焔は笑う
くすくす、くすくす。掠れた笑い声が怨嗟蠢くこの場を切り裂く。
ひらひら、きらきら。紅の焔が散って、照らされた白く細い髪がなびいて、揺れて。
ふわり、かつん。深紅のドレスが舞って、深紅のヒールを鳴らして、王太后の傍にどこか見覚えのある誰かが現れた。
「もう、勝手な事をされては困るわ。
約束したでしょう? この国のために、彼はわたくしにくれるって、ねぇ?」
肩まである長い手袋に覆われた手で王太后の頬を撫でるのは、女性、だろうか。
見た目の印象とは反して酷く老いた声で笑うその人は、顔をベールで覆っていていまいち年齢がわからない。
あんな人、見た事なんて無いはずなのに、どうして見覚えがあるんだろうか。
ちらりとこちらを見た深紅の瞳がやけに記憶を刺激して、ズキンと痛む頭に眩暈がする。
白く長い髪も血のように赤い目も、ベールの下のその顔も、何もかも覚えていない。
そう、覚えていないはずなのに、思い出せない──思い出したくない。
本能が警告を鳴らす傍ら、その深紅を一身に受ける王太后が顔色を真っ青にしていた。
「モ、モディア……貴女、姿を見せて良いの……?」
「心配してくれているの? ありがとう。正直に言うとちょっと辛いけど、わたくしは大丈夫よ」
目線を彷徨わせ、動揺を露わにしながらもどうにか言葉で取り繕おうとする王太后。
モディアと呼ばれたその女性は体のどこかが悪いようで、自分の腕を撫でながら微笑んでいる。
何気ないごく普通のやり取りだ。事情を知っているから心配して声を掛ける。ただそれだけのやり取りだ。
けれどこの女性が異質なのは王太后の怯えようから明らかで、クラヴィスさんとアースさんも何かを感じ取ったらしい。
クラヴィスさんは私を更に後ろへと下げ、アースさんに至っては私達の前に浮かび、バチバチと魔力を鳴らし始めている。
まるでメイオーラで人が魔物にされていた話を聞いた時のような、嫌悪と殺気を露わにするアースさんに頭痛など吹き飛んだ。
「アースさん……?」
「あやつだ」
牙を剥き出しにして低く唸るアースさん。
クラヴィスさんも手元に魔法陣を展開していて、いつでも魔法を使えるよう睨みを利かせている。
「あの魔力、あやつがトウカを狙い続けていた魔導士じゃ」
ノゲイラで魔物を操り、前領主も使って私を攫おうとした。
メイオーラとの戦争では死者を操り人を魔物に変えてと、戦争に深く関わっていた。
そして私の魔力を奪ったかもしれない魔導士が、この人なのか。
アースさんの一言に、ノゲイラの皆が殺気立つ。
相手は非人道的な行為だろうと構わず手を出すような魔導士だ。
王太后が傍に居るため武器を向ける事こそできないけれど、何か動きがあれば瞬時に動けるよう誰もが構えている。
複数人から一気に殺気を向けられたというのに、魔導士は気にも留めず、王太后の顎を指先で押し上げ、無理矢理自分と目を合わせていた。
「彼を殺そうとしたの? 彼女も? 駄目じゃないそんな事をしたら」
悪戯をした子供を諫めるように王太后の行いを咎める魔導士。
言葉だけ取れば私達を庇うようにも聞こえるが、そこに私達への気遣いなど皆無なのはすぐにわかる。
あれは自分の欲だけだ。自分が嫌だから咎めているだけ。自分の事しか考えていない。
王太后との間でどんな契約を結んでいるのか知らないが、魔導士の言う彼が誰かなんてわかりきっている。
あの魔導士はクラヴィスさんを求めている。そして私の事も求めている。
そう確信してしまう程、濁った執着を剥き出しにどろりと蕩けた深紅がこちらに向けられ、うっそりと細められた。
「それに不吉な色だなんて……黒はわたくしの好きな色なの。ひどい事を言わないで欲しいわ」
向けられた感情は好意でも、その昏さに悪寒が走り、背筋が震える。
こちらを見ていた。目も合った。そのはずなのに淀み切った眼差しに映っているのは色だけだ。
「まぁ良いわ、赦してあげる。上に立つ者は寛大でいなければ、だものね」
焔を散らしながら、優雅な所作で王太后の後ろへと回る魔導士。
自分に言い聞かせるよう語るその在り方は、自己研鑽を続け事象の探求を続ける魔導士というより、他者に施しを与え支配する貴族の在り方に近い。
だが、あんな目をした者が何の見返りも求めない赦しを与えるとは思えない。
