101.咄嗟に選んだのは
「あの、そろそろ休憩は……」
「必要ない」
「でも」
「黙っていろ。なんなら寝ていろ」
「は、はい……」
背負われたまま移動すること、ほぼ半日。
ただでさえ陽の光を遮るほど鬱蒼とした森の中が、更に暗くなっている。
にも拘わらず、白蛇族の四人はペースを落とすことなく、走り続けていた。
昼休憩が一回あっただけである。
それ以外は、ずっと走るか、前のタタララか後ろのジータがどこぞへと消えて近くの魔獣の相手をし、いつの間にか戻ってくるという早業を見せていた。
運動能力が非常に高い。
戦闘能力も恐ろしいものがある。
戦う術を学んだことがないケイラでさえ、何度も見せられれば、その強さの片鱗くらいは感じられる。
これなら、たった四人で霊海の森を越えられるはずである。
――ただ、ケイラはずっと気になっている。
自分を背負っているカラカロの心臓の鼓動が、ずっと早いのだ。
背負われ始めた当初から、ずっと、今この時も。
密着しているせいで、背中越しでも手に取るようにわかってしまう。
自分が重いせいで負荷が掛かり、血の巡りが早くなっているのかと思った。
だから時々、カラカロに休んだらどうかと言うのだが――彼は振り向くことさえせず、止まらない。
「まだまだ大丈夫だ」
言ったのは、後ろを走っているジータである。
「足腰がブレてねえし、できるだけ揺れないように気を遣う余裕もある。他はともかく身体は大丈夫だ。なあカラカロ」
「うるさい。黙って警戒していろ」
「真面目な話、夜通し行けそうか?」
「ああ。軽いからな」
軽い。
ならばどうしてずっと鼓動が早いのか。
――少なくとも、ケイラは裸の男と密着しているからだが。鼓動こそ落ち着いてきたが、ずっと緊張はしている状態である。
「皆様は疲れないのですか?」
カラカロはあまりおしゃべりじゃないようなので、首を捻ってジータに聞いてみる。
「多少はな。でも今走ってるのは野宿を考えてない危険な近道だ。だからもう少し行かないと休めねぇ。
まあ気にすんなよ。夜通し走れねぇと狩場まで行けねぇから、丸一日も走れねぇ戦士なんていねぇからよ。これくらいはまだまだ平気だ」
「そ、そうですか」
尋常じゃない体力である。
「ナナカナ様は大丈夫でしょうか?」
ナナカナは子供であり、武装もしていなかった。
恐らく戦士ではないはずだが。
「だな。一番心配なのはあいつだ。でもまあ、いざとなったらタタララか俺が背負うからよ。自分のことだけ考えてろよ」
確かに、ケイラには白蛇族の彼らを心配している余裕も余力もない。
ジータの言う通り、今は極力足手まといにならないよう、己のことだけ考えていた方がよさそうだ。
陽が暮れて、辺りは真っ暗になった。
夕食の休憩を取ることもなく、彼らは昼からずっと走り続けていた。
明かりもないのに見えているのか、迷いなく進んでいる。
「……」
ケイラは、カラカロの背から辺りを見て――人魂のようなものや人型のようなものや変な光や光る霧を見たり、魔獣らしき獣の咆哮や聞き覚えのない言葉のような囁き声を聞いたりして、震えが止まらなくなった。
噂通り、この森は普通じゃない。
ただただ危険な魔獣が住んでいるというだけじゃない、わけのわからない説明も難しい名状し難い脅威も存在しているようだ。
誰も越えられないという話も、嘘じゃないのだろう。
荒事なんて経験のないケイラには、ただただ恐ろしいばかりだった。
「何か見たか?」
ケイラの怯えは、接触しているカラカロには通じてしまう。
「怖いなら目を閉じていろ。俺が必ず無事にレインの下まで連れて行ってやる」
「は、はい……」
正直、何も見ないのも怖いのだが。
しかし今だけは、その方がいいと判断した。
ケイラは目を閉じた。
感じるのは、カラカロの背中の温かさと、まだ少し早い鼓動だけ――
木々の隙間から見える空が、少々白んできた頃。
