52.早朝の訪問者
上座に当たる、主のいない灰色狼の敷物を見る。
もう深夜である。
この半年、この時間ここにアーレ・エ・ラジャがいなかったことは、なかった。
「これから男たちがどうするかがわからない。アーレが動けない間は、念のために私がここに泊まることにする」
「いつも通りか」
タタララが泊まるなんて、別に特別なことでもなんでもない。もはや居候のような、家族の一員のような、非常に近しい隣人である。
「そういうことだ」
現に彼女は頷き、「何かあったら呼べ」とその場にごろりと転がった。
「――今だけだ。早ければすぐに、遅くとも冬は自分の家に帰る。だから心配するな」
心配?
…………
あ、はい。そういうことか。
「心配って?」
「ナナカナ、もう寝よう」
子供が気にすることじゃない。
――要するに、私とアーレ・エ・ラジャの夜を邪魔しない、という意味である。
ナナカナが自分の家に帰るのを見届け、私も戻った。
「起きているか?」
「……ん」
私の発した静かな声に、かすかな声が返ってきた。
「そのまま。寝ていていいから」
家に上がり、私はアーレ・エ・ラジャの傍らに座る。
寝ているわけではなさそうだが、意識ははっきりしているわけでもないようだ。まどろんでいるのだろう。
薄く開いた金色の瞳には、いつもの強さも輝きもなく、ぼんやりしている。
「今夜はずっと傍にいる。だから安心して休むといい」
額に掛かる髪を払い、手のひらでまぶたを閉じさせる。
アーレ・エ・ラジャの規則正しい寝息を確認し、少しだけ傍から離れた。
これだけの傷を負ったのだ、恐らく今夜は熱を出すだろう。
何か困ったことがあっても動けないし、誰かを呼ぶ力も出ないはずだ。
私にできるのは、ないよりはマシ程度の微々たる癒しの力を時折使うことと、痛み止めの針を打つこと。
それと身の回りの世話だけだ。
あまり大したことはできないが、しかし、こんな時に一緒にいて、少なくとも痛みで眠れない夜だけは退けてみせようと思う。
部屋の隅で明かりをつけて、持ってきた医学書の写しを読む。
静かな夜だった。
夏の夜には大きかった虫の音が、ひどく遠くから聞こえた。
「――レイン」
どれくらいの時間が経ったのかわからないが、お呼びが掛かった。
「いるよ。どうした」
「少し水をくれ」
飲み水は用意してある。彼女の身を起こし、水を掬った木の椀を近づける。
「酒でもいい」
「水にしようね」
「寝酒だ」
「大丈夫。すぐ眠れるよ」
私にできることがもう一つあった。――私の指先は睡眠導入の力もある。睡眠効果はない、あくまでも少し眠くなる程度だが……警戒していない弱った者なら数秒で寝かしつけられる。
「おまえは融通が利かないところがあるな。そういうところはよくな」
よし寝たな。
警戒されると効かなくなるから、この力に関しては一生黙っていることにしよう。
水を少し飲ませ、寝落ちしたアーレ・エ・ラジャを横たえた。
長い夜の間、何度かアーレ・エ・ラジャは眠りから覚めた。
「――カテナ様、それはナナカナのアレだ」
「え?」
ナナカナのアレとはいったい。
非常に気になるが、彼女はどうも寝ているようで、きっと起こして質問しても覚えていないと思う。アレとはなんなのか。気になる。
何か言う時、半分は意味と意図があったが、もう半分は寝惚けているのもあるようで、意味をなさない寝言もあったりなかったりした。
「――酒をくれ……」
「ほら、酒だよ」
「――これは水だ……」
「水みたいな酒だよ」
「――……なるほど、これはいい……いくらでも呑めそうだ……」
水だからな。そりゃすいすい入るだろう。
寝苦しそうなら痛み止めの針を打ち、熱が上がれば癒しの力を注ぎ込む。
起きる時はその二つの理由のどちらかか、両方だ。
静かすぎると逆に不安になるので、時々反応があると、私としても安心できた。
今のところしっかり休めていると思う。
ただ。
明け方頃だったと思う。
「――敵なら……」
ん?
医学書の写しを置き、壁に背を預けて仮眠を取っていた私は、アーレ・エ・ラジャの声に反応して起きる。
何度かあったので、まず近づいて瞳が開いているかどうかを確認する癖がついた。
これは、寝ているな。
寝言の類のようだ。
ただ、なんだか苦しそうだが……
「――……いくらでも殺せる……」
お、おう。なんだ。なんか物騒な夢でも見ているのだろうか。
「――……だが……」
あ。
「――仲間を、殴るのは、つらい……」
仲間……戦士たちか。
…………
彼女の眦からこぼれた涙を、指先で拭う。
熱い雫とともに、彼女の心の最も弱い部分に触れたような気がした。
――私はまだ、このアーレ・エ・ラジャという女性を、あまりよく知らないのかもしれない。
強さは知っていた。
でも、弱さを持っていることは知らなかった。
普通に考えればあたりまえなのにな。
だってそれが人間なんだから。
彼女を支えるために、もっと彼女のことを知りたい。
泣き出したアーレ・エ・ラジャが落ち着き、それからまたしばしの時間が経った。
その時だった。
「……ん?」
今、すぐ近く……外、ドアのすぐそこで、聞こえるか否かという足音が聞こえた。
じゃり、と地面を踏みしめる音がして、止まった。
止まっている。
気のせいかもしれない。
だが、もし、誰かがいるとすれば……
…………
少し迷ったが、私は確認することにした。
靴を履き、ドアを開ける、と――
「……少し話せるか?」
まだ空も暗い早朝、そこにジータが立っていた。




