第三章 激闘! パレスニュータウン空(うつほ)基地
第三章 激闘! パレスニュータウン空基地!
―――1―――
パレスニュータウンは一二〇棟の家屋が並んでいる。小さな子供を遊ばせるには適当な広さの庭を持つ、最近流行りの可愛らしいデザインの家屋だが、流石に
碁盤の目状に百何十棟も並ばれると不気味でしかない。
幻不と塔画は能力の気配を完全に消し、問題の家屋の近くまで迫っていた。殆ど足音を立てずに。
「あそこか?」
植え込みに身を潜め、問題の北端の東から三番目の家屋を窺う。見張りの姿は見えない。
「ええ。でも気を付けて。どんな仕掛けがあるか分からないんだから」
「誰に言っているんだ?」
幻不は上着の上から腰に携えた獲物に触れた。
――頼むぞ、相棒。
「それで? どうする?」
どう踏み込む?
「若気の至り、でもやってみる?」
若気の至り。その言葉に、幻不は苦笑を浮かべた。
「策士らしからぬ発言だな」
「でも今回は、それが一番だと思うのよ」
「何があるか分からんと、言ったばかりだろうが」
「それはそうだけど、相手について調べている時間があって? 天馬の情報収集能力でもあの程度だったのよ?」
「それも、そうだな」
幻不はこの戦いの分の悪さを感じながら、サバイバルナイフを抜いた。
「では、出撃命令を。冴翊幻不将軍」
塔画もまた、獲物を手に取る。
「部下が一人きり。それも軍師殿とはな」
「初陣にしては上等じゃない?」
「ああ。確かに」
幻不は軽く左右のアキレス腱を伸ばした。そしてそのままクラウチングスタートの構えを取る。塔画も、右足を下げて体勢を低く構えた。
「出陣!」
二人が同時に地面を蹴る。施錠されている筈のドアを蝶番ごと破壊し、罠も何も考えずに敵陣に強行突入! これが通称・若気の至りである。
―――2―――
筋肉と筋肉がぶつかり合う音。そして液体と共に床に崩れる音。骨を殴る音。その音の中心に、幻不が居た。左手に抜いた筈の獲物が無いのは、相手が獲物を
使う程では無かったから。
突入から一秒。玄関部分で、二人は障害と向かい合った。
最初の障害は五人。中肉中背の若い男達だった。中肉中背といっても、二人より大柄なのは当然で。しかし体格の差は技術で補えば良いだけの話。最初の五
人を十秒足らずで始末した二人は、幻不がリビングダイニング、塔画が座敷に分かれて、そこに潜んでいた(事実を白状すると、寛いでいた)障害を倒して行く。
リビングに居たのは十五人。居過ぎではないだろうか、と思った。しかし探す手間が省けたと思い、そこはそれで良しとする。十五人の障害は、突然の侵入者に
声も出ないようだった。しかし即座に自分達がやるべき事を思いついたらしく、一斉に飛び掛って来た。
室内のような狭い場所では、数よりも敏捷性と持久力に優れた者が優位となる。戦い馴れ・喧嘩馴れした幻不がそれにならないわけが無い。
障害達の攻撃をかわしながら、足元を狙って衝撃を繰り出す。
そして十人を片付けた頃、
「最低一人は生かせておいてね! 幻不!」
座敷の障害を沈めて、塔画がリビングに駆け付けた。
「誰一人殺しちゃいない! お前の方こそどうなんだ? 殺していないだろうな?!」
「誰に言ってるのよ。貴女とは違うの。無駄な殺生はしないわ」
そう言いながら塔画が繰り出す衝撃に、障害達は次々と血を吐いて倒れて行く。多分何人かは、御逝去されたのではないだろうか。
「なら、良いんだが」
