06.十二日目の夜と、十三日目の夕方
今日もたくさん歩いた。
森の中を歩くというのは、存外難しい。
ただ歩くのとは大違いだ。足元も悪ければ周囲の見通しも利かず、動かなくても緊張し神経をすり減らしてしまう。
優秀な彼女たちがいなければ、とてもじゃないが、丸一日だってこの森で生きていられたとは思えない。
最初の三日くらいは付いていくのに必死で、しっかりアーレ・エ・ラジャたちの足を引っ張った。
この霊海の森の特殊性というか、特性というか……生命ならざる者の存在に驚いたり驚かされたりして、とにかく戸惑うことばかりだった。
だが、それからは、だいぶ慣れたと思う。
そして十二日目の夜、明日には霊海の森を越えるという場所まで来た今では、結構な速さで歩けるようになった。
本気で移動するアーレ・エ・ラジャたちほど速くは動けないが、彼女たちが歩くくらいの速さは、出せるようになったと思う。
――まあ、この指先のおかげだが。
休憩に入るたびに、疲れた身体や足を、必死で揉み解して疲れを癒していた。神経は磨り減るし緊張はするしで気疲れするのはどうしようもないが、身体の疲れだけは全然引きずらなかった。
フロンサードの王族に伝わる、聖なる力。
建国に携わった聖女の力が連綿と継がれているのである。
私も王位には程遠い五男ではあるが、歴としたフロンサードの王族なので、その特徴を受け継いでいる。
まあ、両親や兄弟と比べれば、微々たる力ではあるが。
私の指先には、癒しや魔除けといった力が宿っている。放つことはできない。あくまでも指先にのみ宿っている。
本来ならフロンサードの王族は、いろんな意味で徹底的に管理され、滅多なことでは他国に嫁いだり婿入りしたりはできない。
が、私や姉サンティオのような弱い力しか継いでいない者は、その限りではない。長い歴史の統計からして、次の代に継がれる可能性は低いからだ。
――アーレ・エ・ラジャとの結婚が決まったら、このことは話す必要がある……が、今はまだダメだ。
この十日間以上を共に過ごしたアーレ・エ・ラジャ、ナナカナ、タタララとは、たくさん話をした。
というか、移動以外にできることが、話すことくらいしかなかったのだ。
……いやタタララだけはあまり話せなかったな。彼女は「見ているだけで充分だ」と、ちょっと理由のわからない発言以降、あまりしゃべらなくなったから。いったい何が充分だというのか。私にはわからない。
そんな中、アーレ・エ・ラジャはこんな提案してくれた。
――しばらく様子を見て、それから互いの気持ちを確かめよう、と。
早ければすぐだが、最長で半年の時間を貰った。
これは、白蛇族に混じって私が生活できるか、暮らしていけるかを試行するものだ。
私は死ぬ覚悟をしてきているが、アーレ・エ・ラジャからすれば、無理して死なせるくらいなら故郷に帰したいそうだ。無駄に殺したくないから、と。
気を遣われていることがわかったから、私はその提案を受け入れた。
確かに、私の知っている文化とは大いに違うであろう、異文化の中に飛び込むのだ。それも玉砕覚悟で。もちろん常識だって違うだろう。
果たしてそれに馴染めるかどうかは、私もなんとも言い難い。
だから、しばらくは白蛇族の中で共同生活をして、本当に婿入りするかどうかを決めようと。そういう話である。
――ただ、それはそれで、これはこれだ。
十二日目の夜。
もう霊海の森の終わり付近にいて、白蛇族の集落は近いとナナカナは言った。
「じゃあ、明日には到着かな?」
「たぶん。夕方くらいになると思うけど」
森の中の開けた場所に腰を下ろす。
アーレ・エ・ラジャとタタララが夕飯を狩りに行っている間、私とナナカナで焚火や調理道具といったものを準備しておく。
この旅の間の役割分担は、だいたいこれだった。
アーレ・エ・ラジャが言っていた通り、ナナカナは頭がよく用心深い。それだけに私に気を遣って会話をしてくれる。
特に異なる文化と常識を察してくれるのがありがたい。
今はそれがありがたいが、しかし、いずれ家族に……私の義娘になるなら、いつかは気遣いのいらない関係が築けたらいいと思う。
野宿や野営も、婿入りが決まってから半年で何度も経験してきたが、さすがに十日を越える長丁場は初めてだった。
まあ、それも、慣れたものだが。
