第2話「この作品は超能力漫画とかではないよ、多分!」
伏木さんの文藝部への入部が決まった翌日。俺たちは今日も文藝部の部室に集合していた。昨日伏木さんの事があってうやむやのままに終わってしまった朗読劇の読み合わせのためである。
「せっかくゆづきも入った事じゃし、ゆづきにも朗読に参加してもらおうかの」
「私がですか!? 入部早々荷が重くないですか!?」
「問題ないじゃろ。というか、ぶっちゃけた話をすると、昨日ののあの噛み具合が想像以上にひどかったので地の文のサポートに入ってほしいというのが本音じゃ」
「あー……。確かにアレは酷かったですね。日本語とは思えませんでした」
「そこまでなの!? 私の噛み具合そんなレベルなの!?」
教室では昨日同様冷めた感じで通していた伏木さんだが、部室に来てからはややぎこちないながらも昨日のように遠慮したりすることなく、素の自分を出しているように見える。教室でもそういう親しみやすい感じでいてくれればいいのだが、流石に昨日の今日でそこまでとはいかないだろう。それでもまあ、この空間が彼女にとって我慢をしなくていい場所になってくれるのであれば、今はそれでいい。まだ3ヶ月あるんだ、少しずつでいい。
「というわけなので、9:1くらいの割合でゆづきに読んでもらおうと思う」
「私成分薄っ! メロンパンの中のメロン成分くらい薄っ!」
「それはゼロなのでは!?」
メロンパンにメロンが使われていないのは有名な話だからな。それだと乃蒼が一切読まなくていいことになってしまう。いくらスワヒリ語の使い手であろうと、部員として全く仕事をしないのは違うだろう。
「どこ!? すわひり語どこ!?」
「アフリカ東岸部のケニアやタンザニアなどで話される言語ですわね。ジェンガやサファリはスワヒリ語でしてよ」
「何故そんな知識がスラスラ出てくるんじゃせーらは! というかそもそもどこからスワヒリ語が出てきたのじゃ!」
「ようちゃんの心の声」
「案の定お主か! 朗読劇の話をしていたはずなのにどうしてそうなった!」
「乃蒼の朗読が日本語に聞こえないって話だったので、俺史上最もよくわからない言語を言ってみました」
「そんなどうでもいい部分を無駄に広げて時間を浪費するでない! 文藝部がいつもグダグダ活動しかしてないんだとゆづきに勘違いされるじゃろ!」
それに関してはもう手遅れなんじゃないだろうか。昨日は真面目な話を粉々にぶち壊したし、今日は今日で集合から30分経っても雑談しかしておらず本題が一向に進んでないわけだし。
「安心してください、氷見先輩。私は既にその認識です」
「手遅れじゃったああぁぁ!」
頭を抱えてうずくまるひみこ先輩を眺めつつ、話が脱線した原因の一端である自覚はあるので少し軌道修正を試みる。
「まあ、9対1まで極端じゃなくてもいいけど、聞きやすさを取るなら伏木さんが多めに読んだ方がいいとは思うぞ。もしくは乃蒼の噛みを矯正する方でもいいけど。そこは2人で相談してくれ」
「仕方ありません、私が多めに読みましょう」
「即決!? ゆづちゃん相談の余地は!?」
まあ、当然その選択になるよな。あの噛み王を矯正できるビジョンはどうやったって浮かばないし。
「だって、あの噛み具合を以前から把握しているこの部の人たちが矯正を諦めているんですから、たった数日でどうにかできるわけないじゃないですか」
「考察が鬼のように的確!」
ひみこ先輩に続いて乃蒼も両手で顔を覆って先輩の隣にうずくまってしまった。まあ、あの2人なら放っておいてもそのうち勝手にリジェネするだろうからそのままにしておこう。
「言葉選びにゲーマーが滲み出てますよ……。それで、話の内容的にはどんな感じなんですか? 結局私、どんなお話なのかまだ知らないんですけど」
そういえば、まだ説明してなかったっけか。昨日の読み合わせもたった2行で挫折したし、まだ登場人物くらいしか聞いてないんだな。俺も細部まで細かく覚えているわけではないが、なんとなくのあらすじは覚えているので作者に代わって説明しよう。
「ざっくり言うと王道のラブコメって感じだな。交換留学で日本にやってきたヒロインが主人公に一目惚れして、必死に振り向かせようとする様子を二人の視点から描いてるんだ。ヒロイン視点が多めだから、そっちの地の文を伏木さんが担当するとバランスがいいかもな」
「……なるほど。つまり貴方は恋する乙女かつ留学生を演じるわけですね。……大丈夫なのですか?」
「……全然大丈夫ではないな。なんなら代わってほしいくらいだ」
ヒロイン役はどう考えても女性陣がやった方がいいはずだ。だがひみこ先輩も乃蒼も面白がって代わってはくれないし、国分先輩も女教師役なので、希望があるとすればもう伏木さんだけなのである。
「そういうことであれば、私も代わりませんよ。その方が面白そうですし」
「貴様もそっち側か!」
駄目だ、この部活に俺の味方なんて存在しなかったんだ。雪路と共に大恥を晒す以外のルートは残されていないんだ。せめてもの腹いせに本番当日は心の中でモノマネ祭りでも開催しながら朗読しよう。
「ちょっ、それはずるくないですか!? 貴方の低クオリティモノマネを聞かされ続けながら朗読とか地獄にもほどがあります!」
「勝手に低クオリティだと決めつけんなよ!」
確かに乃蒼からは軒並み3点という評価を受けたけども。もちろん100点満点中だけども。
「バカ低クオリティじゃないですか!」
「いや、乃蒼の評価を一般基準としてみるのは危険行為だ。だから俺は認めない!」
「貴方の苦しい言い訳のようにしか聞こえないのですが……」
そんな話をしていると、予想通り早々にリジェネが完了した2人が戻ってくる。
「わしらがショックを受けている間になんの話をしとるんじゃお主らは……」
「ようちゃんのモノマネは誰が見ても酷いと思うけどなぁ。ねえ、星羅先輩?」
「……ものまね、というのはなんのことかしら。庶民の間で流行っている遊びかなにかですの?」
「「「「「えっ」」」」」
まさかこのおぜうさま、モノマネを知らない……? 確かにバラエティ番組とか芸人なんかとは縁がなさそうではあるが、言葉としては知っててもいいはずなんだけどな。なんでスワヒリ語は知ってるのにモノマネは知らないんだ。知識の偏りがすげえな。国分家の教育方針はどうなってんだ。
「まさかせーら、モノマネを知らんのか……? 人とか動物の真似をすることなんじゃが……」
「へえ、初めて知りましたわ」
どうやら冗談とかではなく、本当に今初めて知ったらしい。今までもこういうことは何度かあったが、流石に今回はびっくりしたな。まあ、この機会に彼女の常識をまた1つ補完できたから良かったと思うことにしよう。
「もう1年近い付き合いになるけど、国分先輩って未だによくわからんな」
「あとでザコシショウのDVDを貸してあげよう」
「それはモノマネを今知った方へのサンプルとしては些か不適切では……?」
確かに、ちょっと上級者向けなネタではあるしな。それに、あれをモノマネの代表例として学習されてしまうと大変面倒な未来が待っていることがありありと想像できてしまうので、全力で乃蒼を阻止しなければ。というか乃蒼よ、なんでそんなDVDを持ってるんだ。
「オカンの趣味だよ」
あの人の趣味かー……。コレの母親だけあって、乃蒼並みによくわかんないんだよなあ、あの人も。
話題が脱線しまくったので、少し休憩を挟んでから改めて今日の本題に取り掛かる。
「なにはともあれ、まずは一度最後まで通して読み合わせてみるのじゃ。のあの噛み具合で気が散るとは思うが、それは本番でも起こり得ることじゃからな。修行だと思ってとりあえずやり切るのじゃ」
「どうも、ステージギミック乃蒼です」
「ふんぞり返って言うな!」
お前は楽かもしれんが、お前以外の全員はとんでもない集中力が必要なんだからな。真面目に噛むのを減らす努力をしろ。端から諦めてステージギミックになるな。
「しょうがないなぁ。じゃあ、今日はいつも以上に気合を入れて読んでみるよ」
……あれ。これ、いつも以上に噛み具合が酷くなるフラグか?
「フラグな気がしますね」
「フラグじゃな」
「フラグですわね」
「面倒なフラグ立てんなよ、陽平」
「なんでみんな私が気合を入れるとより噛みまくるっていう共通認識なのかな!?」
まあ、事実だからな。文藝部員は何度も目にしているから当然知ってるだろうし、伏木さんも乃蒼のことはだいぶわかってきてるようだから容易に想像できるだろう。
「みんな揃ってバカにしおって……! 本気の乃蒼さんを見せつけてやるから覚悟してよ!」
~30分後~
「…………のあよ、なにか申し開きはあるか?」
「我ながら完璧な朗読だったと思いますよ?」
「んなわけあるか! ほぼ全文噛み散らかしておったではないか! わしらがそれに動じずに読み進めるのがどれほど困難だったと思うておる!」
案の定、読み合わせ中の乃蒼はいつも以上に噛みまくった。それはもう、2文字に1文字噛むという文字に起こすのも嫌になるレベルだった。なのでそのシーンはばっさりカットした。そしてそれに動揺したり笑ったりせずに朗読を続けるのがどれほどの苦行だったか。これが某年末のあの番組だったら、乃蒼以外の全員が20回ずつはOUTになっていただろう。
「なるほど、それならちょっと野球部からバット借りてこようかな」
「金属バットでやる気か!? 尾てい骨が砕け散るぞ!? というか別にこれ年末の某番組じゃないし、お前が叩く権利もないから!」
今まさにひみこ先輩に怒られているくせに何を言ってんだコイツは。金属バットで人のケツ叩くとか正気じゃねえぞ。
「まあ、のあの説教はよーへいに任せるとして、じゃ。通してやってみた感想はどうじゃった?」
「陽平さんが女声ではありませんでしたわ」
「最初の読み合わせなんだからそれくらいいいでしょう!?」
練習の度に女声を出し続けていたらあっという間に喉が枯れるわ。それに、乃蒼の噛み噛み朗読に耐えながらの女声はあまりに難易度が高すぎる。
「じゃが、普段から練習しておかないと肝心の本番で声が出せなくなるぞ?」
「まあ、それも確かに一理あるんですよね」
練習なしで出せるものでもないしな、女声。とはいえこのメンツに見られながら練習するのも精神的にしんどいし……困ったものだ。
「でも、それで言うとひみこ先輩の主人公の声もだいぶ高かったんじゃないですか? 高校生男子って設定なんですし、もう少し低くてもいいと思いますけど」
「む……それも確かにそうなんじゃよなぁ。低い声を出すのも思った以上に難しいのじゃ」
あのままだと声変わりに失敗した奴かショタの2択だからな。先輩も先輩で練習が必要そうだ。
「酷い2択ですね……。逆に国分先輩や中川さんは声が見事にハマっていましたね」
「あら、ありがとうございます」
「犬の声がハマってると言われても嬉しくないな……」
確かに、この2人はキャラと性別も一致してるし、話し方や性格もそれなりに似通っているから、非常にやりやすそうだ。特に雪路なんてほとんど素のままだっただろう。楽で羨ましい限りだ。代わってほしいとは微塵も思わないが。
「そう言う伏木さんのナレーションも良かったですわよ。突然の参加ですから少々ぎこちない部分もありましたが、とても聞きやすい声でしたわ。後で金一封をお渡ししますわ」
「いや大丈夫ですから! すぐにお金を与えようとするのはやめてください!」
遂にお詫びや賄賂ではなく普通に報酬としても金をバラまこうとし始めたか。国分先輩の常識ストッパーが1人増えて助かった。しばらくストッパーの役目は伏木さんに任せよう。
「いや私に丸投げしないでくださいよ! ツッコミは高岡さんの仕事でしょう!?」
「うん、その認識は改めてもらおうか」
別に俺だってツッコみたくてツッコんでいるわけではない。周りの乃蒼たちがボケ散らかすからそうせざるを得ないだけだ。別にツッコミを生業としているわけではない。
「おいその心の声のルビの振り方は物申すよ」
「なんで心の声のルビの振り方が認識できんだよお前は!」
単に声が聞こえるだけじゃねえのかよ。未だに仕組みがまるでわからねえな。
「いや、私は単に声が聞こえるだけですよ……」
「それは修行不足だね、ゆづちゃん。2年くらいようちゃんの心の声を聞き続けると声と一緒に文字も見えてくるようになるよ」
「そんな誰も得をしない追加コンテンツは別に要らないのですが!?」
ほんとその通りな。誰も得しないので是非伏木さんには習得しないでいてほしい。
「……それはつまり、私と2年も一緒にいるのは嫌という事ですか?」
「そういう事じゃないだろぉ!」
単にそのよくわからん特殊能力を身に着けないでくれってことだよ。言葉綾ちゃんだろ。
「「誰!?」」
「……さて、ではそろそろまとめに入るぞ」
こちらのくだらないやり取りが一区切りしたタイミングでひみこ先輩が口を挟む。こういうタイミングを計る能力はさすがだ。
「一度読み合わせてみた結果じゃが、せーらと中川は特に問題なさそうじゃな。ゆづきも飛び入りの割には良い出来じゃったから、少し練習すれば大丈夫じゃろう。わしとよーへいは声の出し方じゃな。滑舌は問題なさそうじゃから、声を練習するのみじゃ。問題はのあじゃな……どうしてくれよう」
「どやぁ」
「そこでドヤ顔をする意味がわからん!」
今の会話の流れからどういう思考回路をたどればドヤ顔に辿り着くのか。
「いっそのこと地の文を全てゆづきに任せてしまえば朗読劇としては完成度が上がるんじゃろうが、それでは文藝部の出し物として意味がないしのー……。よーへい、あと10日くらいでなんとかできるか?」
「……今まで何年経っても直せていないものを、たった10日で?」
「……やはり無謀か」
「うーん。何かきっかけさえあれば、って感じだとは思うんですけどね」
普段からあんなに噛み噛みなわけではなく、緊張が絡むが故だからな。緊張を解消することができれば一気にまともにはなるはずだ。それはそれで大変かもしれないが、普段は緊張とは無縁の奴なので、なにかきっかけみたいなものがあればいける気はする。
「まあ、これに関してはよーへいにどうにかできなければわしらにはお手上げだとは思うので、ひとまずはよーへいに任せた」
「丸投げですか……」
俺だけ自分のこと以外に乃蒼の面倒も見なきゃいけないのか。ちょっとハードワークじゃね?