そこにはあえて触れずに、幻不は障害の排除を続ける。
「畜生!」
幻不に巴投げを食らい、昏倒していた障害の一人が何とか立ち上がり、起き上がれずに居る周囲の仲間に檄を飛ばした。
「お前等! それでも空の民か! 何としてでもこいつ等が地下基地に行くのを食い止めろ!」
「ほぅ」
幻不がその障害の頭を蹴り飛ばす。
「そうか、地下基地か。そいつぁ面白い」
再び床に沈んだ障害の頚動脈を右手で圧迫し、幻不は目を無理矢理合わせた。
「案内して貰おうか。その地下基地の入り口は何処にある? この家の中にあるんだろ?」
「幻不」
塔画が何処から持って来たのかタオルを一本、投げて寄越した。これをどう使うのか、幻不は重々承知していた。
「どちらが悪者か分からんな。これでは」
「勝てば官軍って言うでしょ? 勝った方が正義よ。勝つまでの過程は、どちらが正義でも悪でも構わないの」
世界中の正義の味方が聞いたら青くなって大泣きしそうな大層な理屈ではあるが、まあ、確かにそうである。いかなる正義も、反対の立場から見れば悪なのだ。
正義など、対抗者を斬る為の屁理屈に過ぎない。
「すまんな。こちらの正義を貫く為に、犠牲になってもらうぞ」
幻不は障害の口を抉じ開けると、そこにタオルを詰めた。別に声は幾ら出されても一向に構わないのだが、その地下基地に着くまでに舌を噛み切られては困る
。
「まぁ、最終的には処分するんだけどね。使える物には長生きして欲しいのよ」
長生きして欲しい。ここだけを聞けば良い言葉なのだが、『使える者』ではなく『使える物』とは――何より物扱いとは、冷酷である。そして結局は処分する気でい
る。
処分に対して異論は無いのだが。それをさらりと口にする塔画の根性には仲間ながら恐怖を禁じえない。
「それが居れば充分だわ。幻不、それ(・・)連れて廊下に出てくれる?」
物の次は『それ』呼ばわり。この最早捕虜と呼ぶべきだろう障害も、可哀想だ。しかしそれは仕方のない事。幻不は確保した捕虜を引き摺り、言われた通りに廊
下に出た。
塔画も廊下に出ると、左手をリビングの中に翳す。突然、指先に白い靄が生じた。それは一本一本の蜘蛛の糸に似た細く柔らかな物となり、空気中に散らばる。
「ねぇ。貴方」
塔画は屈みこんで捕虜と眼を合わせた。
「この糸はね、わたしが一番好きな武器なの。無間琴って言うんだけど、音を奏でる以外にも使えるのよ」
見ていてね、と塔画はリビングダイニングを指差す。捕虜がそれに従って眼を向けた時、一番近くに倒れていた障害の手が跳んだ。
「この糸はわたしの意のままに操る事が出来るのよ。どんなに遠くに離れていてもね。細かい操作は出来なくなるけど、」
塔画は捕虜に顔を近づける。
「貴方の仲間を微塵切りにするくらい、造作も無い事よ。勿論、座敷にも張ってあるからね」
言ってる事分かるわよね? 馬鹿じゃないんだから。
「わたし達を案内して頂戴」
―――3―――
「それで? ここでいいのか?」
捕虜が首を上下左右に動かして誘導したのは、階段下にある物置だった。
「嘘だったら、どうなるか分かってるわね?」
捕虜は必死になって首を上下させる。
「そうか。ご苦労」
物置の床にはベニヤ板が敷いてあった。それを引っ繰り返してみると、隕石が落ちたような形の悪い穴がある。
幻不はふと、足元に居る捕虜に眼をやった。脅えたような顔をしているが、塔画が穴を覗き込んだ瞬間、捕虜が微かに嗤ったのを幻不は見逃さなかった。
ドン!
