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第一章 天空人と天馬とその他諸々

第一章   天空人と天馬とその他諸々


 ―――1―――


 闇夜を切り裂く一陣の風。


 眠りに落ちた深夜の住宅街を、金髪の少女が走る。彼女が追うのは、中年の男だった。


 女の子が男を追うというこの光景を、他人はどう見るだろう。痴漢、ストーカー、下着泥棒。何れにしても『勇気のある娘だ』と思われるだろうが、勇気の有る無しに


拘らず、彼女はその男を逃がすわけにはいかなかった。


 ぴりり、と音を立てて男の背中が割れた。人間では有り得ない現象である。少女はほんの少し口元を歪めて、羽織っている白いパーカーのポケットからナイフを


三本取り出した。


 走りながら、男の背中はどんどん裂けてゆく。そして、蝉や蝶が脱皮するように、中から桃色のゼリーのような物が出て来た。アスファルトに男の皮を捨てて走る


桃色ゼリー。


 皮を捨てた事により、少し、足が速くなったようだ。この追いかけっこを始めてから二〇分になるだろうか。しかし、少女の走りは全く遅くならない。


 突然、桃色ゼリーが立ち止まった。行き止まりである。


「人間界の居住区は迷路みたいになってるからねぇ。特にここは、世界でも指折りの大迷宮だし」


 桃色ゼリーは振り返って、少女をその身体に埋まった巨大な眼球で睨み付けた。


「年貢の納め時ね。天馬(てんま)


 紅玉の瞳を輝かせて不敵に微笑む少女に、桃色ゼリーは一度身体を縮め、そのバネを利用して飛び掛る。桃色ゼリーが宙に浮いた所で、少女はナイフを放っ


た。


 ナイフを胴部に受けた桃色ゼリーは転落し、ベロン、と地面に伸びた。


 有毒の水蒸気を放ちながらゼリーが沸騰する。


「聞こえるかしら? 天馬。ああ、アンタにも名前があったわね。全く、天馬の分際でシシなんて立派な名前持っちゃってさ。ま、その名前に免じて、このあたしがア


ンタを殺してあげる」


 少女は右手人差し指を空に向けて、思いっきり叫んだ。


「バック・ドラァフト!」


 ボォオッ!


 少女の声に、桃色ゼリー・シシは燃え上がった。地獄の業火にも見える紅蓮の光は、少女の頬にも色を着ける。


雷馬らいば


 桃色ゼリーの大炎上にご満悦の少女の背後で、声がした。女の子の声ではあるのだが、少女のそれと比べると若干低く、少年のものとも思える声。雷馬と呼ば


れた少女は頬を膨らませて振り返った。


「でかい声を出すな。近所迷惑だ」


「何よ。見てただけのくせに」


「私が手を出したら、喜んだか? お前」


 雷馬から五メートル離れて立つ黒服の少女・幻不は溜め息を吐いた。


 それに対し、雷馬はニッ、と白い歯を見せて笑う。


「ぜんぜん。寧ろ怒ったわね。目の前にいる天馬は自分で殺さないと気が済まないの」


「好戦的なのは結構だが、民間人の目の前で力を使うのは辞めろ。マスコミに追い回されたいのか?」


「『緊急特番! 本当にいた! 超能力者スペシャル‼』なんかの手品師の前座に使われるのは嫌ね」


 そう語る雷馬の頭髪が、黄金から明るい栗色に変わり、瞳も茶色に色を変える。


「でもさ、そんな事言っちゃって。幻不ちゃんは、ちゃんとやってくれてるじゃない?」


「そうだったかな」


 幻不は辺りを見回した。


 空中に木の葉が一枚浮いている。夕方のニュースの、「今夜は強い西風が吹くでしょう」との予報が当たって吹いた、秒速二〇キロメートルの風に煽られて樹か


ら毟り取られた葉の落下途中の姿だ。ある家の窓からは、奥様が帰ってきた伴侶に投げつけた湯飲みが空中に留まっているのが見える。時が止まっているのだ。


 雷馬がこの住宅街の最寄り駅で、シシを見つけた直後に幻不が止めておいた。したがって、シシと雷馬の追いかけっこも絶叫も、住民は何一つ見ていないし、耳


にしていない。


「そろそろ解くか」


 そう言って幻不が二つ、手を叩いた。すると、


 ガチャン‼


 空中にいた湯飲みが壁に激突したらしい。



「あら、お帰りなさい。遅かったわね」


 幻不と雷馬の活動の拠点は、繁華街に犇く雑居ビルの一つ。一階が電気店、二階が雀荘。そこの三階には何もない。コンクリート打ちっぱなしの壁に、タイル張


りの床には無数の傷がついている。嘗ては外国人が経営する飲食店が入っていたらしいが何年も前に無くなってしまい、今はこのビルの所有者である(その)柳(


やなぎ)家の一人娘の遊び場になっている。


 帰って来た二人を迎えてくれたのが、その大富豪苑柳の令嬢・苑柳(そのやなぎ)(かなえ)


「雷馬が、駅前で天馬を見つけてな。住宅街まで追跡してたんだ」


「だから『時止め』を使ったのね? 気をつけてよ。『時止め』は、能力者には効かないんだから。貴女の居場所を奴等に知らせる事になるのよ」


「分かってる」


 幻不が脱いだ裾の長い上着を鼎が受け取り、衣文掛けに掛ける。まるで仕事から帰ってきた夫とそれを待っていた妻のような一連の動きは、二人の付き合いの


長さと信頼が為せるものだった。


 幻不、雷馬、鼎――否、塔画(とうが)。鼎は戸籍上の名前で、幻不と雷馬にとっては塔画の方が馴染み深く、呼びやすいのでこれで呼んでいる。


 この三人の付き合いは、何百年も前からになる。地球の時間に当てはめて遡ると、若しかしたら何日か前になってしまうのかもしれない。あちらと此方では時間の


流れ方が違うので、断定は出来ない。


 あちらと此方。此方は、今生きている世界の事で、あちらとは言い換えれば箪笥の向こうの世界だ。名前はナルニアではなく、剛神(ごうじん)