「ようちゃん、ファイトだよ」
「誰のせいだと思ってやがる!」
コイツ改善する気あんのか。
「次の部活は明後日じゃ。その時にまた読み合わせをしてみるから、各自練習しておくよーにの!」
ひみこ先輩の号令を合図に、本日の部活は終了となった。完全下校時刻も近付いていたので、ちょうどいいタイミングだろう。家の方向が反対の先輩2人と校門前で別れた後、2年生4人で帰路を歩く。
「うーん、どうやったら乃蒼の噛み具合を直せるかなー」
「無理じゃね?」
「のあちょっぷ!」
「あべしっ!」
要らない発言をして乃蒼にチョップされているバカは無視して、もう1人の人物に話しかけてみる。
「伏木さん、なんかいい方法ないか?」
「私に振るのですか? 乃蒼さんのことは高岡さんの方がよっぽどわかっていると思いますけど」
「その俺が何年かかっても直せてないから、別の角度からの意見が欲しいんだよ」
「ああ、それは確かに。ですが、急に意見と言われても難しいですね……昨日言っていたジャガイモみたいなのは効果がないんですか?」
「ああ、昨日ひみこ先輩が言ってたけど結局流れたやつか。試したことはなかった気がするけど……別に見てる人がいなくてもアレだからなあ。効果は薄そうな気がする」
「……確かにそうですね。部員しかいない読み合わせでもああなるんですもんね」
それに、人に見られているが故の緊張ではなく、ちょっとかしこまった場に対する緊張みたいな感じだからな。通常の緊張に対する対処法ではあまり効果がないと思われる。
「そうなると、私にはなんとも……。自分の方の練習もしなければいけませんし」
「俺の方が自分の練習は大変なんだけどな」
「それは知りませんよ。貴方が望んだヒロイン役なんですから、頑張って女声をマスターしてください」
「俺が望んだわけじゃねえ!」
不本意ながらって昨日も説明しただろうが。俺が望んでヒロイン役なんてやるわけないだろ。これはひみこ先輩にはめられたんだ。
「それにしても……この作品、氷見先輩が書いたんですよね」
俺の抗議はスルーかそうですか。
「氷見先輩って、留学とか転校の経験があったりするんですか?」
「いや、別にそういう話は聞いたことないけど……急にどうした?」
「いえ、このヒロインの心理描写が大変リアルなので。慣れない環境への戸惑いや不安とか」
「……ああ、なるほど」
伏木さんはこの交換留学生のヒロインと似たような立場だから、なにか感じるものがあるということか。ますますこのヒロイン役を伏木さんに譲りたい気持ちでいっぱいなんだが。絶対その方が合ってるだろ。
「そうやってヒロイン役から逃げようとしないでください」
「別にそういう意図で言ったわけじゃねえよ!」
単純にその方が朗読劇としての完成度が上がるだろって話だよ。
「確かにそれはそうかもしれませんが……それを見て入部を希望した真面目な子がこの部の実情を知ったら、さぞショックなのではないですか?」
「それは……。……確かにそうだな」
新歓の出し物を見て、文藝部ってすごく真面目に部活してるんだ~、と思って入った人たちが8割ぐらいの確率で話が脱線するこの部活の活動内容を知ったら……うん、後悔するか辞めるかだな。馴染める人も中にはいるだろうけど、そういう部活ではないと思って入部してる分「思ってたのと違った」という落差は凄いだろう。そう考えると、新歓の出し物は今の感じのままでもいいのかもしれないな。その方が今の文藝部らしさは伝わるかもしれない。さすが伏木さん、文藝部のことをよくわかっている。
「入部2日目の人に指摘される前に自力で気付いてほしいものですけどね」
「文藝部を愛してくれてるんだね、ゆづちゃん……!」
「わざわざ恥ずかしいように言い直さないでください!」
「でも事実でしょ?」
「そりゃあ多少なりとも気に入ってはいますが、愛はさすがに言い過ぎです!」
「そっか。でも気に入ってはくれてるんだね」
「そ、それは……! あ、うぅ……」
乃蒼の誘導尋問に引っ掛かった伏木さんが言葉に詰まって顔を赤くする。昨日から完全に乃蒼の手玉に取られてるな。
「その言い方はなんとなくやめてください!」
「でも事実でしょ?」
「そのフレーズ気に入ってるんですか!?」
その後もやいのやいのと言い合う2人を微笑ましく眺めていると、雪路が話しかけてきた。
「雨晴さんと伏木さん、すっかり仲良しだな」
「あれ、お前生きてたのか」
「さすがに雨晴さんのチョップでは死なねえよ!」
なんだと。しぶとい奴だ。
「やっぱりあれか? お互いにお前の心の声が聞こえるのが大きいのか?」
「最初のきっかけはそうだろうが、それがなくても遅かれ早かれこうなってた気はするな。相性はもともと良さそうだし」
現に今も俺なしで普通に2人で盛り上がってるしな。
「クラスでの様子を見てるとあんなに愉快な人だとは思わなかったけどな。昨日も今日も終始冷たい感じだったし。こっちが素なんだとしたら、教室では相当無理して振る舞ってんだろうな」
「……かもしれないな」
その演技が苦ではなくなるほどに心が擦り減っていなければ、だが。
「だからまあ、乃蒼とか文藝部の人たちといる間だけでも自由に過ごせるなら取り敢えずはそれで」
「相変わらずの世話焼きだな」
「うっせえ」
これはもう性格だから仕方ないんだよ。
「……けど、取り敢えずってことは、まだお節介焼くつもりなのか?」
「……どうだろうな。状況次第では」
「……わかってるとは思うが一応忠告しておくと、人様の事情に踏み込むのは程々にしといた方がいいぞ」
「……一応覚えておくよ」
「あ、それは多分音速で忘れる奴だね!」
「突然こっちの会話に入ってくんな!」
せっかく男2人でちょっと真面目な話をしてたというのに。
「え……。ホモですか……?」
「真面目な話してただけでなんでそうなる!」
どえらい偏見だな。その理論だと世の中ホモだらけになるぞ。
「あ、いえ、すみません。貴方と中川さんが真面目な話をしている様子が想像できなかったので少し動揺しました」
それはそれで酷い気がするのだが。
「それで、どんな真面目な話をしていたんですか?」
「いや、まあ……別にそれは知らなくてもいいんじゃないか? なあ?」
「そうだな。大した話じゃなかったし」
「……なるほど、えっちな話だね?」
「うわ……不潔です近寄らないでください」
「「誤解だ!!」」
本当に余計なことしかしないなこの幼馴染は。だがまあ、お陰で上手いこと誤魔化せたので今回ばかりは良しとしよう。代わりに不名誉な誤解が発生してしまったが。
☆ ☆ ☆
家の方向が違う高岡さんたちと別れて、私は1人自宅への道を歩きます。登下校の際は今まで10年近くそうしてきたはずなのに、何故だか今日はひどく静かだと感じました。どうしてだろうと考えて、その理由はすぐに思い当たります。どう考えても文藝部の皆さんのせいです。あの人たちの周りはずっと騒がしくて、静寂とは無縁で……私がとうの昔に諦めた空間で。こんな時間を過ごすことなんてもう一生無いと思っていたのですが……人生とはわからないものですね。転校の手続きで学校を訪れた帰りに偶然見つけた楽しそうに会話する2人組を翌朝にも見かけたと思ったとことろからこんな展開になるなんて、一体誰が想像できたでしょう。どうせまた3ヶ月経てば転校してしまうというのに、そんな私にこんな風に接してくれて……おかしな人たちです、本当に。ですが……久し振りに感じた人の温かさや、誰かと一緒に過ごす楽しさ、冗談を言い合える心地よさ……それを与えてくれたこの人たちとなら、素敵な3ヶ月が過ごせるような気がします。いえ、きっと3ヶ月だけではないですね。今まで散々裏切られてきた過去はありますけど……それでも、この人たちなら本当に、転校した後でもこの関係が続いてくれる、そんな気がします。……いえ、これは私の願望ですね。転校後もこの関係が続いてほしい。そう思います。
そんなことを考えているうちに自宅へ到着しました。今の時間は……18時過ぎですか。珍しく遅い時間になってしまいましたね。今まで当然部活なんて入ってきませんでしたから、こんな時間になるのは久しぶりかもしれません。
「ただいま帰りました」
声をかけながら玄関をくぐります。物の少ない自分の部屋で手短に着替えを済ませてから、リビングに向かいます。リビングでは専業主婦の母が出迎えてくれます。
「お帰り夕月。今日は遅かったわね」
「あ、は、はい。すみません」
母の少し圧のある言い方に、つい反射的に謝ってしまいます。別に悪いことをしていたわけではないのですが……昔から、母のことは少し苦手なのです。
「授業はとっくに終わってる時間だと思うけど、何をしてたのかしら」
「ええと、部活動を」
「部活? 貴女が?」
嘘をつく意味もないので事実を述べたのですが、それを聞いた途端母が怪訝な顔になりました。……少し、嫌な予感です。
「……いけませんか?」
「どうせ3ヶ月で辞めてしまうのに入る必要があるのかしら?」
「それは……」
確かに、その通りかもしれませんが。ですがそんな言い方はしなくてもいいじゃないですか。
「そんな中途半端に部活に参加しても他の人たちに迷惑をかけるだけじゃないかしら。それにまた貴女が傷つくことになるかもしれないし」
当然ながら母は、小学生の頃の私が転校してすぐにいとも容易く崩壊する友情に傷つく姿を知っています。親としてそのことを憂慮するのは当たり前で、それ以来私が傷つく可能性があることを極端に嫌うようになりました。なのでこうして私の行動に口を出してくることも少なくありません。
「何があったのか知らないけど、早めに辞めておきなさい。その方が確実に傷つかないし、貴女のためなんだから」
「………………」
私のため。それは確かにそうなのでしょう。人と関わらなければ人によって傷つくことがないのはその通りです。それは今までの私の人生が証明してくれます。母の言うように今の時点で文藝部を辞めれば、この高校でも今までと変わりない、傷つく心配もない静かな日々が送れるのかもしれません。ですが……文藝部を辞めたくないと思う私がいるのも事実です。彼らと一緒に過ごす時間を楽しく感じている私が、彼らなら私の転校後も私を裏切らないと信じたい私がいます。けれど未来のことなんて誰にもわかりません。楽しい時間を過ごした分だけ、信じていた分だけ裏切られた時の傷は深く大きくなります。万が一そうなったらと思うと……もう立ち直れないくらいに私の心はズタズタになることでしょう。それを考えると母の言うことに従った方が良いように思いますが……でも…………。
(私は……どうしたら良いのでしょう)
いくら考えても、その答えは見つかりませんでした。
☆ ☆ ☆
翌日の放課後。俺は1人で部室に向かっていた。乃蒼はクラスの女子とスイーツを食べに行くとかで今は一緒ではない。前にも言ったが別に四六時中一緒にいるわけじゃないんだ。こういう風に乃蒼が俺じゃない友人と出掛けることも別に珍しい事ではない。
でもって部室に向かっているのも、別に部活があるからではない。昨日ひみこ先輩も言っていたように次の部活は明日だ。今部室に向かったところで誰もいないだろう。だからこそこうして向かっているのだ。
じゃあ部活もない無人の部室に何をしに行くのかという話だが、別にやましい事ではない。いや、微妙にやましいのか……? まあ、他人に見られたいものではないな。ぶっちゃけて言うと、女声の練習をしに行くのである。最初は自分の部屋で練習しようかと思ったのだが、両親に聞かれるリスクがあると思ったらその選択肢は無しになった。隣の家の乃蒼にも聞かれるかもしれないしな。で、じゃあそうなった時にどこで練習するかと考えたら、一番に浮かんだのが部活の無い日の無人の部室だったのだ。カラオケボックスという手段もなくはないが、そっちは金がかかるからな。
おいそこ、「真面目に女声練習すんのかよ」みたいな視線はやめろ。俺だって別にこんな練習はできれば御免被りたいよ。だが、女声なんて今まで生きてきて一度もやったことが無い以上、どんなもんなのかを確認しておく必要はあると思ったんだ。人が聞いて笑えるくらいのクオリティであればなんの問題もないが、笑えないくらいにド酷いクオリティだったりただただ気持ち悪いだけだったりしたらせっかくの新歓を台無しにしてしまうかもしれない。それを見極めるために、もし酷いようなら練習をするために、今から部室に向かうのである。
到着した部室は、当然ながら鍵が掛かっていた。つまりは現在部室が無人だという証拠である。なので職員室から借りてきた部室の鍵を使って施錠する。普段部室の鍵を開けるのはひみこ先輩の役目なので、こうして部室の鍵を開けたのは何気に初めてだ。見慣れない無人の部室に新鮮なものを感じつつ部屋の電気をつけ、鞄を机に置く。乗り気はしないが自分の声を確認するのが目的なので、スマホのボイスレコーダーアプリも起動する。確認用の文言は……ヒロインの最初のセリフでいいか。鞄の中から冊子を取り出し、セリフを確認する。
「ええと……『コノジュウショハドコデスカ?』だな」
ホームステイ先の家の場所がわからなくて困ってたヒロインが、声をかけてくれた主人公に対して言ったセリフだ。初っ端からカタコトで難易度が高いにもほどがあるが……まあ、とりあえずやってみよう。
「……コ、コノジュウショハドコデスカ?」
ガチャ
「……あっ」
「…………伏木、さん?」
とにかく高い声でしゃべってみよう、と思いながらセリフを読み上げたちょうどそのタイミングで、部室の扉が開いて伏木さんが入ってきた。……何故、ここに……?