湖の近くで足を止め、ようやく休憩に入った。
「少し休憩するから」
心配していたナナカナもあまり疲れてはいないようだ。
火を起こし、適当に食べて、魔獣などが近づいたら音がなる鳴子のような罠を仕掛けてから、外套に包まって寝る。
夜と朝の狭間のようなこの時間帯は、魔獣の動きが一番少ない時間になるそうだ。
この時間に休みを取り、昼前に起きてまた走る。
行程は順調で、このまま行けば今日の深夜から明日の早朝には、白蛇族
の集落に到着するそうだ。
戦士たちはすぐに食事を取り眠りについた。
ナナカナは、しばらく見張りをするからと火の番を買って出る。
ただただ背負われていただけのケイラも、緊張していたせいかひどく疲れていた。ナナカナに付き合おうかと言ったら「いいから休め」と言われた。
自分がするべきことは、できるだけ足手まといにならないこと。
そう言い聞かせて、持ってきた毛布を身体に巻いて仮眠を取った。
――そうして、昼前に活動を開始する。
「大丈夫ですか? 疲れてませんか?」
出発前、少し早めの昼食として、干し肉を口に詰めて酒で胃に流し込んでいるカラカロに声を掛けると、カラカロはふいと顔を背けた。
「軽いと言ったはずだ。疲れるほど重くない」
夜通し背負って走り続けたのに、疲れていないわけがない。仮眠は取ったがそれでも疲れは完全に抜けないだろう。
……が、それを言っても認めることはないだろう。
ただ、そうであっても、気遣いをしない理由にはならない。なぜなら己が一番迷惑を掛け、世話になっているのだから。
「ねえケイラ」
そんなカラカロになんと言えばいいのかと考えていると、ナナカナに呼ばれた。
「ケイラって、レインに会ったらどうしたいの?」
「どうしたい、ですか?」
さりげなくタタララとカラカロが聞き耳を立てる。ジータはあまり興味がないので武器の手入れをしている。
「うん。レインから多少は聞いてるんだけど、ケイラの口から聞きたいんだ。レインに会ってどうするの? どうしたいの?」
「……会ってからのことは、あまり考えていません。強いて言うなら、私はあの方が小さい頃から身の回りのお世話をしていました。その続きをしたいと思っています」
「続き? ということは、レインのお世話をしたいの?」
「はい。私の感情を言葉にするなら、子離れできない親、に近いと思います」
――去年の春に別れた時こそ、自分でも次の人生を考えようと思っていた。
とても名残り惜しいが、さすがに一緒に行ける場所ではないので、レインティエの傍にいることは諦めた。
しかし、なかったのだ。
思った以上に、自分の生きる理由が、見つからなかったのだ。
そして気づいた。
レインティエの身の回りの世話をし、成長を見守ることこそ、生きる理由になっていたのだったのだと。
それに気づいてから、無性にレインティエのことが心配になってしまった。
霊海の森の向こうへ婿入りするために旅立ったレインティエ。
果たして無事に到着できたのか。
婿入り先でどんな生活をしているのか。
不幸に見舞われていないか。
嫁は優しくしてくれるのか。
でもやはり、一番は到着できたかどうか……生死が定かじゃないことがもっとも気になっていた。
それを確かめる術がないので、心配で圧し潰されそうになっていた。
そんな状態が長く続いた冬のある日、レインティエから手紙が届いた。
無事であると。
予定通り結婚したと。
そんな本人からの手紙を読み――それまでの不安や心配が爆発してしまった。
これからもレインティエの生活を見守りたいと。世話をしたいと。
主を失った部屋を掃除するだけでは、もう気持ちに歯止めが効かなくなってしまった。
そして、今に至る。
――ということを簡潔に話してみた。
「親代わりかぁ……わからなくはないけど」
