ薬などもいっさい販売禁止となった。

 半日後、事態の全容がはっきりしてきた時にはすでに、双方が相互確証破壊に充分な核戦力を保有する状況となっていた。そして、これを止められる第三国はもはや存在しない。

 あわや内戦で核戦争となりかねない状況だったが、結局、ロシア宇宙軍による衛星軌道からのビーム攻撃によりウラジオストックに新設された「反乱軍」司令部が非破壊的な身体的苦痛で機能不全を起こし、そこへ中国人民解放軍が電撃侵攻したことで、「反乱軍」は速やかに瓦解した。だが瓦解したうちの一部は、機に乗じて融合世界のロシア領内へ越境してきたアディル帝国軍との合流を図り、ロシア軍はこれらと対峙することとなった。


                    ―*―

 銃社会であり、また21世紀後半となっても未だ開明的と言い難い地域が存在する国、アメリカでは、臨時放送とEB社メッセージが、社会の崩壊を引き起こした。

 異世界においては、南北アメリカに比定される地域はほぼ未開の地であり、跳梁跋扈する魔物を融合後の世界へと持ち込むのもバカバカしいので、全域を地球側とすることが決定されていた(むしろ北カナダやアマゾンのような地域をいかに人間の手で「観測」し魔物がいる異世界側で融合完了しないようにするかについて検討されていた)ため、それほど、異世界との土地の取り合いという事態になっていなかった。

 ために、実際のところ、アメリカでの「護国運動ガーディアンズ」の活動は極めて小規模で、一部の右翼団体・宗教団体にNNNのナノマシンが導入されていただけだった。

 だが、中国で示されたように、NNNはただ人間に感染して認識と行動を操るウイルスであるのみならず、電子機器・コンピューターに接続してハッキングするコンピューターウイルスでもある。そしてアメリカはさすが先進国、医療用ナノマシンがある程度普及していた。

 様々なデマー「携帯端末の電波で操られる」などーによって、一部の民衆が武装蜂起。先端医療病院や先端機械工場を襲撃した。

 最初、銃を手に各地でテロリズムを働いた集団に対し、地方の警察が出動した。この時点では民衆にも治安維持組織にも若干の死傷者は出たものの、中国やロシアでの騒乱は対岸の火事だった。

 しかし、キリスト教原理主義系宗教組織の蜂起を境目に、警察ではもはや収拾がつかなくなり始めたー一斉蜂起を行った宗教団体はいずれも臨時放送の前には「異世界は神の恩寵を受けぬ不浄な世界であり、これを助けた者は地獄に落ちる」というような主張をしており、「護国運動ガーディアンズ」と何らかの関係があったため、アメリカ政府は「すでに彼らの上層部は感染しており、襲撃は自作自演」と断定したが、かと言って放置するわけにもいかず、州兵を投入することになった。

 州兵の投入、それに対し隠れ信者であった一部州兵の離反と、同じように異世界やナノマシンの支配を受け入れがたいと考える住民の蜂起…そして、テキサスなどの南部諸州で銃撃戦、ゲリラ戦が発生して混沌としてきたタイミングで、ジョークニュースのチャンネルが「一連の戦闘はすべて、ナノマシンによる人類の支配を進めようとする『すでに感染してしまった政府中枢』による弾圧だ」と紹介した。

 笑えないジョーク過ぎた。

 出典を明らかにせずに引用してしまったいくつかのネットニュースや個人インフルエンサー、それに「中露では実際にそうなっている」という傍証が、大衆に、「これはジョークだ」と気づく心の余裕を失わせた。

