53.守ってもらいたい
まだ空も暗い早朝である。
足音に誘われてドアを開けると、そこにジータが立っていた。
一瞬誰かわからなかったのは、いつ見ても力強さを感じさせたジータなのに、今はそれがなかったからだ。
本当に、なんの力も持たない、普通の青年に見えた。
「……少し話せるか?」
静かにそう語る彼は、右腕に添木をしていた。
昨日アーレ・エ・ラジャとタタララにやられた怪我だろう。……向こうも何人か骨折しているようだ。
「――いやいや待て。待てって」
静かにドアを閉めようとしたが、ジータは押さえた声を発しながら閉まり行くドアに手を掛けた。
近づいた彼から酒の匂いがした。どうやら結構呑んでいるようだ。……しかし、酔っているようには見えないが。
「アーレ嬢は寝ているよ」
「構わねえ。おまえと話したいんだよ。おまえの家は覗いたけど、いなかったからこっちに来た」
えぇ……
「カラカロは? 一緒じゃないのか?」
「見ての通り一人だ」
「ならばダメだよ。あなたは私と話していると殴り掛かってくるじゃないか。まともに話なんてできないだろう」
「殴らねぇよ。……おまえはアーレの番になるんだろ? だから一対一で話したいんだ」
…………
「アーレ嬢の看病があるから、少しだけだ」
どうにも逃げられそうにないし、このまま話しているとアーレ・エ・ラジャが起きてしまいそうだ。
集落中がまだ寝ているような早朝から、なんの話をするかはわからないが、とっとと話してお引き取り願おう。
先を歩くジータの背を追って、ナナカナの家庭菜園近くまでやってきた。
「寒くなってきたな。すぐにもっと寒くなる。秋なんてすぐ過ぎるぜ」
「私としては服を着ろとしか言いようがないよ」
日中はまだいいが、陽が沈んだら少々肌寒い。
なのに白蛇族の皆は、いつだって下着同然みたいな薄着だから。ジータなんて寒いと言いながら腰巻だけである。寒いなら着ろ。
「おまえみたいなそういうのか? 動きづらいし、風が感じられねぇ。戦士にとっては感じるってのはすげー大事なんだよ」
……ああ、それはちょっとわかるな。肌……触覚というものはたくさんの情報を得られるものである。
風一つにしたって匂いやら湿度やら、戦士にとってはもしかしたら第六感のような危険さえ肌で感じられるのかもしれない。
「なあ、あの穴なんだ?」
「穴? ああ、タタララが掘っているんだ」
ジータが指差したのは、集落が水源として使っている人工川のすぐ近くにある、大きくえぐれた部分だ。まだ掘っている途中みたいだな。
「魚の養殖をしたいんだってさ」
「魚の養殖? なんだそれ?」
どうやら養殖というものがわからないようなので、「魚を飼って増やしたいそうだ」と答えると納得したようだ。
「てめぇで池作ってるのか。へえ。で、そこで魚を増やすって? そんなことできるのか?」
「私にはなんとも言えない。だが増やせたら食料が増えるから、試す価値はあると思う」
「そうかよ。魚か……魚は骨が細けぇから食いづらいんだよな」
タタララも同じこと言っていたな。まあ、確かに食べづらいとは私も思うが。
そんなどうでもいい世間話をしていると、ふっと間が開いた。
「――ついさっきまで男たちで自棄酒だ」
どうやら本題に入ったようだ。
「三十歳から上のおっさんどもは怒り狂ってた。二十歳くらいは微妙な顔してた。戦士になりたてのガキどもはどうしたらいいのかわからねえって言ってた。
アーレは強かったんだな。俺よりずっと強かった。確かにもう誰も文句は言えねぇよな」
族長はアーレだ、と。
ジータはなんの感慨もなく、迷いもなく、それを口にした。
今まで散々族長の座を争っていたのに、いとも簡単に。
……いや、内心は決して簡単ではないのだろう。
「俺が族長をやってたのは、アーレと番になるためだ。正直それ以外はどうでもよかった。いや、面倒なことが多かったな。
なあおい、知ってるか? 俺よりカラカロの方が強いんだぜ?」
え?