 剛神は、火や水を自在に操り、手を使わずに物を持ち上げる等の力を持った者達・天空人(てんくうじん)が住んでいる。その力は極稀にこの世界でも誕生する超


能力者の比ではない。特に支配階級にもなると、念じただけで山脈を一つ破壊してしまう程の力を持つ者が現れる。


 天空人は、人間が日本人、漢民族、アボリジニ等様々な種類があるにも係わらず、人間と一緒くたに呼ばれるように、天空人もまた、剛神に住む者の総称である


。硝子の瞳や水晶の角、花弁の翼等を持つ者もいれば、獣と混ざり合ったような姿の者もいる。今現在分かっているところでは、剛神には三二〇種の天空人が住


んでいる。そして三人は、その複数の種族の中で、支配者階級にある種族の長だった。昔も、そして現在も。


 幻不は武芸に優れた武闘派民族・(じん)の長。塔画は策略と智謀に優れた頭脳派民族・優の長。主に戦場を駆けるのは、この二つの種族。


 しかしどうしたものか、雷馬の種族・(めい)は舞いや音楽等、芸能には優れているが、それらが戦場で発揮された事は無かった。勝利に貢献した事も無かった


。専ら、戦場から凱旋した刃と優を迎える事が仕事。雷馬はそれがちょっとしたコンプレックスだったが、これは二人には言っていない。あくまで、自分独りの悩みだ


った。


「でも、駅前に天馬がいるなんてね。意外だわ。あいつら、あんなにも人間が居る場所を避けていたのに」


「スーツ着てたしな。会社勤めでもしているんじゃないか? この世界で生きて行くには金がかかる。人も、そうでない者もな」


「社会に溶け込んでいるのね。厄介だわ。人権なんか持たれたら、狩る側としては不利ね。迂闊に手を出したら人殺しになるもの」


 幻不は窓際に置かれた壊れかけの応接セットのソファに腰を下ろした。塔画は以前の飲食店の影が残る暗く広いキッチンに姿を消す。


 雷馬は幻不と向かい合う席に座り、溜息を吐いた。


「溜息百回吐くと咽頭癌になるぞ」


 どうした? 走り回って疲れたか?


