007.緊張と集中は紙一重
放課後、いつものように帰宅はせず俺は音楽室へ向かった。
そういや授業以外で音楽室へ行くのは今年で初めてな気がする。確か今日は活動日だから、あいつも来るはずだろう。
しかし、あいつははなにをやらしかたのかヒゲ先生に呼びとめられていたので、おそらく音楽室は無人だろう。
誰もいない広い空間で一人! ちょっとうきうきする。
音楽室は二重扉。手前の防音扉を開けて二つ目の扉を開けようとしたとき、ピアノ音が耳に入ってきた。
誰かいるのか? そっと中の様子を見ると。
「うおっ」
思わず声を出してしまった。奥にあるピアノから流れる豪快かつ盛大な音が、教室中に所狭しと鳴り響きまくっている。
窓を開けたら音が勢いよく吹き抜けそうだ。音量も大変申し分なくでかいが、不思議とうるさいとは思わない。
しかしこの伴奏、聴いたことがあるし何度か歌った記憶があるが、曲名が思い出せない。
なんだっけな……えっと、確か、花の名前だった気がするが。
アサガオ? だっけ。
中に入ってもピアノを弾いている人は俺の存在に未だ気付いていなかった。
女子だ。長い黒髪を後ろにまとめてあり、横顔ながら凛々しい顔立ちなのがわかる。比べるならば姫香よりもクラスの女子よりも大人っぽく、大和撫子のようだった。
もしかしてあの女性が、幸也の言っていた新入部員なのだろうか。
……一声かけるべきなのか悩もうとしたとき、伴奏が止んだ。女性がうんと伸びをしたとき、俺と目が合った。
「……ん?」
豪快なピアノ音とは対照的に澄んだ声だった。
「えーと、誰ですか?」
失礼ながら、正面から見るとその鋭い視線がやたら怖い。美人だとは思うのだが。
「あー、あの俺はその、合唱部の」
「合唱部? 新入部員……ではないですよね」
どうやら校章と上履きの色で俺を上級生と判断したようだ。
俺の学年は緑でこちらの女性は赤なので、今年は赤が一年生のようだ。
「なんて言えばいいのかな。一応合唱部員なんだけど違うというか」
「遠まわしに答えないでください」
すみません。なんだろう先輩なはずなのにこの上下関係逆転な感じ。
「すみません。俺は合唱部だけど、幽霊部員だからほぼ練習には出てないんだよ」
会話の続きをさえぎるように音楽室の扉が開いた。誰なのかは予想が付く。
「おお、これはこれは」
さも面白そうにあやしい笑みを浮かべながら、幸也は俺達を舐めるように眺めていた。
「その目をやめろ」
「気色悪い目で見ないで下さい」
お? まさかの女性からも口撃。
「ははっ、二人同時とは参ったねっ」
両手を軽く挙げる仕草がなおのこと憎たらしい。幸也は近づいてきた。
「なんだ? 自己紹介でもしていたのか?」
「まだだ」
「ほう」と喜び、素早く俺の肩をがっしりと組んできやがった。早すぎて避けられない上、離れたくてもがっしりとだから動けないし。
「夏穂さん、彼は柴門秋平くん。同じクラスで中学の頃からの大親友だ」
こうもはっきり公言されると少し照れくさい。そして左肩を揉むな。
「ツッコミは弱いが付き合いはいいぞ。その付き合いの良さで合唱部にも入ってくれたが、幽霊部員なのが不本意だな」
褒めてんのか貶してんのか。そして左肩を揉むな!
ひと紹介終えると俺から離れ、次は女性もとい、夏穂さんの肩を……組もうとするが華麗に避けられている。仕方なく夏帆さんに触れるの諦め、代わりに手を向けて紹介を始めた。
「秋平、彼女は島木夏穂さん。合唱部の現役部員であり相思相愛で将来の伴りょぐはぁ!?」
見事なミドルキック! 数歩分後ろによろめき、みぞおちに入ったのか腹を大事に抱えてへたり込んだ幸也。
震えながら「ぉぉぉ……」と泣きそうな声でうめいているのは幻聴だろうか、こんなに弱り切った幸也を見たのは初めてな気がする! 不思議と爽快感!
