00.指先王子、聖国を発つ
「――おい、レイン。準備終わ……まだやってんのかよ」
振り向く必要もなくわかる、幼馴染の声。
勝手知ったるという体でノックもなく部屋のドアを開けたのは、友人のフレートゲルトである。
「うん、もう少し……」
大きくもなく豪奢でもない自室のテーブルの上には、考えに考えて考え抜いた末に候補に挙げた、道具や本、薬の入った容器などが所狭しと並んでいる。
この中から厳選に厳選を重ねて厳選しきったものだけを、大きな背嚢に詰めている。
「つーかもう無理だろ。限界だって。入らないって」
「でもこれは必要だし……」
すでに入り口までしっかり詰まっている背嚢の中に、なんとか隙間を作ってねじ込めないものかと悪戦苦闘していると。
「え? それ何? 何が入ったビン? なんの草?」
いつの間にかフレートゲルトが横にいて、私の難敵を冷たい眼差しで見下ろしていた。
「これは乗り物酔いに効く薬草だ」
「乗り物酔いの薬なら、もう入れたはずだよな?」
「でも予備がないと困るかもしれないし――ああっ」
「いらん」
なんたる暴挙。
フレートゲルトは私の手からビンを奪って、手伝いのために傍に立っている侍女に渡す。
物心ついた時から傍にいて、今は二十半ばとなった彼女とは、私もフレートゲルトも長い付き合いとなっている。私たちの関係にも慣れているので平然としたものだ。
フレートゲルトは更なる暴挙に出た。
私を押しのけ背嚢の中に手を突っ込んで、苦労して苦心して激闘の末に奇跡的に詰め込むことができた私の戦果を、どんどん取り出していく。
「これもいらん。いらない。絶対使わない。馬鹿か。これは……いや逆になんでこれ荷物に詰めてるんだよ」
「手紙を書く時、重しは必要だろ」
「あ?」
ぎらりと鋭い視線で睨まれる。
「重しが欲しけりゃその辺の石でも拾え! よりによってわざわざ重いだけの物を荷物に加えるな! 代用が効く物は全部いらん!」
「どれも代用なんて効かないよ!」
「効くだろ! これはなんだよ!」
「嫁さんへのプレゼントだよ!」
「いらん! ドレスなんて贈ってどうする! おまえ今からどこに行くかわかってるんだよな!?」
「霊海の森の向こうにある、神々の住まう地だよ!」
「――あるいは人の手の届かない蛮族の住まう世界の果ての地な! そこでドレスが必要だと思うか!? こっちの人間の文化なんてきっとないぞ! 貴族文化なんてもっとない!」
それは知っているが。
「でも結婚相手となると、ドレスくらいは贈るだろ?」
「贈ってどうする!? どこで着るんだよ!? なあ!? 蛮族がこのヒラヒラでビラビラなドレスをどこでどのタイミングで着るんだよ!? 舞踏会なんてないんだから必要ないだろ! これがスペース取りすぎなんだよ! いらんだろ!」
「贈り物もなしで行けないだろ!」
「指輪とナイフがあれば充分だ! つーかこれおまえ担げるのか!? 担いで歩けるか!? 重量的に持って歩けないだろ!? 無駄! 邪魔! 意味なし! 全部いらん!」
「や、やめろぉ……!」
言われて一々納得してしまう面もあるだけに、己が発する止める声も弱々しい。侍女も我が意を得たりと一々うんうん頷いているのもちょっと悲しい。
そして、そんな弱々しい声を聞き入れるほど、フレートゲルトは優しくない。
私が考え抜き、厳選して、数日掛けて必死で詰めた荷物たちがどんどん吐き出され、「持って行かない物」に仕分けされていく。
「こういう時は、本と作業道具が優先だ。……これくらいで充分だろ」
なんと。
あれだけ入らない入らないと苦心した背嚢は、半分以上も荷物を減らされ、実にすっきりとまとまっている。
なんならちょっと見た目に寂しいくらい、スリムになってしまっている。なんという匠の技。
