199.霊酒
初めてナナカナから聞いた時は、半信半疑もいいところだった。
毎年、夏の終わり頃に、きっかり三日間の雨が降る。
この地ではそれを断罪の雨、あるいは赦しの雨と呼ぶのだとか。
霊海の森に留まる罪を犯した死者の魂をさばき、洗い、許すための雨だと言う。
不思議なのは、毎年計ったようにこの時期の降り注ぎ、図ったように三日間だけで止むという事実だ。
私には何者かの意図や作為があるとしか思えないのだが……
……まあ、そんな答えの見つからない疑問はさておき。
今年も断罪の雨が降り出した。
過酷にして熾烈な戦の季節が、ようやく終わろうとしていた。
心配ばかりしている身からすると長かったような、でも日々の密度が濃いせいかあっという間に時が過ぎていったような。
去年と同じく、なんとも言えない気持ちで私も乗り切ったのだった。
さて。
「よし、今年も夏は終わりだな。おまえたちは帰れ」
しとしとと夜中から雨が降り続けている朝、半同居のようになっていた女性戦士たちがアーレに追い出されるのも、去年と同じである。
「――また寂しい一人暮らしの始まりか……」
「――レインの飯も終わりか……」
「――ケイラは私の嫁になればいいと思う。……カラカロが目を付けてなければなぁ」
ここ一ヵ月くらい入り浸りだった戦士たちが、ぼやきながら去っていく。今年も彼女らの面倒まで見るのは大変だった……でも慣れもあってか、それともケイラがいたおかげか、今年はまだ楽だったな。
「――土塊魚を釣ってくる。焼いてくれ」
と、タタララがナマズを釣りに行くのも去年と同じだった。
名残惜しそうに雨の中を飛び出す、同居人同然だった客人たちを見送り。
やっと一息吐けた。
「今年も大変だっただろう。我らの面倒を見てくれてありがとう、おまえたち」
アーレから、台所ほか家事全般をこなしていた私、ナナカナ、ケイラにお褒めの言葉をいただいた。
私は一度経験しているからまだしも、ケイラは特に大変だっただろう。
――と思ったが。
「毎年夏はこんなだよ。大変だったでしょ?」とナナカナが言うと、ケイラは平然と答えた。
「そうですね。でも要領さえわかれば……夜会や茶会の準備より気を遣わなくていいので精神的には楽でした」
……さすが経験の長い元使用人、家事全般は慣れたものか。むしろ去年の私が不慣れ過ぎたのかもしれない。
「高い物が多かったからか?」
「はい。万が一にも汚したり壊したりしたら、本当の意味で首が飛びかねませんから」
そんな大袈裟な……いや、そうでもないか。
物の価値がどうこうより、一つの失敗が貴族の面子を潰す可能性があるからからな。
ましてやケイラは王城の使用人だったから、夜会も茶会も王族ゆかりの催しばかりだっただろうし。
小麦粉の件といい、使用人の気遣いといい、王侯貴族はどこまでも民に支えられているものである。
「なんだ? 物騒な話だな」
「気にしなくていい。それよりアーレ、前から話していたことだが」
「旅行の話か!? どこに行く!?」
「いや、私の加護の話」
「ああなんだ……うん、好きにしろ」
一瞬で熱され、一瞬で冷めたな。
私の嫁は本音と建前が露骨すぎやしないか?
まあ、そんな嫁も好きだが。
「では行ってくる。ケイラ、私はいつ帰れるかわからないから、私の分の食事はいらないから」
「わかりました。いってらっしゃいませ」
――ケイラは最後までよくわからないまま「そういうもの」と受け止めたようだが、私の中に空を飛ぶ蜥蜴の魂が入っていることは事前に話しておいた。
アーレとナナカナ、ついでに一緒に聞いていた女性戦士たちはすんなり受け入れたので、魂という概念についての理解と把握の前提が違うのだと思う。
実際私も、生物ならざるものや理屈を超えたものをたくさん見てきたおかげで、なんとなく信じるようになった。
でも正直、他者に言われるまで、ドラゴンの魂がこの身に宿っていたことなど知らなかったしな。
なんとなく信じるようにはなったが、果たして理解が及んでいるかと言われると、首を傾げてしまうところだ。
まあ、とにかく。
事前に話しておいたので、私はスムーズに家を出ることができた。
穏やかに降り注ぐ雨の中、向かったのは婆様の家である。
婆様は「情報はない」と言い切っていたが、それでもあらゆる可能性だけは考えていた。
鎮魂の祈祷やら、魂と対話できるとされる霊酒やらと、準備はしてくれると約束した。
頼みの神蛇カテナ様に質問しても、明確な言葉が下されなかったので、空を飛ぶ蜥蜴の怒りを鎮める方法は依然わからないままである。
「――来たな。早速祈祷から始めるぞ」
とにかく、これが無事終わってくれれば、私の悩みが晴れるのだ。
アーレじゃないが、私だって旅行は楽しい方がいい。
悩みや憂いを解消しておいた方が楽しめると言うなら、そうしたいのである。
……日常生活には問題ないが、神の使いの声が届きづらいという弊害があるらしいからな。どうにかできるものならどうにかしておきたい。
「よろしく頼む」
「うむ」
祈祷用の家に移動する。
家の中で火を焚いたりもするので、ちゃんと専用の家があるのだ。――普段なら外でもいいらしいが、雨が降っているので家の中でやるとか。
もちろん、効果がなければ野外である。
断罪の雨に打たれながらやることになる。
やってもらう私はともかく、やる側の婆様はとんだとばっちりである。まったく祈祷師も楽ではない。
祈祷用の家の中は、もう準備が整っていた。
霊草と呼ばれる貴重な薬草の香が焚かれ、貢ぎ物である牛の心臓と鮮血が置いてあり、大きく場所を取る囲炉裏の上には薪が組んであった。
あとは、よくわからない壷だのなんだの……いろんな匂いが立ち込めて混ざりあい、何があるのかさっぱりだ。
「ではレインよ、まず清めの霊酒を呑め」
小さな盃を渡され、小さな壷から緑色の酒がどろりと注がれる。
……青臭い草のペーストがそのまま混ざってます、という感じの酒である。
「これは?」
「清めの霊酒。定着しておるおまえの魂を、肉体から少しだけ離すものじゃ。魂と対話できるのは魂だけだと言われておる」
なるほど。相手と同じ存在になれば会話できるよ、ということか。
理に適っているのか暴論と言うべきなのか。
いまいち判断がつかないが、ここまで来てやめるわけにはいかない。
ここに整えた道具や薬草は、一朝一夕で用意できるようなものではない。薬草一つとっても私が知らないものばかりなのだ。
きっと貴重な物ばかりのはずだ。
……、よ、よぉし。
呑むぞ。
呑むぞ!
身体が震えてきたし、本能が「呑んだら死ぬ」と訴えているが、呑むぞ!
「うえっ」
近づけるだけで青臭い草臭が目に沁みるっ。
「何をやっとるか。さっさと呑め。始められんじゃろうが」
…………
よし、今度こそ行くぞ。呑むぞ。
鼻をつまんで、意を決して口の中に流し込んだ。どろりと。
味はともかく臭いがきつい。
体内に入れた途端、まるで全身に、血液にまで臭いが侵食するような不快感に襲われ――
そして私は意識を失った。