狂気は進む
紅い焔を操り、どこかへ向かって飛んでいく魔導士。
さっきの地震のせいで王都は大混乱に陥っているけれど、魔導士にとってはどうでも良い事なんだろう。
悲痛な悲鳴が聞こえても、助けを求める声が響いても、彼女は見向きもせずに真っすぐ飛び続けている。
「もうすぐ、もうすぐだわ……!」
風に揺れるベールの先、僅かに見える瞳はギラギラと輝き、時折確認するようにこちらを見ては泥のような執着を向けて来て背筋がゾッと震える。
馬と同じかそれ以上か、それぐらいの速さで魔導士は移動し続けている。
他の建物よりも大きく目立つ教会も、もう遠くにしか見えていない。
逃げたいけれど逃げられない。助けも、今はきっと無理だろう。
クラヴィスさんは無事だろうか。皆は無事だろうか。呪いは解けただろうか。
あの状況だ。そう簡単には教会から離れるのもできないはず。
今逃げるのなら自分でどうにかしなきゃいけない。
でも、武器一つ持っていない私がこの魔導士から逃れる事なんてできるだろうか。
クラヴィスさんにもらった指輪こそあるけれど、あれに込められたのは身を護るための結界魔法。
この焔の檻を破壊したりなんてできそうにない。むしろ逃げる時に取って置いた方が賢明か。
やっぱり誰かが助けに来るまで待つしかないんだろうけれど……最悪の事態も考えておいた方が良いだろうなぁ……。
止まらない震えを少しでも抑えるために焔の檻の中、一人手を握りしめて呼吸を整える。
魔導士に自分を差し出した事に悔いは無い。
あぁでもしなきゃ、きっと今頃誰かが危なかった。だから後悔だけはしていない。でも、怖い物は怖いんだ。
自分が自分でなくなってしまうのか。この人に全てを奪われるのか。
この世界で築いた物も、元の世界に残してきた物も、全部全部、何もかも失ってしまうのか。
クラヴィスさんが、皆が助けてくれると信じている。
だけど私の全てが一瞬で奪われるのなら、間に合わなかったのなら──その時後悔してしまわないように、覚悟だけはしておかなければならない。
覚悟を、と思っても震えは止まらないし恐怖は消えない。
時間も止まってくれるわけがなくて、目的地に着いたのか、魔導士はどこかの屋敷の前へと降り立った。
「ここは……」
「わたくしの屋敷よ。だってお着換えするんだもの、外でするわけにはいかないでしょう?」
ノゲイラの領館とは違い、機能性よりも見た目を重視しているのだろう。
華美な屋敷の前、赤を中心に色とりどりの花を咲かせる庭園を早足で進んでいく魔導士。
先ほどの地震で崩れたのか、屋敷の前にある花壇の様子を見ていた庭師の男性がこちらに気付いて顔を上げる。
しかしその男性は、主であるはずの魔導士の姿を見て酷く驚いた顔をして、手に持っていた道具をこちらへと向けた。
「だ、誰だアンタ!? どうやってここに入って来た!? その子は一体……!?」
「あら、人にそんなもの向けるなんて、悪い人ね」
「誰か! 誰か来てくれ! 侵入者だ!!」
自分の屋敷だと言っていたのは何だったのか。
庭師の男性の叫びを聞きつけ、すぐさま屋敷の中から何人も飛び出してくる。
その中には武装した人も多くいて、あっという間に周囲を囲まれ剣を向けられていた。
「あらあら、困った人達だこと」
「貴様、ここをどこだと思っている! イズール伯爵の屋敷だぞ! わかっているのか!?」
「何もわかっていないのはそちらの方よ」
剣を向けられても動じていなかったのに、伯爵の名前が出た途端、明らかに不機嫌になった魔導士から黒い焔が舞い上がる。
一気に膨れ上がったそれは頭上に浮き上がり、誰も逃がさないよう周囲を取り囲んでいく。
「まぁ良いわ。丁度人手が少なくなっていたのよね」
魔導士がこれから何をするつもりなのか。
その場にいる人の中で正しく理解できたのは私だけで、焔の檻を掴み声の限り叫ぶ。
「逃げてぇええ!!!」
子供の叫びにすぐさま動けたのはごく僅かで、ほとんどの人が逃げる間も無く焔に巻かれていく。
檻と同じく焔自体に熱は無いのか、焼かれてはいないが焔を媒体に何かが入り込んでいるらしい。
熱の無い焔に驚きを見せたかと思うと、次の瞬間には胸を押さえて倒れていく。
抗おうとした人も逃げようとした人も、誰も彼も倒れていって。
呻き声が少しだけ響いた後、再び起き上がった時にはもう誰も生きていなかった。
「そ、んな……」
今まさに、目の前で作り変えられた。
