130.鉄蜘蛛族の集落で 祭りの後 後編
本当に一瞬の出来事だった。
「あっ切られる!」と心が身構える前に、トートンリートは私の左手に刃を当てて、スッと引いた。
切られてから切られたと認識し、それからはそんなことは気にならなくなった。
痛い。
予想はしていたが、予想よりはるかに痛い。
身動きさえとれない激痛に、しばらく痛みを堪える。
脈動に呼応して背筋にまで走る痛みは、これまでに経験がないものだ。
これで多少の麻酔効果が効いているというのだから、信じられない話だ。
「……もう、いい。大丈夫だ」
癒しの力も効いている。
やはり血はあまり出ていないし、切ったあとトートンリートが強めに私の左手首を掴んでいることもあり、出血自体はすぐに止まった。
「言っとくけど、好きでやったわけじゃないからね」
いつも明るい彼女が、脂汗を流している私に沈痛な面持ちで言った。
「わかっ、てる。面倒なこと頼んで、すまない」
でも。
でもだ。
「なぜ急に切った? 私がいいよって言うまで普通待たないか?」
「こういうの、ためらうと長いからさ。決めたんならすぐやった方がいいんだよ。あたしも眠いし」
眠いし。
そうか。彼女は眠いから私の決心を待たなかったのか。
……まあ、いい。
確かにちょっと、いざとなると心の準備に時間が掛かっていたと思うから。
決めたんだから、これでよかったのだろう。
…………
本当によかったのかどうかは、これから次第か。
葉の上に転がる、見慣れた……でも私の物ではなくなった私の指。
「私の代わりに捧げてくれるか?」
慣れたというか、少し落ち着いてきたが、相変わらず手は痛い。動かせる状態にない。
「いいよ」
トートンリートは、敷いていた葉と滴る鮮血をそのままに、両手で救い上げるようにして私のだった指を、黒い繭に向けて掲げる。
横顔を見て、はっとした。
穏やかな表情で繭を見上げる彼女から、フロンサードで見掛けた神に祈るシスターの姿を思い出してしまったから。
格好も性格も、およそ神の僕とは思えない彼女だが……
いや、本当は彼女だけではなく。
こちら側の人の根底にあるそれは、それこそ敬虔なる神の僕と言えるのかもしれない。
あの繭は神の使い、だもんな。
身近すぎてあまり考えたことがなかったが……そうだよな。皆何かの神の信徒とも言えるんだよな。
在り方や姿形が違うだけで、もしかしたら精神面においては似ているか、あるいは同じなのかもしれない。
「――神の使いよ、注文したブツだよ。血の一滴まで無駄にしないで納めて」
砕けた言葉で生贄を捧げる彼女の声に応え、繭が動き出した。
いや、繭が動いたというよりは、繭を構成する何本もの黒い糸がゆっくりと伸びてきた。
それらは私のものだった指を絡め取り、床板に落ちた血まで拭って――繭の中に運ばれていった。
そして――繭が割れた。
「お、おぉ……お?」
繭が割れた。
なんかすごい演出でもあるかと思ったが、そんなことはなく。
割れた繭の隙間から、何気なく、小さな黒い蜘蛛が飛び出して来た。
ほんと、ただそれだけだった。
私とトートンリートの目の前に着地した蜘蛛は、赤い目を光らせてこちらを見ている、気がする。
「だ、代替わりできたのか?」
この蜘蛛が神の使いか? 代替わりしたオロダ様の次代なのか?
「そうだよ」
事も無げにトートンリートは頷いた。
「少しずつ、この集落に力が満ちて行ってるから。朝になる頃にはいつも通りになるんじゃないかな」
そ、そうか。
そうか……じゃあ、無事に代替わりはできたんだな。
「よかった……」
指を捧げた甲斐はあったか。
「――ん? あ、はい。はいはい。あーそう」
ん?
急にトートンリートが独り言を……いや、神の使いから何か言われたのか。
「レインに伝言だってさ。ちなみにこれ、オロダ様だからね」
「え、オロダ様?」
あの大きな蜘蛛が、こうなったのか?
「別の存在じゃなくて?」
「よそは知らないけど、オロダ様の場合はね。古い身体を新しく作り変える必要があったみたい」
「それが代替わり?」
「どうなんだろうね。記憶を継いでいる別の方かもしれないし、魂を継いでいる別の方かもしれないし。あるいは肉体だけ新しいものに変えた同じ方かもしれないし。
神の使いのやることは、神の代行だからね。あたしにも正確なことはわかんないよ」
……そうか。はっきりしないのか。
「それより伝言ね。まず、左手を出せってさ」
「え?」
正直まだまだすごく痛いのに。まだ何かするのか?
「『足になるはずだった自分の一部を与える』だってさ」
「え?」
何? どういうこと?
言葉の意味がさっぱりわからない私に、トートンリートは笑いながら言った。
「よかったね。指戻してくれるってさ」
「えっ!? そういう意味!?」
「よく見ろよ。オロダ様の左の前足の爪先。そこだけ白いでしょ?」
え? ……あ、ああ。手のひらサイズだし部屋は暗いし目が光っているからよく見えなかったが、黒い蜘蛛の爪先だけが白い。
「あそこがまだできていなかったけど、おまえの指で代用したんだよ」
そんなことできるのか……いや、私の指はある意味ちょっと特別だからな。そういうこともできるんだろう。
「で、その足になるはずだった部分を、おまえにやるってさ。もういいから大人しく手を出したらいいよ。痛いでしょ?」
あ、そうだな。
戸惑うばかりだし理屈も気になるが、治療するにしろ何にしろ、このままってわけにはいかないからな。
……本当に指が返ってくるなら、嬉しいし。
「では……お願いします」
小さくなったオロダ様に、ぽたぽたと血が滴る左手を差し出す。
と……あの方の口から、大量の糸が飛んできて、私の左手を覆うように絡みつく。
見た目かなり怖い……というか捕食されているような感さえあるんだが、特に痛いことはない。
なんか、左手の中に糸が入り込んでいく異物感というか、そういう感覚もあるんだが……不思議と痛くはない。
いや、むしろ、痛みが引いていく。
そして糸がほどけていく。
「……戻った」
まさに神の御業というものだろうか。
ついさっきまで私の左手にあり、失ったはずの薬指と小指が、またそこにあった。
感覚もあるし、触覚もある。
以前の自前の指と、使い勝手は変わらない。
ただ。
なんか。
……なんか黒いんだが。糸の色がそのままって感じで。