「……ええと、高岡さんが1人で部室に向かっていくのが見えたので、もしかして部活があるのかと思ってやってきたのですが……その、なんかごめんなさい」
「謝らないでくれ!」
なんか余計にやり切れなくなるから!
「そ、そうですか……えと、女声の練習をしていた、という認識で合ってますか?」
「……まあ、うん」
人に聞かれないようにこの場所を選んだはずなのに、まさか速攻で人に聞かれるとは思わなかった。大人しくカラオケに向かうべきだったか。金をケチったばっかりに……。
「ご自分の部屋という選択肢はなかったのですか?」
「親に聞かれるかもしれないのに?」
「あー……確かに女声の練習を親に聞かれるというのは、かなり絶望的な事件ですね」
「だろ?」
特にうちの母親は天然成分が強いので、息子が変な趣味に目覚めたんだと勘違いされる可能性が大いにある。そして隣の雨晴家の奥さんに相談してより大変なことになるところまでがセットである。
「だから部室で練習をしようとしたんですね……。ということは、本日は部活は無いんですね」
「ああ。部活があるのは明日だよ。わざわざ部室まで来たのに悪いな」
俺の行動のせいで勘違いをさせてしまったか。だが、人に言うのは躊躇われる内容だったからなあ。
「心の声とかで教えてくれても良かったんですよ」
「なんだその面倒な伝達手段は!」
確かにそれなら乃蒼と伏木さんにだけこっそり伝えられるが、そもそもがお前らにもあんまり言いたくないことだし。それに、部室に来るまでの道中で結構心の中でしゃべってたような気がするんだが、それは聞こえてないのか?
「そうなのですか? 私には特に聞こえていませんが」
「あれ、そうなのか」
物理的な距離によって聞こえる聞こえないがあるのか。まあそりゃそうか。乃蒼だって別に四六時中聞こえてるわけじゃないしな。だが、アイツの場合部室等と教室ぐらいの距離なら聞こえてた気がするが……熟練度の違いか?
「なんですか熟練度って! そんなのあるんですか!?」
「さあ?」
前例が1人しかいないし持ち主でもないのでその能力について詳しいことはわからん。詳しいことは乃蒼に聞いてくれ。
「貴方が熟練度とか言い始めたんでしょう……。ところで、私は席を外した方が良いですか?」
「あー……そうだな」
思いっきり人に見られながら女声の練習とか恥ずかしさの極致だしな。……だが、自分の女声の出来の良し悪しなんて自分で判断できるものだろうか。こういうのは人に見てもらった方が正確な評価が出来るとか言うし、伏木さんには既に先程の第一声を聞かれてるからな。これ以上聞かれたところで大差ないような気もするし、それならばいっその事練習に付き合ってもらうのもアリなんじゃないだろうか。その方が1人で探り探りやるよりも短時間で済むし、比較的正確な評価も得られるだろうから失敗する確率も減らせるだろう。時間をかけて練習したのに酷い出来という結末が一番目も当てられないからな。ということで、伏木さんにも手伝ってもらおう。(ここまで約0.5秒)
「どう考えても0.5秒の思考量ではありませんよ!?」
何故だろう、そのツッコミ割と最近聞いたことがある気がするな。
「まあそういうわけだから、特に用事とかないのであれば付き合ってほしい」
「どういうわけですか……あと、ちゃんと修飾語をつけてください。勘違いされますよ」
……? 何か勘違いされるような発言があっただろうか。
「天然なのかボケなのか判断に困りますね……それで? 私は何をすればいいんですか?」
そう言いながら伏木さんは自分の鞄を机の上に置く。どうやら練習に付き合ってくれるらしい。つまりは暇だったんだな。
「この件を言いふらしてもよいのですよ」
「冗談だから!」
危ない危ない。ただでさえクラスメイトからの評価は既にアレなことになっているのにその上女声の練習までしてたとかいう話が広まった日には、いよいよ取り返しがつかなくなる。
「そしたら、俺が恥を忍んでヒロインのセリフをそれっぽく読むから、それに対して率直な意見なりアドバイスを頼む」
「わかりました。ボロクソに意見してあげますね」
「ボロクソ前提はやめて!?」
確かにクオリティは低いだろうけどさ!
「ですが、先程ちらっと聞いた感じでは結構ボロクソに言わざるを得ない感じだと思いますが」
そういえば部屋に入ってきたときに既に聞かれているんだったか。
「……そんなに酷かったか?」
「酷かったとい程ではないですが……あれではただ裏声でしゃべっているだけですね。女性らしさも微妙なら面白味も薄いという、一番残念な感じですよ」
「既にボロクソ言われてる!」
俺の心はクリティカルダメージを貰って既に瀕死だ。だが、逆に考えればその評価を今この時点で聞くことが出来て良かったと言うこともできる。今日1人で頑張った後に読み合わせのタイミングでその指摘を突きつけられていたら窓からフライアウェイしていたかもしれない。と自分の心に必死に言い聞かせることによってどうにかギリギリ耐えている。もう少しオブラートに包めなかったのか。
「率直に言えと言ったのは貴方じゃないですか」
「まあ、それはそうなんだが」
しかし、これは困ったな。低クオリティかつ笑えるほどでもないという、危惧していた最悪の事態だ。このままでは文藝部の新歓が残念な感じになってしまう。ここからどうやって笑えるようにしようか。
「躊躇なく笑い(そっち)を取るんですね……」
「そりゃそうだろ」
女声のクオリティを上げる方が絶対面倒だし、マスターしたところで将来何の役にも立たないからな。VTuberでも目指してるなら話は別だが、今のところそういう予定はない。
「ちょっと面白そうですけどね、VTuberようちゃん」
「名前そのまんま過ぎない!?」
なんなら現在進行形でそう呼んでくる奴がいるんだが。って、VTuberの話はいいんだよ別になる気はないんだから。それよりどうやったら面白くなるかを考えてくれ。
「しれっと目茶苦茶なことを言いますね……。面白い女声って一体どういうことですか」
それを今から考えるんだろうが。
「いっそ馬鹿みたい声を高くしてみるのはどうだろう」
声がかすれまくって聞き取りづらくなるかもしれないが、面白さは増すだろう。やっこ姉さんとかがいい例だ。
「なるほど……それは確かに面白くなりそうですね。女声のクオリティ自体は正直どうでもよくなるので、比較的簡単に実現できそうでもあります。……ですが、乃蒼さんのあのナレーションに加えて貴方のかすれ声となると、いよいよこの朗読劇ぐちゃぐちゃですよ?」
「それなんだよなぁ」
そのせいで面白いを通り越してただのグダグダになってしまったら意味がないしな。それに、俺の喉にかかる負担も尋常ではなさそうだし。他の手段も考えてみよう。
「考えの方向性は悪くなかったんですけどね。単純な女声だけで笑わせるのは難しいと思うので、他になにか笑える要素を足してみるのが良さそうです」
「だな。そういう方向だと……めっちゃ巻き舌にしてみるとか?」
「確かに定番ですが、ヒロインのキャラは崩壊しますね」
「それはひみこ先輩に怒られるな」
何気に自分の作品のキャラへの愛情は深い人だからな。「バカにするな!」という言葉と同時にドロップキックが飛んでくるに違いない。
「足が先に出るんですね……。ですがそこも気にしながらとなると、取れる手段は少し減りそうですね」
「まあ、程度さえ間違わなければ笑って許してくれそうではあるけどな」
結局人が笑ってくれるのが好きな人でもあるし。だからそんなに気にしすぎなくていいと思う。まずは数を出していこう。
「なら、ヘリウムガスとかはどうですか? これも定番だと思いますが」
「あー、確かに最初はそれ考えたな。でも……朗読の途中で絶対効果切れるよな」
「そうですね……声が高くなるのはせいぜい数呼吸分だと聞いたことがあります」
「……つまり朗読中ずっと高い声を維持するには、常にガスを吸い続ける勢いじゃないといけないわけだ」
「異様な光景ですね! 面白さよりもホラーが勝ちそうですし、吸い続けるのも危なそうです。現実的ではなさそうですね」
「じゃあ、オペラ調に朗読してみるのはどうだろう」
「語尾にビブラートとかかけてですか? 確かに面白そうですが、1人だけ世界観のズレが激しいですね。そもそもあなたの歌唱力は大丈夫なんですか?」
「カラオケの平均点は75点前後だ」
「微妙! 上手くはないし笑えるほど下手でもないとても微妙な歌唱力!」
「あとビブラートはかけらんない」
「さらに面白味半減! この案はやめた方が良さそうです!」
「なら、カタコトを少し強調してしゃべってみるのはどうだ?」
「……カタコトを強調? どういう感じですか?」
「『コノォ、ジュゥショハァ、ドゥォコデスカァ?』みたいな?」
「ぶふっ! た、確かに面白いですが、馬鹿にしている感じが強くないですか?」
「確かに、ひみこ先輩のキャラだけじゃなくて日本語に不慣れな外国人全般を馬鹿にしているようにも見えちゃうのは良くないか……」
うーん、色々出してみたがなかなか良さげな案は浮かばないな。女声を面白くするのって難しい。
「最初からそう言ってたじゃないですか……。どうするんですか、これ。本番までそんなに時間の余裕もないんでしょう?」
「部活勧誘の解禁が来週の水曜とかだったはずだから、1週間ないくらいだな」
「割と絶望的ですね……。今日か明日くらいには方針を固めないと間に合わなくなりますよ」
「そうなんだよなぁ……今あげた中だと、どれがよかったと思う?」
「うーん……強いて言うなら、目茶苦茶高い声でしゃべるのが比較的まともではありますかね。貴方の声のかすれ具合がどの程度かによるところはあると思いますが」
まあ、現実的なのはそのあたりだよな。ちょっと試してみるか。
「『ゴノジュヴジョバドゴデズガ?』」
「かすれ過ぎて全然なに言ってるかわかりません! もはや乃蒼さんと同レベルですよ!」
「そこまで!?」
確かに我ながら酷いかすれ具合だとは思ったが、あのレベルか。それはさすがに笑えないな。
「……まあ、恐らく今のは出せる限界の高さを出そうとしてそうなったのだと思うので、しっかり出せる高さとかすれ声になる高さの間の丁度いい高さを見極められれば、また違った感じにはなると思いますよ」
「……なるほど」
全部かすれてたらただ聞きづらいだけだもんな。こういうのはたまにかすれるから面白いんだ。流石伏木さん、お笑いをわかっている。
「なんですかその評価は……」
「じゃあ、その感じで練習してみるか。せっかくだから、ちょうどいい高さを見つけるのも手伝ってくれるか?」
「……一応乗りかかった船ですし、最後まで付き合いますよ。代わりに、後で私のお願いも聞いてもらいますからね」
「おっけー、俺にできることならなんでもしよう」
俺にできない場合は国分先輩とかになんとかしてもらおう。
「確かに大抵のことはできそうですけど! そんな無茶なお願いはしませんから!」
という感じで、俺と伏木さんの地道な挑戦が始まった。
少しずつちょうどいい高さを探っていくこと約30分、俺たちはようやく絶妙に声がかすれる完璧な高さに辿り着いた。
「こ、これは完璧ですね……! 大抵の人がつい笑ってしまう絶妙なかすれ具合です!」
「やっとたどり着けたー……! 死ぬほど疲れたけど、お陰で新歓はどうにか乗り切れそうだ……!」
こんなくだらないことに付き合ってもらって、伏木さんには本当に感謝の言葉しかない。
「い、いえそんな! 私もこんな、誰かと一緒に1つのゴールに向けて頑張るのなんて本当に久しぶりでしたし、大変でしたけどその分楽しかったですから!」
「伏木さん……」
……そういえば、なにかお願いがあるって言ってたっけか。
「あ、そ、そうですね。今聞いてもらっても、大丈夫ですか?」
「もちろん」
なんでも来いである。
「では……えっと、今回朗読するこの作品について少し伺いたいことがあるのですが」
「……そんなことでいいのか?」
なんかもっと、大変なことをお願いされても全然やる気だったので、少し拍子抜けしてしまう。というか、それは作者のひみこ先輩に聞いた方が良いのではないのか? 聞く相手は本当に俺で合ってるのか?