 幻不は微笑する。しかし笑っているのは口元だけだ。人間の女の胎から産まれた為に前世とは色の異なる漆黒の瞳には、雷馬の身を案じる、そんな光がある。


「あたしね、思うのよ。あたし達は何の為に、この世界の人間として産まれたんだろう、って」


「何だ、唐突だな」


 幻不は年齢にしては長い脚を組んで、先を促すように雷馬に掌を見せる。


「唐突なんかじゃないわ。いつも思っていたわよ。あたし達は二回転生してるけど、前世の記憶は全部持って来てる。最初は剛神の人間で、それぞれの部族の長


だった。前回もそうだったでしょ? でも今回はあたし達、剛神の人間ではないわ。この世界の人間なのよ。でも、前世もその前のも、記憶は全部持ってる。剛神で


も、あたし達は長として扱われているわ。じゃあどうして、前回みたいに剛神に生まれなかったのかしら」


 何故、役立たずのあたしが一緒に転生したのかしら。それは、思っても言わなかった。


「『じょおう』って、知ってるか?」


「女王? クイーン?」


 幻不は左の人差し指を空に走らせる。草書体の二文字。


「いや、女の皇帝と書く。でも女帝ではない。あくまで、(おんな)(すべらぎ)。簡単に言えば、書き(シナリオライター)だ」


 女皇(じょおう)。初めて聞いた単語だった。勿論、書き手の一般的な意味は知っている。しかし、女皇(簡単に言うと書き手)とは、果たして何者だろうか。


「世界――それは剛神もこの世界も、全部含まれてる。私達が知っている世界も、知らない世界も全部だ。その歴史は、全部こいつが動かしている。この日何処で


何が起きるとか。何処で誰が何を言う、とかな」


 幻不の話はこうだった。


 女皇とは世界の歴史を支配しているモノの事で、それは強大な力なのか人物なのかそれは特定されていないらしい。全ての生物に降りかかる不運や災難。幸


運や偶然。それを全て動かし、支配している。つまり、明日の自分の命は、女皇に掛かっているのだ。女皇が何を考え、その時どんな気分なのか。それで歴史が


変わる。


 学術的根拠は無い。一種の、信仰対象だ。全知全能なる神は、人間が「存在している」と言わなければ存在しない。聖書も世界遺産の礼拝堂も、全て神ではな


く信じる者が造った物だ。実体が無いものは、信じ、存在を誰かが主張しなければ姿を持たない。女皇もまた、万能なる神と似たものだ。大規模な信仰ではないが



 この女皇信仰は、三人が最初の天命を全うしてから二度目の命を貰うまでの間に剛神の極一部の神官達の間で生まれ、民間に広まる事なく、戦場に携わる者


達に移ったのだという。だからこそ、二度の人生の中で両手で数えられる程度しか戦場に携わらなかった雷馬の耳には入らなかったのだ。三人の中で一番短命


だったというのも、あるかもしれない。長く生きていれば数多く戦場に携わる事も出来ただろうし、女皇の話を耳にする機会も沢山あっただろう。


「だからその時歴史が動いた閃きも、町工場から世界に飛び立った挑戦も、大惨事もそれこそ神様の気の赴くままなのさ」


「じゃあ、あたし達がこの世界に生まれたのは、女皇の悪戯なの?」


「言ったろ? 女皇は簡単に言うと書き手だって。だから世界の歴史は女皇の書く物語なんだ。そして私達はその物語の登場人物。気紛れや悪戯で、勝手気儘


に登場人物を動かしていたんじゃあ、後から多かれ少なかれ問題が出てくる。死ぬべきだった登場人物がまだ生きていたり、子供が出来ている筈なのに出来てい


なかったり。そうなると、辻褄合わせにこれからの設定を変えなくてはならなくなるし、少なからず苦労もするだろう。書きたかったシーンも御釈迦になるかもしれな


い。だから、女皇は少し考えて書くんだ。伏線と言うかな。誰かの行動の意味が、後で分かるようになる」


 そこまで真剣な顔で喋っていた幻不が、突然ニヤリ、と笑った。


「剛神で私達に全滅させられるべきだった天馬が、どうして最近、それも私達が産まれる少し前から、人間界に現れるようになったのか、気になった事はないか?」


「若しかして、物語の展開の為?」


「物語は戦場を移して急展開さ。天馬は剛神を支配出来なかったから、その代わりにこっちの世界を支配しようとする。奴等としてはその気なんだろうが、女皇はそ


んな目論みで天馬を人間界に下ろしたんじゃない」


 最終的に女皇がどちらを勝者とするのか分からないが、


「剛神での今までの戦いを第一章とするならば、これから始まるのは差し詰め第二章といったところだろう。それが私の見解だ。かなり無理矢理なこじ付けだが、こ


れなら今迄剛神に産まれていた私達が人間界で産まれても、変ではないだろ?」


「その話が本当なら、貴女が話した事は一言一句、全て女皇の筆によるものになるわね」


 塔画がキッチンから出てきた。手には丸い盆があり、その上には湯気を立てる白いカップが三つ乗っている。


「そうなるな。誰かが女皇の存在に気付いて、そのシナリオから逃れようと考えて動く事も、女皇の考えた事だ」


 では、何もしなくても女皇が動かしてくれるのだから、自分達は何も考えなくても良いのではないか。雷馬はそう考えた。それを打ち明けてみると、幻不は、


「お前がそう考えるのも、女皇が書いた事だ」


 どうやら、女皇の筆から逃れる事は出来ないらしい。人間誰しも、運命からは逃れられない。その日その時牛乳を飲んだのも、机に手をついたのも、全てが運命


