008
過程をすっ飛ばして、結論から述べれば。僕たちは、須藤統児を見付けることができなかった。
深夜近くまで、数時間に及んだ捜索。犬養さんは別館を。僕たちは本館を。それぞれ探し回ったけれど、その結果わかったことは、須藤の姿がどこにもないということだけだった。
どこにも逃げ場などないはずの閉ざされた孤島の中で忽然と、一人の人間が姿を消した。痕跡一つ残さず、最初からそんな人間など存在していなかったかのように。風に吹かれた煙の如く、ふわりと音もなく消え去った。
海にでも投げ込まれてしまったのか。それとも、この島のどこかに打ち捨てられてしまっているのか。
薄情な話ではあるが、いずれにせよ生存は絶望的であろうと僕は考えている。。
この天候だ。自らの意思で屋敷の外に出たとは考え難い。当然、何らかの理由があってそうしている可能性もなくはないのだが……。横殴りの雨と風の中に、わざわざ身を隠さなければならない理由が僕には思い浮かばない。
そう考えるよりも、自らの意思とは関係なく誰かの手によって連れ去られたか持ち去られたと考えた方が自然ではある。誰が、何の為に、そうしたのかまではわからないけれど。事実、須藤の姿が見当たらないということは、どこかの誰かにそうしなければならない理由があったということなのだろう。
――或いは。青葉湊曰く、あるかもしれない可能性として。
考えられるのは、白木殺しの犯人が須藤統児であるというパターン。
僕としては、候補にも挙げたくない可能性の一つではあるが……。感情論を抜きにして冷静に状況に目を向ければ、そんな可能性が見えてこないでもないのは確かだった。
須藤統児が、白木透を殺害した犯人であるのなら。
行方をくらませることもまた、不自然ではない。
どんな目的があって、何の為に姿をくらましたのか。須藤統児が犯人であると仮定した場合、それは当人である須藤にしかわからないことではあるが。須藤が犯人ではないと仮定した場合と同じように、そうしなければならない理由がそこにはあるのだろう。
彼が犯人であるにしろ、そうでないにしろ。
僕としては当然、彼が犯人ではないと思っているけれど。
どちらにせよ、事実がどうであれ、須藤統児の行方がわからなくなっているという事実には変わりがない。
いったい、彼はどこに消えてしまったのだろう。
「……嵐の孤島もの、か」
脳裏に浮かぶのは、青葉湊が口にしたそんな言葉。縁起でもなく、冗談でもないけれど。いよいよ、その言葉通りの状況になってしまったなとぼんやりと思う。
また誰かが殺されてしまうのだろうか。
白木のように。或いは、須藤のように。
動かなくなって、いなくなって。
そうしていつかは――記憶の中に埋もれてしまうのだろうか。
草木も眠る丑三つ時。自室のベッドの上、僕は天井を見つめながら深々と息を吐く。
聞こえてくるのは、風の唸り声と横殴りの雨の音。それがなんだか、地獄からの呼び声のように思えて。僕を、呼んでいるような気がして。こんな時間になっても、どうにも寝付けなかった。
改めて思う。
達観したつもりでいても、普通ではないつもりでいても。結局は僕も、沢山の中の一つ――特別でもなんでもない、その他大勢の中の一人なのだと。
豆腐メンタル、とまでは言わないが。自分で思っていたよりも、存外打たれ弱いようである。
床に転がった小さな薬瓶。オサ研の飼育係としての立ち位置を得てから――そのきっかけとなった事件の頃から、食むようになった形だけの気休め。
既に三つの空き瓶が、床の上には転がっていた。
この島を訪れてから、加速度的に消費量が増えている。今までにない、ハイペースだった。
それだけ、僕の精神が揺らぎ揺れて浮き沈みを繰り返しているということなのだろう。浮き沈みと言うよりは、沈みっぱなしと言った方が正しいのではあろうが。
そんなのは些細な表現の違いであり、つまりは己を平坦に保つ為の作業、ないし儀式じみた行為がそれだけ増えているということだった。
まるで中毒者だ。情けない。
こんな物に頼らなければ、二本足で立っていられないとは。
「……クソっ!」
自然と手が伸びた、小さな錠剤がぎっしりと詰まった真新しい小瓶。無意識のうちにまたもやそんな物に頼ろうとしていた自分に腹が立って、体を起こした勢いそのままに僕は小瓶を壁に叩き付けた。
小さな音。毛足の長い絨毯の上に、純白の錠剤が吸い込まれて見えなくなる。あとには虚しさと、つい先ほどまで小瓶の形をしていたガラス片だけが残った。
何をやっているんだ、僕は。
こんなことをしたって、気が晴れるわけでもないというのに。
