37.森の奥の湖で 結果
なんだかよくわからないままに、最初こそギスギスしていた気がするが。
時が経つにつれ、アーレ・エ・ラジャの理由のわからない不機嫌が、落ち着いてきたようだ。
ポツポツと話をしつつ釣り糸を垂らし、ゆったりとした時間を楽しむ。
「クーム……って、蜘蛛のこと?」
「ああ。黄色の蜘蛛という意味で、黄蜘蛛という。白蛇族の集落からは少し距離があるが、交流があるのだ」
頑丈な釣り糸のことを聞くと、蜘蛛の特徴を持つ部族がいると返ってきた。
白蛇族は白蛇。
この前の大狩猟で見かけた、猫の特徴を持つ青猫族。
牛の特徴を持つ戦牛族。
鳥の特徴を持つ黒鳥族。
それと、私は会っていないが、大狩猟ではリスの特徴を持つ飢栗鼠族という部族も関わっていたらしい。
そして、また新たな部族の名前を聞くことになった。
この釣り糸は黄蜘蛛族の作った糸であり、なかなか切れないし千切れないことで知られているらしい。
釣りで言うなら、魚が暴れて竿や針が壊れることはあっても、糸が切れることはないのだとか。
糸の故障で大物を逃がしたことがある釣り人にとっては、夢のような糸である。
霊海の森の向こう側であるこの地には、きっと、もっとたくさんの部族がいるのだろう。
「え? 空に落ちる水……?」
「闇降石。正確には水ではないようだがな。地面からしみ出した黒い水がツララのように固まり、その先端から一滴ずつ空へ落ちる。荒野にそういうものがあってな……口では説明しづらい。いつか連れて行ってやる」
ものすごく気になるものもあるようだが、確かに口で説明されてもなかなか理解しがたい。
いつになるかはわからないが、いつかは見てみたいものである。
――と、そんな話をしながらも、程々に魚も釣れてくれる。
見たことがない魚ばかりだ。
雪魚という魚は、神蛇カテナ様を思い出させるような白い鱗を持ち、非常に美しい。焼いて食べるそうだ。
その対になるような鮮血魚は、鮮血を浴びたように真っ赤である。焼いて食べるそうだ。
主にその二種が釣れたが、私の知っている魚も釣れた。
「ははは。土塊魚か。大物なのに残念だな」
「ん?」
思わぬ大物が掛かり、竿をしならせ悪戦苦闘し、なんとか釣り上げたのは、細い二本のヒゲが特徴的な黒い魚――ナマズである。
これは霊海の森の向こうにもいる魚だ。釣ったのも初めてではない。
ただし、ここまで大きいのは見たことがないが。
何しろ私の身長の半分くらいあるからな……ナナカナより少し小さいくらいのだ。恐ろしいサイズである。
「残念……ってことは、こっちでは食べないのか?」
「ああ。土の味が臭くて食えん」
「土は吐かせた?」
「……なんの話だ?」
おっと、そうか。土を吐かせないならそりゃ臭いだろうな。
「持って帰って試していいか? 私の知っている魚なら、かなり美味しいぞ」
調理方法も、持ってきた本に乗っていたはず。
ナマズはさばいたことはないが、魚はさばける。ちょっと手探りになるかもしれないが、これだけ大きければしっかり食べられる量も確保できるだろう。
「台所はレインに任せる。持って帰るなら我が持とう」
お、助かる。
大きさがこれなので、相応に重いんだよな。
アーレ・エ・ラジャに手伝ってもらい、水に浸けてある魚籠の中にナマズを入れる。大振りの魚籠がこれ一匹で半分以上が満たされた。狭く窮屈そうである。
「これ以上は入らんな。少し早いが引き上げるか」
「そうだな」
早朝に出て、まだ昼にもなっていないが。
しかし彼女の意見には賛成である。こういうのは程々で引き上げるのがいいだろう。二人で来ているわけでもないし。
「……どうだレイン。楽しかったか?」
「ああ、楽しかったよ。連れてきてくれてありがとう」
「うん、そうか、うん……」
…………
アーレ・エ・ラジャがもじもじしている。何か言いたそうで、何も言わない。何度か手を差し出そうとしては引っ込める。なんだ。何がしたいんだ。――いや。いやいや。
あまりモテなかったさすがの私でも、さすがにわかる。
これは、アレだ。
ちょっと恋人気分を味わいたいが、なかなか踏ん切りがつかない女の子そのものだ。兄上を見ている淑女の多くがまさにこれだった。
兄上は見て見ぬふりをして、婚約者の期待にだけ答えていたが……
そうか。
私にも、こうして私を見てくれる女の子が、ついにできたのか。
――ならばもう迷うまい。
いつまでもぐずぐず考え込むのは私の悪い癖だ。
ここはもう、行動あるのみだろう。
「アーレ嬢」
「…っ!!」
私は大急ぎでナマズを触ってぬるぬるになった手を洗い拭ってから、改めて手を伸ばしてアーレ・エ・ラジャの手を取った。
彼女はビクッと大きく身を震わせる。そして彼女の手はぬるぬるのままだ。――もちろん今はそんなことを気にしている場合ではない。触れる方のマナーとして私は洗ったが。
「せっかく来たんだ、少し湖の周りを歩こうか」
「……うん」
俯いて囁くようなその小さな声は、蛮族の族長でも戦士でもなく、本当にただの女の子だった。
その時だった。
「――ぞ、族長助けて! 獣野犬に見つかった!」
え?
振り返ると、一緒に来た女性たち数名がこちらに走ってくる姿があった。
その後方に……大きな黒い野犬型の魔獣三頭が、まるで狩りを楽しむかのようにわざとらしい低速で、彼女たちを追い駆けていた。
「な、あ、あぶな――!」
我ながら、咄嗟に何を言いたかったのか。「危ない」なんて誰の目から見ても明らかだ。この状況でそんなあたりまえのことを言って何になるのか。
だが、そんな言葉や思考よりも、それは速かった。
「そのまま走れ!」
いつの間にか私の手から離れたアーレ・エ・ラジャが駆け出していた。
速い。
地を這う蛇のように体勢を低くして走り、抜き手も見せないような速度で下げていた手斧と鉈剣を両手に持ち――
「うお……!」
女性たちと擦れ違い、魔獣とも擦れ違った、と思えば――三頭の頭が宙を舞っていた。
見ていたはずなのに、まったく見えなかった。
立ち止まったアーレ・エ・ラジャの手斧と鉈剣には血が付いているので、あの一瞬で三頭の首を刈ったのだ……と、全てが終わってから気づいた。
「無事か?」
魔獣が絶命していることを確認してから、アーレ・エ・ラジャがこちらにやってくる。
女性たちが頷くと、彼女はとてもいい顔でニコリと笑った。
「――そうか。それはよかった。では逢引きの邪魔をした罰を与えても大丈夫だな?」
…………
逢引き?
「今すごくいいところだった。よくも邪魔をしたな」
…………
あ、そうか。
この釣りって、逢引きだったのか。
魔獣の血を嗅ぎつけて、ほかの魔獣を呼ぶ可能性がある。
そんな戦士の鉄則を旨に、私たちは早々に湖から撤退するのだった。
……逢引きだと最初から知っていたら、もう少し、色々あったと思うんだが……
ある意味、私も残念である。




