139.その頃のカービン家 前編
「とりあえず殴らせろ」
春。
貴族学校を卒業し、その足で卒業旅行ならぬ修行の旅に出たフレートゲルト・カービンは、家に帰った夜に、父の私室を訪ねていた。
そういう約束だったからだ。
ちなみに、一緒に報告に付き合うと言っていた長兄オズマイズは、残念ながら彼の仕事の都合で不在である。
フレートゲルトは語った。
数日ほど旅に出ていた間に己がしたこと……いや、これまでの一部始終を。
いつの間にか自分を中心に動いていた計画を、隠し立てすることなく報告した。
要約すると――第四王子レインティエの後を追って、ずっと一緒だった専属メイドを、霊海の森の向こうへ送り出したことの報告だ。
そして、話の全てを聞いた父フィリックは、言った。
殴らせろ、と。
「――後は私に任せろ。この話、おまえは絶対に誰にも話すな。墓まで持っていけ。いいな?」
フィリックの鉄拳を食らってよろめいた……久しぶりにまともに殴られたフレートゲルトは、切れた唇から伝う血を拭いながら「わかりました」と答えて、部屋を辞した。
父が動くなら、大丈夫だ。
後始末も何もかも、綺麗に片付けてくれるだろう。
こうして、消えたメイド――ケイラ・マートの事件は闇に葬られたのだった。
――それから、一ヵ月後のことである。
ある日の夕刻。
夕食の前の少し空いた時間、庭に出したテーブルで、夕陽を眺めながら紅茶を楽しむ男女がいた。
そして、そこに近づく大柄な男が一人。
「――邪魔をしてすまない、ジャック兄」
訓練を終えて帰ってきた、フレートゲルトである。
「おう、おかえり」
「ごきげんよう、フレートゲルト様」
テーブルでにこやかに答えたのは、ジャクロン・カービンとカリア・ルービーだ。どちらも美形で、とても絵になるカップルである。
次兄ジャクロンは、カービン家の三兄弟の中で唯一の母親似である。
いや、身体こそ父親に似て大きいがどこか骨格は細く、母親からは甘いマスクを受け継ぐという、両親からいいところだけを継いでいた。
フレートゲルトも、長兄オズマイズも、嫌になるほど父親似である。
母親の要素はどこにいったのかと言いたくなるほどの父親似である。
一昔……いや二昔ほど前なら、とても男前で男らしく無骨な武人として、すこぶる人気があっただろう。
しかし今の時世、筋骨隆々で生命力あふれる男らしさより、あっさりしていてうっとりしてしまう美貌が求められている。
太ましく逞しいキリッとした眉やもみあげなど全然人気がない。
シュッとしていて眉も細く整っている方が令嬢受けが良いのである。胸板の厚みなどよりスマートさがもてはやされるのである。
――だが、フレートゲルトは知っている。
顔がいいのもそれはそれで大変なのだ、と。かつては恋人、今は婚約者であるカリア嬢を見ていればよくわかる。
モテるというのも苦労はあるのだ、と。
それでも生涯一度くらいは嫌になるほどモテてみたいと思うのは、男の性ではあるが。
貴族学校を卒業し、新人騎士として日々訓練に追われるフレートゲルトは、次兄の下へとやってきた。
ようやく互いの時間の都合がついたのだ。
新人騎士であるフレートゲルトは毎日訓練に忙しく、一つ上の兄ジャクロン・カービンも騎士であり、よく遠征に出ている。
そんな二人は、本当に久しぶりに顔を合わせた。
「義姉上もできれば聞いてほしい。ちょっと相談したいことがあるんだが……時間を貰ってもいいだろうか?」
「相談? 俺にか?」
ジャクロンは、珍しく……いや、よくよく思い返せば、人生で初めて弟に相談を持ち掛けられたことに気づく。
長兄オズマイズがしっかりしていて頼りになるので、フレートゲルトはおろかジャクロンも、相談するなら兄にする方である。
なのに、今回弟は長兄ではなく次兄に相談したいと言う。
「……相談ねぇ?」
カリア・ルービーはにこやかに、しかし声のトーンが少し沈んだ。
まるで沈みゆく夕陽のように暗く落ちた。
まずい、とジャクロンは思った。
ただでさえ騎士の仕事柄、二人はあまり会えないのだ。
今日この時だって、久しぶりの二人きりの時間だ。
それなのに、二人きりの時間を邪魔すると言われて、カリアは間違いなくイラついている。
そう、挨拶をする程度ならまだいいが、それ以上は嫌だと思っている。
――貴族学校時代、女性に大人気だったジャクロンを射止めたカリアは、苛烈かつ熾烈な女の戦いを経て、彼の隣の座を勝ち取ったのである。
権謀術数はお手の物だし、少々病み……いや、情が深すぎるところがあり、正直に言って怒らせたら相当怖い。目に見えて怒っているように見えないところからして怖い。知らない間に怒らせていて色々と怖い思いをしたことも多々ある。
見た目は大人しそうな深窓の令嬢でしかないが、実際は……いや、それはもういいのだが。
「おいフレ、そういうのはオズ兄にしろよ」
カリアの不機嫌に気づけ、と願いながらジャクロンは言うが。
「いや、ジャック兄の方が適任だと思うんだ。できればカリア義姉上にもしたいんだが……」
「わたくしにも? へえ?」
カリアの不機嫌が更に深まる。
だが、しかし。
フレートゲルトの予想だにしなかった相談事に、二人の……特にカリアの不機嫌は興味へと変じる。
「――好きな女ができた、かもしれない。だがちょっと問題があって、どうしていいかわからないんだ……」
あれから一ヵ月。
ケイラ・マートを霊海の森の向こうへ送って、一ヵ月。
その間、フレートゲルトの胸の中には、あの時会った蛮族の女性がずっと住んでいる。