 退役軍人が、かつて務めた基地に押し入り銃砲を持ち出し。

 子供が、クリスマスプレゼントに買ってもらった拳銃で街へ出て。

 主婦が、ガンショップで散弾銃を買い求める。

 アメリカ各地が、パニックにより、世紀末の様相を呈し始めた。

 「ナノマシンによる人類の支配を許すな!」

 「感染者を叩き出せ!」

 「ロボットの言いなりの大統領を処刑せよ!」

 ニューヨークで、サンフランシスコで、シカゴで、横断幕を掲げた群衆が大通りを行進していく。それは、超大国アメリカの破綻を告げる喚声だった。


                     ―*―

西暦2064年/神歴2724年/統暦1年1月18日

 「まさか、私の愛する国が、このようにもろいものだとはな…」

 大統領専用機エアフォースワンの窓から、首都ワシントンへなだれ込む人ごみと車列を見下ろし。

 アメリカ合衆国第51代大統領ジェームズ・S・ハインラインは、物憂げにつぶやいた。

 暴徒と化した民衆は、各都市を占拠し、これに加わった一部の政府・軍職員の手で革命臨時政府モドキの樹立まで宣言される有様。

 「パニック、ヒステリーを起こしやすい国民性なのは指摘されていたが、まさかこれほどまでとは…」

 すでに彼の手元には、NSAによる報告が届いている。それによればアメリカ国内でのNNN感染者は1万人をきっていると見られ、政府に近いところでは上院議員に1名下院議員に3名ほどと考えるのが妥当というところだった。つまり、民衆蜂起は完全なアレルギー、空回りなのである。

 「核兵器はすべて間に合って、ロシアの二の舞は防げそうなことだけが救いだな…」

 「大統領、また、臨時放送です。」

 「26回目!

 Shit!」


                     ―*―

 ヨーロッパは、恐慌状態にあった。

 もともと、もっともナノマシン医療が進んでいた地域でもある。そして、ベネルクス、ドイツ、東欧では異世界との融合による国土の消失とその後の異世界接触・魔物侵入、そしてそれらによる難民発生を経験していた。しかも、人口過密地域。

 最初に投入されたNNNナノマシンも、NNNにハッキングされたナノマシンも、けた違いに多く。

 はっきり言って、ヨーロッパは、特に先進ヨーロッパは手遅れにあった。

 もう、誰もが誰もを信じられず。

 相互不信の中で、社会は完全に崩壊をきたした。

 通りには人っ子一人おらず、電線や機械の残骸がそこかしこに転がっている。

 そんな状況下でも、インターネットがもともと「重要部位が核戦争で破損しても機能し続けるネットワーク」を目指して研究開発されただけのことはあり、電子ネットワークはあっちこちで生存し、住民に魔術で映像を見せ続けていた。

 真っ赤にアレンジされた、荒れ果て、荒野に鉄くずだけが散らばる戦場。

 白い字幕で流れつつも、高速で読み上げられる人名ー否、それはもはや都市名、地域名となっていた。

 哀愁を覚えざるを得ないBGMが、人類文明の終焉を告げていた。


                    ―*―

 「文明は、社会は、あくまで、みんながみんな自己決定権を持つことを前提に動いてるってことだね…」

 松良あかねの顔色は悪くなるばかり。

 …わかっているのだ。世界の支配をその思考回路の根底に持つ人工知能なれば、何らかの手段で松良あかねのこともある程度監視していて、あかねの敗北宣言によってNNNは活動を活発化したのだ、と。

 「隣の人が、実は人間じゃない存在に操られてるかもしれない…いや自分も…そうとなれば、相互不信の中ですべてが崩壊することになる。

 最悪、だよね…」

 まだ、臨時放送ですべての感染者が明らかになるのならば良かった。しかし実際には、放送される人名・地名は氷山の一角でしかないようである。

 「誰がゾンビかわからないゾンビパニックみたいになってますもんね…」

 太田友子は、せっかく戻ってきた地球世界がぐちゃぐちゃになっていくのを、言い尽くせない複雑な思いで見ているしかない。

 「このままこの騒動が収束するとすれば、それって、一巻の終わり、だからな…」

 ケミスタも、喉を詰まらせた。

 仮に、なんの働きかけもNNNにしなかった場合。

 NNNはいかなるウイルスもはるかに及ばない蔓延速度であらゆる機械とあらゆる人間に感染し、世界中を己の効果範囲として、やがてはあかねに感染してその能力を取り込み「ミロクシステム」となって君臨、少なくとも1735年後まで世界を混乱させー否、その真意が明らかになった今、「世界を維持し続ける」と言ったところで語弊はありえまいーあまたの犠牲を歴史の中に生んでいくことになる。

