91.月が綺麗だったから
いつの間にか、一人、二人と、本家から人が減っていった。
気が付いたらアーレとナナカナ、婆様、そして私だけになっていた。
寒い日は続いているが、調子を崩す者はめっきり少なくなった。
「やれやれ、やっと終わりが見えてきたな」
戦士らしさの代わりとばかりに、栄養を蓄えた大きなお腹を抱えたアーレが、やはりごろごろしながらそう言った。
終わり。
冬の終わりか。
冬を越えたら、私が集落に来て一年が経つ。
一年。
異文化にたくさん戸惑い、手探りしながら過ごしたような生活だった。
早かったような、短かったような。
少なくとも、密度は濃かったな……良くも悪くも。
「今年も死人は出さずに越せそうじゃな」
ここ数年は冬越えで死ぬ者は出ていないそうだが、決して安心はできないそうだ。
つい先日まで、ここには患者が集められていた。
色々と兼ね合いやタイミングが悪かったら、彼らの病状が悪化して……という危険もあったのだろう。
まあ、私の微々たる力が集落に貢献できたのなら、言うことはないが。
「そろそろ話を詰めないとね」
ナナカナは、化鼬のサジライトと遊びながら、非常に冷めた顔で私を見る。
「春になったらレインの昔の女を迎えに行くんだよね? レインの昔の女を」
……その辺の話が伝わってから、ナナカナの当たりがきつい。
貯蓄していた砂糖が切れたことも一要因かもしれない。
ここ最近プリン切れだから。
ケイラとは本当にそういう関係じゃないんだが……でも、いくら口で言っても信じてはもらえないのだろう。
…………
いや、信じているからこそこの程度で済んでいる、と思った方がいいのだろうか。
彼女らにとっては、やはり、「外に作っていた愛人を家に呼びたい」くらいひどい話に聞こえていそうだから。
――でも、それでも、ケイラを呼ぶことは諦めきれない。
「ナナカナ、もうやめろ。レインの使用人を受け入れるのは、もう決めたことだ」
擁護してくれるアーレには頭が上がらない。
「ナナカナよ、もっと言ってやれ。アーレを泣かせたら承知せんぞ馬鹿者め、くらい言ってやればいいんじゃ」
婆様は煽らないで。
「バカモノめ」
ナナカナやめて。義娘に言われるとちょっと胸に響く。
ケイラとは、友人フレートゲルトを介して、何度か手紙のやり取りを交わした。
相変わらず、ケイラは自分の事情を手紙にしたためることはないが――霊海の森を越える決意はすぐに固め、もうその準備に入っている。
手紙で色々脅したんだが、まったく効果はなかった。
やれ危険が多いだの、人死にが身近だの、男の戦士は女性を見下す傾向が強いだの。一夫多妻制もあるだの。皆下着姿同然で生活しているだの。
色々と伝えたが、意志を曲げさせることはできなかった。
そんなケイラとのやりとりで話が進むにつれ、こちらでもケイラを受け入れる準備が始まっていた。
あと何日経てば冬を越えられるかはわからないが。
しかし、春はもうすぐなんだそうだ。
――そんな冬の終わりが見え始めた、とある夜のことだった。
「……?」
……今、呼ばれた?
自分の家で寝ていたところ、私の名を呼ぶ声が聞こえたような気がして、目が覚めた。
真っ暗な中で手を伸ばし、低品質の光源の魔石に明かりを灯し、暖かな毛布から身を起こす。
今、アーレとは別に寝ている。
夜のあれこれをやめ、アーレのお腹が大きくなってきた頃から、彼女は本家で寝ている。
寝返りだのなんだので、お腹に強く当たってしまうかもしれないからだ。誰であろうと今は誰かの傍で寝ないでほしいと、相談して決めた。
起こす心配がないので、遠慮なく起きて針の入った革ベルトを取る。
惹きつけて止まない暖かな寝具から抜け出し、冬の夜の寒さに身を震わせる。
誰かが呼んでいるなら、患者である可能性が高い。
もうほとんど習性で、半分寝ぼけながら、表に出た。
「……」
誰も、いない。
誰かが呼んでいる声もない。
誰もが寝静まった静かな白蛇族の集落があるばかりだ。
空耳か。
この冬、夜中に何度も起こされたことがあるから、ちょっとした何かの物音が呼び声に聞こえてしまったのかもしれない。
「……お、満月」
夜中にしては集落が明るいと思えば、空には金色の……アーレの瞳のような月が輝いていた。
「……」
――その時の私が、どんな判断をしたのかは、正直わからない。
美しい月に、凍えるような寒さの中で見上げた幻想的な月明かりや星空に、思わず誘われたのかもしれない。
私はふらりと家から離れ、歩き出した。
向かう先などない。
強いて言うなら、ただの散歩か見回りか。
だから、もしかしたら、全てが夢だったのかもしれない。
月を見上げながら歩いていた。
集落の外れの方に……たぶん、向かっていたと思う。
こんな夜中に、なんの目的もなく。
ただ、月が綺麗だった。
それだけの理由で。
「――っ」
ふと足元を見て、息を飲んだ。
「なんだこれ……」
眼下には、白い花畑が果てしなく続いていた。
この方向には、森があったはずだ。
家畜たちの小屋がある場所だったはずだ。
何もない。
夜の闇の中、月と星の明かりを浴びてぼうっと光を含む、真っ白な花が、地平線の向こうまで続いていた。
「……花……」
集落の周りに花畑など、ない。
こんな現実味のない……冷静に言うならば異常な光景は、ここじゃなくとも見たこともない。
おまけに――この花の形も、見たことがない。
知っている花の一種にも見えるし、まったくの新種にも見える。
大きくもないし、小さくもない。
月明かりのせいか、淡く輝いているように見えて、どうも詳しく観察ができない。
「……?」
視界で何かが動いた。
白い花畑の向こうで、細長い何かが、月を見上げていた。
「……カテナ、様? ――んっ?」
白い蛇だ。
たぶん、神蛇カテナ様である。
……だと、思うのだが。
なんだ。
ぼんやりと、カテナ様の姿が、白い髪の子供と重なって見え――
「――」
「……っ!?」
カテナ様が消えた。
星の瞬きのように、一瞬で消えた。
消えたと思ったら――誰かが私の背後にいた。
誰か?
いや、誰かではなく……何か、だ。
何かが確実にいる。
だが、振り返れない。身体が凍り付いたかのように動けない。
この花畑も、カテナ様が消えたことも、カテナ様と重なって見えた子供のことも……私がここにいることさえも。
何もわからない。
でも、確かにわかったこともある。
今、私の背後にいるのは、
「――ん……」
いつになく頭がぼんやりする中、私は眠りから目覚めた。
よく寝た。
ものすごく熟睡した気がする。
夜から朝まで一回も起きなかったな。
でもまだ寝足りないのか、頭がぼーっとする。
ぼーっとしながら、なぜか明かりが灯っている魔石に手を伸ばし、光を消した。寝惚けて付けたかな。
「……あれ?」
なんだろう。
この腑に落ちない感じ。
違和感があるというか。
…………
ん?
なんだ?
思考に言葉が引っかかっている。
「……『忌々しい』……『怒りを鎮めろ』……『まだ語るに値、せず』……?」
…………
若干嫌な予感がする言葉が思い浮かぶが……なんのことだか心当たりがない。
きっと月のせいだろう。
昨夜は満月で、とても綺麗だったから。
……あれ? なんで知っているんだろう。
まあいい。
とりあえず、起きるか。




