100.背負われる
「荷物を貸して」
「え?」
「ここからは走るから」
森に入って少し。
フロンサードの者なら誰もが知っている、霊海の森。
危険な獣も魔獣も、正体不明の何かも住んでいるという、近づくことさえ危険な場所である。
そして、森の向こうの大地には神々が住み、過酷な生活を逞しく生き抜く蛮族がいるという、御伽噺にもなっている場所だ。
まだ入り口にも等しいのに、すでに緊張しながら歩いているケイラに、まさか子供が「荷物を持つ」などと言い出すとは思わなかった。
「あの、重いですよ?」
ケイラが背負う背嚢には、荷物がたくさん詰まっている。
容赦なく肩に食い込み足を重くしている。背負い始めた今でさえつらいのに、このまま歩くと……すぐに体力が尽きそうだ。
諦める気はないが。
「知ってるよ。重そうだから持つって言っているんだけど」
それはそうかもしれないが。
思わず、本当に持たせていいのかという疑念を込めて大人の白蛇族に目を向けて――ケイラは固まった。
「あ、あ、……は、」
はれんち、と思わず言いそうになって、はたと気づく。
そうだ。
レインティエの手紙に、確かに書いてあった。
――白蛇族は下着同然の格好で活動する、と。
外套をまとっていたので、ずっと身体は隠されていた。だから失念していた。
そう――外套を外した彼らは、情報通り、下着姿同然だった。
傷跡だらけで、一切の無駄を殺いだ筋肉の塊のような身体。神が与えた人間の、真の造形美を感じずにはいられない姿だ。
見入ってしまいそうではあるが、それは常識と理性が許さない。
フロンサードでは、その格好で表を歩くのは、ありえない。
正直かなり目のやり場に困るのだが、これは慣れるしかないのだろう。
そして、それよりも気になるのは。
「タタララ様、その手は……」
タタララの右手。
ジータの足。左の太腿。
元々色白な彼女たちの手や足には、……鱗が生えていた。
「白蛇族は白蛇の神様に見守られているからね。その証かな」
そう言いながら、ナナカナも外套を脱いだ。
彼女は左肩から二の腕まで、鱗に覆われていた。
「怖い? イヤ? そっちの人はこれを見たら大騒ぎするから、来る時は隠しているんだよ」
驚きはした。
裸のショックも塗りつぶすくらい驚いた。
ナナカナが手を出し、ケイラの右手を取り、――自分の肩に導いた。
「……鱗」
手触りは少しざらざらしているが、温かい。弾力もあり、見た目と触感は違うがこれも皮膚の一部だということがわかる。
「行きたくなくなった?」
「……いえ、問題ありません」
驚いたが。
でも実際触れて確かめてしまえば、大したことじゃないと思った。
彼ら自身が大きな蛇ってわけでもあるまいし。
痣やホクロみたいなものと解釈すれば納得もできるので、それはいい。
むしろそういうものだと受け入れたら、また裸の方が気になってきた。こんな子供も裸同然。こっちに慣れる方が大変かもしれない。
「すみません。私は大丈夫ですので」
露骨に戸惑う姿を見せてしまった。
貴族令嬢としても使用人としても失格だ。
しかし。
「大丈夫じゃないよ。早く移動したいから荷物をよこせって言ってるんだよ。族長の出産に間に合わせたいから早くよこせって言ってるんだよ」
「あ、はい」
クールに淡々としていたナナカナが初めて苛立った顔をしたので、色々と本気で言っているのだと理解した。
ケイラはもう何も考えず、背負っていた荷物を降ろした。
「ここからは走るから」
女性とはいえ大人のケイラが重いと感じていた背嚢を、ナナカナはひょいと背負って平然と言った。
「タタララは前、ジータは後ろの警戒を。私はタタララの隣で案内するから。真ん中はカラカロ」
事前に打ち合わせは済んでいるので、最終確認のために今一度指示を出す。
――ただ、一人ちょっと事情が変わった者がいる。
「ケイラはカラカロに乗って移動だよ」
「の、乗って?」
「その方が早いから」
一年前、レインティエと移動した際には、動かせる戦士の数が少なかった。
特に力と持久力のある男の戦士を起用することができなかった。
女の戦士は、瞬発力や戦才に優れる者はいるが、単純な力比べや体力比べでは、男に負けてしまう。
この辺は体格通りの力量差があるのだ。
魔獣などによる不意打ちを警戒するために、二人は必要。
あまり人数が多くなっても動きが鈍るので、最低限の人数。
そして、警戒と戦闘の邪魔にならないよう、戦闘に参加しないナナカナが荷物持ちだ。
「お、俺が背負うのか!?」
森の中で人を乗せて移動するという事実にケイラは驚いたが。
裸の男に背負われるという事実にも戸惑うばかりだが。
なぜだか指名されたカラカロも、ひどく驚いていた。
「え? 予定通りでしょ? なんか問題でも?」
「……いや。なんでもない。それで、いい」
「問題があるならジータに」
「俺がやる。交代もない」
「…? 予定通りならいいけど」
ではなぜ戸惑ったのか。
これは早く森を越えるための布陣だ。
ジータも力と体力は非凡なものがあるが、カラカロはそれを軽く凌駕する。体格の良さ通りだ。
カラカロが機能しないとなると、少々時間が掛かってしまう。
まあ、問題がないならいいが。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫だ! ジータ、俺の槍を持ってろ! ――乗れ」
背負っていた槍をジータに渡しつつ、ケイラの前までやってきたカラカロは、背を向けてしゃがみ込む。
大きな背中一面に、白い鱗があった。
なるほど、正面から見てもカラカロの鱗だけ見えないわけだ。
「あ、あの……」
「この森は俺たちでも危ないんだ。早めに抜けたい。だからさっさと乗れ」
「……はい」
確かに、この中で一番のお荷物は自分だ、とケイラは思った。
お荷物はお荷物らしく、大人しく指示に従った方がいいだろう。
しかし、人は重い。
女でも大人である。当然それ相応の重量がある。たとえ見た目からして力持ちに見えようとも、重い物は重い物で違いはないはずだ。
重いって言われたら落ち込みそうだ――そんなことを想いながらおずおずと広い背中に身を預けると、カラカロはなんの抵抗もないかのように軽々と立ち上がる。
「ナナカナ、行くぞ」
「うん。じゃあ、出発」
そして、彼らは尋常じゃない速さで走り出した。
もう人の速さじゃない、森に住まう獣の速度である。
――これは自分を背負うはずだ、とケイラは思った。