であり、女皇の文章。全ての出来事が、運命。


「わたし達は女皇が何を書いたとしても、先のページは読めないわ。振り返って前のページは読めても、今、目の前にあるページを読まない限りは先を読んでも分


からないものね。だから、これからの事を話し合いましょうか?」


 塔画は二人にカップを手渡し、雷馬の隣に腰を下ろした。カップからは、甘い花の香りが昇ってくる。


「昼間、天馬の動向調査に当たっているメンバーから報告があったの。スマリの軍が、浅木(あさき)町で発見されたらしいわ」


「そうなると、こっちも本気で動かないといかんな」


 スマリとは、元来集団生活を好む天馬の中にある――軍隊とも言える一つの集団のリーダーである。


 天馬とは一言で言うとモンスターの事で、桃色ゼリーがそれである。グリフォンやハーピー等その形態は様々だが、剛神で生まれたもう一つの種族だ。


 天空人はそれと戦う事が第一で、天馬との殺し合いが本能だと言っても良いだろう。どちらかが全滅しない限り何も始まらないし、終わらない。今二つの種族の


前に置かれた選択肢は、戦う事、殺しあう事しか無い。この先に何があるのかは知らないが、兎に角、今やるべき事は一つしか無いのだ。両種族の和平など、考


えるだけ時間の無駄だ。有り得ないのだから。


「スマリの軍は、以前スマリと他数匹の兵を残して壊滅したわ。でも、」


「お礼参りか?」


「でしょうね。特に貴女には、恨みがあると思うわよ」


「スマリの旦那さん、倒したのは燐雅(りんあ)ちゃんだもんね」


「子供のやった事は親が責任取れって?」


「基本的には、そうじゃない?」


「しかしな」


 今の幻不に子供はいない。つまり前世での話だ。


「その時、燐雅は十九歳だったんだぞ? もう立派な成人だったし、長になっていたし。親の責任どうのと言う歳じゃなかった」


「そうなると、親の教育がなってない! と来るのが世の常よ」


 なんて無茶苦茶な! 幻不は微かに眉を顰めてお茶を啜った。夫に先立たれた為、子供の教育には人一倍気を遣ったし努力もしたが、片親というのは何処でも


苦労するらしい。


「それで、二百年で軍を作り直したのか? スマリは」


「天馬には百年や二百年は大変な時間ではないもの。細胞一つと時間が十分もあれば、奴等は幾らでも複製(クローン)を作るわ」


「そうなると、今回は先鋭部隊になってる可能性があるな。優秀な奴の複製を作れば良いんだから」


 しかし、確かに複製は強いが、素体(オリジナル)に比べると身体が弱い。産まれる時は赤子の状態ではなく、戦士として戦える程に成長した姿で誕生するが、誕


生して三日もすれば空気に押し潰されてしまう。断続的に何体も作っていれば良い事なのだが、複製を作る事が出来る天馬が生まれる確率は千体に一体。それ


は其々の持つ個性のようなものらしく、複製を作る能力のある者の複製が、必ずしも同じ能力を持っているとは限らない。持っていられたら、それこそ天空人には


致命的だ。その辺り、女皇は平等に設定しているようで、正直助かる。


「数は、どのくらいなんだ?」


「とんでもないわ。立派なテロね」


 スマリ軍の数。それを口にする前に、塔画は唇を噛んだ。


「町一つ、天馬に摩り替わっているらしいわ」


 それに続いたのは、幻不の壮大な溜息だった。ソファに深く身を沈めて、頭を抱える。


「最悪だ。奴等本当に人間社会に溶け込みやがった」


「それも元からいる人間に成り代わったのよ。本人が何処に行ったか、考えたくもない」


「考えるまでも無い。奴等の事だ」


 生かしておく筈が無い。今頃縁の下に居るか、それとも消化されたかのどちらかだろう。


「それを全て狩るとなると、会社勤めのを狩るより厄介だな。町一つ無くなる事になる」


「今まで極力目立たないように動いて来たけど、今回はそれも難しそうね」


 剛神の武将と軍師が、まるで陣営の天幕にいるような会話をするのを、雷馬はカップ片手に眺めていた。眺めながら自分の無知を恥じていた。


 天馬は、ただ狩れば良いだけのものだと思っていた。目の前に居たものを狩り、最終的には全滅させる。それが最善だと思っていた。だから駅前でスーツ姿の天


馬を見つけた時、すぐに追い駆けたのだ。


 剛神でならそれでも構わなかったのだろうが、ここは剛神ではない。猿から進化した、力の無い人間の住む世界である。徒党を組む事を本能としている彼らが自


分達とは異なる者を見つけた時、どのような行動をとるのかは、考えるに及ばない。だから、幻不は『時止め』を使ったのだ。幻不が居たから、住宅街の人々は何も


知らない。何も知られなかった。


――駄目だね。あたし。


 そして再び溜息が出そうになって、カップを口元に運ぶ事でそれを堪えた。


「まあ、良いさ」


 幻不はソファから立ち上がった。


「今夜は事務処理しなくてはならなくてな。徹夜になるかもしれん」


「事務処理? 何の?」


「書類製作。事務処理と言うよりも、文書処理だな」


 何の? とは聞かなかった。幻不は聞いても答える事と濁す事がはっきりしている。尋ねて答えるくらいなら、始めから、「●●の書類を作るから今夜は徹夜だ」と


言うからだ。


「これから夜食を作ろうと思うんだが。どうする?」


 お前らも食べるか?


