177.吸老樹を討伐する
まだ空は暗いが、遠く東の空は明るくなってきていた。
小さな家の前に、女戦士が二人。
一人は両膝に手を着いて状態を倒していて、もう一人は腕を伸ばしたり屈伸したりと準備体操をしている。
「おまえなんで平気なの……?」
朝っぱらから吐いたり水を飲んだりと忙しいキシンは、一切酒が残っていないアーレを睨む。
キシンは、夜も暗い内からひどい二日酔いに苦しめられ、明け方にようやく動けるくらいに回復したところである。
アーレはついさっきまで寝ていたくせに、起き抜けに身体を曲げたり伸ばしたりしている。
「控えめにしたからだ。ここの連中はあまり酒を呑まないみたいだからな、単純に出せる量がなかったみたいだ」
「あれで控えめって……呑み過ぎは身体に悪いぞ」
「だから控えているだろうが」
「控えてる量じゃないっつってんだ」
錆鷹族はあまり酒を嗜まない。
過去、酔って飛んで落ちて死ぬ者が多数出たからだ。
最終的に、時の族長まで愚かな死を迎えたことで酒を控える文化が育ち、代を重ねるごとに酒精に弱くなっていった。
そんな集落なので、造る酒の量も少ない。
白蛇族の百分の一以下しか造酒していない。
だが、その分味は悪くなかった。
森の木の実をふんだんに入れた甘い酒だったが、非常に濃くまろやかであり軽やかでもあった。口当たりはいいが酒精は強く、調子に乗って呑んでいたらすぐに回るだろう。
キシンがそうだった。
アーレのペースに合わせて呑んだせいで、呑み過ぎた後に急に来たのだ。
「あばらはどうだ?」
「くっついたけどまだ痛い」
犬狼族の自然治癒力はかなり高い。多少の裂傷や痣なら半日かからず治るし、複雑じゃない骨折でも一晩二晩で治ってしまう。
「本当にいいのか? 私は戦えないぞ」
「構わんと言っただろう。我一人でいい」
一応様子見も面もあるが、できるなら今日で仕留めてしまうつもりだ。
巨木に育った吸老樹と戦うのはアーレだけで、キシンには道案内と見届け人を頼んでいる。
「それに戦う理由もできたしな」
何を考えているかは知らないが、婿がオーカの腕を取ってこいと言った。
婿が頼んだのだ。
嫁が戦う理由なんて、そんなもので充分だ。
「何、無理だと思えば逃げるから心配するな」
「べっ別に心配はしてねぇよ! おまえを殺すのは私だから死ぬなっつってるだけだろ!」
「そういう一丁前のセリフは酒壷を一気呑みできるようになってから言え」
「酒は関係ねぇだろ! つかおまえらに付き合って呑める部族がどれだけいんだよ!」
そんな不毛な話をしていると、朝焼けの中から錆鷹族の戦士たちが現れる。
どうやら迎えが来たようだ。
昨日アーレにやられたせいで、まともに動ける錆鷹族戦士は少ない。
そんな中、比較的無事だったヨーゼを始めとした戦士数名に、吸老樹
討伐に付き添うよう命じた。
「準備はいいか?」
「全部できている」
「では行くぞ」
簡単に状況を確認し、彼らはアーレとキシンを吊って空を飛んだ。
奇しくもというかなんというか、やってきたのは昨日アーレが錆鷹族の戦士たちを襲った場所と同じである。
まあ、元々あの行動は、錆鷹族の戦士たちが問題の吸老樹を見に行くところだった。
ほかの事情はともかく、昨日と同じ目的で来たのだから、当然と言えば当然である。
戦士たちは足音と気配を殺して森に入る。
案内をするキシンを先頭にして、アーレと錆鷹族が続き……ほどなく目当ての場所に到着した。
「――あの木なんだけど、わかるか?」
キシンが止まれの合図を出して一行が停止し、木陰に隠れて先を伺う。
キシンが指差した先には、大人二人が両手を伸ばしても端まで届かないだろうという、太い幹を持つ巨木。
こうして見るとただの樹木だが、キシンはあれが魔獣だと言う。
「さっぱりわからんな」
人間より鋭い小動物などが看破できない擬態だ。
もはや見た目で見分けるのは不可能だろう。
「オーカの血の匂いはまだするか?」
「する。血の匂いって結構残るからね」
その証拠に、犬狼族じゃなくても、いつだってアーレや腕のいい戦士はかすかに血の匂いをまとっているのがわかるくらいだ。
「ふむ……この辺は大丈夫だと思うか?」
「魔法の刃の射程範囲か? そうだな……動物か何かの血の匂いは、この辺からはしないからな。大丈夫だと思う」
この辺までは、魔法の刃が届かない。
仮に届くにしても、吸老樹はこちらの存在に気づいていないかもしれない。
少なくとも、動きはない。
「――よし、ではここを拠点にしよう」
アーレが戦士たちを集める。
「我が手を挙げたら、それが合図だ。代わりの斧を投げろ」
錆鷹族には、倒木用の斧を集めて持ってくるよう命じていた。それに従い、三十本以上の斧をここに持ってきている。
吸老樹は、キシンから聞いていた通りの巨木である。
あれを切り倒すなら、斧が何本も必要になってくる。戦いながらになるので、使い方も荒くなる。きっと何本も駄目になるだろう。
戦うのはアーレだけ。
斧が壊れたら、代わりを投げ込んでもらう役目を頼む。
「大丈夫なのか?」
燃やす以外の討伐方法を思いつかなかったヨーゼが、思わずという気持ちで問うが。
「あれくらいならな。正攻法で切り倒してやる」
少しずつ少しずつ幹を削り、抉り、最終的に切り倒す。
なんの捻りもない真っ向勝負みたいな作戦を、アーレは選んだ。
「おい。死ぬかもと思ったら絶対に逃げろよ。私はおまえの死体の回収なんてしたくないからな」
二日酔いで若干顔色は悪いが、キシンは至極真面目に言う。
「わかっている。心配するな」
と、アーレは頷いて立ち上がり、振り返った。
「――ああそうだ。おまえのその棒を貸せ」
今のアーレは、己の武器を持っていない。
キシンから話を聞く限り、アーレの槍だの手斧だの鉈剣だのでは効果が薄いと判断したからだ。荷物になるので置いてきた。
そして所望したのは、キシンが持っている短い石棒だ。
「貸すのはいいけど、これでも無理だと思うぞ」
「その時はその時だ。――おまえは無理でも、おまえの誇りを我に貸せ。共に戦ってやる」
誇りと共に戦う。
それは言外に、一緒に戦いたかったという意志表示だ。
「おまえのそういう気遣いほんと嫌いだからな。……返せよ。おまえが直接、私に返せ」
「ああ」
キシンから預かった武器を腰に下げ、両手に斧を持ってアーレは歩き出す。
まっすぐに巨木の吸老樹に向かい、両手を上げ――振り下ろした。
斧の刃が、木の皮をほんの一枚だけ抉る。
こーん、と渇いた木を打つ音が森中に響き。
ガサガサガサガサガサガサガサガサ
ただの木にしか見えなかった吸老樹が動き出す。
まるで森自体が騒ぎ立てるような巨木の振動と、声なき威嚇の声が轟いだ。