004.二回目の演奏会
現在、島枝坂を絶賛登山中。時刻は午後九時半と健全な高校生が出かけるには相応しくない。
先週といい今週といい、夜遅くにご苦労なことだと自分で思う。
坂を上り切って階段へ差し掛かる。横幅のある階段は余裕があっていいが、段数が多いのはよろしくない。焦らず遅めに歩いていたのにただならぬ疲労感。
そういや、今回は歌声が聴こえてこないな。上り終えて今更気付いたが、まあおそらく着いたのが早すぎたのだろう。
以前は午後十一時過ぎでいまは十時前。余裕がありすぎる。とりあえず休みたいのであの舞台であるベンチへ向かうと。
「あ」
二人の声が重なった。
水無瀬姫香は俺よりも早く、ベンチに腰かけていた。
「な、なんで、どうして」
姫香はただただ俺の存在に驚いていた。丸い瞳で俺を見て、きょとんとしている。
「どうしてって、来週もまたここに来てくれないかって言いかけてたじゃないか。だから来たんだよ」
俺の勝手な解釈だが、もしこれで違っていたらどうしよう。
「そっか、来てくれたんだ……」
「もしかして、来ちゃまずかったか?」
不安げにそう聞くと、姫香は明るい表情で返してくれた。
「ううん、びっくりしただけ。来てくれてありがとう、しゅーへー」
俺の答えは正しかったようだ。
俺がここに来た理由はもちろん一つ。水無瀬姫香の歌声を聴きたかったからだ。
俺の心を震わせたあの歌声を、もう一度経験をしたかった。
午後十時。俺は姫香の隣に座り、しばらく彼女との雑談に興じていた。
「クラスに転校生として現れたときは驚いたよ」
「私もびっくりした。まさか転校先のクラスに知ってる人がいるとは思わなかったもん」
「それもそうだけど、俺は別の意味でも驚いた」
「どういうこと?」
「もっと年下だと思った」
「んな!」
穏やかだった表情が一変して俺を睨むようになった。頬が膨らんでいる。
「どうせ小さいわよ! 悪いの?」
悪くないです。というかやっぱり気にしていたのか。
「でも」
軽く息を吐いて、姫香はまた表情を緩ませた。
「同じクラスにしゅーへーがいて安心した。少し不安だったから」
馴染んだ地と別れ、また一からやり直さなければならないのだから、様々な不安要素に振り回されていたに違いない。
まあ、今日のことからしてその心配は杞憂だったと思うが。
「しゅーへーと目が合ったとき、私ほっとしちゃったもん」
俺は緩和剤の役割を果たしたようだ。思わず苦笑い。
「本当は学校で話しかけようとしたんだよ? でも私のこと覚えてないかもしれないし、いろんな人に話しかけられっぱなしだったから中々踏み出せなくて……」
何度か感じた視線は気のせいではなかった。睨んでいたのも、おそらく思い出してほしくての表現方法だったのだろうか。
「忘れるわけないよ。忘れられないさ」
はにかんでうつむく姫香。少し考える様子を見せつつ、また顔を上げた。
「あのさ、しゅーへー」
「なんだ?」
目が合う。まっすぐな視線が、俺の視界を固定する。
「えっと、その……」
すぐに視線が曲がった。なんやねん。
「だから、あの、その、えっと」
俺をここに呼んだ意味を考えれば見当はつく。姫香はまだ言葉を詰まらせていた。
一呼吸おき、曲げた視線を再び俺に戻すとようやく続きを発言した。
「もう一度、私の歌を聴いてほしいの!」
「いいぜ」
即答したら、若干戸惑う姫香さん。予想外だったのだろうか。
「へ? ほ、本当にいいの?」
「ああ、もちろん。聴かせてくれないか?」
聴きたくなかったらここに来ていない。俺はベンチから離れ、客席の最前列へと移動した。
その距離数メートル。こちらの準備は整った。
後ろを振り向くと姫香はベンチに立っていて、俺に小さな微笑みを見せてくれた。丁寧に靴は脱いでいる。
「ありがとう、しゅーへー」
こうして立ち姿を見るといかにも女の子らしい服装をしている気がする。薄いピンクのロングスカートに青のブラウスと清楚な感じ。全くもって姉貴とは大違い。
「先週と同じ曲でもいいかな? 『春の夢』っていって、ドイツ歌曲なの」
あれはドイツ語だったのか。頷くと、いよいよ演奏が始まった。
小さな体からは想像つかないほどの溢れる歌声。まっすぐな響きで、それは俺が歌ったとしても出せないものだろう。
いったい、どうしたらこんな声が出せるのか。
少し、少しだけ……
……あれ? 聴いてから数十秒。妙な違和感。
歌う姫香をじっくり見てみる。懸命に動き、懸命に口を動かしているのだが。
目を瞑って歌声だけに集中してみる。とても上手く、耳に響いてくるのだが。
なにかが、違う。