 それを聞いて、雷馬の中の暗く淀んだ空気が吹っ飛んだ。


「食べる! 走ったから夕飯のカロリー消費しちゃった」


「頂くわ。育ち盛りだからかしら。最近お腹が減るのよ」


「分かった。何か、特別に食いたい物はあるか?」


「任せる!」


「塩分とかカロリーとか、余計な事は気にしないで頂戴」


「誰が気にするか。そんな面倒な事」


 ソファにジャケットを脱ぎ捨て、シャツの袖を捲くりながら幻不はキッチンに消えた。



―――2―――


 山椒を混ぜ込んだ白味噌が乗った筍の丸焼き。茹でた芹を鶏のささ身で巻いた物。蕗と豚肉の炒め物に、蕗の薹のパスタ。


「季節感満点なメニューだね」


 朝食の残りのヒジキの煮物を摘みながら、雷馬は焙じ茶が湯気の立てる湯呑みを傾けた。


「実家から送って来たんだ。旬の物だし、悪くなる前に食ってしまおうと思ってな。筍は特に、時間が経つと硬くなるから」


 幻不が空になった雷馬と自分の湯呑みにお茶を注ぐ隣では、塔画が常人離れした速度で料理を片付けている。箸の運び方は非常に上品なのだが、料理を口


に運び飲み下し、再び箸を着けるまでのスピードが速い。そして、


「御代わり下さい」


食す量が多い。


「相変わらず大食いだな。暴飲暴食はよくないぞ」


「食欲旺盛、と言って欲しいわね」


「その身体の何処に、パスタ十五束と筍三本と蕗豚炒め三皿が入るんだ? 以前の半分の大きさも無いだろう?」


 蕗の薹のパスタで富士山が築かれた皿を受け取り、塔画は首を傾げた。


「そうなのよね。生まれてからまだ十何年しか経ってないから身体が小さいのは仕方が無いんだけど、食べる量には変化が無いのよ。年齢的に育ち盛りなんだし、


まぁ、仕方無いわね」


「大食をそれ一つで片付けるな」


 お茶を一杯飲み干して、幻不は箸を箸置きに横たえた。


「あら、もう終わり? 貴女は随分小食になったみたいね」


「便利な身体になったもんだ。飯一膳と一汁一菜で充分腹が膨れる」


 修行僧でもあるまいし、成長期なのだからもっと食えよ、と、雷馬と塔画は思った。


「まあ、素敵。その身体のご両親はどんな方なの? わたし、まだご挨拶に行ってないのだけれど」


「普通の人間だ」


 続きを語る直前、幻不の表情が曇った。


「もう亡くなったがな」


「……」


「そう」


 芹のささ身巻きを口に詰め込んでいた雷馬も、むう、と眉を顰めた。塔画は無表情のまま、顔をほんの少し下に向ける。そして何もなかったかのように、再び蕗の


薹のパスタを口に運び始めた。


「矢張り、逃れられないのね。犠牲は」


「運が無い夫婦だった。初めての子供が刃の長の転生体だったというだけで、気色の悪い生物に殺されたんだからな」


 気色の悪い生物。幻不はそれを天馬であると公言しているが、真実は、幻不の両親の死に、天馬は関与していない。天馬は倒すべき宿敵だが、それ以外にも


戦うべき相手は居るのだ。天空人を有効利用しようと目論んでいる者達が。それらによって両親を失った幻不は現在、幻不の転生と前後して此方の世界に渡って


きた刃の臣達の元にいる。表面上は養女に行った事になっているのだ。


「気を付けろよ。お前達の両親がマークされていないとは限らないからな」


「大丈夫よ。お父さんとお母さんには那菖(なんしょう)柚楠(ゆなん)がいるもの」


「うちも、皆付いているから大丈夫だよ」


 那菖、柚楠、皆。それらは全て此方に渡って来ている臣達。此方には、文武に優れた者達――所謂選抜チームが渡って来ている。彼らは隠密活動を始め、長


に関わっている人間を密かに警護している。


 転生の繰り返しで長く生きているとはいえ、幾つもの天馬を狩っているとはいえ、良心は消滅していない。そのいつまでも在り続ける三人の良心に付け込んで、


両親を人質に取るなど。奴等がしないとは限らないのだ。


 そして何より両親はただの人間だ。幻不が言ったように、運が悪かったのだ。その運に恵まれなかった両親を、この戦いに巻き込むわけには行かない。


 天馬は殺す。全滅させる。そして両親は巻き込まない。


 幻不は膝の上に肘を付き、指を組んでそれに顎を乗せた。




―――3―――


 飛び散る体液を防ぐ為に腕を翳す。袖に飛び着いた生臭い液体は、一度ジェル状になって、間も無く石のように硬い物体に変わって袖から剥がれ落ちた。


 ここは報告のあった浅木町。あれから夜明けを待たずして幻不は動いていた。時刻は午前四時三十分。既に東の空は明るいが、日の出まではもう少し掛かるだ


ろう。目の前には、住民と入れ替わった天馬達が迫っている。幻不はそれを片っ端から斬り倒していた。サバイバルナイフで首を跳ね、頭から一刀両断にし、腰か


ら上を切り離す。背後に周り、迫ってきた奴は超微弱の衝撃波を放って挽肉にしてしまう。あまり強い力を放つのは、自分の居場所を知らせる事になるので出来る


だけ控える。まったく、何処までも敵ばかりだ。


「大人しく死ね!」


 物騒な事を吐き捨て、小学生の姿をした天馬を斬り倒す。誰も何一つ語らず、ただ幻不を殺す為に立ち向かい、そして斬られて行く。


 何て虚しい生だろう、と幻不は思った。死ぬだけの、殺されるだけの魂などあまりにも虚し過ぎる。それと向かい合う自分は、二度も生まれ直しているというのに。


 複数の天馬と戦うとき、幻不は戦いに集中しない。肉体はおぞましい殺戮を行い、思考は別方向を向いている。いつも、自分が殺した者の魂の行き先を考えて


いるのだ。天馬も、輪廻の輪に乗る事が出来るのだろうか、と。その場合、次は何に生まれ変わるのだろう、と。どうせなら、もう二度と天馬には生まれないで欲しい


とさえ考える。


 天馬相手に、私もそんな優しい事を考えられるのだな、と迫って来ていた天馬を全て処分して、ナイフをベルトに固定した鞘に収めながら幻不は一人で笑った。


しかしその自嘲気味の笑いが、一瞬にして凍りついた。足元に転がる天馬の首が、バチリ、と目を開けたのである。


――殺し損ねたか?


「……じん、の……長、殿……」


 唇を僅かに動かしながら、首は目をキョロキョロさせて幻不を探した。


「何だ? イツ」


 それはこの首の名前。天馬と向かい合った瞬間、相手の名前が分かる。心に響いて来る。多分、天馬の方も同じだろう。そのとき、どの名前が相手に伝わるのか


は分からないが。


「お、気を付けて」


「何の事だ?」


 首は口から鼻から耳から、玉虫色のジェル状の液体を拭き溢し始めた。この首も、じきに壊れるだろう。


「我々、と違う……モノ、が。わた、て。きました」


 我々と違うモノが渡ってきました。だと?


「おそろ、しい力を。よびだ、そうと。しています」


「それは何か? 私達を陥れる為の虚言か?」


「ここ、はセン、ジョウ。我々と、あなた、達の戦場」


「そうだな。私達とお前らの戦場だ。そこに、邪魔者が入ってきたのか?」


 幻不はとても穏やかな口調で、イツと話しをした。左手はナイフの柄に置いている。


「あなた達は気付か、なかったかも、し、れないが。我々は気付いた。アレは」


「あなた達を喰おうと、して、いる」


「成程。しかしイツ。お前、それを私に教えて良かったのか?」


 そいつ等が私達を食い尽くせば、剛神は自動的にお前達の物になるのだぞ?