 「シンシアが、報われない…そんなことは、私は許容できません。」

 「私もー。

 味方が全然いなくても、シンシアの願いを叶えて、未来を救う。そう決めて、覚悟して、来たもんねー。」

 間延びしたいつもの口調であっても、決然とした意志が、クララベルからは感じられた。

 現代人組は、そんな彼ら彼女らを、眩しそうに見ていた。

 「打つ手がなくても、それでも…か。

 私たち、ハングリー精神が足りなくなっちゃったね…」


                     ―*―

西暦2064年/神歴2724年/統暦1年1月19日 

 推定値で、世界人口の2%、先進国人口の10%がNNNに感染し操られていると見られた。いくらEB社が直々に対策に乗り出した日本以外で封鎖がことごとく失敗しているとはいえ、発覚からわずか2日間で想像を絶するほどに規模を拡大したことになる。自己複製するナノマシンの脅威が本領を発揮していた。

 ケミスタとイルジンスクは、手持ちの量子位置固定機のラプラス演算計を使うことで(これはさすが「不確定性に従い未来の幅を予測する」機械だけあり、手のひらに収まるサイズながらも21世紀のスパコン技術では地球より大きくなってしまうほどのコンピューティング能力がある)、NNNの今後の勢力伸長を予測した。

 ー1週間以内に、世界人口の95%がNNNの制御下に。

 ー日本国内への侵入を許した場合、世界人口の98%がNNNの制御下に。

 ー松良あかねが陥落した場合、パラダイムシフトとしての戦乱を経て、全世界がNNNの統括下に。また、その場合、「異世界」は観測によって実在を否定され完全に消滅する。

 ー松良あかねが「異世界」のために妥協した場合、世界の融合は加速、また認識が改竄されて最初から世界は1つだったことにされ、その中で2勢力へ2極化、どちらもNNNの統括下に。

 いずれにせよ、このままでは、ナノマシンネットワークにより、すべては無意味に帰すことになる。

 「でも、打てる手が完全に消えたわけじゃない…私は、そう思います。」

 「うん…こういうことは、私たちのほうが適任だもんねー。」

 「確かに、いくら1700年前つったって、俺らの技術でナノマシンを駆逐するにも、ナノマシンより速く増殖する駆除ナノマシンを作るくらいしかないもんな。」

 異世界に出現した「ミロクシステムcopied」に始まり「オーバー・トリニティ」、「NNN」と、超知性と称されるモノの特徴は、その構造が人間と異なる故に思考回路が人間のそれと乖離し、世界の見え方・解釈が人間離れしているーいわゆる「リンゴが赤く見えていない」ーところにある。このような超知性は自己改善と独自の世界観のために行きつくところまで行っており、後発のより優れた技術で造り上げた物では「異なる世界観の同水準」には到達できても「同じ世界観のより高水準」にたどり着くことはできない。そのため、超知性に対しては時間的ハンデが意味をなさなかった。

 「確かに、この世界の事象固定力は『世界は簡単に変えられない』とみんながまだ思ってるせいで非常に強く、NNNと言えど臨時放送の音声をテレパスするのが限界だ。」

 だからこそ、四六時中テレパシーをかけ続けることで、NNNは「世の中は不可思議で因果にそぐわない事象にあふれている」と人々の無意識に刷り込み、世界の安定性を下げようとしているのだ。

