虚ろの誘い
長く、大きな揺れに教会の一部が崩れ落ちていく。
ピークは過ぎたのか少し治まってきたようだが、まだ揺れは続いているようだ。
鈍く揺れ続ける大地に、どこかから聞こえてくる悲鳴に慌てて周りを見渡す。
崩れた場所には誰もおらず、周囲に怪我人はいないようだが、見えるようになってしまった空に黒い煙が上がっている。
もしかして、これがシルバーさんが視た崩壊なのだろうか。
混乱に陥っているだろう王都の状況が気になるけれど、今の私達には見えない誰かの心配をしている余裕なんて無かった。
「貴方のためにシェンゼ王国に流れる神脈を暴走させてあげたわ。
このままだと大変な事になってしまうわね?」
まさかアースさんを引き離すためだけに魔流を暴走させたのか。
くすくすと笑う魔導士の言葉が本当なら、地下で強大な魔力が暴走している事になる。
クラヴィスさんやグラキエース陛下のような一個人でもこんな状態なのに、世界を巡るような強大な力の暴走なんて嫌な予感しかしない。
この地震だって暴走のせいなんだろう。自然災害を引き起こしてもお構いなしに自分の欲を押し通そうとする魔導士に、アースさんが低く唸る。
「紛いモノの魔力では魔流に干渉できん……トウカの魔力を使ったか」
「今はもうわたくしの物よ」
「自分の物だと言い切る割には、全く適しておらんようだがな」
「それでも、わたくしの力だわ」
他人から奪った力だというのに、すっかり自分の物だと思い込んでいるらしい。
アースさんにはっきりと言い切られ、魔導士が少し苛立った様子を見せる。
しかしそれは瞬きの間で、すぐにくすくすと笑って、対峙しているアースさんではなく私へと手を伸ばした。
「それほど見えるのならわかるでしょう? だから彼女が必要なの」
──おいで、おいで。こちらへおいで。どこまでもおちて、どこまでもしずんで。どこまでも、どこまでも、どこまでもとおい、こちらへおいで──
聞き覚えのある、聞いた事のある、覚えていない、思い出せない声。
沈んで行く体を覚えている。遠ざかっていく水面を覚えている。暗闇へ落ちて行く意識を覚えている。でも、その後は?
──きてくれた、きてくれた。かがやくゆめ。きらめくねがい。だからぜんぶ、ちょうだいね──
記憶にぽっかりと空洞が空いている。空洞に何かが在ったのに、ぽっかりと消されている。
わからない、何があったのか。何が起きたのか。何も覚えていないから。
覚えていない、思い出せない、思い出したくない記憶の狭間。
真っ暗な記憶の奥底から、おいでおいでと招く誰かの声が響いて、握っていた何かを手放しかけたその時、傍に小さな雷が落ちた。
「あーす、さん」
「下種が、どこまでもトウカを食い物にしよって」
「あら残念」
気付けば眉間に皺を寄せたアースさんが傍に居て、シドとカイルが心配そうに私を見ている。
クラヴィスさんも苦しいはずなのに私へ手を伸ばしていて、わけもわからずその手を握り返した。
多分、私、今危なかったんだ。何がどうとは表現できないけれど、すごく危なかったんだ。
漠然と理解した身の危険に今更心臓が激しく脈を打つ。
それと同時に強く握りしめられた手に確かな安堵も抱いて、小さく息を吐き、隣でこちらを見つめるアースさんを見上げた。
「もう大丈夫じゃな?」
「うん……ごめん」
「構わんよ。気をしっかり持てばもう惑わされんじゃろう。
しかし……すまぬ。わしは行かねば」
私をのぞき込み、小さく頷いたアースさんは、今度は申し訳なさそうにクラヴィスさんへと頭を下げる。
魔流が暴走している今、こうしている間にも何が起きてもおかしくない。
そして魔導士の狙い通り、それを止められるのはアースさんだけだろう。
どれだけ苦しくても、痛くとも、クラヴィスさんもそれをわかっている。
「……わかって、いる……そちらは頼んだ……」
