170.怒り
「まあ落ち着け」
レイン誘拐の一報を聞きつけて広場にやってきたネフィートトは、無駄に右往左往している子供や、深刻な顔で噂話をしている女たちに呼びかける。
動物の頭蓋骨を頭にかぶるだの骨の付いた杖をついているだの、見た目はかなり怪しいが、白蛇族の集落では馴染みの姿である。
薬師としても祈祷師としても頼りになるし、集落一番の長老だけに発言力も高い。
今代の族長であるアーレも、強い信頼を寄せている人物だ。
「レインを誘拐した戦士どもは、錆鷹族と名乗りを上げた。見た特徴もわしが知っている部族と合致する。
まず、レインの命が目的ではないことは確かじゃ。危害を加えることもなかろう。その点は安心していいわい」
ネフィートトの威厳を感じさせる物言いに、広場に集まった者たちは少しだけ落ち着いた。
族長の家に「腹が減った」と言いに行けば、必ず何かを作ってくれる優しい族長の婿レインは、子供たちに慕われている。
特に今の時期は、牛の骨にこびりついた肉が美味い。焼いてから食べやすいように削ぎ落して食わせてくれるのだが、これが皆大好きだった。
突然の誘拐劇に泣きそうな顔をしている子供たちは、少しばかり安心したようだ。
同じく、女たちも肩の力が抜ける。
女仕事を舐めず、尊重する姿勢を崩さないレインを慕う女たちは多かった。
手伝いを頼んでも嫌な顔一つしないし、むしろ気遣いさえしてくる。
最初こそ、戦士と比べて軟弱に感じていた女もいるが、家事に慣れれば慣れるほど、レインへの評価は高くなっていくのである。
あの男が普段やっていることは、なかなかすごいのである。
地味でわかりづらいだけに、理解が深まると評価せざるを得ないほどに。
「錆鷹族は、南の地の霊峰セセ・ラを縄張りに持つ部族じゃ。戦好きというわけではないから、少なくともケンカを売る意志はなかろう。場所もだいぶ離れておるしの」
普通は、戦争をするなら隣にある部族から始めるものだ。
しかしそうではないので、戦が目当てではないだろう。
「戦士たちは呼びに行かせたな? ならばじき帰ってくるじゃろう。対策はわしと族長で考えるから、皆は生活に戻ってくれ」
とは言われたものの、広場から離れる者はいなかった。
皆、レインの身を案じているのだ。
――集落に来てまだたった一年しか経っていないのに随分認められたものだ、とネフィートトは薄く笑みを浮かべた。
それからすぐに、集落の近くにいた戦士たちから続々と戻ってきた。
集落の女や子供たちから事件を聞き、憤慨したり悪態を吐いたり「戦だ!」と叫ぶ者がいたり。
この時期の戦士たちは、皆血の気が多い。
ましてや今日は、狩りの途中で呼び戻された形だ。
まだ今日の分の体力が有り余っているのだろう。
「婆様」
もうすぐアーレも帰りそうだ、というその前に、レインの家族がやってきた。
ナナカナである。
元戦士の女たちと、集落の外の森に魔骨鶏の卵を拾いに行っていたのだ。異変を知らされ帰ってきたところである。
ちなみにケイラは、女たちの中に混じって噂話に参加している。気が合う友達ができたのだ。
「ちょっと聞いたんだけど、レインが誘拐されたって?」
「うむ。おまえはどう見る?」
「秋に返すって言って連れてったんでしょ? だったら返すと思うよ」
まず部族の名を示すのは、部族間の礼儀だ。
誘拐したとは言えど、それを踏まえたのであれば、礼を失しているわけではないし、まだ約束を違えたわけでもない。
レインが無事である保証は、その踏まえた礼儀そのものだ。
よほどの恥知らずじゃなければ、レインに害を与えることはないだろう。
――どこの部族も守るような、その辺の最低限の約束事を破れば、当然ほかの部族も警戒し嫌悪する。交流しても裏切られると思う。なんならいっそ潰してしまおうと働きかけることもある。
そしてレインの性格からして、無用に相手を怒らせるようなことはしないだろう。
単純な戦士と違って、すぐに頭に血が上って後先考えず行動することも、きっとない。
「こうなってくると、むしろレインより……」
「そうじゃな。問題はアーレじゃな」
軽率なことをしおって馬鹿者どもが、とネフィートトは毒づき、ナナカナはまったくだと頷いた。
アーレにどう伝えようか、とひそひそ相談するネフィートトとナナカナだが、結論が出る前に結論が出てしまった。
「いるか婆様! レインが攫われたとはどういうことだ!」
どうやらアーレに報せるために走った者が、包み隠すことなく伝えてしまったらしい。
怒鳴り声とともに広場にやってきた戦士の一団……の先頭に、アーレはいた。
「おうアーレ! こっちじゃ!」
婆様が杖を上げると、アーレはその辺にいた者たちが割れる中をまっすぐにやってきた。
「どういうことだ!」
予想通りの怒りっぷりである。金色の瞳がギラギラ輝いている。
「族長。落ち着いて。大丈夫だから」
「大丈夫なわけあるか!」
普段なら、ナナカナの声はとりあえず聞くアーレが、聞く耳を持たなかった。
「我の番が連れ去られたのだぞ!? 戦を仕掛けられたも同然だ!」