ほんの数秒で、ほんの数秒前まで生きていたのに、死兵に変えられてしまった。
倒れていた人達はボキ、ゴキ、と耳を塞ぎたくなる音を立てて動いていく。
見たくないのに目を逸らす事ができなくて、ただその光景を見つめるしかなくて。
何も映さない瞳を向ける彼等を前に、魔導士は面倒そうに溜息を吐いた。
「やっぱり、作ったばかりの子達は使い難いわね……仕方ないわ、醜くなるから嫌なのだけど」
そう言って魔導士が手を振ると、突如彼等の体が歪み出す。
ある人は腕が、ある人は足が、ある人は頭が、人では無い何かへと変貌していく。
「魔力が少ないと中途半端になるから困るのよね……まぁ、急いで作ったのだし、贅沢は言えないわ」
恐らく魔堕ちを無理矢理引き起こしたのだろう。
命を奪われただけでなく、体すら人でも魔物でもない何かにされた彼等を横目に、魔導士は屋敷へと入っていく。
外の異変が伝わっているのか、魔導士が屋敷の中に入って来たとわかった途端、悲鳴が響き、誰もが我先にと逃げ出す。
「屋敷の主が帰って来たのに出迎えないなんて、随分質の低い使用人だこと。
ちゃんと躾をしないといけないわね?」
くすくすと笑い声を零し、再び黒い焔を溢れ出させる魔導士。
このままではまた誰かが死兵にされてしまう。死兵にされて、人間としての形すら失ってしまう。
まだ逃げられる人はいるはずだ。少しでも、どうにかして注意を引いて時間を稼がないと。
「あ、の……!」
騒動に消えてしまわないよう乾いた喉に力を込めて声を発する。
少し震えてしまったけれど、それでも私の声は届いたらしい。
魔導士の視線がこちらに向いて、焔の動きが少し鈍る。
「何故、この屋敷に? いっその事王都から離れた方が良かったのではありませんか?」
気を引いている今の内に逃げて欲しいと願いながら、どうにか話題を絞り出して問いかける。
クラヴィスさんを魔堕ちさせるよりも、私を手に入れる事を優先したぐらいだ。
酷く痛むといっていたし、魔導士にとって今の体で居続けるのはよっぽど苦痛なんだろう。
しかし王都には大勢の騎士や兵達がいる。
王太后と手を組んでいたとしても、現国王であるグラキエース陛下を襲った以上、魔導士は国を脅かした大罪人。
呪いの関係であまり離れられないのかもしれないが、それでもわざわざこんな風に屋敷を襲わず、目立たないようどこかに隠れてしまった方が楽なはず。
自分を主だと言い張る程だ。そうまでしてこの屋敷を手に入れたかったのか。この屋敷に何か意味があるのか。
私の問いに何を思ったのか、魔導士は僅かに目を見開くが、すぐに微笑むように目を細めた。
「それも良かったのだけど……元々ここにはわたくしの屋敷があったの。
それを伯爵如きが我が物顔で奪って、屋敷まで建てているんだもの。
いずれは取り返さないと、と思っていたから、ついでに良いかと思って」
元々自分の屋敷だったというが、イズール伯爵はそこそこ歴史の長い家だったはず。
昔潰えた公爵家の傍系で、その当時は公爵家と同等の領地を治めていたと聞く。
とはいえそれは一時的な物だったとかで、既に国に領地を返上し、今は元々治めていた領地のみを担っているそうだ。
確か公爵家が潰えたのは──ある日一夜にして王都の屋敷ごと消え去るという事件があったからだ。
真相は不明だが、当時公爵家には膨大な魔力を持つ令嬢がいて、その令嬢の魔力暴走による事故の可能性が高いとされていたはず。
シェンゼ王国の歴史に残る大事件。魔力暴走の恐ろしさを教えるため、誰もが一度は語り聞かされる昔話。
まさかとは思う。そんな事があるのかと、信じがたいとすら思っている。
けれど、肉体を変えられると言っていた。何度も変えているようだった。
そして何より、潰えた公爵家の令嬢は──当時シェンゼ王国第一王子の婚約者だった。
「──貴女は一体、誰なんですか」
「あら、言ってなかったかしら。駄目ね、気が急いてしまって忘れていたわ」
私に問われ、魔導士は自分がまともに名乗っていなかった事に気付いたらしい。
いけないいけないと小さく呟いたかと思えば、焔の檻に閉じ込められた私に向き直り、美しい所作で礼を行った。
「わたくしはモディア・ヴィオレーヌ。今は亡きヴィオレーヌ公爵家最後の令嬢よ」
私を狙い、クラヴィスさんを求める魔導士の正体。
それは二百年前、悲劇に消えたはずの公爵令嬢だった。