それは私達より王太后の方がわかっていて、怯えた表情で魔導士の挙動を追っている。
「でも少し罰を与えないと。他の者に示しがつかないわ。だから、ね?」
「ひっ」
背後から指を一本一本、ゆっくりと下から這い上がるように両肩に手を掛けられ、王太后が短く悲鳴を上げる。
そんな怯え切った反応を間近で見ていた魔導士は眉を下げ、悲し気な表情を浮かべた。
「本当はこんな事したくないのよ? 貴女は大事なお友達だもの。
だけど、これは貴女にしかできない役目だし……罰には丁度良いと思うから、我慢してね」
邪魔が入らないようにか、周囲に焔が舞い上がる。
最早背中に抱き着くほど距離を縮めた魔導士にそう耳元で囁かれ、王太后が震える手をこちらに伸ばす。
それが助けを求めている物だと、助けなければと手を伸ばそうとした時、アースさんの放った雷光の先、赤い液体が飛び散った。
「あ、え──?」
雷と焔がぶつかり合うその奥で、自分の下腹部から黒い刃が飛び出しているのを見た王太后が小さく口を震わせる。
刃の周りから溢れた深紅で薄紅色のドレスが染まっていくけれど、深紅とは違う黒が混ざり始め、刃と同じ淀んだ色が広がっていく。
刺されただけではない。そう、明らかに異常な光景に誰もが動き出そうとしたけれど、その前に刃が引き抜かれる。
そうして露わになった空洞からは紅ではなく黒が溢れ出した。
ごぷり、ごぷりと耳を塞ぎたくなる音を立てて溢れる黒。
見るからに血だとわかるのにその色合いは変色しきっていて、血生臭さとは別に腐敗臭まで漂ってくる。
これは良くない物だと本能が訴え思わず一歩後ろへ下がりかけた時、目の前にいた黒と金が揺らいでいった。
「しまった……!」
「っ、クラヴィスさん!?」
何が起きたのか。アースさんの声を他所に、大きくふらついて倒れそうになったクラヴィスさんの体を咄嗟に支える。
しかし小さな体ではろくに支えられず、そのまま傾いていく体に潰されてしまいそうになってしまう。
一瞬遅れてシドが支えてくれたため、どうにか倒れる事は無かったけれど、クラヴィスさんは胸元を押さえ酷く苦しそうだ。
グラキエース陛下に至っては立っている事すらままならないらしく、呻き声をあげて地面に倒れた金に近衛騎士達が駆け寄り、必死に声を掛けている。
「う、ぅぐぁ────!! これ、は……ぅ……魔力が……!?」
「陛下! 陛下! 一体何が……!?」
「魔力の、暴走だ……! ぁ、にうえ……! 魔法を使え! 何でもいい!」
「っ、無理だ……操れない……!」
「誰でも良い! 兄上の魔力を使え! とにかく減らすんだ!」
苦しみながらもそう叫んだクラヴィスさんに従い、数名の近衛騎士がグラキエース陛下に触れながら魔法を使う。
炎や水など様々な物が上へと放たれていく中心で、少し楽になったのかグラキエース陛下が大きく呼吸をしているのが見えた。
「主!」
「触るな! 私の魔力に耐えられん……!」
同じ処置をしようと駆け寄ったカイルが手を伸ばすけれど、クラヴィスさんはそれを弾いて拒絶する。
クラヴィスさんの魔力は人並外れて多いと聞いている。それが暴走してしまっている今、誰かが触れる方が危険なのか。
自分でどうにかするつもりらしく、クラヴィスさんは魔法を使おうとしているが、暴走しているせいで上手く魔力を操れないらしい。
空間が歪んで見える程の魔力が周囲に漏れ出て、傍に居たシドとカイルが苦しそうに顔を歪める。
多分、強すぎる魔力を浴びて魔力酔いを起こしかけているんだろう。
アースさんに会った時と同じように、私は魔力が無いからか相変わらず何も感じないが、他の人達にとっては命に関わる状態だ。
このままじゃクラヴィスさんだけでなく、周りの皆も危ない。
どうにかできないかと焦る私を他所に、魔導士はゆったりと笑ってこちらを見ていた。
「やっぱりクラヴィスは耐えられるのね」
苦痛の声があちこちから上がる中で、異質な笑い声が響く。
皆が苦しんでいるのにくすくすと嬉しそうに微笑む魔導士は、王太后を焔で拘束し、血を流させたまま隣に立たせている。
あのままでは王太后の命はすぐに燃え尽きてしまう。そうわかるのに、大事な友達だと言っていたのに、魔導士は苦しむ王太后ではなくクラヴィスさんだけを見つめている。
「本当は苦しませたくなんて無いのよ? でも貴方、こうでもしないとずぅっと抵抗するでしょう?