 しかし、この一族の存続と全てを賭けた戦いに於いて――手段は問わない癖に、天馬は非常に紳士的だ。戦いの邪魔をするものを嫌う。自分達以外の者が天


空人に手を掛けるのを嫌い、同時に天空人以外に殺されるのも嫌がった。


「あなた達を、殺す、のは。私、たち。邪魔、させない」


「そうか。有り難う」


 幻不はイツの首に、ナイフを突き立てた。


 玉虫色が飛び散り、結晶となってアスファルトに散らばった。


「成程」


 私達を喰おうとしている者、か。


 幻不はナイフを再び鞘に収め、唇を噛んだ。


 他種族・他世界の事情については、天空人よりも天馬の方がアンテナが高い。幻不達がそれに気付くより、早く気付くのだ。正直なところ、幻不は他種族に疎か


った。剛神と、この世界の他にどんな世界があるのかも、天馬達程の知識は無い。一応勉強はしているが、別の世界の住人と対面した事も数える程度しかない。


「お久しぶりです。刃の長殿」


 女の声がして、幻不は振り返った。


 そこに居たのは三十代半ばの女性で、緩いウェーブの掛かった黒い髪を後頭部で纏めている。身に纏っているのは柔らかな素材のワンピースで、裾からは細い


足首が見えている。足元は真新しいサンダル。ワンピースの上には向日葵柄のエプロンを着けていて、明らかに団地妻の出で立ちだ。しかし、幻不は彼女が人間


ではない事を知っていた。当然である。この町は、全て天馬・スマリの軍に乗っ取られてしまったのだから。従って彼女も天馬になるのだが、産み分けが違うとか何


とかで、イツとはまた異なった天馬だった。


 隊長・スマリ。その人である。


「久しぶりだな、スマリ。彼此、二百年ぶりか?」


「そのくらいになりますか。貴女は、だいぶ小さくなってしまいましたが、雰囲気は以前と全く変わりませんね」


「そうか? でも仕方が無いのさ。この世界に生まれて十年と少ししか経ってないんだ」


「何故貴女は、転生する事が出来るのですか? 記憶はそのままで」


「それは私も気になってる。しかし、女皇に尋ねる術も無いからな」


 スマリは一度、自分の夫の仇を前にしているとは思えない程穏やかで優しい顔になり、それから直ぐに戦士の顔に戻った。


「刃の長殿。貴女が私達を殺したいのは分かりますが、今は」


「邪魔者の処分、か?」


「ええ。長より、私はその任を仰せ付かりました。この戦いの邪魔をする者を、消滅させよ、と」


「それは助かる。その邪魔者とお前らと、両方相手にするのは辛いと思ってたんだ」


「では、一時休戦と行きますか?」


「ああ、その方が助かるな。でも、どうせ手を組むのは、出来ないだろ?」


 今は幻不もスマリも、戦いよりも邪魔者を排除する事を望んでいる。どうせ目指すものが同じならば、手を組んでもよいのではないか。そうは思うが、


「それは、貴女のお仲間が許さないでしょう?」


「そうだな」


 天馬と手を組むのは、御法度だ。


「また会おう、スマリ。その時は、容赦無く殺すぞ」


「では全軍率いて応戦しましょう。その時まで、死なないで下さい。長殿」


 お前もな、と言う代わりに手を振り、幻不は浅木町から一瞬で姿を消した。



*** ***


「シア様の居場所は?! まだ分からないのか?!」


 蛍光灯で真っ白に照らされた細長い廊下を、裾が踝まで届くコートを羽織った背の高い男が歩いている。長すぎるとも思える美脚が繰り出す一歩は大きく、回転


を少し速めると、後ろに付いて来ている部下達は走らなければ付いて行けなくなる。


「彼方此方で能力の波動は感知されるのですが、移動が素早いものですから……」


「言い訳はもういい!」


 張りのある低音で一喝され、部下達は縮こまった。


「この街の何処かにいらっしゃる筈だ! 一刻も早く探し出せ!」


―――4―――


 朝を迎えて塔画は学校へ向かい、雷馬はもう一眠りすると布団に戻り、幻不は一人、リビングとは名ばかりの古いソファとテーブルの並ぶ部屋に居た。


 あれからすぐに帰って来て、二時間ばかり寝た。前世もその前も、人生の半分以上を戦場で過ごして来た幻不にとって二時間の睡眠時間は贅沢品だった。


 しかし、邪魔者の事を全て天馬に任せるわけにはいかない。これからまた、眠れない日々が始まるのだろう。そう思うと、今は寝ておこうかという気になり、幻不は


ソファに横になった。ソファの背に掛けていた今朝着ていた上着を背中に掛け、目を閉じる。眠りに落ちるには三分もいらなかった。


「幻不ちゃん!」


 遠くに雷馬の声が聞こえたような気もするが、空耳か、夢かと思って気にはしなかった。


「幻不ちゃん!」


 二回目。そして三回目は、


「幻不ちゃん! 起きて‼」


 あまりにもはっきりと聞こえたものだから。


「……何だ?」


 幻不は起き上がった。


 辺りを見回す事も無く、幻不は状況を判断した。


 自分の顔を覗き込むようにソファの脇に立つ雷馬の隣に、馴れ馴れしく寄り添うように立っている一人の男。その男に、幻不は嫌になるほど、面識があった。


「エニ」


「久しぶりですね。シア様」


 男・エニは栗色の髪をひっ詰めて後頭部で束ね、その逞しい肉体を何処かの軍服のような赤黒い衣装で包んでいた。上着は裾が踝まで届く長い物。両肩に金


の飾り紐があり、胸には意味が分からないけれども無数の勲章が付いている。街角やイベント会場でよく見掛ける軍服マニアのようだ。


「何用だ?」


「それより先に、言うべき事があるでしょう? ワタシに」


「さて、何の事かな?」


「シア様」


 親友と来客の間に突然散った火花に、雷馬は居心地悪そうに肩を竦めた。


「あのぅ。お茶でも、いかがでしょう」


 そして、その場しのぎの社交辞令を吐いてみた。


 雷馬が見るに、エニと呼ばれた男は幻不と面識があり、何度か幻不と塔画が話していた奴等にあたるのではないだろうか。その奴等はてっきり、天馬の事だと思


っていた。しかし天馬には能力の放出量を控えるまでして、自分の居場所を隠す必要は無い。寧ろ、ある程度の所在を知らせておいても構わない相手だ。


 若しエニが幻不を追う能力者だったとしたら、そして幻不の命を狙う悪者だったりしたら!


――どうしよう。


 逃げるように飛び込んだキッチンでお茶を煎れながら、雷馬は迷っていた。リビングの二人は一言も喋らずに、相変わらず険悪なムードが漂っている。塔画に電


話をしようにも、今は授業中だろうし、それに今日から中間試験だとも言っていた。邪魔をするわけには行かない。


 ここは、自分で何とかしなくては!