突然、穴から炎が出た。しかしそんな罠の直撃を食らう塔画では無い。炎は塔画の頬に触れる直前で消滅した。
「嫌な奴」
火は二酸化炭素の中では燃えない。塔画は二酸化炭素で噴出した炎を押し潰した。
瞳を緑柱石に輝かせながら、塔画は捕虜に歩み寄る。
「待て、落ち着け。無駄な殺生はしないんだろ?」
「無駄ではないわ。それ相応の事をしたのよ。どいて。それに、最終的には殺すつもりだったんだし」
「退かない」
普段大人しい奴程、暴走して厄介な奴はいない。塔画がまさにそれだ。
「落ち着け。この程度はよくある事だ」
「貴女は沢山経験しているんでしょうけど? わたしは初めてなのよね。填められるの」
「こんなもん、填められたうちに入らん! ガキの悪戯みたいなもんだ!」
「……退かないなら、いいわ」
塔画は左手を翳す。その指先――人差し指と中指、薬指の三本に、燻銀の爪が嵌っていた。それを見て、幻不は青ざめた。
「止めろ! 外せ! その爪!」
塔画は返答しない。しかしいつもの幻不ならば実力行使に出るのだが、今は状況が違う。無暗に近づけば、たとえ幻不でも軽症では済まされない。
塔画は幻不の制止を無視し、燻銀の爪で空間を弾いた。幻不は咄嗟に両耳を塞ぐ。
その直後、幻不の背後にいた捕虜が消えた。恐る恐る振り返ってみると、そこにあったのは深紅の海。その中を、黒い粉が漂っている。それが、捕虜の頭髪の成
れの果てである事は人目見ただけで分かった。塔画の無間琴が、捕虜を切り裂いたのである。今頃、リビングダイニングと座敷の障害達も同じ姿になっている事だ
ろう。
「気が済んだか?」
無間琴の効果を知っているだけに、障害達が気の毒になった。
無間琴は、その音色を聞いた者に無限の苦しみを与える。肉体を失っても尚、苦しみは続く。いや、肉体の崩壊は苦しみではないかもしれない。一瞬で細切れ
になるのだから。肉体が崩壊すると同時に魂は苦しみの中に放り出され、転生も許されない苦痛の海を永遠に漂う事になる。それこそ、無間地獄だ。
殺しをする自分が、塔画に「殺すな」と言う資格は無い。しかし、見ているだけでも、苦手な武器だった。
「ええ。御免なさい。貴女、コレが苦手だったわね」
でも使いやすいのよ、と塔画は冷笑する。緑柱石の瞳には、まだ残酷な輝きが居座っていた。
「控えろ。この家が使えなくなったぞ」
「こいつ等が占拠したところで、使用不可能よ」
塔画が、穴を覗き込む。
「確かにそうだ」
行って見るか? 二人は顔を見合わせる。
「御免なさい。殺しちゃったから、」
これが本当の入り口かどうか分からない。そう語る塔画は、しだいに冷静を取り戻して行く。
「構わんさ。行ってみればいい。違かったら、引き返せば良いだけの話だ」
「戻れなくなったら、どうするの?」
「相変わらず、暴走した後は臆病になるんだな」
昔から、塔画は先程のようになった後は辺りを必要以上に警戒し、何かに脅える。無間琴を弾いた左腕が、小刻みに震えている。冷静沈着であり、まとめ役であ
る事が自分の望ましい立ち位置なのだと思い込んでいる故に、暴走後は不安で仕方がなくなるらしい。暴走など、自分がして良いものではないと思い込んでいる
のだ。暴走する自分は自分ではないと。幻不はその思想を理解はしているが、対処は出来なかった。専門外である。
「敵陣の中で、今更何を脅える? 進まなければ、雷馬は死ぬぞ」
幻不は塔画の肩を両手で掴み、漆黒に色が戻りつつある瞳を覗き込んだ。
「さっさと元に戻れ。例えお前でも、私は戦力にならん者を排除する覚悟は出来ている」
元に戻らなければ切り捨てる。これは二度の人生を両方とも、戦場にある事を生き甲斐としていた塔画にとっては最も効果的な脅し文句だった。
「戻るわ。あと少し……一分で、戻るから……」
「三秒しか待たん」
「分かった」
塔画は額に手をやり、眼を閉じる。そして三秒黙り、顔を上げた。
その顔は暴走する前の、普段の冷静な塔画の顔。