それどころか、もう霊的な人影や、精霊のようなものが見えたって、何も思わなくなった。ずっと見えていたからすっかり見慣れた。もはや見飽きたくらいだ。
「明日到着か……」
ということは、これが最後のチャンスになるかもしれないな。
「ナナカナ、内密に話したいことがある」
アーレ・エ・ラジャとタタララが、いつ戻ってくるかわからない。
この旅の途中でも何度か話そうとしたが、どうも間が悪くなかなか話せなかったのだ。
「内密?」
大振りな葉っぱで鍋底を磨いていたナナカナが、怪訝な顔をする。
「あまり時間がないと思うから手短に言う。――アーレ嬢にプロポーズ……ああ、結婚の申し込みをしたいんだが、そちらの部族にはこういう文化はあるか?」
「……」
今度は驚いたような顔をした。
「なぜそんなことを? 最初から番になるという前提で話が進んできたはずなのに」
ああ、まあ、確かにそうなんだろうけど。
「けじめ、と言えばいいのかな。どうせ結婚するなら仲の良い夫婦でいたいし、私はアーレ嬢を大切にしたい。もちろん私もアーレ嬢に大切にされたい」
私たちは、いわゆる恋愛結婚ではないから。
だからこそ、こういうイベントはちゃんとこなしていきたい。……押し付けにならない程度に。何せ異文化だから。
「実は、君たちと最初に会った時。話の流れもいい感じだったし、場所も悪くなかっただろ? だからササラの木の下で渡そうとしたんだ」
と、私は上着の内ポケットから、小さな箱を出す。ちなみにササラの木は、白蛇族ではキレの木と呼んでいるらしい。
「でも、あの時私は上着を着ていなくてね。いざ渡そうと思っていたこれが手元になかったんだ」
「ああ……そういえばレイン、なんか不自然に止まったね。それを探してたんだ?」
「それは忘れていい」
あの件は、私はなかったことにした。実際何もなかったから何の問題もない。察しないでくれ。
「それは何?」
「結婚指輪。私の国では、結婚する相手に渡すんだ」
「……指輪……レイン、それ指輪なの?」
「ああ。……一応アーレ嬢のために用意したから、彼女より先に見せるのもどうかと思うし、ちょっと見せられないけどね」
今すぐは無理だと思うが、いずれアーレ・エ・ラジャが付けているところを見てほしい。
「……レイン、指輪は……………いえなんでも」
…………
なんか言いづらそうな顔で言いよどんだな。なんだ。指輪はまずいのか。異文化の壁が立ちふさがるのか。やめてくれよ……
「話はわかった。番の申し込みという文化はあまりないけど、した人たちもいるから場違いではないよ。
でも今すぐはしないでしょ?」
「あ、ああ。様子見の時間があるから、それが終わってからになると思う」
「憶えておく。その時が来たら言って。できるだけ協力するから」
「ありがとう」
ナナカナの反応が微妙なのが気になるが、けじめである。この指輪はちゃんと渡そう。
…………
「指輪を渡すの、まずいのか?」
「いえ。大した問題はない」
ほんとに?
指輪を出したら有無を言わさず殺していいとか、そんなひどい侮辱に当たるとかじゃないよな?
さすがに、たかが指輪にそんな侮辱的な意味はないよな? 信じるからな?
若干不安の残る十二日目の夜を越えて、霊海の森に入って十三日目。
「お、おぉ……!」
果ての見えない森の果てに、ついにやってきた。感動だ。長い長い森の移動でくたくただ。
森の先には、開けた大地が続いていた。
こうして見ると、フロンサードの人がいない田舎とあまり差はないと思うが……いや。
よく見ると、生命ならざる者たちが、空を飛んで大地の向こうへと飛んでいく姿がある。ポツポツと。まるで孤独な渡り鳥のように。
――これが、神々の住まう地。
空を飛ぶ彼らは、いったいどこの何を目指しているのか。
あるいは、この大地の果てに、本当に神がいるのか。
色々と気になることは多い。
「少し休憩していく。この分だと夕方から夜には着くだろう」
アーレ・エ・ラジャの言葉で少々早い昼休憩を入れ、最後の移動を開始。
見るものすべてが新しくて、見たことのない虫や小さな生物や草木があって、とにかく遠くまで見えるという開放感が森の中とは大違いである。
精神面で疲れているはずの私だが、そんな疲れが吹き飛ぶほどにこの移動は楽しくて――
白蛇族の集落まで、あっという間だった。