ナナカナは養子なので、ケイラの立場でいうなら、同じ位置にアーレがいる。アーレはあまりナナカナには構わないが、あれでちゃんと見ている。
「じゃあ、レインとアーレの仲を邪魔しないの?」
「本意ではありません。……いえ、あの方が夫になったのであれば、常にご自分の妻や家族を優先するべきでしょう。私の個人的な感情は別にして、家族ではありませんので」
「でもレインのことは好き?」
「大好きです。こうして生活を捨てて森の向こうへ追い駆けたいほどに」
「でもその好きは家族として?」
「はい」
「でもレインが男女の仲をケイラに望むと?」
「怒ると思います。私などでご自身の妻の気分を害すのは許されません」
「でも一緒にはいたいの?」
「はい。あの方の子供が産まれるのでしょう? 僭越ながら一目だけでもお目に掛かりたく思います」
「ちなみに私もレインの子供ってことになるんだけど、どう思う?」
「ナナカナ様はあの方のことが好きなのかな、というのは気になりますが」
「レインのこと? 私は大好きだよ。私が甘えられる相手って少ないけど、レインには甘えられるよ。受け止めてくれるって信じてるよ」
「それはよかった。あの方もあまりお変わりはないようですね」
「いや、変わったと思うよ」
「そうなんですか?」
「嫁のこと大好きになったからね。ケイラの知っているレインとはちょっと変わったと思うよ」
「そう、ですか……夫婦仲が良いのはいいことだと思いますが」
それはそれで少し寂しいですね、とは、口に出さなかった。
「――だってさ、カラカロ。よかったね」
「え?」
なぜここでカラカロに話を振るのか。
ケイラは思わずカラカロを見るが、彼は慌てて立ち上がった。
「――いつまでぐずぐず話している。そろそろ出発するぞ」
短い休憩は終わり、再び森を抜けるため走り出す。
予定通りだった。
白蛇族の集落に到着したのは、朝陽が昇り始めた早朝で。
「あれ?」
人が活動を始めるにはまだまだ早い時間だったのだが――人影があった。
奇しくも、一行が向かう先である。
まずは族長の家に帰還の挨拶をして、命令は終わりだ。今日くらいはゆっくり休んでも許されるだろう。
そんな、向かう先の族長の家。
ナナカナにとっては自分の家で、ケイラにとってはレインティエの家でもある。
「……!」
集落に入る前に降ろされていたケイラは、その人影に気づいた瞬間、走り出した。
あの細身の影は。
あの朝陽に照らされた金髪は。
一年前、ケイラの記憶の中にある姿より少し逞しく、髪も伸びている。
だが、見間違えようがない。
十年以上見ていたあの姿を、見間違えるわけがない。
「殿下!」
走り、叫ぶ。
人影がケイラに気づいた。
「ケイラ!」
己を呼ぶ懐かしい声に涙が出そうだ。
ケイラは必死になって走った。森を走り抜けてきた戦士たちにとっては早歩きより遅いかもしれない。それでも必死で足を動かし、身体を運ぶ。
あの方の……あの子の下へ――
「――レイン! 産まれたよ!」
「…!」
その一瞬で、ケイラは悟った。
ああ、あの子には本当に、何よりも優先する大事な女性ができたんだな、と。
レインティエは、一年ぶりに会うケイラではなく。
かすかに聞こえた声……自分の子供が産まれたという声を優先して、家の中に入ってしまった。
走ってくるケイラなど、もう視界にも意識にも残してもらえなかった。
家の前にいたのは、お産で追い出されたからだろう。
そして、産まれるのを今か今かと待っていたのだ。
「……それでいいです」
ケイラの足が止まり、消えた人影に呟く。
一抹の寂しさを覚えるが、それでいい。
「しばらく忙しくなりそうだから、今日は解散ね」
状況を素早く察知したナナカナは、一緒にいた戦士三人にこの場は解散を言い渡すと、
「行こう」
ケイラの気持ちを知ってか知らずか、立ち尽くすケイラの手を取り家へ向かう。
――なんにせよ、ケイラの望んだレインティエとの再会は果たされた。