132.鉄蜘蛛族の集落で 最後の夜に
鉄蜘蛛族の加護が復活した、二日後。
昨日は、何の予定もない一日を、やや二日酔いでじっくりとだらだら寝て過ごした。
呆れるほど暇を持て余しているのに何もしない時間を過ごせたのは、こちらにやってきてから、初めてのことだ。
とても贅沢な一日だった。
家の外では、新しい神の使いの誕生を讃える声と、祭りの準備で喧騒が広がっていた。
そんなものなど一目さえ見ることもなく、家に閉じこもって昼間から迎え酒をして、本当に無意味な一日を過ごした。
いや、無意味ではないのか。
単純に、私がしっかり休めたのだから。
何も心配することのない一日とは、とてもいいものである。
――そして、今日である。
今日は、新しい神の使いを迎える祝いの祭りである。
私たち外様の宴席でもあるので、族長ハールの指示の下、鉄蜘蛛族に充分に持て成された。
「今度の代替わりでは、死者が出なかった」
そんなハールの挨拶から、祭りが始まった。
まあ集落が違えど特別なことをするわけでもなく。
酒とご馳走が用意されて、太鼓を始めとした見たことのない打楽器が打ち鳴らされ、聞いたことのない音楽に合わせて踊る。
だいたいはそんな感じらしい。
ただ、ちょっと困ったことがあった。
「――ああ、すまないな。私は嫁がいるから」
六名ほどの鉄蜘蛛族の女性に、「婿に来てくれ」と言われたことだ。
最初はびっくりした。
声を掛けられて何事かと見れば、その場で、私の目の前で、黒い糸を出して瞬時に編み上げ、蜘蛛の巣状の網を作ってそれを頭から被る。
そして、かぶった網越しに言うのだ。
「嫁にしてくれ」と。
「そのなまめかしい指が素敵」と。
どうやら、どれだけ早く巣を編めるか、形がいいか大きいか、そういうので求婚のアピールにする文化があるらしい。
まあ糸は彼らにとって生活の一部なので、蜘蛛の巣がすぐに編めるっていうのは、「家事が得意です」みたいな主張になるのかもしれない。
四人は嫁がいる、新婚だと告げたら諦めたが、二人ほど「諦めきれない」「二人目でもいいから」とすがってきた。
まあ、「私の嫁はアーレだけど」と言ったら、さっと引いたが。
それこそ蜘蛛の子を散らすように。
どうやら私が考えていた以上に、アーレは強い女性戦士として、この辺では有名だったらしい。
あと、鉄蜘蛛族の美的感覚では、黒いままの私の左薬指と小指は、なんだか魅惑的かつ蠱惑的に見えてしまうらしい。
これも文化の違いである。
こういうのはなかなか面白くて興味深い。……他人事だったら。
元気になった子供たちに誘われ、踊りに出たり。
老人たちに捕まって酒を呑めと勧められたり。
女性たちに呼ばれて料理のことを聞かれたり。
患者としてしか接していなかった人たちが、今日は元気な人として接してくる。
その光景に、とても安心した。
――もう、「明日起きたら誰かが死んでいるかもしれない」……なんて、そんな心配はしなくていいんだ。
「レイン大変だ!」
お? え?
夕方になり祭りが落ち着いてきた頃。
後片付けを手伝っていた私の下に、ものすごい勢いでタタララが迫ってきた。
「カラカロとケイラが消えた! あいつらどこかで二人きりになってるぞ!」
あ、はい。
どうやらカラカロは、タタララのマークを振り切ることに成功したらしい。
ケイラは気づいていないと思うが、優れた戦士であるカラカロなら、タタララがひっそりと付け回していることを察知していてもおかしくない。
「どこにいる!?」
「いや、私は知らないが。祭りの間も見てない」
なんか戦士同士で呑み合ったり殴り合ったり踊り合ったりしていたカラカロの姿は見たが、彼女が今求める情報はそういうものじゃないだろう。
そもそもそれは昼頃の話だしな。今は夕方だ。
「くっ……これじゃなんのために一緒に来たのかわからんっ!」
代替わりの手伝いだろ。……タタララとカラカロは違うか。いや、シキララもか。彼女ははキノコ目当てだし。
こうして考えると……うちの戦士は本当に……
「赤目樹の木の下じゃない?」
え?
タタララの嘆きを聞くでもなく聞いて、横から口を出して来たのは、ハールの嫁リージだった。
「赤目樹?」
「森の中に赤い樹皮を持った大きな木があってね。その木の下で番になる約束をすると、一生一緒に暮らせるとかいう伝承があるんだ」
若い子はこういうの好きなんだよね、と。リージは笑いながら言った。
「それだ!!」
うん、それっぽいな。
「場所はどこだ!?」
「行ったら邪魔になるだろ。やめた方がいいんじゃないか?」
「嫌だ!」
そんなきっぱり断るとは思わなかった。いや、タタララだから意外でもないか。
リージが「あっち」と指を差すと、タタララは来た時の勢いより速く走っていった。……なんかあそこまで真剣だと、止めるのも野暮に思えてくるな。
「――あ、間違えちゃった。逆だったわ」
さすが族長の嫁である。
色恋沙汰の邪魔や覗きなんて野暮は許さないか。
鉄蜘蛛族の集落で過ごす夜は、今日で終わりである。
ハールには、翌朝早くに発つことを伝えてある。
祭りの際にわかったが、どうやら私の顔が売れすぎたようだ。医者代わりとして鉄蜘蛛族の民たちに満遍なく関わってしまったから、とにかく顔見知りが多くなってしまった。
この状態では、見送りも大袈裟になりそうだし、何より引き留められる可能性がある。
人数が人数だけに、止められると本気で集落から出て行けない可能性が出てくる。
そんな大袈裟かもしれない心配もあり、人目に付かないようこっそり出よう、という話になっている。
そんな、祭りが終わった最後の夜。
「――よっ、来たな」
私が指を失ったあの夜、黒い繭が安置されていたあの家にやってくると、すでに黒龍族のトートンリートがいた。
というか酒壷を持ち込んで、呑んでいた。
「待たせたかな?」
この分だと、結構待たせていたかもしれないが。
「眠くなる前に来てくれたから気にしなくていいよ」
そうか。
相変わらず香の匂いが染みついているが……まあ、ここ以外に相応しい場所なんて、きっとないからな。
「――オロダ様、お待たせしました」
まるで置物のように身動きせず、トートンリートの前にいた手のひら大の蜘蛛に挨拶する。
――しばし待て。
――汝の力を返す。
あの夜。
私が指を失い、代わりをくれたオロダ様は、そう告げた。