「酷い冗談はよして下さい」
幸也をこんな姿にさせた当本人の夏穂さんは、冷めた声と同時に蔑むような視線で幸也を文字通り見下していた。
夏穂さん、ただ者ではない。
「初めまして、一年の島木夏穂です。一応、よろしくお願いしますね。柴門先輩」
ミドルキックの流れなどなかったかのように自己紹介をさらりと済ます夏穂さん。一礼してきたのでこちらも条件反射でお辞儀。
「あんま顔出さないけどこちらこそよろしくな、夏穂さん」
「……まあ呼び方は自由ですけど」
いかん、幸也の影響なのかついそのまま呼んでしまった。といってもこの女性に呼び捨てはあれだし、島木さんというのもしっくりこない。
やっぱり夏穂さんで!
夏穂さんはまたピアノに戻ると、豪快になんかの曲を弾きだした。
弾けまくる和音とは別に不気味に鳴り響く低音。この印象的な入り、聴いたことがある。なんだっけなあ。魔物?
「そう言えば、織田信長は第六天魔王と呼ばれていたらしいな」
「曲名思い出させてくれたのは感謝するが人の心を読むな」
「そんな頭掻きながら悩んでいたら大体心中の予想はつく」
俺が単純すぎるのかそれとも幸也が鋭すぎるのか。近くの机に腰をかけて足と腕を組み、俺に問いかけてきた。
「で、なにか用か? 晴れてるし宿題はないはずだが」
大抵俺がここに来るときは、宿題をしたり雨宿りしたりと音楽から離れた使い道をする。
だが、今日は違う。
「幸也は緊張したことがあるか?」
「緊張しない人間なんていない」
「お前人間なのか」
「第六天魔王だ」
余計なこと言わなきゃよかった。おもむろに咳払いして流れを戻そう。
「たとえば人前で歌うとき、緊張して思うように歌えなかったりしたらどうすればいい?」
「ふむ……」
音楽室に流れるピアノが妙にシリアス。俺も幸也も徐々に顔が険しくなっている。
別にそんな雰囲気でもないのに、背景音楽とは不思議。
「俺なら、か」
こめかみに手を当て考えている。知らない人から見ればなかなかいい格好なのだが、俺からしたらわざとらしい。
しばらくして幸也は口を開いた。
「あくまでも俺の考えだ。それが他に通用するかは知らないが、それでもいいな?」
ピアノ伴奏が豪快に流れる音楽室で、幸也は全身でリズムを刻みながら語った。
「緊張しない奴はそうそういないだろう。大体の者は表舞台に立てば心がざわつくはずだ。まあ例外もいるがな。ただ、それを意識するかしないで大きく変わる」
「意識?」
いまいちピンとこない。幸也はわずかに頷いた。
「緊張している! と意識すればまず心が揺さぶられ、それが身体に繋がりガチガチになったりガタガタになったりと不安定になる。当たり前のことだ。そんな状況の中、満足の演奏が出来るわけがない」
「だがな」と付け足して幸也は大袈裟に両手を広げた。おそらく意味はない。
「意識しなければそれは集中へと繋がる。乱れる心を落ち着かせ、最大限の力を発揮する強力な武器へと変わるのだ」
「緊張と集中は紙一重ってことか?」
「そうだ。緊張を上手く利用するんだ」
大体は理解出来たが、肝心な部分が解決していない。
「でも、普通は意識してしまうだろ? それはどうやって集中へ繋げるんだよ?」
ここで夏穂さんのピアノが止んだ。一曲終わったみたいだが、またすぐに新しい伴奏が始まった。
「俺はソレントへは帰らんぞ」
「帰らんでいいから続きを頼む」
「緊張しないように意識しなければいい」
殴ったろか。
「そう怖い顔するな。俺はもったいぶるのが好きなんだ」
「俺はわかりやすく答えてほしいんだよ」
思えば俺と幸也はいろんなところが相反している気がする。よく友達になれたものだ。
「緊張を受け入れればいい」
「……どういう意味だ?」
「そのままの意味だ。あ、緊張してる。やばいわ緊張しないでよきゃー! と無理に抑えようとしてもするものはする。むしろ意識しすぎて逆効果だな。だからそのまま受け入れておけばいい。あ、緊張してるな。まあいっか、てへっ、うふふ、程度に思っておけ」
その身振り手振りの演技に苛つくものの、言っていることは正しいかもしれない。
考えすぎるな、か。
幸也は指を一本立て、続けた。
