08.夫としての私の役割
「――さあ、今日のところはもういいだろう」
遅れてきた割に真っ先に引き上げたシャーマン婆様を見送ると、タタララが大きな声を上げた。
「この男はレインティエだ。族長アーレの番候補として、しばらくこちらの集落で暮らす。話ならこの先いくらでもできるから、今日は解散しろ――ああ、カテナ様を見かけたらアーレの家に連れてきてくれ」
ぱらぱらと集まった女性たちが、今度はぱらぱらと去っていく。……あの女性たちの中に馴染めるかな、私。あの蛮族蛮族したシャーマンは無理っぽいな。
「不在の間、特に問題はなかったらしい」
こちらでタタララが指示を出していた間、女性の一人を捕まえて族長として不在中に集落でアクシデントがなかったか確認していたアーレ・エ・ラジャが、こちらに合流する。
「我らは帰る。タタララ、おまえも帰れ」
「ああ。また明日」
「――タタララ。送迎ありがとう。助かった」
ついでのようになってしまったが、アーレ・エ・ラジャの言葉に添えるように私の謝辞を加える。
「アーレと仲良くしろ。それでいい。それで充分だ」
相変わらず何が充分なのかよくわからないが、タタララはそれ以上何も言うことなく行ってしまった。
……嫌われてはいないと思うんだが。気難しい性格なのかもしれない。
「行くぞ、レイン。我も疲れた。酒でも呑んでとっとと休むぞ」
酒か。いいな。
でもそれ以上に、屋根のある安全な場所で、何も気にせず安全に寝られることの魅力がすごい。
今ならきっと、泥の奥深くに静かに潜むドジョウのように眠れるに違いない。
アーレ・エ・ラジャが住む家は、その辺の家より少々大きいくらいで、造り自体は大した違いはなかった。
斜めになった屋根が特徴的な板張りの家で、フロンサードの田舎で見られるような掘立小屋のようだ。
だが、よく見ると板と板の間に接着剤を使っているようで、隙間もなければ強度や頑丈さも高く、見た目よりよっぽど住みやすそうである。
そして、近くに五つばかり小さな家が集合しており――なんでも一人に対して一つ家が宛がわれるそうだ。
一つの家にいくつかの部屋がある、という考え方ではないらしい。言ってしまえばそれぞれが離れや母屋に住んでいる、という感じだろうか。
「家庭菜園?」
途中でアーレ・エ・ラジャを追い越すようにナナカナが走り出し、庭先にある小さな畑の様子を見始める。
私の送迎で二十日以上面倒を見られなかった畑だけに、ずっと気になっていたのだろう。
「うん。私が育ててる」
へえ。子供なのにしっかるしているな。
畑を覗き込むと、大振りな緑の葉に隠れるようにして、ちょっと見たことがない根菜が地面の上にごろごろしている。
なんだろう。ニンジンの親戚か? それとも芋の一種か? 形状はニンジンのようだが、地面の上に転がっているとなると……何なんだろう。それに色だ。非常に黒い。黒々している。
「黒いけど大丈夫なのか?」
「うん。黒くなると食べ頃だから」
そ、そうなのか……なんていう野菜なんだろう。いや、名前を聞いてもわからないと思うが。……本当に食物ってことでいいんだよな? 嫌に黒々してるけど。
見た目で不安を覚える私など視界に入らないようで、ナナカナは手早く十本ほど黒いニンジン擬きを収穫して、止まることなくスタスタ行ったアーレ・エ・ラジャを追う。その後ろから私も続く。
家の中は、シンプルな一間である。
入ってすぐ右に台所があり、正面に一段昇った板張りの一間。中央に囲炉裏があったり、毛皮の敷物があったり、ナイフや剣や槍などが壁に掛けてあったりと、中にあるものは戦士の家らしい物ばかりだ。
「夕食、すぐ準備するから……ああ族長! そのまま上がらないで!」
家のことは、ナナカナが仕切っていると聞いている。
要するにアーレ・エ・ラジャの女房役だ。
「今日はいいだろう。おまえも疲れているはずだ。飯も早くできる適当なものでいいから、早く食って休むぞ」
「ダメ! 汚い! ただでさえ汚いのに家の中まで汚くしないで!」
