129.鉄蜘蛛族の集落で 祭りの後 中編
その家に近づくだけで、きつい香の匂いがした。
祈祷の際に焚く香だ。
香を消しても残り続けるこの匂いだけでも、この集落の祈祷師がどれだけ必死で祈り続けてきたのかよくわかる。
代替わりが始まってから、皆が戦ってきたのだ。
役に立つとか立たないとかではなく、自分にできることを精一杯やってきたのだ。
……祈祷師も倒れたんだよな。一昨日の朝だったかな。
本当は早い段階で病に罹っていたそうだが、この家にこもって誰にも会わないようにしながら祈祷を続けたそうだ。
おかげで発見が遅れた上に、治療もできなかった。今は高熱で昏睡状態だ。
梯子を上り、家のドアを開ける。
暗がりに輝く百合の花に照らされ、台座の上に据えられた黒光りする繭がすぐに目に入った。
灰の溜まった動物の頭蓋骨を使用した香皿と、光る花。
そして繭。
ここにあるものは、それくらいである。
家の中に踏み込みドアを閉め、繭の前に座る。
目線より少し上。
なんとなく、玉座に臨む一兵士のようだと思った。
「……そろそろ代替わりしてくれませんか?」
そう声を掛けてみるが、反応はない。
祭りのせいで……いや、祭りがなくても同じだったと思う。
そろそろ本当に危険な状態の者が、何人かいる。
年寄りと子供だ。
代替わりの初期に倒れて、いよいよ体力が尽きようとしているのだ。
差別する気はないが、子供が亡くなるには、さすがにまだ早いだろうと思う。
自分に子供ができたからだろうか、より強くそう思う。
どうしてもハクとレアの姿が重なってしまうのだ。
「…!」
じっと見つめていると――また意思が伝わってきた。
やはり私を呼んだのは、この方だったようだ。
だが、今度の意思は、なんだかよくわからない。
元々が言葉ではなく、漠然としたイメージなのだ。
「来い」だの「行け」だの、その辺の短い指示みたいなものならすぐにわかるが、今伝わってきたものはどうにも掴みづらい。
もやもやとした、霧のような掴みどころのないそれを、なんとか解釈する。
……ふむ。
「間違いないですか?」
確認すると、肯定の意思が伝わってくる。
…………
そうか。
この解釈で間違いないのか。
旧時代においては、現代は信じられない……とまでは言わないが、割とありふれた文化だったとは聞いている。
今で言えば、いわゆる悪魔召喚みたいなものか。
およそ邪教のやり方になると思うが……残念ながら、どこかでは今もその文化は伝わっているのではなかろうか。
もちろんそれ以外の意味でもだ。
そもそも祭りもそれらに近い儀式の一つだ。
大狩猟の時には、同じように、神の使いに獲物の心臓を捧げていたではないか。
形や名称は違うと思うが、今もこの地に、そして向こうでも残っているはずだ。
――そもそもこの話は、私にだけは、理解できる話だ。
両手を広げ、手を見詰める。
……指を二本、か。
……痛いだろうなぁ。
……でも、それで代替わりが数日早くなるのであれば、私は……
「わかりました。少々お待ちを」
私は覚悟を決めて、膝を叩いて立ち上がる。
カラカロに頼もう。
「――よっ。さっき呼ばれたでしょ?」
家を出て梯子を降りようとしたところで、梯子すぐ下にいた者に声を掛けられた。
「トートンリート……」
見上げているのは、黒髪に赤い瞳の女性だ。
毎朝のように会っているので、夜の暗がりでも見間違えることはない。この距離だし。
ついさっき、ほかの戦士たちと一緒になって酔って寝ていたはずだが……
「もしかしてあなたにも聞こえたのか?」
「うん。だから起きた。――よっと」
三段飛ばしくらいで、あっという間に梯子を上ってきた彼女は、私のすぐ隣に立ってまっすぐに見詰めてくる。
「ついでに言うと、どんな話をしていたのかも聞こえてた。まあ聞こえてたっていうか、あたしにも伝えていたのかもしれないね」
……そう、か。
「あたしがやってやるよ。一瞬で終わらせる。――たぶんあたしはそのために呼ばれたんだろうからさ」
そうだな。
たぶんそうなんだろうな。
戦士として優秀な彼女なら、失敗する心配もないしな。
「なら頼むよ」
「うん」
「痛くしないでね?」
「ははっ、それは無理でしょ。指を切り落とすんだから痛いに決まってるじゃん」
……だよねぇ。
家に戻り、懐紙代わりに持ち歩いている葉を広げる。
血は、たぶんそこまで飛び散らないと思うけど、……まあすぐに拭けば大丈夫だろう。
それに、これだけ香の匂いも強く残っているし、血の臭いなんて大して気にならないだろう。
「左手の小指と薬指を」
「うん」
「これで頼む」
「うん。……お、これすごいやつだね」
結婚の儀式でアーレと交換した包丁を渡す。
常に肌身離さず持っているものだ。
私にとっては何よりも大切で、お守り代わりでもあるものだ。
普段食べ物を切るために使っているものだから、少し抵抗はあるが……
しかし、アーレの関わらない物でこの身を刻まれるのは、アーレに対して義理が立たないような気がしてしまった。
後で綺麗に洗って煮沸消毒もするから、勘弁してほしい。
……まさかこの包丁で、自分の指を落とす機会が来るとは思わなかったが。
「この感じ、災刃竜の角っぽいな……」
ラエ?
「大事なものでしょ?」
「ああ。番の儀式で嫁と交換した」
「あ、なるほど。――大事にされてるねぇ、レイン。これ相当貴重だよ? 簡単には手に入らないやつだよ」
そうなんだ。
でもその貴重な物で今から指を落とすんだけどね。
「早く済ませよう」
あんまりだらだら伸ばしていると、決心が揺らぎそうだ。
いくら麻酔効果も付加できる指でも、さすがに切り落とした時の痛みは、ちょっと想像もしたくない。
……痛いだろうなぁ。嫌だなぁ。
「手を出して。この二本でいいのね?」
「ああ。やってく――いっ!!!!」
本当に、一瞬だった。
身構える間もなく、床に置いた葉の上に手を置いた、と同時に、
私の左手の薬指と小指が、私の手から離れていた。
繭の意思を解釈すると、こうだ。
――汝の指を捧げよ。
――その力を取り込み、生まれ出ずる糧とする。
――二本だ。
――それで今にも加護を取り戻さん。
要するに、生贄を捧げろということだ。
指二本。
聖女の力を宿した、私の指を二本だ。
意味がわからないはずがない。
むしろ、私の指だから欲しているのだ。
無意味な血でも命でもなく、己の力になる物をよこせと言っているのだ。
ならば――迷うことなど、なかった。
ずっと看病をしてきた者たちが……子供たちが指二本で救えるなら。
迷うはずがなかった。