情緒不安定にもほどがあるだろう。これでは、部長たちのことも偉そうに言えない。
彼女たちよりも余程、僕の方が不安定で未完成だった。
「……誰かに見られる前に、片付けておかなきゃな」
ほんの少しの罪悪感と、自身に対する呆れと諦め。また一つ大きな息を吐いて、子供みたいな癇癪の爪痕を片付けようとしたその時だった。
「――神崎、起きてるか?」
控えめなノックの音。ついで、誰かの声が扉越しに僕の耳に飛び込んでくる。
驚きに動きを止めた僕は、
「……佐原?」
妙な姿勢で固まったまま、部屋の入口へと目を向けた。
予期せぬ来訪者。癇癪の後の気怠い空気の中、不意に訪れた予想外。
一拍置いて我に返った僕は、砕け散った瓶を片付けることも忘れて小走りで扉に駆け寄った。
「……やあ、神崎。夜分遅くにすまないね。起こしてしまったかい?」
開け放った扉の向こう。所在なさげにそこに立っていた佐原は、僕の顔を見て力のない笑みを浮かべる。その目元は、ひどく泣いたのか赤く腫れあがっていた。
「どうしたんだよ、こんな時間に……」
「取り立てて用事があるというわけではないんだ。ただ……ふと、お前の顔を見たくなってな」
「顔を見たくなったって、そりゃまた随分と……。何かおかしな物でも食ったのか……?」
「失礼なことを言うなよ。何となくそんな気分になってしまったってだけさ。それとも、何か。こうして訪ねてくるのは、迷惑だったか?」
実際問題、突然の来訪は迷惑とまでは言わなくとも、僕にとって喜ばしい出来事でないことは確かだった。
タイミングの問題じゃない。
そこに立っているのが、佐原愛実という人間であること。
僕の古傷、思い出したくもないような過去を掘り返し抉ろうとする生き物であるということが何よりの問題だった。
僕にとって、佐原愛実という人間の存在は決して有難いものではない。
かつての友人。かつての恋人。僕の古傷の原因にしてその中心にいる人物。
そんな人間との関わり合いが喜ばしい出来事であるはずもなく。
「……とりあえず、入れよ。ちょっとばかし、散らかってはいるけれど」
あれやこれやと考えてしまって、結局なにも言えなくなって。苦し紛れに、彼女を部屋に招き入れることで僕は返答をうやむやにした。
帰ってくれ。と、たった一言。
そう言えば終わっていた話ではあるのだろうけれど。
どういうわけだか、僕にはそれができなかった。
甘さか、情か。それとも、恋人を失ったばかりで悲しみに暮れる少女にいい恰好をしたかったのか。それは、僕自身にもわからないけれど。
とにもかくにも、愚かなことに。僕は自分自身の手で、過去のトラウマを部屋の中に招き入れてしまった。
「それじゃ、お言葉に甘えて。失礼するよ」
僕の脇をすり抜けるようにして部屋に入った佐原が、何の躊躇いもなくベッドの端に腰を下ろす。
お前のそういう無神経なところが僕は嫌いなんだけれどな、なんてことを考えながら。それを顔に出すことはせず、僕は後ろ手に扉を閉めた。
「それで、いったいどういう風の吹き回しなんだ?」
壁に立てかけられていたパイプ椅子を組み立て、それに腰かけながら。床に散乱する小瓶に目を向けている佐原に言葉を投げる。
「まさか、本当に僕の顔を見に来ただけってわけじゃ、ないんだろ?」
「すごい数だな。私も人のことは言えたものじゃないが、薬に頼り切るのは感心しないぞ神崎」
言葉のドッジボール。こちらに目を向けた佐原が口にしたのは僕の言葉に対する返答ではなく、床に散らばる小瓶を目にした感想だった。
思えば、この女は昔からこんな調子だったような気もする。
同じ場所に立っているはずなのに、見ているモノが違うと言うか。オサ研に所属している問題児たちと同じように、周りの人間とはどこかチャンネルがズレてしまっているというか。
普通ではなくて、だからといって異常だというわけでもなくて。
何かが小さく欠けていて、何かが小さくズレている。
会話が噛み合わなかったことで、僕は彼女がそんな人間であったことを思いだした。
「……変わらないな、お前は」
自然、そんな言葉がぽつりと。意識もしていないのに、こぼれる。
良くも悪くも変わってしまった僕と、記憶の中の姿と何一つ変わらない佐原。
僕はお前が羨ましいよ。
と、喉元にまで出かかった言葉を飲み込んで。僕は佐原の言葉を待った。
「……なあ、神崎」
窓を叩く雨の音と、時計の針の音。奇妙な沈黙を挟んで、佐原がゆっくりと口を開く。
「私とお前が最後に会ったのは、いつだったかな」
「……中学の卒業式の、前日だよ」
「ああ、そうか。そうだったっけな」
あの日の出来事を懐かしむように、佐原は目を細める。