 雷馬はうん、と胸を張ると、ティーカップを乗せた盆を手にリビングに戻った。


 リビングの二人の間に漂う険悪な空気は、最早致死量を軽く超えていた。心臓の弱い人をこのリビングに連れて来たら、三秒で天に召されるだろう。


「探しましたよ。シア様」


 エニはその飴色の瞳で幻不を見詰めている。少々怒りを孕んでいるようにも見える。


「その名前は一体何処から来たんだ?」


 それに対して幻不は未だ眠いのか不機嫌そうな眼をしている。かなり不機嫌なようだ。


「柘榴の神子の麗しきお名前ではないですか。貴女の名前ですよ」


 幻不は苦い顔をした。柘榴の神子(みこ)など自分には身に覚えの無いことである。


「ワタシの『エニ』も、貴女が付けて下さった聖なる名前ホーリーネームではありませんか」


 覚えていらっしゃらない? とエニは首を傾げる。その仕草に、幻不は眉間の皺を深くするばかりだった。


「覚えていない、も何も。お前の言う柘榴の神子は多分、私ではないぞ」


「何を仰います!」


 バァン‼ エニはテーブルを叩いた。その衝撃によってテーブルの上に置かれていた青いガラスの一輪挿しとそれを乗せていたレースのソーサーが、一瞬浮き上


がる。それをキッチンの入り口で見ていた雷馬は「うわぁ」と肩を竦めた。一輪挿しに何も入っていなかったのは何とも嬉しい偶然である。


 エニは右手を挙げた。


 殴るのかと思った雷馬はウッと目を閉じる。しかし何も音はしなかった。恐る恐る瞼を持ち上げてみると、エニは幻不の左耳に掛かる髪を除け、左耳を摘んでいた



「これが! コレが何よりの証拠ではありませんか!」


 それは緋色の結晶だった。幻不の耳にいつもぶら下がっている物だ。ピアスでもイヤリングでも、マグネットピアスでもシールでもない。耳朶に直にくっ付いている


のである。


「これは柘榴の神子がお持ちになっているとされる、柘榴(ざくろ)水晶(すいしょう)! それ以外の何物でもありません!」


「変な妄想をするな! いい年こいて! いい加減目を覚まさんか‼」


 ヒートアップする幻不とエニ。雷馬はすっかり入るタイミングを失っていた。


「まったく」


 幻不はエニの手を払い除け、その左手で入り口を差した。


「もういい! 話しても無駄だ。出て行けエニ。お前のように落ち着きの無い者がいると雷馬が怯える」


「な、何ですと?! ワタシは貴女をお迎えに来たのですよ?!」


「それが何だ。私は迎えに来てくれとは一言も言っていないぞ。出て行け」


 しかしエニも引き下がらない。


「シア様!」


 必死に食いつくのだが、


「出て行けと言っているんだ!」


 一瞬、ぐわり、と家具が浮き上がった。幻不の瞳は真っ青に燃え、髪は銀に輝いた。それには流石のエニも青くなる。


「わ、分かりました。……でも、次は必ず連れて帰りますからね!」


 言い捨てると、脱兎の如く逃げ出した。


 しかも何とも情けない内股走りで。


「まったく」


 エニが出て行ったドアを一瞥し、幻不は溜息を吐いた。そしてどっかりとソファに深く腰を下ろす。


「すまないな。見苦しいところを見せて」


「別にいいけど。何なの? あの人」


 幻不の両親が亡くなっているのは昨夜聞いたが、あんな関係者がいるとは知らなかった。


「最近出て来た宗教法人柘榴会(ざくろかい)の教主だ。一応能力者ではあるが、天空人ではない。人間の間に稀に生まれる、超能力者ってやつだな。霊能力者


とも言うか」


 新興宗教家。悪徳宗教ではないようだ。毒ガス散布や足裏診断などをする宗教であったなら、幻不は「性質の悪いカルト教団だ」とはっきり言う。幻不がただの


新興宗教で片付けているだけ、まだ安全な宗教らしい。


「幻不ちゃんの、親戚?」


「私の母方の祖父の弟の息子の嫁の弟の息子だ」


 雷馬の頭の中では、高速で一つの家系図が描かれた。その図からするとエニは、


「幻不ちゃんのお母さんから見ると、従弟の甥、になるのかな?」


「私から見るとハトコ、にもならんな。だが、遠すぎるが、私の数少ない親戚だ」


 血の繋がりは皆無だがな。


 幻不は左耳に手をやった。そこにはエニが柘榴水晶と呼んだ結晶がある。


「これは私が母の腹から出て来た時から着いていたからな。あいつはコレを神聖な物だと思い込んでいるらしい」


 豪い迷惑だ、と幻不はエニを思い出したのか眉を顰めた。


 幻不が言うには、その結晶は何の能力も無いただの石らしい。ルビーだとかガーネットだとかそんな立派な宝石でもないし、かと言って血液の塊でもない。母胎


の中にはそんなモノは無いわけだし、その石が何処から来たのか。それが謎なのだ。しかし、謎はあるが神聖な物でもない。ただの黶のような物だと、幻不は考え


ている。


「でも、仕方無いんじゃない? 宗教家なんだしさ。許してあげなよ」


 エニがあれほどまでに幻不に執着するのは、幻不の柘榴水晶の為だけではないだろう。他に守るものがあるのならば、血も繋がっていない遠すぎる親戚の子な


ど存在さえも知らないだろう、と雷馬は考えた。


「分かってあげてもいいと思うけどな」


 寂しいと思うよ?