 「だから、ソーシア一人でも、NNNの妨害を気にせずに事象の改竄が可能だってのはそうだ。幸い、俺たちは事象連絡遮断フィールドのおかげで、1700年後と同じだけの改竄力を使えるんだしな。

 だけど、どうするんだ?」

 「地球全体を巻き込む魔術をかけます。

 対象は人間体内の金属生命。」

 「呪術系なら、そう言う指定で、ナノマシンを一網打尽に攻撃できると思うんだよねー。」

 「なるほど、精神干渉系の魔術なら、そういうこともできるのか。でも、効果範囲が地球全てはさすがに厳しくないか?」

 「『傘』は、そもそも、傘の下にあるモノを災いから守るためにあるのですよ?ですから、聖傘には、傘の下の範囲内の災いを取り除く魔術的効果があるのです。」

 「なるほど、何をすべきかは分かった。

 イルジンスク、守りの方を頼む。」

 「まったく人使いが荒いなお前。

 了解、いくら俺でもこんな古い時代相手に負けやしねえしな。」

 「私は、具体的に付与する魔術を練らないとねー。」

 「それじゃソーシア、始めるか。」

 「ええ、それほど時間に猶予はありませんし。」


                    ―*―

 ー聖傘の効力範囲に全地球を巻き込み、その上で、恩恵を与える系統の魔術によって、効力範囲内のナノマシンネットワークに崩壊を余儀なくさせるほどの激烈なデバフを与える。

 この作戦のためには、そもそも、聖傘の下へ全地球を収めなければならないという問題点がある。一般的な雨傘と同じサイズでしかない聖傘を。

 ケミスタは、ソーシアをお姫様抱っこし、バックパックを背負い込んだ。

 バックパックの後ろから細いノズルが下へと突き出して透明な炎を噴射すると、ケミスタとソーシアの身体は花火玉のごとく空高く打ち上げられていく。

 ソニックブームの爆発音が響いたかと思うと、すでに、2人は雲のはるか上だった。

 21世紀の技術では、生身の人間を快適なまま第一宇宙速度で打ち上げることも、生身の人間が軽く背負える程度の物体に2人の人間を衛星軌道まで送り届ける推力を達成させることも不可能であるどころか想像もつかない。見上げるほど高いロケットを使いようやく宇宙飛行士の安全と宇宙までの推力が保証されるのだ。そう考えるとなかなかの超絶技術と言える。

 とにかくも。

 酸素をくれるボンベも体温を維持するための宇宙服もなしに、ケミスタとソーシアは、暗黒の宇宙空間へ飛び出した。

 まず、ケミスタが傘をさす。

 傘の基本的な性質は、西半球同盟においては「覆われた部分を快適に保つ」と解釈されていた。だからこそ、宇宙空間のような生身の人間にとって不快どころではない場所であっても、ケミスタとソーシアには常温環境で潤沢な空気が供給される。いかなる場所でもそれができるだけの仕組みが、最初から内蔵されているのだから。

 とても宇宙空間とは思えない快適な環境で、ソーシアは、やっと両目を開くーその瞳には、いくつもの金色の同心円が回転していた。

 瞳の中から外へ、金光の唐草模様が広がっていく。

 自分の認識に魔術をかけることで世界を書き換えようとしているのか、世界を魔術で書き換えることで自分の認識を変えようとしているのか…この場合、卵が先か鶏が先かの議論に過ぎない、魔術「因果起源論矛盾サーキュラーリファレンス」。

 バサッと、聖傘が開かれる。

 聖傘は、確かに、ソーシアの頭上を覆うほどの大きさでしかない。しかし瞳からあふれ出した金光の唐草模様が眼下の青い星を覆うように広がっていくにつれて、地球上の誰もが、頭上が暗くなったように感じた。

 ついには、地球を、金色の光が覆う。ソーシアが自分にかけた「光が見える」という幻覚が実際に光として顕れ、幻覚ではなくソーシアに見えているのだ。幻覚が事実となり事実が現実となる、クララベルが認識系最高魔術は、さすがの威力を誇っていた。