それは……確かにその通りだ。
族長の番は、族長不在の時は代理の務めを果たす、集落の大事な代表である。
顔であると言ってもいい。
そんな族長の番が攫われたとなれば――それは白蛇族を舐めていることに他ならない。
つまり、ケンカを売られているということだ。
「戦の支度をしろ!」
「「うぉおおおおおおおおぉぉぉっぉ!!」」
「待て待て待て! 待たんか!!」
ネフィートトは開戦準備をしようとするアーレを止める。吠えたてる戦士たちに「おまえたちも落ち着け!」と怒鳴る。
「待てげっほ! ごほっ! 待てぇ!」
急に大声を出したのでむせた。
戦で死ぬのは戦士ばかりではない。
更には、今回は相手の集落が遠すぎる。長期間の戦士不在は、それこそ集落の存亡に関わる。
「おまえは族長じゃろうが! レインが大切なのはわかるが集落のことも考えろ!」
「考えているだろうが! 戦士が不在の間に人を攫うような部族、生かしておく理由があるか!? 次は誰だ!? 婆様か!? ナナカナか!? 我の子か!? 誰の子だ!? 攫われてからでは遅いではないか!」
それも……間違ってはいない。
そう、攫われてからでは全てが遅い。
「害虫など害が広がる前に皆殺しにすればいいのだ! ――戦の準備だ!」
「「うおおぉおぉぉぉぉぉぉ!!!」」
「だから待てと言うとるんじゃぁ!! ごほごほごほごほごほっ!」
――その後、アーレが落ち着くまで八回ほどこの流れが繰り返された。
「喉が痛い……」
いつになく大声を上げ続けたネフィートトの喉が枯れた。
「くそっ! ……くそっ!!」
これでも落ち着いた方であるアーレは、強引に家に連れ帰るなり、足も拭かずに上がり込んで浴びるように酒を呑んでいる。
「「はあ……」」
アーレを抑え込んで連れてきたカラカロとジータは慰労困憊である。なおタタララは、広場の戦士たちを宥めてから合流すると今は別行動だ。
ケイラは台所で所在なさげに立っているし、サジライトは家の中の異様な空気を嫌い外へ飛び出していった。
――私も逃げたいな、とナナカナは思った。
だが、それはきっと許されない。
というより、この場をどうにかするのは自分の仕事なのだろうと思っている。
有事の助言はナナカナの仕事だ。
それが認められているから、アーレはナナカナを子供扱いしないのだ。
…………
それにしても、このギスギスした空気でものんびり寝ていられる赤子の肝の据わり方である。
伊達にあのアーレとあのレインの子ではないと、ちらりと思いつつ。
「族長」
ナナカナは静かに言葉を発した。
「どうせ今は難しいことは頭に入らないと思うから、三つだけ覚えて」
「……なんだ」
殺気走った視線を向けられるが、ナナカナは平然と受け止める。
「一つ目は、レインを確保するまで錆鷹族は殺しちゃダメ。
二つ目は、もし一人でも殺したなら皆殺しにしてきて。遺恨を残さないように。女も子供もちゃんと殺してきて。それをやるだけの理由はあるんだから構わないよ」
「…………」
ナナカナはとんでもないことを言っている。
一つの部族を潰すことを勧めるようなことを言っている。
しかしアーレもまた、顔色一つ変えずその話を聞いていた。
「三つ目は――レインを取り返すなら、一人で行ってきて」
アーレは微動だにしないが、話を聞いているカラカロ、ジータ、ケイラは驚いていた。
「どうせレインのことが気になって、何事もなかったように狩りを続けるなんてできないでしょ? だからどうしても今すぐ取り戻したいなら、族長が一人で行って取り返してきて。
戦士たちは戦の季節だから動かせないけど、族長一人の不在ならなんとでもなるから」
こういう形でレインがいなくなってしまったのでは、アーレはレインの安否が気になってまともな生活はできないだろう。
ならばいっそ、一人で行かせればいいのだ。
――今のアーレは、白蛇族ではきっと持て余す。邪魔にしかならない。害にしかならない。正常な判断なんて絶対にできない。最悪仲間を殺す。
それならもう、集落に残さず世に送り出した方が、まだ被害が小さく済むだろう。
どうせ一番被害を受けるのは、報いを受けるべき錆鷹族になるのだから。
アーレは強い。
もし戦力差で押されても、夜襲でも不意打ちでもなんでもして、どうとでも戦い抜くだろう。
そう簡単には死なない。
現地に着く頃にはもう少し頭も冷えているはずだ。無理だと思えば引くだろうし、現地で交渉から入ったりするかもしれない。
それに――
「いいのか? 我は行ってもいいのか?」
「いいよ。族長代理ならカラカロもジータも婆様もタタララもいるから、しばらくは大丈夫だよ。
いい? レインを確保するまで殺しはダメ。ひとまずそれだけ守ればいいからね」
それに――ナナカナもちゃんと怒っている。
もしレインを不当に扱っているなら、本当に皆殺しにしていいと思っている。
だが、もしレインを礼節を持って大切に扱っているなら、きっと現地でレインがアーレを止める。
報いを受けるか、それとも生かされるか。
どちらに転ぶかは錆鷹族次第だ。