手向けの花を
密封された小さな瓶を満たす薄紅色の液体が揺れる。
その様子を見つめたまま、シルバーさんは翳りのある笑みを浮かべた。
「……有り難く貰うわ。お前が選んだ酒って知ればあいつも喜ぶ」
「……そうだと良いな」
サングラスに反射されて目元は見えないが、ぽつりと呟くように告げられた言葉は力無く響き、あいつと呼ばれた誰かがどうしているのか、すぐにわかってしまった。
戦争だったんだ。どこか遠く感じていたけれど、戦争が起きて、終わったばかりなんだから。
気付いたとしても、察したとしても、何も知らない私に言える事はない。
胸を突く行き場の無い感情に自分の手を軽く握っていると、誰かのごつごつとした手が頭に乗る。
クラヴィスさんの物ではないそれに驚いてハッと顔を上げれば、その手はシルバーさんの物で、ポンポンと軽く撫でた後、すぐに離れて行った。
「そんじゃ、ここらで見晴らしの良い場所があれば教えてくれねーか?」
『それなら自分が案内します』
気を遣わせちゃったなぁと反省するよりも早く、場の空気を変えるようにわざとらしく明るい声で問うシルバーさん。
それに真っ先に応じたのは私の後ろで控えていたディーアで、次いで向けられた視線に頷き返す。
多分ディーアは私と違って知っているんだろうなと思っていると、私達のやり取りを見ていたシルバーさんが少し首を傾げていた。
「良いのか? 嬢ちゃんの護衛なんだろお前」
「クラヴィスさんの傍に居るから大丈夫ですよー」
護衛が主の指示無く自分から離れるのはあまり良くない行動だろう。
でもどうせ身内だけの小さなパーティーだからね。元々警戒する必要なんて無いに等しいのです。
とはいえ狙われている身の上なのも事実なので、子供らしく保護者の傍へと寄れば、それなら良いかと納得してくれたようだ。
それなら遠慮なく、とディーアと共に離れていくシルバーさんの背を見て、ふと思いつき呼び止める。
どうかしたのかと振り返ったシルバーさん、ではなく、ディーアに向けてちょいちょいと手招きする。
ちょっと近付いて欲しかっただけなのに、迷う事無くすぐさま私の前に跪くものだから思わず苦笑いが零れたけれど、そのまま耳元へ顔を寄せた。
「庭園の花を持って行って。第三区画は綺麗なのが多いから」
本当は庭師の人が管理している花の方が綺麗だろうけれど、パーティーを楽しんでいる最中の彼等にわざわざ声を掛けるのも忍びない。
その点、私の庭園なら好きに持っていけるし、第三区画に植えているのはメイオーラでも自生している物が多い。
一緒に手入れをしてくれているディーアならわかるだろうと少し声を抑えてお願いすれば、私の意図が伝わったのかしっかりと頷き返してくれた。
私には踏み込ませたくないようだから、何も聞かない。
だから持って行ってもらった花が何のための花になるかは、シルバーさん次第だ。
一歩距離を取り、子供らしい無垢な笑顔を取り繕う。
そのまま小さな手を振ってみせれば、ディーアは一礼の後シルバーさんの元へと向かい、共に食堂を出ていく。
その後ろ姿を最後まで見送ることはせず、クラヴィスさんの手を取れば、ふわりと抱き上げられた。
「お前達も好きに過ごせ」
好きに、とは言っているけれど、暗に下がれと命じているのだろう。
私を抱き上げたままどこかへ歩き出したクラヴィスさんに言われ、シド達は静かに一礼して離れて行く。
確認のためか、ルーエとアンナから一応主な私へ視線が向けられたので、抱っこされた状態でゆるゆると手を振っておいた。丁度良いから休憩行っておいでー。
さて、私達は何処へ向かうのかなぁと身を任せていれば、クラヴィスさんは開放されていたテラスへと入って行く。
秋から冬へと変わりつつある季節、日が沈み始め冷えた空気に思わず傍にある温もりへと擦り寄った。
この季節の服装って難しいのよね。上着はアンナに預けてたっけ。貰ってから別れたら良かったか。