 金色の光の傘。その中心には聖傘が開かれたままに魔術陣を回転させている。

 「発動、『怨呪楔国ストクイン』」

 国家や組織にまとめてかける系の魔術であり、史上最強の呪いの名を冠することによりあらゆる災いを対象に約束する魔術。それは、宿主の無意識化の観念のおかげで未だ充分な事象改竄/固定力を持っていないNNNには抜群の効果を持つ。

 大都市を縁取る地上の灯が、明滅する。寄生するナノマシンが不具合を起こしたことで調子がおかしくなっているらしい。

 「すごいな…地上の事象改竄度が下がり始めたぞ…」

 ケミスタのその呟きは、つまり、実際にナノマシンネットワークが弱っていることを示していた。

 

                    ―*―

 地上では。

 全地球上の無数の人間の体内で増殖しつつ脳内へ電磁波を発して認識へ干渉していたナノマシンたちは、1つまた1つ、壊れていった。

 機械である以上、いつまでも壊れないなどと言うことはない。いつかは壊れるーそれはショートだったり、あるいは部品が摩耗したり、外れてしまったり…そうした偶然に起こり得ることの発生確率を上げ、万物流転の原則に沿うようにして対象を自然な崩壊へ導くのが、国家呪詛魔術のメカニズムだ(なお、本来であれば、天災や騒乱など、充分に起こり得る国家の安定を揺るがすような事象を頻繁に発生させることで国家を苦しめる魔術である。広範に薄い効力を発揮するため、量子位置固定機のような事象改竄阻止の措置を取られるとたちどころに無効化されるという大きすぎる欠点があった)。

 地上において、観測論的魔術によってテレパシーを行いつつ映像装置へ映像を送信して「NNN臨時放送」を流し続けていたのはナノマシンネットワークなのだ。それが異常を起こしたことで、音声が聞こえなくなったり、映像が砂嵐だらけになったり…ということが、全世界で起こり始めた。


                    ―*―

 ヒナセラの国家移転による消滅を控えゴーストタウンと化した日生楽市に置かれている、「ヒナセラ自治政庁転移準備課」。

 旧Biontrol社日生楽本社ビルを本拠地とするこの政府機関の役割は、ただヒナセラや大陸東方連邦王国諸国が異世界から地球世界へ融合により移ってくるのに対処するだけではなく、「2つの世界の融合」という稀有な現象に関するデータを取ることにある。とりわけ、「アンノウン」出現までおそらく世界最大の「門」であった日生楽神社大鳥居跡は、事情を知っている者からすれば、研究対象として垂涎の的であった。

 松良あかね率いるEBグループ研究部門と、テライズ・アモリ率いるリュート辺境伯領魔法研究者組合。その両者が、「門」のかつてあったところを両側から観察し続けていた。

 ーだからこそ、異変にすぐ、気付けた。

 元日生楽神社敷地であり、現在はEBグループの社有地として保全されフェンスで囲まれている、日生楽中学・高校の隣の林。その中央には、砂山が細長く横たわり、下草がぽっかりと欠けている空間があったー言うまでもなく、かつて異世界との「門」として使用されその末に崩壊させられた日生楽神社大鳥居の、はかない痕跡である。

 なんの異変もなく、ただただ前日の雨でしっとり濡れて灰色になっていた砂山が、突如として翠色に輝き、そして、意思を持ってでもいるかのように、2本の柱を成していく。

 流れるように。

 立ち上がるように。

 墓から生き返るかのように。

 日生楽市の視察に訪れたままナノマシン騒動のおかげで本国に帰れなくなっていた透河元は、翠の光を放ちながら出来上がっていくそれを見て「門」と一言口を開きそのまま口を閉じることができなかった。