「大丈夫です。同じ読者という立場として、貴方の意見が聞きたいのです」
「……まあ、そういうことなら」
そんなにこの作品を読み込んでいるわけではないので、俺でも答えられることなら良いのだが。
「……この作品の終盤で、ヒロインが決断を迫られるシーンがあるじゃないですか。慣れない環境に苦労する自分を色々と助けてくれた主人公に恋をして、留学期間が終わって帰国する時に告白するかどうか。結果としてこのヒロインは告白を選びましたが……その選択は正しかったと思いますか?」
正しかったか、か……なかなか難しいことを聞くな。
「……正しいかどうかはわからないが、その選択をして良かったと俺は思うよ」
「それは、どうしてですか? だって告白が成功するとは限らなかったじゃないですか。告白に失敗して自分が傷つくリスクも、せっかく築いた主人公との関係を壊してしまうリスクもあったはずです。告白をしなければ傷つく心配もないし、日本でのことも素敵な思い出として残しておける。それだって別に悪くはない選択肢でしょう?」
「まあ、確かにな。未来がどうなるかなんて誰にもわからないし、自分がなるべく傷つかない道を選ぶのも全然アリだと思う」
「それに、先生も止めていました。主人公と同じく慣れない環境の自分を助けてくれた、自分よりも人生経験のある大人が、『日本での日々を嫌な思い出にして欲しくないから』と、自分のことを心の底から想って意見をくれました。ヒロインもその言葉を心に留めて、揺らぎ、葛藤していました。それでも……それでもヒロインの告白という選択が良かったと思うのですか……?」
「もちろん。けどそれは別に、告白という選択を取ったから良かったと思ってるわけじゃない」
「え……?」
「大事なのは、それが自分の心と真剣に向き合って、悩んで葛藤した末に出した結論、選んだ道だってことだ。だって、そうやって自分で出した答えなら、たとえどんな結果になったって納得できるだろ? 選んだのは自分なんだから、どうなろうが受け入れられるはずだ。逆に、他人の言葉に従うまま出した答えだったとしたら、上手くいかなかったときには絶対に後悔する。やっぱりあの時こうしておけばって絶対に思うし、なかなか納得することだってできない」
「それは……そう、かもしれませんね」
「別に誰かから意見やアドバイスを貰うのは全く悪い事じゃないが……それを受けた上でしっかり考え抜いて、最終的に自分で結論を出すことが大事だと俺は思うんだ。だから、このヒロインの選択は良かったと思うよ」
……こんな感じで回答になっているだろうか。
「……ありがとうございます。参考になりました」
「なら良かった」
作品を読み込んではいない俺でもどうにか回答できて良かった。しかし、こんなことを聞いてどうするつもりなのだろうか。俺に告白でもする気か……?
「それだけはありませんのでご安心を」
「辛辣!」
冗談に対してそこまで言わなくてもいいだろうに。
翌日の放課後。2度目の全体読み合わせを終え、文藝部室は俺の話題で持ち切りだった。
「よーへいお主、やってくれたの……!」
「女声とはちょっと違うかもしれませんが、問題ないでしょう?」
「ないわけあるか! ……と言いたいところじゃが、絶妙に面白いので許す!」
読み合わせの際に例の女声を披露したところ、想像以上に好評だった。朗読中もつい他の人たちが笑ってしまって朗読に影響が出たりしたほどで、乃蒼など未だに腹を抱えて笑い転げている。
「あはははっ、ようちゃん、あんな声っ、一体いつ練習したの……!」
「昨日お前がスイーツ食べに行っている間に、伏木さんと部室で練習してた」
「え、なにそのイベント! 私聞いてない!」
笑い声が一転、抗議の声をあげる乃蒼。そりゃあ、言ってないからな。
「なんで私のいないところでゆづちゃんとイチャイチャしてるの! 私も呼んでよ!」
「別にイチャイチャはしていません!」
終始声のかすれ具合を真面目に研究していたからな。
「イチャイチャとは程遠い異様な光景じゃの……」
「私も参加したかったなぁ……2mパフェとか食べてる場合じゃなかった」
「「「2mパフェ!?」」」
なんだその正気を疑う食べ物は。2mって……1mの2倍だぞ?
「頭の悪い感想ですね!」
「そんなバケモノみたいなスイーツを出す店がこの辺にあるとはのう……そもそもどうやってその高さ維持しとるんじゃ」
「……気合?」
「根性で物理法則はどうにもならんじゃろ!」
自分の身長よりも遥かに高いパフェって、席に運ぶのすら至難の業だろ。下手すると天井に突き刺さるぞ。
「ちなみに乃蒼さんはそれ、1人で食べたんですか……?」
「そりゃそうだよ。何故か私以外の3人はみんなで1つを食べてたけどね」
「1人で1つ食べ切る方が絶対異常だから!」
どういう胃袋してるんだお前。小宇宙か。摂取カロリーも恐ろしかっただろうに全然太ってないし。
「なに言ってるのようちゃん。女の子は太らないんだよ?」
「お前がなに言ってんの!?」
パフェの食い過ぎで遂に頭がイカれたか。
「なるほど……女性はいくら食べても太らないんですのね」
「のあから常識を学習するでないせーら! そもそもちょっと考えればそれがおかしいのはわかるじゃろ!?」
乃蒼の適当発言に国分先輩が今日も毒されていく。いい加減乃蒼を常識の学習先として設定するのは不適切だと学習してほしい。
「それにしても羨ましいなー、ゆづちゃんと2人で特訓なんて。私も今度ゆづちゃんと2人きりで特訓したい!」
「乃蒼さんの噛み具合はさすがに私の手には余ると思うのですが!」
「大丈夫! 噛み具合は直す気ないから! ゆづちゃんと2人になりたいだけだから!」
「特訓とは!?」
ただの口実だな。今日も相変わらず酷い噛み具合でなに言ってるかわからなかったので、できれば改善する意欲くらい見せてほしいのだが。
「ならば我にやる気を出させてみせよ!」
「魔王みたいな口調でニートみたいなことを!」
お前が偉そうにする理由は全くわからないんだが……お望み通り、貴様のやる気を引き出してやろう。
「頼みますよ、準一級」
「よくそんなネタ覚えてんな!」
言った本人も忘れかけてたぞ。まあいい、準一級の実力を見ておけ。
「その噛み具合が改善した暁は、伏木さんとのデートをセッティングしてやろう」
「ゑ!?」
「やる!」
「即決!? え、チョロ! じゃなくて! 本人の前で本人に無許可でなに言ってるんですか!」
「乃蒼とのデート、嫌か?」
「そ、そういうわけではありませんが……!」
「なら、乃蒼の為だと思って引き受けてくれると嬉しい。多分今アイツのやる気を引き出せるのは伏木さんなんだ」
初めてできた自分と同じ特殊能力を持つ友人ってことで、多分伏木さんが思っている以上に伏木さんのことが気に入ってるんだよ、乃蒼は。
「~~~! ……わ、わかりました。その代わり、ちゃんと直してくださいよ?」
「もっちろん! わ~い、ゆづちゃんとデートだ~!!」
ここ数ヶ月で1番くらいにテンション高いな。なんかもう既にデートをする気満々でいるが、噛み具合が改善されなきゃデートは無しだからな?
「そ、そんな……! そうなったら誰がゆづちゃんとデートに行くの!?」
「何故私が誰かとデートに行くことが確定事項になっているのですか!?」
「その時は……そうだな、雪路とデートに行ってもらおう」
「急に俺!?」
「え、それは普通に嫌なんですけど」
「グジョルガ!!(CRITICAL DAMAGE!)」
「あははっ! ちょ、謎の叫びと共に中川君にかいしんのいちげきが! 大丈ぶふっ、中川君っ?」
お前それ絶対心配してないだろ。笑いが抑えきれてないぞ。それと伏木さんも何気に酷い事言ったぞ。なにも考えてなさそうな馬鹿に見えるかもしれないが、雪路にだって心はあるんだからな。
「確かに私も言い過ぎましたけど、貴方も中川さんを馬鹿にしてますよね!?」
「俺はいいんだよ」
「いやよくねえよ!?」
あれ、復活が早いな。タスキでも装備してたか。
「俺はポケ○ンじゃねえ!」
「……これ、元々なんの話しとったんじゃっけ」
「話題が二転三転したので忘れましたわ。ですが、これが庶民の会話なのでしょう?」
「いや多分文藝部だけの特殊ケースじゃと思うぞ!?」
一般的な会話だってそれなりに話題がブレたりはするが、ここまでぐちゃぐちゃになるのはここぐらいだろうな。
閑話休題。方法はちょっとアレだったがせっかく乃蒼がやる気を出してくれたので、完全下校時間までの残り約15分を使って乃蒼の噛み具合を改善する方法を全員で考えてみることになった。
「よーへいのかすれ声を参考に、ちょっとふざけた方向で考えてみるのはどうじゃ? しっかり読もうとするから構えてしまうのじゃろ?」
「意外とそういうのもアリかもしれませんね。噛み噛みよりはマシになるかもしれません」
そもそも通常の手段では奴の噛み具合は改善できないからな。
「ふざけた方向っていうと……拡声器持って朗読するとかですか?」
「噛み噛みの音量がデカくなって垂れ流されるだけじゃろうが! やる気あるのか小山!」
「中川ですけど!? 最早かすってもいませんでしたけど!?」
いや、どう見ても漢字がニアミスしてるんだろうが。それに気付けないからいつまで経っても31流なんだぞお前は。
「段階多くないですか!? 何流まであるんですかそれは!」
「漂流」
「くだらない事言ってると坂東太郎に漂流してもらいますよ?」
「それ利根川の別名なんだが!?」
思い出したようにまた利根川かよ。伏木さんも利根川に詳しいのかよ。どうなってんだこの部活。
「では、猿轡をして朗読するというのはどうかしら?」
「終始もごもご言ってて余計に聞き取れないし絵面的にもアウトじゃろ!」
確かに新入生はドン引く絵面だな。本人は喜びそうだが。
「え……まさか乃蒼さん……」
「いい加減その認識改めてよ! ゆづちゃんが勘違いしちゃうでしょ! 私別にMじゃないよ!」
「というかどこからそんな発想が出てきた! わしはせーらをそんな子に育てた覚えはないぞ!」
「ええと、確か昔ひみこさんが――」
「あ、やっぱり言わんでいい! なんか自分でも覚えてない強烈なエピソードが出てきそうで怖い!」
どうやら今回も原因はひみこ先輩らしい。あの人何気に色々やらかしてんな。国分家はこの人に娘を任せて大丈夫なのだろうか。とはいえその猿轡エピソードは気になるので、後で国分先輩に聞いてみよう。
「じゃあ、モノマネしながら読んでみるとかどうですか?」
前2人があまりにとんちんかんな案を出してるので、ちょっと真面目に意見を出してみる。
「拡声器や猿轡よりは遥かにまともじゃな……のあよ、なにかできるモノマネはあるか?」
「アルパカのモノマネなら」
「まさかの人外! 朗読じゃと言うておるのに動物をチョイスする奴があるか!」
しかも多分それ、声真似でもないと思うぞ。
「あとは、競馬で外れたときのお父さんのリアクションのモノマネとかもできますよ」
「お主わしの話聞いとった!?」
あれは確かに本人そっくりだな。これも案の定声真似ではなく動きのモノマネだが。
「……よーへいよ、あやつに出来る声真似ってなにかあるのか?」
「ユークリウッド・ヘ○サイズとか得意ですよ」
「ほぼしゃべらんではないか!」
「なにおう。アニメでは毎話声優を変えながら結構しゃべってますよ?」
「それはバユムの妄想の中の話じゃろ! 本人はほぼほぼしゃべってないわ!」
そこに気付くとは。
「はあぁ。せっかく案自体はまともかと思ったのに結局ダメではないか。ゆづきよ、あのバカどもに格の違いを見せつけてやってくれ」
「え、ここで私に振るんですか!? しかもなんかハードル高くないですか!?」
「倒れても故意でなければ大丈夫じゃから安心して跳ぶが良い!」
「それは陸上競技のハードル走の話ですね! 全然安心できないのですが!」
まあ、この部活のハードルは高くても膝丈くらいなので気にせず意見すればいいと思うぞ。
「ひっくいですね! ……ですがそれなら、例の2mパフェを食べながら読むのはどうですか?」
「結局もごもご言っとるではないか! あとみんなパフェが気になって朗読が頭に入らんじゃろ! でもってのあが途中でバランス崩して絶対崩れるじゃろ!」
2mのパフェが倒れて大惨事だな。最悪新入生が生クリームまみれだ。
「私のバランス能力を舐めないでよ! 鉄骨渡りだって余裕だよ!」
「お前やったことないだろ!?」
何をもって余裕とか言ってるんだ。石田のおっさんに謝れ。
「そもそもどうやってそのパフェは用意する気じゃ! たかだか一高校の新歓のために店に協力でもしてもらうのか!?」
「うちのシェフに作らせますわ」
「なんでも屋がすぐそこにいた! 普通に実現しちゃいそうじゃから怖いわ! やらなくていいからな? 絶対じゃぞ!?」
「知っています。それはやれというフリですわね?」
「なんでお笑いの常識だけ正しくインプットされとるのじゃあああ!」
という感じで、案の定15分をふいにした。まあ、わかってたけどな!
