35.森の奥の湖で
「すまない。本当に二人きりで行く予定だったんだが……」
「いや、構わない。謝るようなことじゃないし、必要なことだ」
アーレ・エ・ラジャから「釣りに行こう」とのお誘いがあった翌日。
昨日の段から彼女自ら準備をして、あとは出かけるだけという状態で迎えた朝のこと。
つい先日、雨季が通り過ぎただけに、今日も快晴。
絶好の釣り日和である。
私が釣り具一式と魚籠を持ち、彼女が念のためにと手斧と鉈剣を持ち、いざ集落を出ようとしたところで、
「――おーい」
十人近い女性陣が声を掛けてきた。
女の戦士を含む彼女たちは、「あの湖に行くなら採取したいから連れて行け」と、同行を願い出てきた。
どうもアーレ・エ・ラジャが私を連れて行こうとしていた釣り場は、普段はあまり行けない場所であるらしい。
彼女が狩猟道具を持っている辺りからして、魔獣の類が出る場所なのかもしれない。
「……」
アーレ・エ・ラジャは、見るからに迷っていた。
女性たちの提案を受け入れると、昨日自分が言った「二人きりで」という約束を違えるからだろう。
しかし族長としては、許可しない方が問題だ。
食料に薬品に生活必需品にと、採取は集落の生活に密接している、大事な仕事である。
狩り程華々しくないし危険も少ないかもしれないが、女性の仕事だって決して軽視してはならないものである。
むしろ狩り以外のすべてに関わっていると思う。
ならば、受け入れないという選択はないだろう。
「アーレ嬢、一緒に行こう」
迷う必要はない。私は別に二人きりじゃなくてもいいし。逆に族長である彼女が断る方が引っかかる。
「……すまない。本当に二人きりで行く予定だったんだが……」
なんとも複雑そうな顔をするアーレ・エ・ラジャに「構わない」と答え、予想外の大所帯で集落を出ることになった。
――と、先頭を歩く私たちの近くに、女の戦士がひっそりと近づいていた。
「現地では二人きりにするから」
「え?」
聞こえた声に振り返ると、戦士はニヤリと笑って離れて行った。……なんだ? 二人きり?
「……アーレ嬢?」
「今こっちを見るな」
今のはなんだ、と聞きたかったが、彼女はしばらく顔を背け、私の方を見なかった。
「言っておくが、二人きりになったら何かが起こるぞ。我が起こすからな」
そして顔を背けたままで、なんかよくわからない宣言をされた。
え? 何? 何をする気だ?
――このお出掛けを、いわゆる逢引きと認識していない私は、彼女が何を考えているのかと一人で戦々恐々とするのだった。
――そして、すぐ後ろから胸を押さえて熱い眼差しで食い入るように私たちを見ているタタララには、気づかなかった。
結構な距離を歩いた。
確かに、女性だけで来るには少々遠い場所である。魔獣や害獣に遭遇しなかったのは、運が良かったのか、それとも遭遇率はそんなに高くないのか。
霊海の森とは違う方向にある森の奥深くに、それはあった。
「へえ……」
綺麗な湖である。
季節もあるのだろう、緑の匂いが強い森の奥に寝そべる水面は、とても静かだ。
鳥の囀りも風が揺らす木々のざわめきも確かにあるのに、湖畔に佇み水を見ていると静寂を感じる。この感覚はなんなのだろう。
どこを見ても人工物がない、というあたりまえのことが、珍しく感じる。
フロンサードなら、必ず貴族の別邸でもありそうな、美しく豊かな場所だからだろう。
「――採取を開始しろ。ただしこの辺からあまり離れるなよ」
散開することなく目的地までやってくると、タタララが号令を出して仕切り出す。
「行こう」
それをぼんやり見ていると、アーレ・エ・ラジャに声を掛けられた。
「向こうはタタララに任せてある。我らは予定通り釣りをしよう」
「ああ。そうしようか」
女の戦士も何人かいるし、アーレ・エ・ラジャがいなくても大丈夫だろう。いざとなれば呼べばいい距離だしな。
「で……ここに魚はいるのか?」
「いる。雪魚や鮮血魚が多いな」
そうか。
こっちの古い言葉で言われてもよくわからないが、いることはいるようだ。
透き通った水だけに、結構水中が見えるんだよな。
見る限りでは魚影が見えないんだが。
アーレ・エ・ラジャとともに湖畔を歩く。
距離が開いて女性たちの声が聞こえなくなると、本当に二人きりになったようだ。
「子供の頃はよく来たんだ。ここらは時々魔獣が出るから、大人が一緒じゃないと来てはいけないと言われていた。そんな大人の目を盗んで遊びに来たものだ。そして帰って怒られたな」
ほう。
「アーレ嬢は言いつけを守らない悪い子だったのか」
「悪い子ではなく怖いもの知らずだったな。我は子供の頃から強かった。だから何が来ても負けないと驕っていたのだ。
我ながら運が良かったと思う。本当に魔獣と遭遇したらきっと死んでいた」
ああ、まあ、子供の頃って知らないことが多いから、調子に乗ることも多いよな。私も色々と失敗したし、失敗から多くを学んできたと思う。
「この辺でいいか」
釣竿を用意する。
骨を削って作った針に、なんの糸だかわからないが細く頑丈な糸を結ぶ。エサは糖分を搾った黒長芋だった野菜くずだ。これで充分釣れるらしい。
「牛のすじ肉も結構釣れるが、最近は残らないからな」
私が料理に使っているからである。
「どうだ? できたか? 手伝おうか? 貸せ」
「え? いや、できたけど」
準備期間の半年で、食糧確保の方法として釣りも経験してきた。釣り糸も針もしっかり結われてある。
それにしてもこの糸はなんの糸なんだろう。絹糸より頑丈な気がするが。
「……そうか。ああ、そうか。できたか。……うん、しっかりついてるな」
私の用意した釣竿を仔細に見て、アーレ・エ・ラジャは少々眉を寄せて何度も頷く。
「では撒き餌をしようか」
お、撒くやり方か。
そうだな、魚影が見えないもんな。魚を呼ばないとな。
アーレ・エ・ラジャはエサを入れてきた革袋に手を突っ込み、おもいっきりぶん投げた。
「――くそっ! なぜできる!」
と、吠えながら。
「えっ、何!? なんだ!? 私の釣り竿のことか!?」
私は何か悪いことをしたのか!? 彼女はなぜ急に怒り出した!?
しかし振り返った彼女は、いつものよく見る表情だった。
「気にするな。何もない。いつも通りだ」
えっ、いつも通りなの!? さっきのって釣りをする時いつもやっている掛け声だったのか!?
……いやそんなことはないだろう。仮に本当にもしいつも通りなら、アーレ・エ・ラジャの情緒が心配になる。
…………
いまいち正解がわからないが……やはり、私の釣り竿が原因ではなかろうか……