 翠の光を放つ大鳥居が、身をもたげ、そして屹立する。

 伝統ある神道のシンボルである鳥居を冒涜するかのように、直上へと立ち上る光の十字架。

 十字架の交点に映るは、巨大な緑の眼。その視線の先は、青空の向こうを見ていた…

 「何を、『観測』して…

 …もしや、宇宙!?」


                    ―*―

 地球を包む、金色の傘。その根元で柄を握るソーシアを自らの傘で守っていたケミスタは、地球上の一点から感じた強力な予兆に対し、反射的、本能的に傘を閉じて斜め下へと向けた。

 両手からばらまかれた、地球の絵が描かれたビー玉サイズの粒。それらが観測によって周囲を地上環境と同じにそろえる。

 自らをにらむ翠の眼へ対応できるのは、ケミスタただ一人。NNNそれ自体を攻撃しているソーシアには、自分を守ることすらできない。

量子位置固定機が本領を発揮し、周囲の量子の位置を「観測」することで魔術によって不条理な干渉を受けないようにする。しかしここで、ソーシアによる事象改竄は妨害できない。

 ケミスタはソーシアを抱き寄せて体内電位解析による思考解読テレパシーを行い、ソーシアの魔術による事象改竄力と地上の翠の眼による事象改竄力を分けて量子位置固定機に入力することで、なんとか、自衛を果たそうとした。

 ーズ!

 結論から言えば、自衛それ自体が間違いだった。

 ーズ!

 連続して襲い掛かる、空間震動。それは、魔術と呼べたほどには洗練されてはいなかったからである。

 ーズ!

 1700年後において、空間震動魔術は、その名の通り、質量物質を裏打ちする物理空間を震動させることで、そこに如何なる物理的存在も破砕されるしかなくなる…というものとして語られている。

 ーズ!

 しかしそれは、「構成単位最小よりも小さな震動を激烈に与えたならば対象の構成単位の破壊による対象の消滅が可能である」とわかっているからこそ言えること。物質の構成単位についてマトモにわかっていなかった異世界においては、ただ「世界それ自体に地震を起こす」という魔法でしかない。

 ーズ!

 故にそれは、世界それ自体を、つまり量子や物理空間ではなく、因果律を震動させた。だから、対抗手段に対して、因果を辿り効果を遡及させてしまったのだ。

 魔法「震空スペーシアルクエイク」が魔術「空間震動スペーシアルクエイク」に進化する過程で「世界それ自体、もの/ことそれ自体への地震」という要素を体系化のため切り落としてきたツケでもあった。

 ーズ!!!

 身体中を引き裂かれ、ケミスタは血まみれとなり…

 …ふらりと、どろりと、崩れる。

 「ケミスタっ!」

 ソーシアは必死にケミスタだったものを引き寄せ、障壁魔術で自らと血肉を覆い、再生魔術で治癒をかけたー「世界の在り方」を改竄する未来魔術は、段階逆遷移的な手法により例え肉片からでも治療が可能である。一方で未来技術の粋は、重ね合わせを利用して内蔵のすべてが破壊されていても人格と人物の唯一性が保存されるようにしていた。

 なんとか、真っ赤にうす汚れたケミスタを保持したソーシア。しかし彼をとりあえず入れている魔術障壁球も、翠に輝いて波紋に揺らぎ、不穏極まりない。

 「お願い、死なないで…

 …貴方まで失ったら、私…もう、どうしたらいいか…」

 魔術障壁ごとケミスタを抱きかかえるようにして、消えゆく金色の魔術陣を背に、ソーシアは大地へと墜ちていった。


                    ―*―

西暦2064年/神歴2724年/統暦1年1月20日 

 ケミスタ、ソーシア、イルジンスク、クララベル。

 未来からの刺客が失敗したことについては、松良あかねは、哀しみこそ感じたが、「そうなってしまったものはしかたがない」と思っていた。

 しかし。

 ケミスタをズタズタにし、ソーシアと共に地上へ墜とした攻撃については、松良あかねは、平常心ではいられなかったー

 ーありていに言えば、激怒していた。あの、温厚な松良あかねが。

 そもそも、ソーシアもケミスタも、計算によって現状の地球の事象固定力を調べ、見当は重ねていた。そしてその結果、「この時代においては未だ『世界がそう簡単に脈絡なく改竄されるはずがない』という人々の固定観念が根強いため事象固定力が高く、NNNが観測によって『世界の在り方』を改竄する魔術を使用しようとしてもほとんどうまくいかない」と結論付けられていた。