「文藝部の良さが悪い方向に働いたのう」
帰り支度を始めながらひみこ先輩が呟く。まあ、ぶっちゃけ誰もまともに案出そうとしてなかったしなあ。15分という時間の短さもあって、真面目に考える気が起きなかったんだろう。結果大喜利大会になってしまったわけだ。
「確かに時間は短かったですね。もう少しゆっくり考える時間は必要な気がします」
「まあ、そうじゃよなー。幸いこの後は週末じゃし、土日でみんなで考えて月曜日に会議でもいいんじゃが……月曜に決まって水曜が本番ではちょっとギリギリじゃよな。せっかくの週末はどうせなら朗読の練習にあててもらいたいし」
どうせ時間を割くならそっちの方が良いよな。月曜になにか妙案が出たとして乃蒼がそれをすぐにものにできるかはわからないし、練習時間が多いにこしたことはないだろう。
「……ちなみにじゃが、明日何か用事や予定があるやつはおるか?」
「はい! 12時まで寝る予定があります!」
「うん、つまりのあは暇じゃな!」
休みになった瞬間怠けた生活になる奴の典型かお前は。それを堂々と予定に組み込むな。
「俺は買い物に行く予定があるんすけど」
「つまり中川も暇じゃな」
「俺の話聞こえてないんすか!?」
誰かと出掛けるわけじゃないなら別の日でもいいじゃろ、みたいな判断だろうな。どうせ雪路の買い物なんてトイレットペーパーくらいだろうし。
「なにがどうしたらそうなるのですか!? あとそれは場合によっては結構大事な買い物だと思いますよ!?」
大丈夫だろ。雪路ならトイレットペーパーが切れてても紙やすりで対応できる。
「どこぞのゴリラ局長じゃないですか!」
「なんで○魂の話になっておるのじゃ……? まあよい、とにかく外せない用事のある奴はいないのじゃな? そうであるなら明日も部室に集まろうと思うのじゃが、どうじゃろう?」
まあ、そのあたりが妥当な落としどころか。今夜一晩各自で案を考えてきて、明日の午前中で会議して午後は練習、って感じだな。
「休日に活動するのはかなり久しぶりですわね」
「まあ、文藝部がわざわざ休日に集まってすることもないっすからね」
「去年は1度もなかったんじゃないですか?」
確かに、俺が入ってから土日に活動したことは1度もないかもな。夏休みに集まったりはあったけど。
「なんか申請とか必要じゃったっけ?」
「顧問かその日の当番の先生に事前に報告をしておけば良かったはずですわ」
「明日の当番は確か凪ちゃんですね。私が後でテレビ電話しておきますよ」
「何故わざわざテレビ電話で!?」
普通にメッセージとか飛ばせばいいだろうに。まあ、テレビ電話はテレビ電話で凪姉が喜びそうだから別にいいけど。
「では、連絡はのあに任せるとしよう。集合は午前10時くらいでよいか?」
「え、私12時まで寝てたいんですけど」
「みんなお主の為に集まるんじゃからちょっとくらい頑張れ!」
なんでそんな頑なに12時まで寝る気なんだ。
「あ、そうそう。ゆづきは初めてじゃから言っておくが、明日は別に制服でなくてもよいぞ。好きな恰好で来るとよい」
「へえ、私服でもいいんですね」
「パジャマでもいいんだよ」
「自由にもほどがありますね!」
いくら服装自由とはいえ、学校にパジャマで来るのはさすがにヤバい奴だろ。というか、そもそもパジャマで外を出歩くこと自体が普通に変人の行動だ。
「まあそういうわけじゃから、明日は10時にここに集合してくれ。鍵が開いてない場合は職員室まで取りに行くか他の誰かを待ってくれ。それと各自、のあの噛み具合の改善案を考えてくるよーにの」
先輩のまとめの一言をもって、この日の部活は終了した。
☆ ☆ ☆
「休日に部活動、ですか」
乃蒼さんたちと別れて1人で帰り道を歩きながら、本日の部活のことを思い返して呟きます。休みの日に家族以外の誰かと何かをする予定があるのなんて、一体何年振りでしょう。人と関わらないようにするようになってからはまずなかったと思います。部活動なので遊ぶ目的ではありませんが、誰かと集まる予定があるのってこんなにワクワクするものだったんですね。長らく忘れていた感覚です。今日はちゃんと眠れるでしょうか。まるで遠足前の小学生のような気分です。
ですが一応部活動ですから、ただ楽しみにするだけではなく乃蒼さんの噛み具合改善案もきちんと考えなければいけませんね。真面目なもの半分、ボケが半分くらいでいいでしょうか。ふふっ、高岡さんや氷見先輩がなんてツッコんでくれるか楽しみですね。
そんなことを考えているとあっという間に家に到着します。やはり楽しい時間というのは短く感じるものですね。最近まで長らく忘れていた感覚です。
「ただいま帰りました」
いつものように挨拶をして、自分の部屋に戻って着替えを済ませて、リビングへと向かいます。そういえば、明日着て行く服も考えなければいけませんね。普段出掛けるときに来ている服で良いものでしょうか。
「……遅かったわね。今日も例の部活?」
「は、はい」
リビングに入った瞬間母の鋭い声が飛んできて、思わずビクッとなってしまいます。なにか怒っているような感じがして怖くなります。
「私、早いうちに辞めておきなさいって言ったわよね? 貴女が傷つかないようにって。それなのに昨日も今日も部活で遅くなって……辞める気あるのかしら」
「そ、それは……」
……確かに、母の心配もわかります。私が傷つかないためにはそれが最善の選択なのだと。ですが……やはり私は、文藝部のみなさんと過ごす時間が楽しいのです。1人殻に閉じこもっていた私に手を差し伸べてくれた彼らを……私が今まで忘れていたものを、我慢してきたものを与えてくれる彼らを、信じてみたいのです。彼らとの縁は転校なんかでは切れないって……信じてみたいのです。たとえそれで私が裏切られて、これ以上なく傷つく未来が待っているのだとしても……私はこっちを選択したい。だって、今文藝部を辞めたら……絶対に後悔しますから。彼らを信じ切れずに逃げた私を、母の言葉に従うだけだった私を、いつか絶対に後悔することになりますから。
「あの、お母様。私は――」
「もしかして、辞めるって言い出しづらいのかしら?」
「い、いえ、ですから――」
「そうね、夕月は優しい子だものね。強引に勧誘されて、そのまま辞められなくなってるんでしょ?」
「違います! 私は私の意思で――」
「そういうことなら任せなさい。私が学校側に辞めるって連絡してあげるわ」
「お母様!!」
どうして私の言葉を聞いてくれないのですか!
「夕月、お願いだからこれ以上私の心配事を増やさないで」
「っ……!」
母の言葉に込められた圧に、感情に、私は何も言えなくなってしまいます。
「ただでさえ引っ越しが多くてご近所付き合いは大変だし、貴女の制服や教科書代も転校の度に必要になるから馬鹿に出来なくて家計のやり繰りも大変で、お父さんも毎日遅くまで仕事してるから心配で。その上貴女の帰りまで毎日遅くなったり昔みたいに酷く傷ついたりしたら、もう私の心はもたないのよ。だから部活は辞めて、今まで通りに過ごして。それが貴女のためでもあるし、私のためでもあるの。わかってくれるわね?」
「………………」
結局私は、何も言い返せませんでした。長年積み重なった親子の関係性が、母に反論することを許しませんでした。私は……私は、自分の意思で選択をすることさえできないのですか……?