「もう、平気よ」
「今度暴走したら、否応無く斬るぞ」
「反撃させて貰うわ。そのときは」
「上等だ」
幻不は穴に入り込む。塔画も、それに続いた。
―――4―――
穴の深さは五メートルはあるだろうか。着地したのは、白い床だった。しかも、フローリングではなく、リノリウムでもない。
「ゴム? ゴム張り?」
「果たしてゴム床にする必要があるのだろうか」
「滑り止めかしら?」
「さてな。しかし」
幻不は自分の足元に目をやった。
「さっさと起きたらどうだ?」
そこには、床にうつ伏せになった塔画がいる。どうやら、着地の際に受身を失敗したと見える。
「敵陣では、即行・速攻・即逃走が鉄則なんだぞ」
「分かってる!」
「騒ぐな。気付かれる」
「もう気付かれているんじゃない?」
塔画が、よいしょ、と立ち上がる。
「そうかもしれん」
現在二人がいるのは、天井までの高さが五メートル、床の横幅が五メートルの廊下といってよい姿の空間がある。これが、細長い形の部屋なのだ、と言われれば
、「へぇ、部屋なんだ」と、納得するしか無いが、部屋なのか否か、明確な回答が得られていない今現在では、ここは長い廊下の途中に落ちた、と考えるのが妥当
ではなかろうか。
二人の耳はふと、何かの音を拾った。幻不は一度しゃがみ込んで床を軽く叩いてみた。音が似ている。どうやら、何者かが廊下を駆けているのだろう。それも、複
数。
「来るわね。どうする?」
「倒すしか無かろう」
幻不が一点透視図法の最奥に眼を向ける。すると、武器を手にこちらに走って来る青い服を着た女達の姿が見えた。数はだいたい、三〇人弱。
「男達は腑抜けのくせに、女達は勇ましいな」
幻不はある程度糸を出すとボビンの穴に結び目を作り、これ以上解けないようにした。まだ湿気が残る木綿の糸は、充分な強度を出せる。塔画は爪を外し、ウエ
ストポーチから硝子製の礫を手にした。女だからといって、手加減するつもりはないのだが、やはり女に殺傷能力の高い武器を向けるのは良い気がしない。
「侵入者め! 排除してくれる!」
一番足が速いのだろう。一人が大群から飛び出した。
塔画は礫を放ち、彼女に直撃し昏倒させる。彼女を糸が襲い、無理矢理床に叩き付けた。高速回転するボビンが、彼女に続く女達の膝を叩く。それによって数
秒、脚を動かす事が不可能になり、彼女達は将棋倒しに転んで行く。二人はそれをひょい、と飛び越えた。
「勇ましいのは結構だが、」
「実力が追いつかないのね」
「まあ、仕方なかろう」
空は思っていたより強くないのかもしれない。そんな事を考えながら、ゴム床の廊下を疾走する。今のところ、廊下は一本道だ。女達がこの方向から来たのだから
、この先に本隊が居るのだろう。まさか、あれが本隊ではあるまい。
「障害だ」
幻不がそれを見つけて存在を口にした時、塔画の目にもその存在が映っていた。それは先程のような大群ではなく、白髪の女が一人きり。あの女達よりも、実力
は上なのかもしれない。
「まったく。歩兵達は何をしているんだ」
その障害は軍服なのだろうか、同じデザインの青い服を着ていた。丁度、チャイナドレスとアオザイの間の子のようなデザインである。
「こんな子供二人に殺られるなんて」
その女は苛立たしげに剣を振り回している。
こんな相手に「殺してない! 倒しただけだ!」と弁明しても聞き入れてはくれないだろう。実際、リビングダイニングと座敷の障害は息を止めてしまった。
「わたしの名は佐萌亞。李亨洲様の復活を妨げる者は全て排除する!」
自己紹介して頂けるなんて! 何て礼儀正しい障害さんなのだろう! 二人が面食らっていると、佐萌亞は床を蹴って飛び上がった。
「下がれ」
幻不は塔画を背後に押しやり、自らも腰に潜めていたサバイバルナイフを抜く。
「その程度で!」
わたしの剣を受ける気か?! 佐萌亞が叫んだ瞬間、火花が散った。
―――5―――