 何とも優しい雷馬の言葉。エニが聞いていたら、「そうでしょう? そう思うでしょう?」そう言って涙を流していただろう。しかし、


「お前な」


 幻不は不機嫌そうに、それでいて呆れたように項垂れた。


「恐ろしい事言うなよ。考えてもみろ。あいつは私を柘榴の神子だと思い込んでいるんだぞ? あいつの所に行ってみろ。私は柘榴の神子として祀り上げられ、そ


の上、四六時中隣にあいつが居るんだぞ? これ程までに恐ろしい事は無いだろ? 胃に穴空くのも時間の問題だ!」


 そこまで言う事無いんじゃないの? と雷馬は思った。しかし、幻不としては考えるだけで寒気のする事だったらしい。ブルブルと震えている。恐ろしい事を考え


て身震いする。何とも、人間のような動きである。ああ、人間だったか。


「まあ、いいだろう。あの男の始末は近いうちにしておくとして」


 幻不は物騒な言葉を吐いて、ソファにごろり、と横になった。


「暫く寝る。何かあったら起こしてくれ」


「了解」


 そして再び眠りに戻って行く。


―――5―――


 私立紫苑坂(しおんざか)学園中等部女学部。ここに塔画は通学している。


 たとえ剛神で優の長という地位にあり、権力を持っていたとしても、この世界では一人の子供に過ぎない。その為、社会の流れに逆らう事は出来ないのだ。義務


教育を受け、保護者の監視下で生活し、学校の行事に参加する。


 どうしたものか、この世界ではその流れに逆らおうとすると迫害される。社会から追放される。口では、「団体活動って嫌いなの」そう語っていても、徒党を組んで


誰かを迫害する事を楽しんでいる。


 まったく、この世界の生き物はよく分からない。


 塔画は窓際の席に屯している級友達を一瞥して、鞄を片手に席を立った。


 試験期間中は大体午前中で授業が終わる。二時間試験をして、それから明日の科目の勉強をする為の時間となる。今日は現代国語と生物の試験だった。


「ねえ、どうだった? 現国」


「書けるだけ書いたけど、当たってないよ、全部」


「え! 書けたの? アタシ白紙なんだけど」


 試験後の学生の会話としては、定番の内容だ。


「あのさー」


 そして突然内容が変化するのも、けして珍しい事ではない。


「苑柳さんって謎だよねぇ」


「クラスではあんまりお話しないし」


「家が金持ちだからって、お高くとまってるのよね。家でも学校でもワタシはお嬢様! みたいなさ」


 その会話の内容がクラスメイトの悪口なのも、よくある事だ。


 彼女達の会話は、塔画の耳に全て届いていた。聞きたくて聞いていたのではない。聞きたくもない事を、耳が拾ってしまうのだ。


 転生して体が代わっても、以前の視覚・聴覚・嗅覚は健在らしく。果てしない海や森林、砂漠ばかりの剛神とは違い、人間と機械の満ち溢れたこの世界では

音ばかりが耳を突く。塔画は右耳に触れながら、美しいステンドガラスが聳える昇降口へと階段を下りていた。


 塔画は学校が嫌いだった。この世界の事を学ぶには学校に通うのが一番手っ取り早い。それに、子供が義務教育を受けるのは社会の流れとして自然な事だ。


しかし、実際通ってみるとそこは野望と欲望の入り混じる混沌の世界で、学ぶものも、学ぶに値しない事ばかりだった。


 方程式? 三角比? 枕詞? シク活用? そんなもの、塔画は既に知っていた。この世界の教育機関で学ぶ事は、剛神の教育機関のものと殆ど変わりが無い


。ローマ字は初めて見たが、教科書を読めば理解出来る。一度理解してしまえば、あとは応用だ。理解してしまえば、教師の話など聞くに及ばない。


 下駄箱で靴を履き替え、塔画はふ、と溜息を吐いた。


 これからどうしようか。


 明日は土曜日。学生にとっては休日である。今日は天気が良い。空は青く晴れ渡り、柔らかそうな綿雲が気持ち良さそうに浮いている。気温は暑からず寒から


ず。不快にならない程度の風は、軽やかに木の枝を揺らしている。


 桜と海棠が散り、今は藤が盛りを迎えている頃。先日立派な藤棚のある公園を見つけたのだが、今頃は見事な紫の瀧が出来ているだろう。


 よし。塔画は――多分――暇をしているだろう二人を連れて、そこに花見に行こうと考えた。スコーンを焼いてジャムとクリームとメープルシロップを持って、幻不


は未成年のくせにまだ以前の癖を引き摺っているから果実酒の一本でも持って行こうかな? なんて一人楽しく計画を練りながら本拠地へと歩き始めた。



―――6―――


 その頃、雷馬は雑居ビルの外にいた。


「お話したい事がございます」


 女の声が聴こえたのだ。聴こえたと言っても、鼓膜が振動したのではない。脳に直接響いて来たのだ。


 この世界の普通の人間には、こんな芸当は不可能だ。これが出来るのは相当な能力者、若しくは天空人か天馬しかいない。それ以外にいるとしたら、自分達と


同じく別の世界から渡って来た者だろう。その声は余りにも強烈な波動で、暫く経った今でも頭がズキズキしている。あらゆるモノに敏感な幻不が起きなかったのだ


から、多分、自分だけに送られたものなのだろう。そう判断し、雷馬は眠る幻不に一言、


「出かけてくるね」


 そう言って部屋を出て来た。幻不は寝耳に語られた話を全て記憶出来るので、大丈夫だろう。何とも便利な身体である。


 雷馬は繁華街を抜けて大きな橋を渡り、町外れの公園に来た。そこは高台になっていて街を一望出来る。何本もの染井吉野が植えられていて、春は花見客で


賑わうが、葉桜となった今は人の姿は無い。しかし、相手はここにいる。自分を呼んだあの波動は、ここで途絶えている。あの波動には、一瞬で千里を越えるだろう


と思える程の力があった。それが、何かの介入で何処かで消滅するとは考えられないし、それ以外で途絶えたとしたら、そこが発信源である以外に有り得ない。


「出て来て」


 雷馬は人のいない公園の中心で声を発した。


「望み通り来てあげたわ。姿を現しなさいよ」


 すると目の前に佇む、錆付いた遊具の陰から、青いチャイナドレスに似たデザインの服に身を包んだ女が一人現れた。今まで遊具の背後には真新しい木製遊


具の姿しか見えなかった。それに隠れていたにしては、出方がおかしい。しかし、雷馬は気にしなかった。遊具の後ろに別の空間から転移しただけなのだ。自分


達もよくやる移動方法なので不思議には思わなかった。相手が能力者である事は知っているのだから。


「お初にお目にかかります。天空人の姫君」


 姫君。女の言った多分雷馬を指すものだろう代名詞に、正直吹き出しそうになった。姫君として扱われたのは、最初の一時期だけだったものだから、何とも懐か


しく感じた。


「あたしをそう呼ぶのなら、貴女はあたしが何者なのか知っているのね?」


「はい。私共は何百年も前から、貴女様の事を存じ上げておりました」


「そう。じゃあ名乗る手間が省けたわ。誰なの? 貴女」


 女は曇った空のような色の眼で、雷馬を見詰めた。その眼に生気は感じられず、深く澱んでいる。


「貴女様は、何故、天空人と名乗っていらっしゃるのですか?」


 自分が投げ掛けた問に、あまり適切ではなかった女の返答に、雷馬は一瞬「質問に答えなさいよ!」と怒鳴りそうになった。しかし、冷静さを引き止め、律儀に答


えた。


「自分から名乗った事は一度もないわ。ただ、あたし達の居城は空に浮かぶのよ。それに、自分の意思で自由に空を飛べる。だから『天空の人』なのよ」


「私共も、似たようなものです」


 女は両手を広げた。


「空を制する者。(うつほ)という種族」


 ふわり、と女が浮かび上がる。そして、樹から飛び出した枝の先に乗った。枝の太さは一センチもないかもしれない。その上に、浮いているのではなく立っている


のだ。確実に、自分の両足で。


「貴女様は気付いておいででしょう。私共がこの世界の住人ではない事を」


 別の世界の住人である事を。


「貴女様には、」


 どすん、と腰に衝撃を感じた。肩越しに衝撃の正体を確かめようとすると、そこには白い仮面があった。正確には仮面をした女の仲間なのだろう。身長的に、子供


かもしれない。


「犠牲になって戴きます」


 女の声を、雷馬はずっと遠くの音として聞いていた。



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