さ、早く堕ちて? そうすれば貴方はわたくしと共に生きていけるもの」
「なにを……!」
「大丈夫、わたくしより魔法の扱いに長けた貴方なら、きっと堕ちても美しいままだわ。
だから早く堕ちて、わたくしと同じになりましょう? そうしないとわたくしはまた一人ぼっちになってしまうわ」
「私が、狙いなら……私だけで良いだろう……! 何故兄上まで……!!」
額に汗を滲ませ、どうにか魔法を使いながらクラヴィスさんが叫ぶ。
怒りも込められた問いに、魔導士はぱちぱちと瞬きをして、不思議そうに小首を傾げた。
「だって邪魔じゃない」
至極当然のように、事も無げに言ってのける魔導士。
その言葉はとても単純で、とても残酷だ。
「王の座は一つ。貴方がその席に座るには、他の者は邪魔でしかないわ」
目の前に邪魔だと吐き捨てた相手がいようとも、それを与えようとしている相手が一切望んでいなくとも関係無い。
あの魔導士はただ自分の欲のためだけに動いている。ただそれだけなのだから。
「わたくしは王妃にならなければならないの。だったら夫には王じゃないと……そうでしょう?」
「……私を王にし、お前は王妃になるとでも……?」
「それが運命だもの。クラヴィスにもわからないの?」
ふざけるなと言いたそうなクラヴィスさんに明らかな落胆を見せる魔導士。
けれどすぐさま気を取り直したのか、顔を上げて焔に囚われた王太后へと近付く。
「まぁ良いわ。貴方も堕ちてくれればわかるでしょう。
オフィーリア、もう少し頑張ってくれる?」
「あ、ぐ、ぅ……────」
「あら、死んでは駄目よ? 生きたまま苦しんでもらわないと呪いが薄れてしまうもの」
「あ、ぅ……ぅうっぁ……!」
魔導士が言うように、王太后は呪いに蝕まれているんだろう。
腹を貫かれ、呪いに侵され、今にも死んでしまいそうな王太后の体から再び黒い刃が飛び出る。
腕や足まで貫かれ、大量の血を流している王太后はもうとっくに限界を迎えているはずだ。
それなのに、回復魔法を使われているのか、死ぬ事も許されないらしい。
生きたまま与えられる死の痛みに苦しみ藻掻く友人を見て、魔導士は心の底から喜んでいた。
「そうよ、上手だわ! もっともっと苦しんで頂戴! 痛みを産んで頂戴!
そうすれば貴女達に掛けた呪いは重なって、強くなって──クラヴィスもわたくしと同じところまで堕ちてくれるわ!」
それがどれほど自分勝手な願いかなんて考えない、無邪気な声が耳を劈く。
そして更に刃が現れると共に、クラヴィスさんが膝から崩れ落ちた。
「主! っくそ! 主の方が魔力も多いのに、一体どうして……!?」
「……母と子の繋がりじゃな。母親を呪う事でその腹から産まれた二人にも呪いを及ぼしておる」
「アースさん、どうにかできないの!?」
「無理じゃ。呪いはあの者にある。二人を解呪してもすぐさま再発してしまうじゃろう」
「じゃあどうしたら……!」
もう何か言葉を発するのすら難しいのだろう。
浅い呼吸を繰り返し、真っ青な顔をしてその場にしゃがみ込んでしまったクラヴィスさんに向け、カイルが魔法陣を展開する。
暴走する魔力に抗い、必死に解呪を試みているようだけど、アースさんの言う通り、祓っても祓っても呪いは消えないらしい。
何もできず苦しむクラヴィスさんを見ているしかできない私と違い、アースさんはふわりと浮かび、静かに告げた。
「呪いの根源を絶つ。それが一番手っ取り早い」
それはつまり、魔導士を殺すという事か。
言葉の真意を確かめる前にアースさんは遠ざかり、焔を操る魔導士へと向かい合う。
その背中は小さいのに、巨大な圧を感じて誰もが息を呑む。
「よくも我が主に手をかけよったな薄汚い獣が」
「……もしかして獣ってわたくしの事かしら?」
「隠しておるようじゃが獣の臭いはそう簡単には消えぬ。
貴様、紛いモノじゃろう。それも質の悪い……堕ちるだけなく腐れ、爛れた紛いモノが。執着だけでこの世に残ったか」
「……何を言っているのかよくわからないけれど、そうね。堕ちたと言えば堕ちたのでしょう。
きっとわたくしは魔に魂を売ったのでしょうから」
紛いモノ。確かそれは、覚醒できずアースさんのようになれなかった強い魔物だったか。
以前アースさんから聞いた言葉が蘇るが、あの魔導士の姿形は人間だ。
人の持つ道徳心の類が一切無いのはわかるけれど、魔物というには人に近すぎる。
──あぁそうか、だから魔力の暴走を引き起こしたのか。
全てはクラヴィスさんを魔堕ちさせるために。自分と同じモノにするために。
あの魔導士は、人から魔物になった存在なんだ。
アースさんから紛いモノについて聞いたのは私だけ。
だから恐らく、私だけが察している中、アースさんの圧に流石の魔導士も怯みを見せるが、すぐに微笑みを作る。
そして懐から何か魔道具を取り出した。
「でも、そんなのどうでも良いわ。貴方みたいな魔物の相手をしている暇は無いの」
アースさんが飛び掛かろうとするけれど、その前に魔導士の手に収まっていた魔道具がパキンと音を立てて壊れる。
焔と雷が再びぶつかって──その衝撃とは違う、下から突き上げるような大きな揺れが私達を襲った。