佐萌亞が繰り出す剣は、今まで倒してきた障害達のものとは異なっていた。
先ず動きが速い。使用している剣は長剣でレイピアのように細いものではない。ある程度の重量があるだろうその剣を、自在に操り、軽いステップで簡単に幻不
を壁に追い込む。
「逃げているばかりか?!」
佐萌亞が頬を紅潮させて叫んだ。しかし、この程度で殺られる程度では刃の長など勤まらない。幻不は首筋狙って繰り出された切っ先を、一撃で弾き返した。
思いがけない反撃に、佐萌亞は声を荒げる。
「子供のくせに!」
「子供だから弱い、なんて先入観は捨てるんだな」
痛い目にあうぞ、と一言忠告を入れておいて、幻不はナイフの刃を外側に向けて水平に寝かせた。そして、突きに踏み出す。腕の長さ不足は速度でカバーし、
ナイフは佐萌亞の、人間であれば胃のあるあたりに埋まった。
「――――――!」
佐萌亞は音として現れない悲鳴を上げて、幻不がナイフを抜くと腹を抱えて横転した。傷口から、深紅の液体が噴出して、白いゴムの床に色を着けて行く。
「子供だからと侮るからだ。姿はコレだが、私は貴様より場数は踏んでいるんだ」
「おっ……のれぇ……!」
佐萌亞は剣に縋って立ち上がろうとするが、
「無理すんな」
労わる言葉を口にしつつ、幻不は佐萌亞を蹴り倒す。
「腹の傷は一ミリでも命取りになる。ましてや刃渡り十五センチのナイフが丸ごと刺さったんだ。死ななかっただけでも感謝するんだな」
睨み付けるような視線を佐萌亞に落としながら、口では矢張り労わる言葉を吐く。しかし、
「ぐっ」
幻不の靴の踵が、佐萌亞の傷口に当たった。踏み付けた、の方が正しいかもしれない。
「佐萌亞、と言ったか」
幻不は瞳を青鋼石に輝かせ、口元に残酷な微笑みを浮かべる。
「イニシマって、誰だ?」
―――6―――
いにしま《李亨洲》〔名〕 異世界から来た空の元長。二〇年前に病死。現在双子の妹の柚亞仁を中心に、復活させる作戦が始まっている。
作戦其の一。『人間』の世界に柚亞仁のその側近達を転移。
作戦素の二。一族以外から高度能力者を選出し、長復活に使用する。
「へえ。お前達の長なのか」
「復活させるって、どうするのよ」
佐萌亞はあの後、塔画の治癒能力で止血をして貰い、現在は無間琴に囲まれているうえに、幻不に頚動脈にナイフを突き付けられている。
「モンの中心に高度能力者を寝かせ、柚亞仁様が祝詞を唱えます」
状況が状況だけに、自然と口から出る言葉は敬語になってしまう。佐萌亞としてはこれ以上の屈辱は無いのだが、仕方が無い。相手が悪かった。
「ユアニ?」
「現在の長で、李亨洲様の双子の妹様です」
「成る程ね。続けて」
「儀式は今日の午後五時から始まります。祝詞自体、早口で読んでも三時間は掛かる長いものですから、今の柚亞仁様の体調を考えると、五時間か六時間は掛
かると思います」
早口で読んでも三時間掛かる、とは、その儀式は相当難易度の高いものだと考えられる。一度死んだ人間を生き返らせるのだから、簡単に出来るわけがないだ
ろう。
「では、その間に奪還すればいいか」
「そうね。取り戻せば、ここにもう用は無いわ」
いつもと変わらない、テンション・プラスマイナスゼロの平静の状態で交わされる会話。しかし、佐萌亞にとっては顔をコバルトブルーに染め上げる程に、恐ろしい
ものだった。
「何を、奪うつもりなんですか?」
「奪うと言うな。人聞きの悪い。取り返すんだよ。拉致されたから」
「だから、何を?」
何と無く察しは付いていた。あの儀式に使う物で外部から調達して来る物は一つだけだ。
「お前がさっき言った高度能力者だろうな。それで間違い無い筈だ」
「えぇ。何を基準にしてもあの子は高度能力者だわ」
塔画は邪も悪意も無い、愛らしい微笑みを浮かべた。しかし、それは今の佐萌亞にとっては恐怖の対象でしか無かった。
「い、生贄を連れ去る気か?!」
「当然だ。オマケみたいな人生だが、得した物を捨てる奴じゃない」