☆ ☆ ☆
翌日、土曜日の午前10時。昨日言っていた部活の開始時間になったが、伏木さんがまだ部室に現れていなかった。時間にはきっちりしてそうなのに珍しい。寝坊だろうか。
「おかしいのう。のあ、なにか連絡貰ってたりしないのか?」
「いえ、とくには。メッセージも既読にならないし、どうしたんだろ」
既読にもなってないのか。それはさすがに心配だな。単なる寝坊ならいいのだが、最悪なにかに巻き込まれている可能性も……。
「おい、陽平いるか?」
少し心がざわついたタイミングで、凪姉が部室に入ってきた。別に文藝部の顧問というわけでもないのにどうしたのだろう。
「なぎちゃん! どうかしたの?」
「ああ。さっき伏木の母親から連絡があってな」
なるほど、そういうことか。風邪で休むとか、そういう連絡だろうか。それなら別にメッセージでもいいような気はするが。
「伏木が、部活を辞めたいって」
「「「「「え……?」」」」」
凪姉がなんと言ったのか、いまいち理解が出来なかった。
「本人が言い出しにくそうだから、自分が代わりに連絡したって。それを伝言してくれって頼まれたんだが……」
「なにそれ! ゆづちゃんが本当にそんなこと言ったの!?」
乃蒼が珍しく怒りを孕んだ声をあげる。俺だって……いや、ここにいる誰もが同じ気持ちだった。
「それは私にはわからん。ただ母親から一方的に伝言を頼まれただけだ。本人の話は聞けてない」
「そんなの、ゆづちゃんの本心じゃないに決まってる!」
そもそも、なんで突然そんな話になる。昨日まではごく普通に部活してただろうが。部活を辞めるのが伏木さんの意思だろうがそうじゃなかろうが、昨日の今日で急にそんな話になる理由が……いや、もしかして……。
「ようちゃん、何か知ってるの!?」
「……これはただの推測だが」
そう前置きして、俺は一昨日の話をする。伏木さんから、朗読する作品のヒロインの決断について意見を聞かれたこと。どうして突然そんなことを、と思ったが、もしかしたらこのヒロインと今の自分の境遇を重ねているんじゃないかと思ったこと。もしそうなんだとしたら……伏木さん自身は部活を続けたい気持ちもあるけど、伏木さんの身を案じて部活を辞めるように言ってくれている人もいて、その間で揺れているんじゃないかということを。
「……確かに、筋は通るの。その推測でいくなら、ゆづきの身を案じて部活を辞めるよう言っておったのが母親ということか」
「じゃあ、言うことを聞かないゆづちゃんに対してお母さんが強硬手段に出たってこと!?」
「……いや、そうとも限らない」
「どうして!?」
「あの時俺は、しっかり悩んで自分の意思で結論を出すのが大事だってアドバイスした。だから……これが伏木さんが悩み抜いた末に出した結論って可能性もある」
「そんな……そんなのありえないよ! だってゆづちゃん、いつもあんなに楽しそうにしてたんだよ!? それなのに辞めるって結論になるとは思えないよ! お母さんが無理やり辞めさせようとしてるに決まってる!」
「……けどそれは、乃蒼の願望でしかないだろ。それが真実かどうかは、伏木さん本人から話を聞いてみないとわからない」
「ようちゃんなんでそんなことばっかり言うの!? 昔のようちゃんだったらもうとっくに部室を飛び出してるでしょ!?」
「それは……」
……確かに、少し前の俺なら、今の乃蒼と同じように考えて伏木さんの母親に文句を言いに部室を飛び出していただろう。家の場所だって全く知らないのに。だが今は……。
「……かなちんの件、まだ気にしてるの?」
「そうじゃない! 関係なくはないけど……そうじゃない」
「……そのかなちんの件とやらは、わしらが聞いてもよい話なのか?」
……そういえば、ひみこ先輩と国分先輩に話したことはなかったっけか。なら、ちょうどいい機会だから2人にも聞いてもらおう。その方が今の俺の頭の中を、心の内を、誤解なく伝えられるような気がする。
「これは、俺たちが中学3年だった頃の話です。
その当時、俺たちと同じクラスには1人変わった奴がいました。能町佳菜っていう、国分先輩ほどではないにしろ結構お嬢様な奴です。そいつはクラスの誰と仲良くすることもなく、いつもつまらなそうに窓の外を眺めてました。後で聞けば、名家の一人娘として相応しいよう徹底的に叩き込まれる学問やら稽古事やらに嫌気がさしていたらしいんですけどね。
で、そんな様子を同じ教室で見ていた俺は、当然のようになんとかできないなかー、とか思うわけでして。俺と乃蒼と雪路とで、どうにかその仏頂面を笑わせられないかと色々試してみるわけです。どんなに冷たくあしらわれても懲りずに毎日話しかけては、くだらない世間話をしてみたり、爆笑コントを披露してみたり、すべらない話をしてみたりと、とにかく思いつく限りのことは大概やってみました。
そうやって1ヶ月くらいが過ぎたころでしたかね。俺たちの努力がようやく実って、能町さんが笑ってくれるようになったんですよ。それどころか自分から俺たちに話しかけてくれたり、冗談とかも言ってくれるようになったりして。当時の俺たちは目茶苦茶喜びましたよ。……けど、そんな時間もあまり長くは続かなくて。
能町さんが笑うようになってから多分1週間も経たない頃、突然能町さんが学校に来なくなったんですよ。欠席理由も家の都合とかで詳しくは教えてくれなくて。けど、なんか変だと思った俺たちは担任の先生を問い詰めたんですよ。本当は何か聞いてるんじゃないかって。粘った末に聞き出せたのは『この学校には娘の教育に良くない人たちがいるから』という話でした。タイミング的に、完全に俺たちのことじゃないですか。
当然その言い分には納得できないし、これが能町さんの望んでいることとも思えなかったので、俺たちは能町家まで抗議に行きました。当然のように門前払いでしたけど、話を聞いてもらえるまで何度も訪ねて、時にはインターホン越しに訴えかけました。彼女がいつも学校でつまらなそうにしているから、少しでも楽しく過ごせるよう笑ってもらおうとしたことの何がいけないのか、笑って過ごせるほうが絶対にいい事だろう、って。
子供だったので、そうやって地道に続けていればいつか届くと思ってました。なかなか聞いてもらえなくても、そのうち絶対に好転するって、思ってました。そんな俺たちに待っていたのは『あなた達のせいで私はずっと辛く苦しい思いをする羽目になるんです! お願いですからもう2度と来ないでください! 金輪際私の前に現れないでください!』という、能町さん本人の悲痛な叫びでした。これも後で聞いた話ですが、どうやら俺たちが抗議に訪れる度に能町さんには学問や稽古の追加講習が課せられていたらしいです。友となる人材も見極められないような不出来な娘への罰だ、とか言って。
そんなことになっていたなんて露知らず、自分の考えは間違っていないと、行動は正しいと信じて、諦めずに続けていれば能町さんを笑顔に出来た時と同じようになんとかなると信じていた自分が、酷く愚かで自分本位だと思いました。俺は結局自分の尺度を、自分の正しさを相手に押し付けていただけで、相手がどういう環境に在るのか、その本意がどこに在るのか、考えもしていなかった、あるいは勝手に決めつけていたんだ、って。
それ以来、俺は人の世話を焼くのを躊躇うようになりました。今までなら何も考えずに手を貸そうとしたり首を突っ込もうとしてしまうような事があっても、またあの時のように相手が望んでいない余計なことをしてしまうんじゃないかと思うと怖くなって、何も行動できなくなることも増えました。本当は動きたいはずなのにそうできない自分がもどかしくて、心がずっとモヤモヤして。
そんな時です。俺が乃蒼に誘われて文藝部に入ったのは。ひみこ先輩と出会ったのは。当時の俺は時折難しそうな顔で何かを考え込んでいるよくわかんないない奴だったと思います。それなのにひみこ先輩は、俺がそんな顔をしている時は事情なんて1つも聞かずに、ただただ俺を笑わせようとしてくれました。先輩がわざわざそんなことをする必要もないのに。放っておくか、不快に感じるなら退部にでもすればいいのに、それでも先輩は何度も俺を笑わせにくるんです。理由を聞けば『人を楽しませるのに、理由なんていらないじゃろ』って、たったその一言だけで。だけどその言葉が、俺の心にスッと響いたんです。俺は多分能町さんの件以来、自分の行動に確かな理由を求めてたんです。それがかえって相手を傷つけるかもしれない『余計なこと』ではないという確かな根拠がないと、怖くて動けないようになってたんです。だからこそ先輩の言葉が刺さりました。誰かを笑わせたり楽しませたりするだけなら理由はいらないんだって。今までの俺がそうだったように、俺がそうしたいって思った、それだけで充分なんだって。そう考えたら心が軽くなりました。たった1回上手くいかなかっただけで怖気づいていたのが情けなくなったくらいです。
だけど、それで能町さんの件をなかったことにしていいわけじゃない。俺が間違えた過去を忘れていいわけじゃない。だから、俺の中で1つルールを決めたんです。人を楽しませたり笑わせたりするのに理由はいらないけど……それ以上のことに踏み込むなら、首を突っ込もうとするなら、そこには明確な理由が必要だ、って。例えば本人をよく知る人からの頼みだとか、あるいは本人が直接助けを求めているとか、そういう『自分の感情に依存しない確かな理由』がないなら、俺は動いちゃいけないって。そう決めたんです。
だから今回は……文藝部を辞める選択が伏木さんの本心だとは、俺は思いたくない。信じたくもないですけど……それを伏木さん本人の口から聞いたわけじゃないから。この選択が彼女の本心だって可能性もあるから。もしそうだったとしたら、俺たちがあれこれ口を出したり首を突っ込んだりするのは……ただの迷惑になるじゃないですか」
「ようちゃん……」
先程まで怒りを露わにしていた乃蒼だったが、俺の話を聞いて少し落ち着いたようだった。能町さんの件については当然乃蒼も知るところだが、その後の話は乃蒼に話したのも初めてかもしれない。こういう機会でもなければ恐らく誰かに言うこともなかっただろう個人的な話だしな。
「入部当初のよーへいのアレはそういうことじゃったんじゃな……。まあ、そんな昔のことは置いておくとして、じゃ。よーへいの言わんとすることはわかったが、それで結局どうするのじゃ? ゆづきが辞めたって現実を受け入れて、普通に部活でも始めるのか?」
「それは……」
それがまた、難しいところだ。明確な理由がなければ首は突っ込まないって決めたのはいいが……それで俺の心が納得できるかどうかはまた別問題だ。実際今だって決して納得はできていない。乃蒼の言うように、俺たちと過ごす時間を伏木さんが楽しいと感じてくれていたのは間違いないと思う。出会ってからまだたったの4日だが、一昨日のような相談をしてくれる程度には信頼だって得ているはずだ。それらと伏木さんの性格を踏まえると、もしも退部が本人の意思なのだとしたら、恐らく伏木さん自身が自分の言葉で伝えてくれると思うんだ。少なくともこんな、母親と学校を間に挟んで俺たちに伝えるようなやり方はしないと思う。だから今回の件は9割方、伏木さんの意思ではないと思っている。
けど、万が一残りの1割の方だったら? その可能性が残っている以上、動くことはできない。だからといって、このままいつも通りに部活をするような気分になれないのは明白で。だから、最後の一押しが……確かな理由が、必要なんだ。
(頼むよ、伏木さん……お前の本心を、本当はどうしたいのかを、ちゃんと俺たちに、お前の言葉で教えてくれよ……!)
そう念じながら、未だに既読のつかないメッセージアプリの画面を睨み続ける。そこにメッセージが躍るのを、一瞬でも早く捉えるために。
☆ ☆ ☆
……あれから、どれだけの時間が経ったのでしょう。母の決定に何も言い返せないまま、夕食も食べずに自分の部屋に引きこもって、何も考えられずにただ無為な時間を過ごして。いつ眠りに落ちていつ覚醒したのか、その記憶さえも曖昧です。目覚まし時計で時間を確認すれば、午前10時を回っていました。部活の集合時間を過ぎてしまっていますね。……いえ、もう部員ではないんでしたっけ。母は本日の朝に電話すると言っていた気がしますし。
(……どうして、こうなってしまったんでしょう)
長年、自分を押し殺して我慢ばかりの日々を送ってきて。これから先もずっとこうなんだろうと思っていたら、高岡さんや乃蒼さんたちと出会って。彼らは今まで出会ってきたどんな人たちとも違って、こんな私を気にかけて、笑わせようとしてくれて、我慢しなくていいんだって言ってくれて。ようやく素敵な人たちに出会えて、今までと全く違う毎日にドキドキしながら、この先に待っている絶対に楽しい日々にワクワクして、傷つく怖さよりも彼らとの時間を選ぼうとした、その矢先にこれです。一体私の、何が間違っていたのでしょうか。母に強く言われて何も言い返せなかった、私の弱さがいけなかったのでしょうか。
けれど私は、私と同じかそれ以上に、3ヶ月ごとに各地を転々とする生活に苦労し疲弊する母の姿を間近で見続けてきています。それが何年も続けば、母に負担をかけるようなことはしないようにしなければ、と思うのは娘として至極当然のことで。だから『お願いだからこれ以上私の心配事を増やさないで』と母に言われれば、私が何も言えなくなってしまうのはある意味必然で。なのであの時の私は、文藝部のみなさんと母が載せられた天秤の、母を選ばざるを得なかったのです。
(……貴方は言いましたね。自分の心と真剣に向き合って、悩み葛藤した末に、自分の意思で道を選ぶことが大事なんだって。そうすれば後悔しないって。……では、自分の意思で道を選ぶことが許されない場合は、どうしたら良いのですか……?)
先程から、ずっとスマホが振動しています。おそらく、突然退部を告げた私の真意を聞くために、乃蒼さんあたりが電話を鳴らし続けているのでしょう。何か事情があるんじゃないかと、私のことを案じながら。彼らはそういう人たちです。たった4日の付き合いでもわかります。文藝部のみなさんは、揃いも揃って優しい人たちなのです。世話焼きなお人好しばかりなのです。そうでなければ、こんな私の為に緊急招集をかけて全員が集まったり、私の事情を察した上で笑わせにきたりはしません。そんな彼らだからこそ、私は……!
(助けて……助けてくださいよ……! 私だって本当はもっと貴方たちと一緒に過ごしたいのです! この3ヶ月だけじゃなくて、できることならこの先一生、貴方たちとかけがえのない時間を共にしたいのです! ですが、自分ではもうどうすることもできなくて……! お願いだから助けてくださいっ!)