「本当に?」
「そもそもの体格が違うだろ。あいつは強いぜ。前族長の息子で、戦士ぶりも親父似だ。
ただ、親父が嫌いだったみたいでな。絶対に族長にはならない、親父の跡を継ぐのは嫌だってよ」
そうか……
あまり大きな声では言えないが、フロンサードの歴史にも、問題のある王や王族がいた記録がある。
たとえ偉大な指導者であっても、その人に人格が備わっているとは限らない。指導者ではなくとも、仕事はできるが家庭は顧みない、みたいな人も少なくないと聞く。
前族長は族長としては優れていたのかもしれないが、しかし家庭では色々問題があったのかもしれない。
「でも昨日の感じだと、カラカロよりアーレの方が強い。たぶんな。……本当に文句が言えねぇよ。認めねぇなんて言えなくなっちまった」
……うん。
「なあ、レイン――」
ジータが振り返った。
「族長は、番を決めることができる。きっとアーレはおまえを選ぶ。俺はもうそれを止めることができねぇ」
…………
「おまえ、アーレを守れるか? 命懸けで守れるか? ――俺は守れる。命懸けで守れる。あいつのためなら死ねる。これまで何度も盾になってきた。
おまえはどうだ? できるか?」
ジータの瞳はどこまでもまっすぐである。
「できないなら俺にくれよ。おまえはどうしてもアーレじゃないといけないわけじゃないだろ? 俺はどうしてもあいつじゃないと駄目なんだ。
アーレがどうしても嫌だって言うなら、嫁だって捨てる。なんだって捨てられる。あいつの望む通りにする。
だから、俺にくれ。俺にはアーレしかいないんだ」
重い言葉だった。
ジータの好意が、愛情が、とても重かった。
本当に、幼馴染は強いな。
想いの重さが違うな。
あたりまえか。
私はまだ半年の付き合い。
向こうは生まれからの付き合い。
私は族長の彼女しか知らない。
彼は族長になる前の彼女から知っている。
もし気持ちを量る天秤がここにあれば、ジータの方が重いに違いない。
ジータの身体に刻まれた傷は、彼女を守って付いたものがあるのだろう。
そしてきっと、彼女の身体にも、彼を守って付いた傷があるのだろう。
――そう、だな。
フロンサードで婚約を解消した時と同じように、ここで身を引いたんだろうな。
昨日までの私なら。
「ジータ。想いの強さだけに限れば、きっとあなたの方が強い。
命懸けで守ると言ったことも、何だって捨てると言ったことも、どこまでも本気の本音だろう。
ただ、一つだけ言いたいことがある」
腹に力を入れる。
強く、強く。
この時だけでいい。
ドラゴンにも勝る戦士に負けない、強さがほしい。
「アーレ嬢は守られたいんじゃない、守りたいんだ。
戦士だから。
だがあなたはアーレを女としてしか見ていない。
これってひどい侮辱だと思うんだ。
『おまえなんて戦士じゃない、ただの女だ』と言い続けるくらいひどい侮辱だと思うんだ。
あなたは平気か?
誰かに守られたり、誰かに守られないといけない存在になりたいか? 戦士なのに」
ジータの瞳が大きくなり、揺れた。
「……!」
思わず、なのか、反射的に、なのか。
彼は私の胸倉を掴み、……何も言わなかった。
「……」
きっと何か言いたかっただろう。
しかし何も言えなかった。
これまでの自分の発言がどういうものだったのか、どこでこじれたのか、どうしてジータとは違う道を選んだのか。
理解したのだと思う。
「私は弱いから、彼女を守れない。
だから彼女に守ってもらおうと思っている。
その代わり、私は彼女の帰る家を守りたい。
安らぎ、くつろぎ、安心して眠れて、帰る場所はここしか……私の傍にしかないという場所を作り、守りたい。
――私はアーレが好きだから。だから彼女には好きなことをしてほしい。そして彼女の帰る場所になりたい。
それと、あなたには譲らない。あなたと一緒にいても、きっともっと彼女を傷つけるだろうから」