 しかし、ソーシアの証言を聞かなくても、2人へ行われた攻撃が魔法「震空スペーシアルクエイク」であることは、この破壊的な魔法の唯一の使い手であったルゼリア・エンピートに確認をとればすぐにわかることだった。

 ーでは、如何にして、魔法をNNNが使用したのか?

 日生楽の「門」跡地で起きたことがなんであったか考えれば、どんな悪夢が起きていたのか、想像は付く。

 NNNは、事象改竄力のすべてをまず、「異世界を引きずり出す」ことへ割り振ったのだ。

 異世界においては「魔法を使えば、世界は容易く変えることができる」と信じられている。つまり、ものごとの変化がより自由で人間が恣意的にかかわる余地がある、事象固定力が低い世界なのだ。

 NNNが行ったのは、一時的に日生楽ーヒナセラの「門」を復活させることで異世界を引きずり出し、それによって異世界の理で魔法を使用できるようにした上で、「世界の在り方を変える」やり方により「魔術」の段階に至っていながらも物理空間ではなく因果関係から世界に地震を起こす「震空スペーシアルクエイク」を使用することだった。

 これが、松良あかねにとって「最後の一線」となった。

 ー世界融合における、異世界消滅の企図。

 ーNNN暴走によって悪夢に陥った未来からの真摯な来訪者との抗争。

 ーそして、この抗争のために、異世界を、よりにもよってヒナセラを、NNNは利用した。

 松良あかねは、想い出を、青春を汚された気分になっていた。

 融合において有利に立たなければというのは、まあわかる。やらなければやられる…そんな状況で、融和ばかり目指しているあかねのほうがおかしいのかもしれないのだ。

 しかし。

 あかねにとって、「異世界研究同好会」での日々は大事なもので。

 あかねにとって、ヒナセラの人々とのかかわりはかけがえのないときで。

 異世界を、ヒナセラを利用して、自分に縁がある少年少女を追い詰めるーそんなNNNの動きは、想い出を土足で踏みにじるような、今につながる大切な過去を汚されるような、最悪のモノだった。


