34.明日の予定は
「――いや、全然関係ないというか、気にしてなかったけど」
帰ってきたアーレ・エ・ラジャの前に跪き、足を拭こうとしたところで、いきなり謝罪された。
何事か、何かやらかしたのか、と思ったが。
話を聞く限りではなんでもなかった。
雨季明け直後である、大地にはたらふく水が満ちている。
そんな時に外を出歩けば、当然足だって汚れる。
アーレ・エ・ラジャの今日の足の汚れはすごい。
こんなにも土や泥で染まるなんて。くるぶし辺りまで染まっているのは、泥の中に踏み込んだせいだろうか。脛まで撥ねている。
実にわくわくする。
若干変態っぽいので一生誰にも言わないと思うが、私はアーレ・エ・ラジャの汚れた足が好きだ。
正確には、汚れている足を洗い綺麗にするのが好きだ。
少しずつ、あるいは一気に、彼女の肌が生き返る様を見るのが好きだ。非常に肌が白いだけに汚れが目立ち、目立つがゆえに洗えば純白に輝く。
ああ、汚れが落ちる。どんどん落ちる。素晴らしい。
「気にしてない? ……ではなぜ雨季の間、自分の家にこもっていた? あまりこちらには来なかったではないか」
「え? ああ、うん」
足を洗うのに夢中になっていたので、一瞬何を言われたのかわからなくなってしまった。さっきの話の続きだな。
「やることがあったから。……って言わなかったか?」
「言っていた。……嘘じゃなかったのか?」
「ああ。本当だよ」
「我を避けていたのではないのか?」
「アーレ嬢を避ける理由なんて私にはないけど……」
「ではなぜだ? おまえは我に何を隠している?」
「何って……」
――あれ? この流れはまずいのではなかろうか。
フロンサードの悲しき入り婿である宰相殿が、「『あなた私に何か隠し事をしてない』と嫁が言い出した時は要注意だ」と言っていた。
心当たりがないなら「疑わせてしまって申し訳ない」とこちらが謝ればいいが、心当たりがあるならさっさと謝れ。しかしカマを掛けてきている可能性も高いから慎重に見極めろと。
この場合のアーレ・エ・ラジャの発言は、どうなのだろう。
……いや、そもそも誤魔化す理由もないか。正直に話せばいい。隠し事なんてしてないし。
「夏になると狩りが激しくなる、って言っていたよな?」
「言っていたか?」
「ああ。『これから狩りで忙しくなるのに、おまえがそんな腰抜けな調子では困る』って」
「……言っていたか?」
これだ。理不尽な文句って言っている方は覚えていないんだよな。
言い返したら十倍になって返ってくるという入り婿情報があったから何も言わなかっただけで、私は腰抜けではないからな! ……これが腰抜けの発想と言われればぐうの音も出ないが。
「狩りが本格的になる。動物や魔獣が活発に動き回るようになり、集落を守るために、近くに来た獲物は全部狩るか追っ払うことになる。夏は戦の季節だ、って」
「……言った……ような、気がする……」
まあ、もう、いいさ。
この際アーレ・エ・ラジャが何を言っていたのかはどうでもいいから。
「狩りが激しくなるなら、怪我人が出るんだろう? 戦士の死傷者も夏に多いみたいだし。だから治療の準備をしていたんだ」
フロンサードから持ってきた医学書の写しを少しずつ読み進め、傷を縫合する絹糸をすぐに使えるようにしておき、針と糸の扱いを練習していたのだ。
白蛇族の集落へ行くと決めて、半年の準備期間があった。
その間、いろんな職業や作業に触れ、こちらで生活するための下準備をして過ごした。
その中に、医学もあった。
ただ、練習にしろ知識にしろ、あまり身につかなかったのだ。
それはそうだ、私より頭の出来がいい過去の偉人たちが、長い長い年月を掛けて習得・発展させてきたもの。その結晶が現代医学だ。
たった半年やそこらでそれらを身に着けようだなんて、驕りが過ぎる。
そもそも半年の間、医学だけをやっているわけにもいかなかったので、こちらはもう長い目で観ることにしたのだ。
国の宝である医学書は持ち出せないので、医学書の写しを作るよう写本家に頼み、しばらく王宮付きの医師の付き人をして、最低限の経験は積んだ。
血にも慣れたし、死にも触れた。一応縫合手術もやらせてもらったが、速度も正確さも、医師とは段違いだった。
基礎中の基礎だけ学び、あとは現地でじっくり鍛え上げよう、と。
そう思っていたのだが。
どうにも、今すぐにでも必要になりそうだったので、慌てて訓練を始めたのだ。
のんびり過ごしている場合じゃないと。
普段から狩りに出て戦っている戦士が休むのに合わせて、私が休んでいてどうすると。
むしろ戦士が休んでいる時こそ私が働くべきだろう。
体内を蝕む病に関しては時間が足りないので、とにかく外傷を中心に対処法と治療法を磨いてきた。
まだまだ付け焼刃もいいところではあるが、聖女の力を持つ指先と合わせれば、ないよりはマシくらいにはなってくれるだろう。
「あなたは族長だ。族長として集落を守りたいだろう?」
「当然だ」
「ならば私は、あなたの婿としてあなたを支えるよ。あなたのしたいことを応援するし、手伝いもする。そのための準備をしていた。大狩猟の時のように、怪我をした戦士の治療をするよ」
それに、アーレ・エ・ラジャが怪我をする可能性もなくはないのだ。
個人的には集落より彼女を優先したい。入り婿だし。
「――よし、綺麗になった」
このつややかさ。艶めかしさ。一片の曇りもない美しい足である。
思わず撫で回したり頬擦りしたくなるが、やったら蹴られそうなのでやめておく。……いや、蹴られはしないかな。逆に襲われそうではあるが。
婆様も言っていたし、私もそのつもりがないわけではないので、それはそれで悪くないとは思うが……
…………
なんというか、「まだタイミングが悪い」っていう感じがするんだよな。
これから狩猟で忙しくなるという時に、わざわざ慌ただしく結婚する必要もないだろう、という気もするし。一応は秋の終わりまで待つ、という話でもあるわけだし。
「……あれ? どうした?」
もう足は磨き終わったのだが、アーレ・エ・ラジャは動かない。
視線を上げると……ぼうっと呆けたような顔で、私を見ていた。
見たことがない顔だ。
こんなに気を張っていない彼女の顔は見たことがない。酒に酔っている時でさえ目には強い意思を感じるくらいなのに。
これじゃ、まるで、普通の少女のような……
「おいレイン」
始めて見る珍しい顔に引き込まれていた。我に返り「何かな」と答えると、彼女はまったく予想していなかったことを告げた。
「――明日、釣りに行こう。……二人きりで」
……お、おぉ……
最後に小声で付け加えられた「二人きりで」という言葉に、少しときめいてしまった。
今の言葉は、これまでに聞いた彼女の誘い文句の中で、何よりも強烈だった。