奴も、生贄になるのは不本意な筈だ。
幻不はわしり、と佐萌亞の胸倉を掴みあげた。正座した佐萌亞の身体が浮かび上がる。小さな身体からは想像出来ない程の腕力。
「道案内、頼めるよな?」
いいえ、出来ません。なんて言ったらどうなる事だろう。佐萌亞には、頷く以外に選択肢は無かった。
―――7―――
青い服の女性達によって、床に文字が書かれて行く。それは円を描くように書き進められているが、女性達は皆その円の中に入らないように書いていた。中に
入って書けば書き易かろうにとは思うが、それは違うらしい。書き易い書き難いの問題ではないのだという。
「これはモンですから。モンに最初に踏み込むのは贄でなければならないのです」
その作業を眺めながら、琉葦芙は教えてくれた。式場作りを見学していた雷馬は、ああ成程と頷いてみる。
協力的に振る舞いながら、雷馬は焦っていた。何より、式場作りが始まったとなれば儀式まで、自分が生贄になるまでの秒読みが始まったといって間違いは無い
。このままでは、自分は殺されてしまう。食べられてしまう。これは参った。非常に我が身の危機を感じているのだが、どう動けば良いかが分からない。
「どうなさいました?」
黙りこんだ自分の顔を、心配そうな顔をした琉葦芙が覗き込んでくる。
「いや。何でもないよ」
心配しないで、と言ってみる。
……参った。どうしたものか。
「ねぇ。何時くらいに始まるの? その儀式」
それより、今何時だろう。
「午後五時から始める予定です。現在三時ですから、あと二時間で仕度を整えないと」
急いで下さい、と琉葦芙は式場作りをしている女性達に声を掛けた。女性達は「はい」とは答えず、一斉に頷いた。どうやら、言葉を発してよい人と発してはなら
ない人がいるらしい。
そういえば、
「男の人はいないの?」
目が覚めてから、出会ったのは女性ばかりだ。
「男は生活の為に狩猟をするのです。長の身の回りのお世話や政治は全て女が行います」
それはまた、素晴らしい風習かもしれない。人間社会では、男女平等が叫ばれ始めて随分になる。しかし、未だに「女は家庭に入るべきだ」「女に政治は出来な
い」等の女性の仕事への偏見が男性達に見られる。子育てを母親ではなく父親が受け持つ等、例外も多々見られるが、やはりまだ男性中心の見方が強いらしい
。それに対し、男は狩猟、女は内政としっかり割り切ってあるのは、見事である。男が政治の全権を握り、太平洋戦争は起きた。一人でも女性が政治に携わってい
たのなら、結果は変わっていただろう。未だ消えぬ男尊女卑は、日本人が全人類に恥ずべき点と言って良いだろう。
雷馬はふと、壁と天井が交わる一点に目をやった。
――雨漏り?
白く塗られた壁の一部。その部分だけに照明が反射しているのである。そんな一部分だけに、他とは違う塗料を使うとも思えないし――空の文化が分からない
から、それも有り得るのだが――濡れているようにも見える。
そういえば、目が覚める直前、水が滴り落ちる音を聞いた。目覚めてみると水は落ちていなかったのだが。
雷馬は、その染みを暫し見つめていた。
―――8―――
「この道で合っているんだろうな?」
「合ってる!」
「罠に填めようってんなら、止めておけよ」
「填めない! 填めないから刃物を下げて!」
二人は佐萌亞に武器を突き付けて、儀式が行われる部屋まで道案内をさせていた。
しかし、まるで蟻の巣である。そこかしこに部屋があり、廊下が何処までも続いていると思えば小さなドアを開けば、細い階段が下に伸びている。現在は幅が十メ
ートル弱の大きな階段を下っている。何処まで歩いても床も天井も白一色で、気分が悪い。
「随分、下って来たんじゃないか?」
階段は今まで二〇程下って来た。それは全て階段よりも壁に梯子を取り付けたようなほぼ垂直に近い急勾配のもので、段数は八〇を超えていた。それ一つでも