心の中で叫びながら震えるスマホに手を伸ばしますが、その手がスマホに届く直前、スマホの震えはピタッと止まってしまいました。……ははっ、そう、ですよね。不本意とはいえ貴方たちを裏切ってしまった私が、みっともなく助けを乞おうなんて、そんなの許されるわけがなかったんです。
それ以降、私のスマホが震えることはありませんでした。
☆ ☆ ☆
メッセージは、躍らなかった。
代わりに、はっきりと『声』が聞こえた。
『助けて……助けてくださいよ……! 私だって本当はもっと貴方たちと一緒に過ごしたいのです! この3ヶ月だけじゃなくて、できることならこの先一生、貴方たちとかけがえのない時間を共にしたいのです! ですが、自分ではもうどうすることもできなくて……! お願いだから助けてくださいっ!』
「伏木さん!?」
思わず耳を押さえて立ち上がる。今の声は、どう考えても伏木さんの声だった。確かに俺の耳に届いたはずだが、当然ながら辺りを見回しても伏木さんの姿などありはしない。でも、今のは間違いなく……これは一体……。
「ようちゃん! ゆづちゃんの声が聞こえたってホント!?」
先程まで伏木さんのスマホにコールし続けていた乃蒼がスマホを放り出して詰め寄ってくる。
「あ、ああ……間違いなく聞こえた。伏木さんの声で、『お願いだから助けてくださいっ!』って」
「それ、多分ゆづちゃんの心の声だよ!」
「伏木さんの、心の声?」
「うん! 当人が近くにいなくて、なのにはっきりと耳に届くなら、それは間違いなくそう! だって私にも、ようちゃんの心の声はそう聞こえてるから!」
なるほど。いつも乃蒼や伏木さんにはこんな感じで俺の心の声が聞こえていたわけか。いつだったか伏木さんが肉声と区別がつかないと言っていたのを思い出す。これなら確かに、当人が近くにいたら全く違いがわからないだろうな。
「そういう感想はあとでいいんだよ! それよりも、ゆづちゃんが『助けてください』って言ったんだよね!? それって、ようちゃんが首を突っ込む理由になるんだよね!?」
「……!!」
確かにそうだ。今のが伏木さんの心の叫びだというなら……それが彼女の本心だというなら……これは充分、彼女の家庭の事情に踏み込む確かな理由になる。だって、本人が助けを求めているのだから。
「凪姉! 伏木さんの家の住所ってわかるか!? わかるよな!? 今すぐ教えてくれ!」
「おいこら、学校でその呼び方はやめろと……それに、教師として生徒の個人情報を教えられるわけが」
「お願いなぎちゃん! ゆづちゃんが助けを求めてるの! 部活を辞めようとしてるのはゆづちゃん本人の意思じゃないんだよ! なぎちゃんの担当してる子が、部活をむりやり辞めさせられようとしてるんだよ!?」
「……そういう言い方をされると、アイツの担任として放っておくわけにもいかないな。わかった、今回だけ特別だ。だが、この件は絶対に他言無用だぞ。それと……絶対に伏木を救ってこい。いいな?」
溜息を吐きながらも、凪姉は協力を承諾してくれる。我ながらちょっと無茶を言った自覚はあったのだが……ホント、こういうところは最高の教師だ。後でチョークの2、3本は甘んじて受け入れてやろう。
「ありがとうなぎちゃん! お礼にようちゃんが今度チョーク当ててもいいって!」
「お前そういう余計なことを伝言するなよ! ジョークに決まってんだろ!」
あの速度のチョークが2、3本刺さったら普通に流血沙汰だわ。
「なるほど……チョークのジョークだったんだね」
「この非常時にくだらない事言ってんじゃねえ!」
お前状況理解してんの!?
「はははっ、一時はどうなることかと思ったが、そういう冗談が言い合えるようになってるならもう大丈夫そうだな。伏木の住所は調べて送っといてやるから、漫才は程々にして伏木のところに向かえよ」
そう言い残して、凪姉は部室を後にした。……ほんと、最高の教師だよ、凪姉は。じゃあその言葉通り、さっさと伏木さんを助けに向かおう。
「国分先輩、例のモノって用意できてますか?」
「こちらですわね? もちろん準備万端ですわ」
そう言って国分先輩が鞄から取り出したDVDを受け取る。
「なんじゃ、それは? いつの間にそんなもの頼んどったのじゃ?」
「もしかしたら伏木さんを助けるのに必要になるかもしれないと思って、昨日のうちに頼んでおいたんです。即日使うことになるとは思いませんでしたけど、国分家の対応が早くて助かりました」
「当然、国分家ですもの。お代は1000ペリカでいいですわよ」
「お金取るんですか!? しかも通貨単位がおかしい! 実質100円だし架空の通貨単位ですよそれ!」
誰だこんな通貨単位を国分先輩に吹き込んだ奴は。カ○ジネタだから伏木さんか? だとしたら後で説教だぞ。国分先輩なら実在するものだと思って信じちゃうだろ。
「……確かな理由がなければ首は突っ込まないと言うておきながら、首を突っ込む用意は周到なんじゃな」
「そりゃあそうですよ。だって、助けを求められた時に……向こうが手を伸ばしてくれた時に、その手を掴む準備ができてなかったら、助けられないじゃないですか」
「……うわ、カッコイイこと言ってやったつもりか? 恥ずかしいやつじゃの」
「そういうこと言わないでくれます!?」
これから伏木さんを助けに行こうという真面目な場面なのに、どうしてこう真面目雰囲気デストロイマンしかこの部活にはいないのか。
「マンじゃなくてウーマンだよ」
「そういうのだよ!」
……けどまあ、これが文藝部らしいと言えばらしいのかな。
「ではよーへい、のあ。ゆづきを任せたぞ」
「え……ひみこ先輩たちは一緒に来ないんですか?」
てっきり文藝部員全員で乗り込むものかと思ってたのだが。
「ゆづきの親が転勤族なのを考えると、おそらく家は社宅、高確率でアパートかマンションじゃ。そこへ4人や5人で押し掛けては近所迷惑になるじゃろう。それではゆづきの親を説得するどころではなくなってしまう。じゃから文藝部を代表して、ゆづきの救出はよーへいたち2人に任せる」
「ひみこ先輩……」
俺はそこまで気が回っていなかった。さすが部長だ。ふざけているようにみえて、こういうところまでしっかりと気が回る。だからこそこの人が文藝部(この部活)の部長なのだろう。
「では、部長命令じゃ! ゆづきを必ず助け出してこい!」
「無事に3人で戻ってくるのをお待ちしていますわ」
「頼んだぞ陽平! 雨晴さん!」
「……ああ、もちろん」
「おまかしぇくだちゃい!」
「「「「そこで噛むの(ですか)!?」」」」
相変わらず締まらねえな、おい。だが……やはりそれでこそ文藝部だ。話題はすぐにとっ散らかるし、ツッコミが飛び交わない日はないし、真面目な雰囲気だってすぐにぶち壊しにするが、最高に居心地が良くて、楽しくない日がない……そういう場所なんだ、ここは。だけどやっぱり、部員が全員揃ってなきゃその楽しさも半減だ。だから、さっさと助け出してここに連れてこよう。6人目の、文藝部員を。
凪姉から送られてきた住所を頼りに乃蒼と走ること数分。学校からそう離れていない場所に伏木さんの家はあった。ひみこ先輩の予想通り、それはどこかの会社が保有する社宅用の3階建てアパートだった。幸いにもエントランスにロックなどはついておらず、彼女の暮らす302号室の扉前まであっさりと辿り着く。表札の名前は『伏木』。ここで間違いなさそうだ。
「ふー。……押すぞ?」
「おっけい!」
呼吸を整えるように大きく息を吐いた後、インターフォンを鳴らす。ほどなくして、伏木さんの母親と思われる人物が応答した。
『はい?』
「すいません、夕月さんと同じ部活の高岡陽平という者ですが」
☆ ☆ ☆
ベッドに突っ伏したまま、一体どれくらいの時間が経ったのでしょう。長かったような気もしますし、ほんの一瞬だったような気もします。ですがそれを時計を見て確認しようという気力すら起こりません。
何度目になるかわからないスマホの確認をします。少し前まであんなに震えていたそれは、今ではピクリともしません。文藝部のみなさんが、私にコンタクトを取ろうとするのをやめたということでしょう。それが意味するところは、つまり……。
『ピンポーン』
不意に、インターフォンが鳴りました。我が家に来客があることはほとんどありませんので、どうせまた何かの勧誘の類でしょう。引っ越し直後となると、この手の輩は多いものです。今回の私の部屋は玄関のすぐ近くなので、その勧誘の声が嫌でも聞こえてきてしまうわけで。いつもはうざったいと思うだけですが……今日ばかりはそのしつこいほどの勧誘文句を聞いていたい気分でした。そうすればその間は、余計なことを考えずに済みそうですから。
ですが、実際に聞こえてきたのは――
『すいません、夕月さんと同じ部活の高岡陽平という者ですが』
「……高岡、さん……?」
思考が、まるで追いつきませんでした。
☆ ☆ ☆
『……娘は部活を辞めると学校側に伝えたはずですけど』
「それは本当に、夕月さんの本意ですか?」
インターフォン越しの不快そうな声に返しつつ、この先の展開をいくつか予測する。まずは家の中に入れてもらわないといけない。インターフォン越しに声を荒げるわけにはいかないし、せっかく国分先輩に用意してもらったDVDもこの場所では見せられない。
『当たり前でしょう』
「ならどうして、お母様から学校に連絡する必要があるんですか? 本人が僕や部長に連絡すればいい話じゃないですか」
『……娘が自分からは言い出しにくそうにしていたから、親として手を貸してあげたのよ。貴方たちこそうちの娘の優しさにつけこんで強引に入部させて、辞めづらい雰囲気を作ってたんじゃないかしら?』
……何をどうやったらそういう解釈が出来上がる。この人、どうやら想像以上に娘のことをちゃんとみていないらしい。少しでも伏木さんの話をちゃんと聞いているなら、そんな解釈には絶対にならないはずだ。こういうタイプとはそのうちまともに会話が成り立たなくなる。プランBに切り替えよう。
「……失礼ですが、夕月さんときちんとお話しされてますか? きちんと話しているのであれば、そのような推測は間違ってもできないはずなんですが」
母親に適当な言葉を返しつつ、俺はそこにいるはずのもう一人に向かって話しかける。おい伏木さん、この距離ならさすがに俺の心の声聞こえてるんだろ。
――!?
玄関のすぐ近くから、ドタドタという慌てた音が漏れ聞こえてくる。プランBはビンゴのようだ。
(……はっ! プランBのBは、ビンゴのBだった……!?)
この場面で心底くだらないことを心に直接語りかけてこないでくれる!?
『……人の家庭の事情に立ち入らないでくれるかしら。お引き取り願います』
少し嫌なところを突かれたのか、伏木さんの母親は会話を打ち切りにかかる。まあ、そう来るのは割と想定内だ。だが、プランBを確実に成功させるためにも母親にはもう少しインターフォン前に張り付いていてもらわねばならない。
「証拠、ありますよ」
なので母親の気を引けそうなワードを放ちつつ、本命の方へも話しかける。お望み通り、助けに来てやったぞ。この先一生、俺たちとかけがえのない時間を共にしたいなら少し協力してくれ。
――!?!?!?!?!?
先程よりも激しく動揺する音が聞こえてくる。多分、そのセリフを俺に聞かれてるとは思ってなかったんだろうなあ。今頃顔面真っ赤だろう。
『……証拠?』
「ええ。夕月さんの入部が強引な勧誘ではなく、本人の意思だっていう映像証拠が。夕月さんが部活動を心から楽しんでいる映像証拠が」
嘘ではない。国分先輩に用意してもらったDVDがそれなのである。彼女に頼んだのは、伏木さんが部室にいる時の部室の監視カメラの映像をDVDとして用意できないか、ということだ。部室にそんなものが付いてるのかよ、と思った人もいるかもしれないが、日本でも有数の名家のお嬢様が週に何時間も過ごす部屋に監視カメラが付いていないわけがないだろう。だから、伏木さんが最初に部室に来た時の映像も、その後部室で一緒にワイワイ活動していた時の映像も、当然そこに記録されているのである。残念ながら国分先輩が部室内にいる時の映像しか残っていないらしいが、それで充分だろう。
さて、伏木さんよ。アンタの母親を説得するためには、ここからインターフォン越しに声をあげているだけでは多分無理だ。そう遠くないうちにブツッとインターフォンを切られて、俺の声は強制的に届かなくなる。だから……助けてほしいなら、まだ俺たちと一緒に文藝部で楽しく過ごしたいと思ってくれてるなら、俺と乃蒼を家の中に入れてほしい。それさえやってくれれば、後は俺たちが絶対にどうにかするって約束してやる。
――……。
俺の声は届いているはずだが、今度は中から物音は聞こえてこない。けど、伝えたいことは全部伝えられたはずだから……あとは伏木さん次第だ。
『……そんな見え透いた嘘に引っ掛かると思ってるのかしら。大人を舐めない方がいいわよ』
「……そちらこそ、子供をあまり侮らない方がいいですよ」
『……は? 偉そうに何を――あ、ちょっと夕月!? 一体何を――』
伏木母の慌てた声がインターフォンから聞こえてくるのと同時に、俺たちの目の前の扉が勢いよく開く。
「高岡さんっ! 乃蒼さんっ!」
「よ、昨日振りだな」
「お望み通り、のあたんが助けに来たよ!」
飛び出してきたのは、涙で顔をぐしゃぐしゃにしたパジャマ姿の伏木さんだった。
伏木さんに招き入れられた伏木家のリビングで、俺たちは伏木夫妻と対峙していた。
「用件を聞こうかしら」
不機嫌さを隠そうともせず、伏木母が切り出す。ここまではどうにか上手くいったが、本当の勝負はここからだ。心の中で気合を入れなおし、俺も口を開く。
「当然、夕月さんの退部を撤回してもらいに」
……ところでこの呼び方慣れないな。まあ、ここには伏木さんが3人もいるから仕方ないのだが。
「どうしてそうする必要があるのかしら」
「さっきも言いましたが、俺たちの部活……文藝部への入部は、夕月さん本人の意思です。強制した事実は微塵もありませんし、彼女も部活動を楽しんでくれています。それに、夕月さんは今後も部活を継続したいと言っています。辞めたいなどとは言っていないはずです」
「いいえ、辞めたいと言ったわ。ねえ夕月?」
伏木母が俺の左隣に座る伏木さんへ鋭い視線と共に投げかける。それはまるでイエス以外の言葉は許さないとでも言いたげなほどの圧を孕んでいて、伏木さんはビクッと委縮してしまう。これは……思った以上に歪んだ親子関係だ。父親も黙ったままなんの反応も示さないし。
「わ、たしは……」
震える伏木さんは、声をまともに出すことさえできていない。だけど、ここは伏木さんに否定してもらわなきゃだめだ。俺や乃蒼が代わりに否定したところでなんの意味もない。頑張ってくれ、伏木さん……! ほら乃蒼、手くらい握ってやれ。
「……!」
俺の心の声を受けた乃蒼が、右隣の伏木さんの手を机の下からこっそり握る。その甲斐あってか、伏木さんの震えは少し収まったようだ。
「……私は、部活を辞めたいとは一言も言っていません。お母様が、勝手にそうだと決めつけていただけです」
そして強い意志を瞳に宿して否定の言葉を口にした。それが余程意外な行動だったのか、伏木母は目を丸くして驚いた。
「夕月……。この2人に、そう言わされているの? 素直に本当のことを言っていいのよ?」
この野郎、自分に都合の悪いことは意地でも認めない気か……!