おお……道中は声を荒げることなんてなかったが、さすが女房役だ。外では旦那を立てるけど、家では強いな。
「いい!? 絶対上がっちゃダメだから! レイン、族長が家に上がらないように見てて!」
「は? ……ああ、わかった」
私が抑えられるとは思えないし話も見えないのだが、ナナカナの頷かざるを得ない勢いに負けて頷いてしまった。
道中話していた印象では冷静な子だと思っていたけど、そうでもないのかもしれない。
そのナナカナは、金だらいを持って家を飛び出していく。
「足を拭くんだ」
と、玄関先の段に腰を下ろしたアーレ・エ・ラジャは、フッと苦笑する
「ナナカナは綺麗好きで、汚い足で家に上がるのを許さない」
彼女たちは革製のサンダルのようなものを履いている。これも外側に露出している部分が多いだけに、特に足回りには土や泥といった汚れにまみれている。
「そうか……」
それで、ナナカナはアーレ・エ・ラジャの足を拭くのも仕事なのか。
「ではこれからは私がやろう」
「……ん?」
「元々そういう話だったじゃないか」
アーレ・エ・ラジャは戦士である。
それも集落で一番強い戦士で、だから族長になった。
本来なら男が戦士として狩りをするが、ここの家庭に限っては役割が逆になる。
女性のアーレ・エ・ラジャが狩りに出て、夫である私が家のことをするのだ。
これも道中聞かせてもらった役割分担だ。
私が戦士ではない以上、そしてアーレ・エ・ラジャが集落最強の戦士である以上、そういう形になるのは自然なことだと思う。
私も、その方がきっと役に立てると思う。
腕っぷしには自信がないが、家事ならばしっかりとアーレ・エ・ラジャを支えられると思う。
「――え?」
金だらいに水を張ったナナカナが戻ってきた。
自分がやるから貸せと言ったら、ひどく驚いた顔をした。
「いいの? これは男の仕事じゃない……」
ああ、まあ、この集落ではそうなんだろうけど。
「元々そういう話だっただろう。――拭く相手は嫁だしな。私は構わない」
入り婿が嫁に跪く。
別になんの問題もないだろう。
入り婿はそれくらいやってあたりまえ、という話を聞いているからな。
色々と話を聞いて「入り婿って死ぬほど立場が弱くて悲しい生き物なんだな」と、他人事のように考えて涙ぐんでしまったくらいだ。
「これからナナカナの仕事は私の仕事になる。今日のところは食事を頼むが、ちゃんと教えてくれ」
「……う、うん」
これが文化の差か。ナナカナは目を丸くしたままだし、アーレ・エ・ラジャもやや複雑そうな顔をして私を見ている。
だが、今だけだろう。
いずれこれが日常になるのだ。すぐに慣れるだろう。
――アーレ・エ・ラジャの前に跪き、布巾を搾って、彼女の足を拭く。
丁寧に丁寧に。
一流の美術品を磨くように。
指の一本一本まで、隈なく隙なく。
あっという間に、泥や土で汚れていた肌が布巾に汚れを移して、白く美しい足に生まれ変わる。
…………
ああ、やっぱり私、こういうの好きなのかもな。
掃除とか、汚れ物を磨くのとか。
絶対綺麗にしてやるという意欲が湧くとともに、綺麗にしてやったという充実感と感動が湧いてくる。
半年の準備期間中、兵士や騎士、使用人、料理人に侍女にメイドに家畜飼育員と、その辺の職業訓練も受けてきた。
白蛇族の集落に来て、何をするか、何ができるかがわからなかったから。蛮族の生活なんて想像もできなかったし。
でも、どうやらここでは、侍女やメイドの仕事が役に立ってくれるようだ。
「さあ、どうぞお上がりください。お姫様」
「……おまえは変わっているな、レイン」
と、アーレ・エ・ラジャは跪いたままの私の顔に手を伸ばし、優しく頬を撫でる。
そして、微笑んだ。
まだ見たことがなかった柔らかな笑みだ――が、
「――私はすでにおまえを手放したくないと思っている。どうかそのままのおまえでいてくれ」
細く輝く金色の瞳を見て、なぜだか少しばかり恐怖を感じた。
たぶん、きっと。
「もう彼女から逃げられない」と、自覚のないまま本能の奥底で悟った瞬間だったのだろう。