結構な距離なのに、それが二〇も繋がるのである。現在地も、相当深い場所なのかもしれない。
「よく、こんなもんを造ったな」
「床はゴムが貼ってあるみたいだけど、壁とか天井とか、何で出来ているの?」
コンクリートにしても木にしても、これだけのものを造るとなると相当な量を必要とするだろう。果たして、幾ら掛かっているのか。そして、何処から持ってきたのか、
も重要になってくる。
「これは、地中に穴を開けて上下左右を硬化樹脂で固めてある」
「コウカジュシ?」
ウレタン樹脂の仲間だろうか。
「わたし達の世界にある木の樹液を固めたものだ」
「へぇ」
幻不は壁に触れてみた。確かに、コンクリートよりも軟らかいし、木よりも冷たい。
「塗装は?」
「樹液自体がその色なんだ。床には、軟化樹脂が上塗りされている」
「ゴムじゃないんだ」
塔画が踵で床を叩く。顔面をぶつけたので感触はよく覚えているが、限りなくゴムに似ていた。
「それで? あとどのくらい下がれば良いんだ?」
「階段は、あと一つ。あとは坂道になってる」
「坂道? スロープがあるのか?」
「今流行りのバリアフリーってやつかしら」
では今までの危険な階段もスロープにすれば良かったのに。何故そんな中途半端な事をするのだろうか。
「全部スロープだったら、車輪で転がれば済んだのにな」
「車輪って、あの、ローラースルー・ゴーゴー?」
「キック・ボードと呼んで欲しいな」
同じでしょ? と言う相方に幻不はただ苦笑いした。
佐萌亞が最後だと言った階段を下り終わり、二人は揃って顔を顰めた。佐萌亞も、二人の気持ちが分かったと見える。
幻不は、無意識のうちにすっかり深い溝が出来てしまった眉間を指で押し広げながら、
「え〜っと……」
どう反応すべきかと、一生懸命思案していた。
「佐萌亞って、言ったかしら? 貴女」
それは塔画も同じだったらしい。
「……何でしょうか?」
二人の不穏な気配を感じ取ったのか、佐萌亞は頬を引き攣らせる。
「貴女は、この施設の建設に携わっていたの?」
「い、いいえ。わたしは、戦闘専門ですから」
「そう。それは残念だわ」
「携わっていると言ったら、お前、その女を殴っていただろ」
「当然じゃない。袋叩きよ」
塔画は顳に指を押し付けた。そして途轍もなく深い溜息を吐く。
「スロープって聞いたから、バリアフリーを連想したわたしが馬鹿だったわ」
「スロープと言ったのは私だ。佐萌亞は的確な表現をしたんだよ。坂道って」
「そうね。後で覚えてらっしゃい」
一般的なスロープというと、傾斜角度一三〇度くらいの緩やかな坂道が五メートル程度あり、次に水平の面が五メートルあり、また坂道が五メートルある、といった
具合に、傾斜と水平が交互に続いているものだ。しかし、流石異世界の文化、といったところ。こちらの常識は無効と見える。
目の前にあるのは――あくまで目算だが、傾斜角度六〇度の、巨大滑り台とも取れる見事に危険なスロープだった。しかも幻不の高い視力を持ってしても、果て
が見えないと来ている。
「いやぁ。これを車輪で下っていったら、さぞ楽しいだろうなぁ」
塔画は原因不明の怒りに燃え、幻不はすっかり自棄になっている。
「何考えてるのかしら、ここの設計士。信じらんないわ。モーグルのコースだってこんなに角度は無いわよ」
「まあ、良いじゃないか。面白いんだし」
「貴女ねぇ……」
溜息を漏らす塔画だったが幻不が上着の前を閉じ始めたので、仕方なくウエストポーチの位置をずらした。
滑り降りるしかないのだ。
駆け下りたとしても、どうせすぐに同じ状態になるだろうし。若しかしたら怪我をしてしまうかもしれない。この先どんな障害が待ち構えているか分からない今、動き
を制限させられては堪らない。
三人は水平と斜面の境界に腰を下ろし、手で床を叩いて飛び出した。
「―――――――‼」
すぐに、上に押し上げられるような浮遊感に襲われた。ジェットコースターの急降下の感覚に近い。