だが、本当にこれでいいのだろうか。不安だ。
色々考えて荷物を詰めたのに、こんなにも減らしてしまって大丈夫だろうか。全部が全部困った時に備えての荷物だったのに。
「枕はいいだろ?」
「ダメだ! 枕!? なんで!? 一番いらんだろ!」
「私は枕が変わると眠れないぞ!」
「向こうで調達しろ! 次の枕はその枕より長い付き合いになるから向こうで調達してそっちに慣れろ!」
「じゃあこのクマさんのぬいぐるみは!? これはいいだろ!? 誕生日にシャルに貰った大切なものなんだ!」
「大切な貰い物なのはわかるが、もうぬいぐるみって歳じゃないだろ! さすがに大の男がそれを持って婿入りはかなりきつい! 置いて行け!」
「くっ……可愛い妹からのプレゼントなのに……持って行ったらダメだってさ。ごめんな、ククーラちゃん……」
「名前を付けるな気持ち悪い!」
「気持ち悪いとはなんだ! シャルが付けた名前だぞ!」
「あ、そりゃ悪かった」
「ククーラちゃん……元気でな……」
「そっと抱き締めるなよ……お別れが済んだらククーラちゃんは置くんだぞ。持って行ったら向こうの部族も嫁さんも絶対に引くから、こっそり持って行くのもダメだからな。絶対ダメだからな」
「……悪魔め」
「はいお別れ時間終了ー」
「やめろ! ククーラちゃんの頭を掴むな!」
侃侃諤諤。
荷物を巡る言い争いは、なんだかんだと出発の時間まで長引き。
「――レインティエ殿下、お時間です」
兵士が呼びに来るまで続けられたのだった。
護衛を担う御者と騎士たちに挨拶し、城門の前に用意されていた馬車に乗り込む。
最後まで、いつも通り、ただの友達として接してくれたフレートゲルトには感謝しかない。
「元気でな。レイン」
私を見上げるフレートゲルトは、いつも通りの仏頂面である。
必要以上に湿っぽくなるのも、こんな時だからと特別なことを言い合うのも、私たちの関係ではあまりピンと来ない。
だから、こんなものでいい。
王族や、親しい者たちとの別れは、もう済ませてある。
皆忙しい身なので、見送りは顔見知りの兵士と侍女、そして騎士団長の三男フレートゲルト・カービンだけだ。
この城で生まれ、この城で育った私には、本当に生まれてからずっと付き合って来た顔である。
身分差こそあるが、長く務めている使用人や兵士、騎士たちは、皆ほとんど顔見知りだ。
王子の出発には寂しいかもしれないが、たくさんの人に見送られて大っぴらに行くほど重要なこともでないので、こんなものである。
「君も元気でな、フレ」
たとえこれが今生の別れになろうとも、私たちの別れの言葉は、こんなものでいいのだ。
「――出発する! 出してくれ!」
フロンサード王国の紋章が入った、二頭引きの馬車が動き出す。
数は一つ。
護衛は騎士が二人と御者のみ。
王族が移動するには、あまりにも警戒が少ない構成だが、向かう先が先なので必要最低限である。
今代フロンサード王と王妃の息子である、第四王子レインティエ・クスノ・フロンサード。十七歳。
王族の証たる聖なる力は微々たるもので、指先にのみ宿っている。
フロンサードの王族としてはあまりに少なく、素質としては落ちこぼれにして、王位継承権こそ存在はするが玉座には程遠い第四王子。
王子としてはゆるく明るく程々に優秀で、幼馴染にして友人で護衛でもあったフレートゲルトと、まるで平民のように言い合う姿を見たことがある者は多い。
そんな彼は、敬称と蔑称と親しみを込めて、「指先王子」と呼ばれていた。
とある問題が起こりこの国に居づらくなったこともあり、彼は自ら婿入りを志願し、これから生まれ育った国を出て旅立つことになる。
これよりレインティエは、西にある広大な霊海の森を越えて、白蛇族の元へ向かい。
女族長へと婿入りするのである。