111.二年目の始まりは、不吉な話から
温かくなった。
日差しも強くなってきた。
青空の下、畑を耕していた私は汗にまみれ、とっくに冬の気配が去ったことを実感していた。
春。
私が白蛇族の集落にやってきて、一年が経った。
そして、一年前と同じように、白蛇族は活動を開始した。
アーレは戦士として復帰し、狩りに出た。
族長としてほかの者たちに命令を出し、戦士総出で縄張りを回って、狩場に変化がないか確認しているそうだ。
集落の女性たちも、動けない冬の間に溜まっていた家事をすっかりこなし、働き者の姿を見せている。
一見、変化らしい変化はないかもしれないが。
しかし一年前とはまったく違う、新しい一年が始まった。
「――レイン様、どうですか?」
一休みしながら集落を見ていた私の下に、川で水仕事をこなしてきたケイラがやってきた。
「畑はできた。ただ何分初めてだし、手探りもいいところだな」
そもそも、向こうの穀物がこちらで無事育つのかどうか、という問題もある。
霊海の森を隔てただけで、あまりにもいろんなものが違いすぎるから。
…………
まあ、あまり心配はしていないが。
ここは加護神カカラーナ様と、神蛇カテナ様が住まう地。多少難があってもあの方々のお力で何とかしてくれそうだ。
あまり他力本願な上に神頼みはよくないと思うが、こればっかりは。
私たちにとっては切実なので、どうにかしていただけるとありがたい。
「だから、とりあえずこれくらいで様子見だ」
そもそも一人で面倒を見るにも、広すぎると限界があるからな。
元からの畑もあるし、家事もあるし。
子供もいるし。
ペットもいるし。
それに、アーレが狩りに出始めた以上、食料関係での仕事も増えるだろう。さばいたり保存したり加工したり。作りたい料理もあるし。
これ以上の規模となると、絶対に手が回らなくなるだろう。
――だから、小麦を育成する場所は、このくらいでいい。
想定する小麦の収穫量を考えるとかなり小規模だが、失敗する可能性もないわけではないので、まずは無事育つかどうかを確かめなければならない。
種は無駄にできない。
春小麦だから季節柄育つはずだが、そもそも秋小麦さえ育てたことがない私である。
とにかくやってみないと、どうにも勝手がわからないのだ。
そう、ケイラがこちらにやってくると決めた際、私は彼女に頼んでいた。
小麦の種を持ってきてくれ、と。
こちらにはまだ小麦がないから頼む、と。
小麦がない。
小麦がないと、パンが作れない。
他の料理にも使うし、とにかくほしい。
特にフロンサードでは主食であったパンがないのは、私やケイラにとっては大問題なのだ。
なんだかんだ、一年間は野菜と肉を主食とした食事で乗り切ったが、やはり考えることは一つだ。
食卓にパンが欲しいと。
何度も何度も思ったものだ。
「私もお手伝いしますよ」
小麦問題はケイラにとっても他人事ではない。
だが、そういうわけにもいかないのだ。
「ケイラは結婚して家を出るだろう?」
「えっ……」
彼女は動揺した。
使用人時代はなかなか見られなかった反応だ。
「君の力を当てにしすぎると、後が大変だ。こちらはいいから自分の結婚相手と、仕事を覚えることに専念してほしい」
「そんな、でも、結婚なんて急に言われても……」
集落に来て日が浅いので、確かに急かもしれないが。
「族長命令でもあるから、きっと避けられないぞ」
「それは、わかっていますけど……」
カラカロでいいんじゃない? カラカロにすれば? 毎日会いに来るし、毎日楽しそうに話しているじゃないか。カラカロにしときなよ。相性良さそうだし。今はほかに候補もいないし、優秀な戦士だから狩りもうまいし。食料たくさん獲ってくるし。カラカロは人気あるんだぞ。カラカロでよくないか?
――なんて言ってやりたくなるが、ここは我慢だ。
何しろケイラもカラカロも、私より年上の大人だからな。
故郷の王侯貴族の付き合いじゃあるまいし、本人たちで決めるだろう。私の言葉など余計なお節介にしかならない。
「あ、カラカロ」
「えっ!?」
ケイラは持っていた洗濯物を積んだざるを置き、ささっと乱れていない髪型を整えたり、服の乱れがないことを確認し、そして喜色満面で振り返る。なかなかの早業である。
「すまない。見間違えた――あ、ごめん……」
落差がすごい。
ちょっとからかうつもりだっただけなのに……笑顔で向こうをミタケイラが、まさか氷のような無表情で戻ってくるとは思わなかった。
「はい?」
「ほんとごめん……」
怖い。
使用人時代は見たことがない、十年一緒にいても見たことがない顔だ。ひどく冷徹で情の一切を感じない。なんの感慨も躊躇もなく人を刺せる人の顔だ。
母上が怒っていた時にそっくりだ。
カエルをけしかけた時にそっくりだ!
ここ数年忘れていた幼年期の思い出が蘇るっ……!
「レイン様はお城を出てからのびのびされているようですね」
「あ、おかげさまで」
「嫌味ですよ?」
そう言い捨てると、ケイラは行ってしまった。嫌味か。もちろん伝わっていたとも。
城を出てからのびのび、か。
たぶん当たっているんだろうな。
元々私はこういう者だったのだ。
ただ、王子だから自重していた部分がたくさんあっただけで。
そういう意味では、今の私は、解放されていると言わざるを得ない。
――性格的に、王侯貴族の生活は、窮屈だったのかもな。
たとえ玉座に遠い第四王子でも、さすがに畑仕事なんてさせてもらえないからな。
…………
ケイラのあの反応を見るに、答えはもう出ているようだな。
あとは早いか遅いかくらいか。
「――ルフル団の奴が来たよ! レインはいるかい!?」
本家の方に客が来たようだ。
ちょうど小麦の種を巻いたところで名を呼ばれ、私はそちらへと向かう。
族長不在の今は、族長の嫁改め入り婿の私が対応するべき案件だ。
「ありがとう――ようこそ 白蛇族の集落へ」
ここまで案内してきた女性に礼を言い帰すと、去年の秋に見掛けたルフル団の一人を歓迎する。
彼は先触れだ。
いつ本隊が到着するかを報せるために、先行してきたものだ。もちろんルフル団を迎える気がないなら、ここで断りを入れることになる。
まあ、断る理由はないが。
「おまえが族長の婿、でいいんだよな?」
「ああ。この前の秋に会ったよな? 外で肉とか野菜を用意して」
「そうか……じゃあアーレ族長に伝えろって言われた大事な話、おまえにしてもいいんだよな?」
……大事な話、か。
「そうだな。話していいよ。族長は夕方にしか帰ってこないから」
私の方で先に聞き、要点をアーレに伝える。
その形でいいだろう。
彼は本隊を置いてここまで先行してきただけに、かなり疲れているようだ。話を聞いてすぐに休ませた方がいいだろう。
ルフル団の者に少し待つように言い、家の中で何事かとこちらを見ていたナナカナとケイラに、子供たちを連れて少し外すように頼む。サジライトは……あ、どこかに遊びに行っているのかいないな。好都合だ。……まあペットくらいはいても構わないか。
人払いをし、客を通す。
挨拶もそこそこに、ほぼほぼ直球で「大事な話」とやらを聞かされた。
「……それは大変だ」
全てを聞き終えた私は、それしか言葉が出なかった。
鉄蜘蛛族に流行り病の兆候あり。
そんな不吉な話を聞かされて、私の二年目が始まった。