床に触れる箇所が、摩擦で高熱を持ち始めた。噴き上げる気流により、呼吸が困難になる。このままでは窒息してしまう。そう思った時に、斜面は水平と交わった
。そしてそのまま慣性の法則に従い水平面を二百メートル近く走ってから、我が身は停止した。
「はい。到着」
安堵の溜息を吐いて、塔画は立ち上がる。着衣の後部が、摩擦によって光沢を帯びていた。幻不も尻から背中に掛けて上着が輝いている。
「富士急のフジヤマよりもスリリングだったわ」
「だろうな。いやぁ、機会があれば車輪を用いて再戦したいね」
爽やかに笑う幻不の足元で、佐萌亞が青い顔をして蹲っている。最初は、「まぁ、あの後だし、仕方無いか」と思ったが、どうも、様子がおかしい。
「どうした?」
顔中に脂汗まで浮かされては、矢張り心配になる。
幻不は佐萌亞の顔を覗き込んでみた。具合が悪いのだろうか。
「お前達、」
佐萌亞は服の胸の釦を握り締める。
「気を付けろ。ここから先には、本隊が控えている」
「そうか、漸く本隊の登場か」
「何を呑気に! お前達は充分強い! だが、」
「わたし達より、強いの?」
佐萌亞は激しく頷いた。
「ただ強いだけじゃない。冷酷で、例え仲間であっても、負けた者は容赦なく殺す。数が多いから、囲まれたら命は無いぞ」
「それを私達に教えて、どうするんだ?」
天馬・イツが空の存在と伝えてきた理由は分かる。空に幻不達を殺されるのが嫌だったのだ。しかし、佐萌亞は違う。元から殺すつもりだったのだから、このまま
本隊が来るのを待って、二人を差し出せば勲章の一つでも貰えるだろうに。
「わたしは剣士だぞ」
「それがどうした?」
「お前も剣士ならば分かるだろう。自分よりも強い敵には、簡単に死なれては困る。お前はわたしが会ってきた中で最も強い剣士だ。だから、あんな、数で相手を
潰そうとする本隊の奴等なんかに、殺させたくないんだ」
自分より強い奴は自分が倒す。自分以外の者に殺させはしない。自分達と天馬の関係と同じではないか。
「それが、お前の騎士道か。ならば、約束しよう。佐萌亞」
「約束?」
「ああ、そうだ」
幻不は、まだ床に這い蹲っている佐萌亞に右手を差し出した。
「私は本隊なんぞに殺されない。たとえ、その本隊が私達より強くても」
約束しよう。そう言う幻不の瞳を、佐萌亞は少しの間見詰めた。戸惑いを含んだ瞳は、しだいに確信を得る。そして、よろめきながらも自力で立ち上がり、佐萌亞
は幻不の手を握った。
「約束、だぞ?」
「ああ。何より、私達はお前達が拉致した仲間を取り戻すまで死ねないからな」
「死ぬ気はないもの」
微笑を浮かべて二人を眺めていた塔画が、顔を長く続いている廊下の向こうに目を向けた。途端に、佐萌亞が顔を更に青くする。
大気を揺るがす、低い音がこちらに迫って来ていた。本隊の登場である。
―――9―――
視界が白く濁る程に焚かれた香。その匂いは甘い。しかし、甘い匂いも度が過ぎれば刺激臭となるのだと、雷馬はこのとき初めて知った。
「ゲッホ!」
あまりの匂いに、雷馬は咳き込む。
「な、何なの? この匂い」
「瑪品の木を乾燥させたものを燃やしています。儀式の前に、この部屋の空気を清めているんです」
「メホンって、そっちの香木?」
「はい。貴重な物ですから、特別な時にしか使いません」
特別な時。確かに特別だ。若しかしたら、これが雷馬の人生の最後になるかもしれないのだから。
――まいったなぁ。
雷馬は内心、頭を抱えた。
そのときだった。
「琉葦芙様!」
儀式の行われる部屋に、亞灑亞劉が飛び込んで来た。
「どうしました?」
「侵入者です! 地上の男達が惨殺され、歩兵達も倒されました。佐萌亞が人質に取られている模様です!」
――侵入者?
「まさか! 何故此処が分かったの?!」
「現在最下層に来ているらしく、本隊を向かわせました。しかし、」
「そうですね。始めましょう」
琉葦芙の決意の瞳が、雷馬を写した。