「言わされてなどいません! 私のことはどう言ってくれても構いませんが、高岡さんたちを悪く言わないでください!」
母の言葉が琴線に触れたのか、伏木さんが激昂する。俺たちのために怒ってくれているらしい。一方娘の怒りの原因がよくわかっていないらしい伏木母はなおも続ける。
「そうね、夕月は優しいものね。そこにつけこまれて、きっとこの2人に騙されているんだわ。でも安心して、お母さんがすぐになんとかしてあげるから。だから夕月は少し黙ってなさい」
「っ! いい加減に――!」
「いい加減にしろっ!」
更なる怒りを露わにしようとした伏木さんの叫びに被せるように、思わず大声をあげてしまった。もう少し冷静に対話を試みようと思っていたのだが、普通に無理だった。もう我慢ならない。
「さっきから聞いてりゃ、アンタ娘の言葉を1つもまともに聞こうとしてねえじゃねえか! 全部自分の尺度に当てはめて、自分に都合のいいように解釈して、娘の言葉を、本心を捻じ曲げて! 夕月はアンタにとって都合のいいように考えて都合のいいように動く人形じゃねえんだぞっ!」
「なっ……何をわかったようなことを! 貴方みたいな子供に私たち家族のことがわかるわけ――」
「わっかんねえよ! 3ヶ月に1回引っ越す家族にどんな苦労があるだとか、ただの1回も引っ越したことなんかねえ俺が知るわけがねえよ! アンタたちがこれまでどうやって生活してきたのかも、どんな親子関係を築いてきたのかも知らねえよ! 俺が知ってるのはたった4日間一緒にいたアンタの娘のことだけだ! 自分が転校した後、いとも簡単に崩れていく友情に絶望して、ならばと最初から人に関わらないように学校生活を送るようになったこと! だけど本当は誰かと話したり冗談を言い合ったりするのが大好きで、そういった自分を今まで必死に我慢してきたこと! それをここでは我慢しなくていいと言って文藝部に誘ったときに、泣くほど喜んでいたこと! 実は滑舌がいいこと! カ○ジが好きなこと! 意外と下ネタによく反応すること! くだらない事でも最後まで付き合ってくれること! いつか傷つく可能性があっても部活を続けたい自分と、自分が傷つかないよう案じて辞めるように言ってくれている人との間で揺れ動いて悩んでいたことを! 本当は文藝部を辞めたくなかったことを! 心の中で、助けでくださいと叫んでいたことを! 俺は知ってる! これまで16年も一緒にいた母親のアンタなら、俺がたった4日で知り得たことなんて全部、当然知ってるんだよなあ!?」
「……え。な、え……? 今のが全部、夕月の話だって言うの……?」
「そうだよ! なんなら証拠だってあるから後でこれ全部確認してみろ!」
俺は勢いに任せて、部室の監視カメラの映像を収めたDVDや、伏木さんの相談に乗った日にたまたまつけっぱなしにしていたボイスレコーダーアプリの音源が入ったUSBなどを机にぶちまける。先ほど挙げたことのほとんどは、これらの中に収められているはずだ。
「……そんな、だって……今までそんなの、一言も……」
「言ってなかったか? 本当にそうなのか? ちゃんと言ってたか、あるいは言おうとしてたことはあるんじゃないのか!? それをアンタが都合のいいように解釈したり、遮ったりしただけじゃないのか!?」
「………………」
「アンタ言ったよな。娘は優しい子だって。多分その通りなんだよ。3ヶ月に1回引っ越すっていう特殊な生活に苦労する両親の姿を間近で見てきて、これ以上の迷惑はかけまいと自分でいろんなものを我慢したり、押し殺したりしてきたんじゃないのか! それをアンタは自分に都合よく動いてくれる出来のいい子だと勘違いして、その姿をずっと押し付けてきたんじゃないのか!? 娘の優しさにつけこんでんのはアンタの方なんじゃないか!?」
「ちょっ、ようちゃんストップストップ! それはさすがに言い過ぎだよ!」
ついついカッとなっていた俺を、乃蒼の声が止める。……うん、我ながらただの推測でかなり酷いことを言ったもんだ。熱くなるとつい歯止めが利かなくなってしまうのは、反省しなきゃいけない。
「……すいません。つい出過ぎたことを言いました。ですが……貴女が本当の夕月さんのことをきちんと見ていないと思うのは、本心です。ほんの少しでもしっかり向き合っていれば、こんなことにはなっていなかったはずですから。自分のことで手一杯なくらい、日々の生活が大変なのかもしれませんが……だからと言ってそれは、娘と向き合う時間を作らなくてもいい理由にはならないと思います。少しずつでもいいので、夕月さんときちんと向き合ってください。夕月さんは貴女の操り人形じゃないんです。娘なんです。自分の意思を持って、感情を持って、生きているんです」
「高岡、さん……」
少しやらかした部分はあったが……それでも、言いたいことは大体言い切ったか。これでも何も響かないようであれば、俺にはもうお手上げだ。最終手段として伏木さんを誘拐するしか方法がなくなるが、はてさて。
「……高岡君、だったかな」
声をあげたのは、今までずっとだんまりを決め込んでいた伏木父だった。
「は、はい」
「うちの娘のためにここまでしてくれて、うちの娘のことを本気で考えてくれて、ありがとう」
一体どんな言葉が飛んでくるのかと身構えていれば、投げかけられたのは感謝の言葉だった。
「私もね、薄々感じてはいたんだ。私の仕事のせいで妻や娘に大きな苦労をさせていることを。それが積み重なって、妻と娘の関係がこじれてきていることを。だけど伏木家の家長として仕事をしないわけにはいかないから、働かないとそもそも妻と娘を生活させることもできなくなってしまうからと、私は仕事に集中して、家のことを全て妻に任せてしまった。その結果招いたのが、今回の件だ。君の言うように妻か私のどちらかがもう少し娘としっかり向き合えていれば、事前に防げていたことだろう。娘を傷つけずに済んだことだろう。君たちにも迷惑をかけずに済んだことだろう。……本当に、申し訳なかった」
「お父様……」
「夕月、今まですまなかったな。今までお前には我慢をさせてばかりで、苦しい思いをさせてばかりで……今からでは遅いかもしれないが、今一度やり直させてくれ。本当のお前を……父さんにも見せてくれ」
「はい……はいっ!」
「朝日も、今まで家のことを任せきりにしてすまなかった。お前が苦しんでいること、気付いてたはずなのにな。だからもう、家のことをお前に任せきりにしたりしない。2人で……いや、3人で支え合いながら、もう一度やり直そう。私と朝日と夕月の、『伏木家』を」
「……っ……あなたっ……!」
3人がお互いのことを抱き合いながら、涙を流しながら、机を挟んだ向こう側で誓い合う。俺と乃蒼はすっかり蚊帳の外だが……ま、これにて一件落着か。伏木さんを誘拐せずに済んだし、良かった良かった。
「雨降って地面ぬちょぬちょ、ってやつだね」
「最悪な間違い方だな!」
確かに水を含んでぬちょぬちょになる地面もあるけど。慣用句としては大間違いにもほどがある。むしろ関係が悪化してそうだ。
まあ、それはさておき。折角の家族団欒に水を差すわけにもいかないし、俺と乃蒼はこの辺りで退散するとしようか。
「そだね。あ、でも、ひみこ先輩たちからはゆづちゃん連れて帰って来いって言われてたような」
あー、そういやそんなこと言われてたっけか。けど、この様子を見て伏木さんだけ連れて行こうっていうのはさすがにアレだろ。ちゃんと説明すればひみこ先輩だってわかってくれるさ。
「そうかなあ。『問答無用!』って言って右足が飛んでくる説を私は提唱するけど」
「うわあ……信憑性高いなその説」
あばらの1本くらいは覚悟しておくべきだろうか。
「おや、もう帰ってしまうのかい?」
そんなくだらない会話をしながらしれっと退室しようとしたら、伏木父に呼び止められた。
「はい。この後部活があるので」
「そうか。君たちには何かお礼をしなければと思ったのだが、そういうことならお礼はまたの機会にしよう。夕月もほら、そういうことらしいから一緒に行ってきなさい。部活、続けるんだろう?」
「お、お父様……! で、ですが……!」
「なに、私たち3人で話す時間なんてこの先いくらでも作れるだろう。だから、遠慮せずに楽しんできなさい」
「っ……はっ、はいっ!」
「ということだから高岡君、夕月を頼んだよ」
「もちろんです」
「やったねゆづちゃん! 昨日の宣言通り、パジャマで部活だ!」
「今から着替えますから! そもそも別に宣言もしてませんから!」
「えー、そのパジャマも可愛いのに~」
「こんな格好で外に出られるわけないでしょう!?」
女子高生2人が、そんなことを言い合いながら扉の向こうへと消えていく。その様子を見て心底驚いた表情をしていたのが伏木夫妻だ。あれが本当にうちの娘なのか、みたいな感じでポカンとしている。この様子じゃ、本当に素の伏木さんを見たことがなかったんだな。伏木さんも伏木さんでよく隠し通したものだ。
「……ちなみにですが、そのDVDとかUSBは差し上げます。今みたいな夕月さんがこれでもかと映ってるので、その目にじっくり焼き付けてあげてください」
「……本当に何から何まですまないね、高岡君。今から妻と2人でゆっくり鑑賞させてもらうことにしよう。……ところで、先程から1つ気になっていたことがあるのだが」
「なんでしょう?」
心の声が聞こえる絡みの話しだろうか。だとしたら説明がちょっと面倒くさいのだが。
「……うちの娘が意外と下ネタによく反応するというのは、本当だろうか」
「あ、それ私も気になってたの」
「ちちちちち違いますから! 高岡さんが勝手に言ってるだけですから!」
「あ、ちょっとゆづちゃん! 着替え途中だよ! ようちゃんすぐそこにいるんだってば!」
「へっ? あ」
両親の疑問を否定するために慌てて部屋を飛び出してきたのだろう、下着姿の伏木さんと目が合った。……うん。お前、実は結構着やせするタイプなんだな。
「きっ、きゃああああああああああああああああっ!!」
「にょがった!!」
視認できないほどの速度の平手打ちが俺の頬を捉える。俺何も悪くないのに、なんでこんな目に遭わなければいけないのだろう。……え? 下ネタの件? ちょっと存じ上げないな。
「あははははっ、にょがったってなにさにょがったって! 全然意味わかんない!」
「うぅ~~~! もうお嫁にいけません~~!」
薄れゆく俺の意識が最後に認識したのは、腹を抱えて笑い転げるいつも通りの乃蒼の姿と、下着を隠すようにしゃがみ込みながら両手で顔を押さえて悶える伏木さんの姿だった。