「……すぐ戻る。それまで二人を頼む」
私の頬をしっぽで撫で、クラヴィスさんの額に擦り寄ったアースさん。
いつの間にか本体を王都へ呼び寄せていたらしい。
その小さな姿が教会の崩れた天井から空へと昇って行くと、遠くで激しい雷鳴が轟いた。
「さぁこれで邪魔な獣は居なくなったわ。
皆、剣を治めなさい。王家に仕える騎士だもの、私に剣を向けてはいけないわ。
クラヴィスの配下の者達も同じよ? クラヴィスが大切にしているんだもの、あまり傷付けたくはないのだから大人しくして頂戴?」
「誰が貴様の命令など……!」
既に王妃になったつもりらしく、魔導士は慈愛の眼差しを作り、近衛騎士達やシド達へ向けて命令じみた言葉を告げる。
それぞれの主を苦しめている者の命令に誰が従うというのか。
そんな簡単な事もわからない魔導士は、自分に向けられる敵意に溜息を零した。
「仕方ないわね……王妃に逆らうんだもの。処罰はしっかりしないと、ね」
誰が皮切りになったか、近衛騎士達が一斉に魔導士へと飛び掛かる。
それに対して魔導士は焦る様子も見せず、ただ焔で視界を遮る。
そして焔が途切れた次の瞬間、どこから現れたのか、死兵らしき武装した人達が魔導士を守るよう立ち塞がっていた。
「どこまで持つか、楽しみだわ」
魔導士が手を一振りし、死兵達が動き出す。
ノゲイラで見た人達とは違って魔導士の近くにいるからだろうか。
誰もが生気の無い、虚ろな目をしているけれど、その動きは鍛え上げられた騎士達と何ら変わらない。
しかも肉体の限界なんて構わずに動かされているんだろう。
腕が折れようと脚が切り落とされようと、骨が折れる音を鳴らして剣を振るい、漏れ出た血が傷口を繋ぎ合わせている。
純粋な強さこそこちらが上のようだけど、相手はいくら殺しても動き続ける死兵。
その上、魔導士が死兵を巻き込もうとお構いなしに魔法を放ってきている。
押し切るにも押し切れず、拮抗状態と言ったところか。
けれどそれは戦闘面だけで、こちらの状況はひたすらに悪化している。
数人かがりで魔力を消費しているけれど、魔力の暴走に体が耐えられないのか、グラキエース陛下は限界に近いらしい。
呻き声すら上げられず、意識が朦朧とし始めたグラキエース陛下へ必死に呼びかけている近衛騎士達の悲痛な声が聞こえてくる。
クラヴィスさんはまだ耐えられるみたいだけど、このままじゃ魔導士の目論見通り、グラキエース陛下が死んでしまう。
どうにかしなければと、どうすれば良いのかと、何か別の方法は無いのかと、クラヴィスさんを守るため残ったカイルに問いかけた。
「カイル、他に呪いをどうにかする方法は無いの……!?」
「……この呪いはお二人ではなく王太后に掛けられた物。
王太后にさえ近付ければ、呪いを解呪できるかもしれません……ですが、あの様子では難しいでしょう」
カイルの見立て通り、魔導士も王太后を奪われないよう注意しているらしい。
戦闘が始まってからより一層激しい焔で守られている王太后は、黒い刃に縫い留められ、宙にぶら下がったまま力無くぐったりとしている。
襲い掛かる死兵の間を潜り抜け、あの焔を突破して王太后に近付くなんて、この状況では無理としか思えない。
──だったら、王太后をこちらに近付かせるしかないだろう。
「……わかった」
「お嬢様……?」
握りしめていたクラヴィスさんの手を離し、戸惑うカイルを置いてゆっくりと立ち上がる。
離した手が震えながら追ってくるけれど、私はその手を取らず、小さく呼吸を整えた。
きっと、もっと良い方法はあるんだろう。こんなのそう上手くいくかもわからない。
だけど今思いつくのはそれだけで、今すぐにクラヴィスさんのためにできるのはそれだけで。
「クラヴィスさんをお願いね」
だから私は、誰に招かれたわけでもなく、自分の意思で前に進み出たんだ。