                    ー*ー

 「すでに、ナノマシンの勢力拡大は、止めようもない。

 人々の思考回路と認識能力に影響を与え、お互いにネットワークを構築しウェブネットワーク化。

 …電子ネットワークに人間の脳を物理接続してその能力を拡張する『ホモ・アーキフィキアリス』の、『ミロク世』の構想は、こんなカタチで、結実してしまった。」

 伊達大作…叔父と言えない叔父は、この事態を笑うのか。それとも、哀しむのか。

 「これもまた、1つのグレイ・グー。

 ナノマシンは今や、文明のすべてを乗っ取ろうとしている。

 でも、だとしても。

 一度、私たちが助けて、そして応援しようと思わせた、4人。そこへ土足で入り込んできたからには、NNNには、私の仲間、私の家族への敵意があると思う。

 そして、まして、あの4人を傷つけようとするのにあたって異世界を利用したのは、私を冒涜していっこうにかまわないと思ってるってこと。」

 例え、血は繋がっていなくても、心がつながっているのなら、それは家族の証。

 「私は、家族を大事にしたい。

 にもかかわらず、NNNは、未来から来た『家族』を傷つけた。

 にもかかわらず、NNNは、異世界にいる『家族』を道具にした。

 だから、私の家族の敵は、もう、許しておけない。」


                    ―*―

 松良あかねに、血のつながった家族はいない。

 両親は伊達大作に殺され、叔父もとっくにこの世を去り。

 孤独な「創られた人」だからこそ、彼女は、血でつながらない家族を重んじていた。

 それは最愛の夫松良優生であり、義妹木戸優歌であり、自由になるための檄を入れてくれた親友峰山武であり、太田夫婦のような「異世界研究同好会」の仲間であり、ヘレナ・オーやカイダ・リュート、ヒナセラ住民のような異世界で出会った人々であり、亜森連人や太田玲奈のような新世代であり、そして自分を目指してわざわざ遡時タイムスリップまでしてきたソーシア達のような未来人であり…

 紆余曲折、ともあれ深いつながりを得ることになったすべての人間が、彼女にとっては家族で、なくしたくない、守りたい大切なもの。

 「私のお母さん…松良三保は、命を落としてしまったけれども、それでも私をこの世に誕生させてくれて、そのおかげで私は、優生君や、みんなと出会えた。」

 だから。

 死ぬつもりはなくても、あかねも、三保のように、家族を守りたい。

 「さあ。

 今までしてきたのは、戦争だった。

 今から、私闘を始めるよ。」


                    ―*―

 「う…

 …はあっ…」

 ケミスタは、病室のベッドの上で目を覚ました。

 両手を顔の前に持ってきて眺めたり、布団の中から足を抜き出してみたり、ひとしきりそんなことをしてみてから、ふと気配を感じて横を向いた。

 「大丈夫のようですね。

 良かった…」

 ほろほろ、流れ続ける涙が両目の下に筋を作っている…そんなソーシアの姿を見て、ケミスタは、とっさの衝動を抑えきれなかった。

 身体を起こして、ガバッと、両腕で抱きしめる。

 「ソーシア…ソーシア!

 ごめん、心配かけて…」

 「ううん…

 私は、私は、これだけで、幸せですから…」

 しばらく、2人は、身じろぎもせずにただ身を寄せあっていた。それは、一番大切なものを見つけるためにわざわざ1735年をかけなければならなかったことへの埋め合わせのようですらあり。

 十数分後、2人はやっと身体を離し、恰好を整え、少しの間赤くなった顔を見合わせて、それから羞恥を消し去り真面目な表情になった。

 「ソーシア、俺たちの作戦は、失敗、か?」

 「はい、異世界については良くわからなかったですし、よもや異世界を呼び出して異世界から魔術攻撃をするなど可能とは思えなかったので…しくじりました。」

 「それで…

 …だとしたら、もう、手遅れじゃないか?」

 試算上、すでに世界人口の7%がNNNの支配下にあり、日本でもナノマシンを抑えきれなくなってきているはずだ。決して、イチャイチャしている余裕など残されていない。はっきり言えば、もはや世界や未来を救うのではなくひたすら自分の保身に奔るべき局面まで追い詰められている。

 「ううん。

 もう、全部、私たちの手を離れてしまいましたから。」

 「えっ…」

 ソーシアは、寂しそうな表情で、ピッとテレビをつけた。

 超アップで映し出されたのはー

 ー端正な、松良あかねの顔だった。


                    ―*―

 「ミロクシステムより、臨時宣言を発令します。

 ミロクシステムは、本日18時00分を持ちまして、『ナショナライズ()ナノマシン()ネットワーク()』へ、宣戦を布告致します。

 これに伴い、全地球世界のElectric・Bioグループ企業は当面の間、閉鎖機関に移行します。

 一切のNNNに与する国、組織、個人は、これを敵とみなし情け容赦はありません。

 かかってきなさい、ミロクシステムが相手です。

 (松良あかね)は、怒っています。」

 すでに取り返しがつかなくなった世界で。

 松良あかねは決めた。

 これは戦争に非ず、私闘だ。家族を守り、家族を汚されたことへの怒りをぶつけるための。

 最後の闘いが、幕を開ける。

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