なんてちょっとした後悔を抱いたが、触れ合う肌から伝わる温もりは十分すぎるほど温かくて、衝動のままに抱き着いた。
子供体温な私と違ってクラヴィスさんは少し体温が低いようだが、それでも構わずぴったりとくっ付けば、私を支える腕の力が強まる。
この温もりは、生きている。生きているから温かいのだから、それだけで良い。
外気の冷たさも合わさって、より一層強く感じるクラヴィスさんの温もりを享受する。
「トウカ」
「……はい」
「君は少し、優しすぎる」
「……そうですかね」
「……そうだとも」
ぽつりぽつりと呟くように言葉を交わし、クラヴィスさんの肩へ額を押し付ける。
私が優しいというよりも、この世界が死に近すぎるのも大きいと思う。
人は生きて、いずれ死ぬ。それはどちらの世界も変わらないが、この世界は死の危険がより身近に存在している。
明日を知れぬ人が大勢いて、生きるために誰かを殺す人だっている。
私だって誰かの死を見送った事はあるけれど、その数も理由も、この世界に生きる人々に比べれば──なんて、考えても栓の無い事。
常識も文明も、何もかも違う世界なのだから比べられやしないんだから。
だから多分、クラヴィスさんの表現は正しい。
奪う覚悟も奪われる覚悟もしているこの人からすれば、奪う覚悟も奪われる覚悟も無い私は、姿通りの現実を知らない子供でしかないのだ。
「その優しさが、私達には眩しいのだろうな」
柔らかな声が耳元で囁き、優しい手が丁寧に髪を梳く。
いつもと違い、どこか甘さの感じられる声と手付きに顔を上げれば、至近距離にある漆黒とぶつかった。
鼻先が触れそうな程近い距離に固まるが、クラヴィスさんは構わず私の頬に手を当てる。
そして優しく一撫でしたかと思えば、そっと手を離し、視線も別の方へと向けた。
つられるように顔を動かし、クラヴィスさんが見ている方へと視線を向けるが、そこに在るのは日が落ちていく空だけ。
まだ明るいけれど夕闇が迫る空は昼と夜が入り交じった色をしていて、残光を受けた雲が茜色に輝き流れていく。
その中に羽ばたいていく鳥のような雲がいて、遠くへと去り行く火の鳥を見ていると、クラヴィスさんの手が空へと伸ばされた。
「──【暁に瞬く星の如く、黄昏に佇む月の如く】」
きっと魔法の詠唱という物だろう。
謳い紡がれていく言葉に呼応して、クラヴィスさんから銀の光が溢れ始める。
「【幾月幾年が経とうとも、宿した光は輝きを失わず在り続ける】」
魔法陣とは違い術者を媒体とする詠唱は、魔力を込めて紡いだ言葉によって魔法が構築されるらしい。
詠唱が続けられる程、暖かくやわらかな光の粒子が溢れて、煌めいて。
「【私があの日見た輝きを今ここに指し示そう──エテル・ティア】」
クラヴィスさんの魔力だからか。
どこか安心する光が暮れなずむ世界に満ちて、きらきらと緩やかに地面に舞い落ちていく。
まるで優しい光の雨が降るような、そんな幻想的な光景に目を瞬かせた。
「綺麗……」
「祈りと願いの魔法だ。悪しきを退け、清めてくれる」
そっと伸ばした手のひらに落ちた光は、触れた途端、溶けて消えていく。
微かに残る温もりは心地よく、胸に染み入っていくようだ。
光に魅了されたのは私だけではなく、城の内外で見ていた人が気付き、伝播していくように次々と光の雨に見入っているらしい。
儚く消えていく光に、あちこちから抑え気味の歓声が聞こえてくる。
祈りと願いの魔法だと言っていたから、きっと手向けの魔法なのだと思う。
しかし事情を知らない皆からすれば余興の一つに過ぎない。
クラヴィスさんを見れば、彼もこの光がどういう意味を持つのかは受け取り手に任せるつもりらしく、静かに空を見つめている。
「……届くといいですね」
「……届くとも」
誰に、なのかはわからない。何人に、なのかもわからない。
けれど届けばいい。届いて欲しい。
そう願いながら、最後の光が消えるまで私達はそこで祈り続けた。
第二章はこれにて終幕となります。
次章もよろしくお願いします。