「それより大事なのはこれから歌う曲についてだろう? この曲はどこで盛り上げるか、どこで表情を変えるか、身体の使い方をどこで調整するかと確認することは山ほどある。そして最も重要なのは、どうすれば観客を満足させられるような演奏が出来るか、だ。何度も言うが演奏に緊張は付き物だ。だがそればかりに縛られすぎるから、失敗する大きな要因になるんだよ。考えることは、意識することは他にもある。集中しろ。緊張を優先するな」
それが出来ないから緊張するのではないだろうか。誰よりもなによりも、最優先される呪いの言葉。
その考えを読むかのように幸也が答える。また俺の表情を読み取られたのか。
「それでも無理ならもう歌のことは考えない方がいいな。いまから歌うから緊張する。だったら、それに関するものは意識しない方がいい。人前で発表するぐらいなんだから、歌詞や音は身体が染み付いているだろうしな。ただ、その代わり、だ」
幸也は一回転した。これも意味はない。
「なんでもいい、なんでもいいんだ。好きな食べ物好きな人動物本色映画体位匂いなんでもいい。あれこれ自分が楽しいと思うものを思い浮かべろ。楽しいものは苦にならない。苦にならないなら緊張は感じない。緊張を感じないならのびのびと歌える! そう、空想しろ、妄想しろ。自分だけの世界を思い浮かべろ! 妄想こそが緊張という邪念を捨てる、最強最大最高の必殺技になるのだあ!」
雑念で邪念を捨てるとはこれいかに。
幸也の叫び声が教室内に響き渡るような気がした。
「以上が俺の持論だな。要するに別の方向に意識を傾けた方がいい。固まるよりずっといいだろう」
幸也の言っていることはよく理解出来た。理解出来たのだが。
「どうにも納得したくないんだが」
「なんだと」
「いやさ、途中までは納得出来たんだよ。確かに緊張していると考えるから緊張する、というのはとてもわかるんだが、それを妄想で解決はどうかと思うんだよ」
「ふむ。だが妄想すれば緊張の負担は減るだろう」
「うーん」
「俺の考えを実行するかしないかは自由だ。まあ俺はしないけどな」
「そうだな……あ? いまなんて言った?」
「実行以前に俺は緊張しないんだ。ははっ」
言葉を失った。まさかの例外が目の前にいるなんて。
「緊張しない、というよりかは緊張を楽しんでいる、と言った方が正しいか」
「……どういうことだ?」
自分の胸をどんと叩き、見慣れた不敵な笑みを浮かべる幸也。
「緊張は歌に必要な要素だ。自分に責任を与えてくれるからな、自分を強くさせてくれる。それを無理にないがしろにするぐらいなら、緊張含めて俺は歌うことを楽しみたいんだ。さっき観客を満足させなければならないとは言ったが、もう一つそれと同じくらい大事なことがある」
幸也の表情が変わった。俺をまっすぐ見据え、正すように言葉をゆっくり繋げた。
「自分が歌うことを楽しめなければ、自分も相手も満足するわけがない」
さっきは呆れ気味で言葉を失ったが、今度は違った。核心を突くような、鋭い一言。
「緊張しないようにするには楽しむことだ。人前に出ること、歌うこと、聴かせること、表現すること全てを楽しむ。俺は常にそれを心がけている。緊張を、歌を楽しんで、満足の出来を聴かせているつもりだ。この理論だとさっきの妄想説に近いものがあるな。結論は、楽しむということだ」
緊張を、楽しむ。文字に表すとあまりにも単純で簡単に思えるが、実際に成し遂げるにはどれだけの自信と経験が必要だろうか。
それにそもそも、そんな余裕、あるのか? ましてや歌うことを楽しめない人間ならなおさら……
「ま、効果の有無は本人次第というわけだ。人に勧めるも勧めないもお前の自由、好きにすればいいさ」
そう言い残して幸也は夏穂さんのもとへ向かった。
その伴奏に合わせて意味不明な言葉で歌っているが、あれは本当の歌詞でないことだけはわかる。
「なあ、幸也」
「まぁだ聞きたいーかー」
歌に合わせて会話をしないでもらいたい。その無駄に響く重低音ボイス、久々に聴いた。
「どうしたら、歌を楽しめるようになる?」
幸也は笑った。人を小馬鹿にするような、当たり前のことを聞くな、とでも言いたげに。
「歌いまくるしかないだろう?」