しかしながら、僕にしてみれば。現在進行形で佐原が懐かしんでいるのであろうあの頃の――特に、別段、取り立てて、あの日の記憶は。どこをどうやって辿っても、決して懐かしむという発想に辿り着くような代物などではなかった。
忘れもしない。
中学の卒業式。その前日。三月八日のことである。
僕は、佐原愛実の手によって亡き者にされかけた。
文字通り。そのままの意味で。彼女が今、手持ち無沙汰に遊ばせているその指先で。その腕で。短い生涯を、終えてしまうところだった。
原因は些細なことだったように記憶している。
――いや、殺されかけてまでいるのだから、僕にしてみれば些細なことであったとしても、佐原愛実にとっては些細でないことだったのだろうけれど。それはそれとして。僕にしてみれば、その直接的な原因をはっきりと覚えてはいない程度に、些細で粗末なきっかけだけがそこにはあった。
前日、いや、実際にその出来事のたった数分前までは。僕と佐原は恋人関係にあって、それでいて友人としても良好な関係を築くことができていた――と、思う。
一度だって言い争いをしたこともなければ、意見の食い違いから仲違いをしてしまったことだってない。すべてが枠の中にきっちりと納まった、人と人との関わり合いのあるべき姿であったと言ってもいい。と、僕は認識していた。
彼女の方がどう思っていたのかは僕にはわからない。けれど過去を振り返るに、大きな食い違いがなかったことは確かだろう。
その瞬間。佐原愛実が、神崎千尋を亡き者にしようと行動を起こすその時までは。
僕たちは恋人で、友人だった。
「思い出したよ、神崎。思い出さなくていいことまでを、思い出してしまったよ」
表情を変えず、あの日の出来事を懐かしんだ様子のまま。佐原は言葉を続けていく。
「あの日、あの時、私はお前の言葉に深く傷付いた。もう立ち直れないんじゃないかって、そう思ってしまうほどに。傷付いて、落ち込んだ。お前は覚えているか? あの日、私になんと言ったのかを」
そこで、どこか遠くを見つめていた佐原の目が僕を捉えた。
慈しむような色。責めるでも、咎めるでもない、まるで包み込もうとするかのような優しい瞳。
言葉の内容には則さないその目の色に、僕は背筋が凍りそうになった。
過去の出来事として割り切っているからなのか、それとも――そうすることが、僕に対して一番効果的であることを理解しているからなのか。
そんな目で、僕を見つめながら。佐原愛実は、僕が口を開くのを待っている様子だった。
「……覚えてるよ。なにせ、それが原因で僕は殺されかけたんだからな」
ただ、その言葉の意味を――佐原愛実にとって、僕のその言葉がどんな意味を持っていたのかを理解していないだけで。あの日、あの時、佐原愛実の問いに対して、神崎千尋がなんと言葉を返したのかは、昨日のことのように覚えている。
「殺せない。僕には、お前を殺すことなんてできない。あの日、僕はお前にそう言った」
疎らに咲く桜の木の下。夕焼けの光の中で。「私を殺せるか」という佐原愛実の唐突な質問に対して、僕はそう答えた。
どのような会話の流れでそうなったのかは覚えていない。直前までは、世間話でもしていたように思う。
その流れの中でなのか、あるいは唐突になのか。投げかけられた質問に対して、僕はそんな風に答えた。
特に気にすることもなく。
思ったことを、思ったままに。
飾らず、誤魔化さず、そのまま音にした。
佐原の態度が急変したのは、その直後のことだ。
「そうだ。お前は、そう答えた。だから私は、お前の首を絞めた。爪を立てた。本当に、殺すつもりで。私は殺せる、と」
薄く笑いながら、佐原は誰かの首を絞めるような素振りを見せる。
「それくらい、私はお前を愛していたんだ。究極的に。突き詰めれば、そうして殺してしまえるくらいに。芝居よりも。何よりも。お前が、好きだった。好きで好きで仕方がなかった。溶けて一つになってしまいたいって思うほどに。お前のことしか考えられなかった。それなのに、それなのにだよ神崎。お前は、私を殺せないと言った。こんなひどい裏切りは、ないだろう?」
殺したいほど愛したい、殺されるほど愛されたい。
青葉湊が口にしたそんな言葉が、ふと思い浮かぶ。
佐原愛実もまた、そういう感覚を持った人間の一人だった、と。そういうことになるのだろうか。
僕が気が付かなかっただけで。初めから彼女はそういう人間で。根本的に、最初から、僕と彼女は違っていた、と――。
「――くだらない」
どうやら、上手くやれていたと思っていたのは、僕の方だけらしかった。
「何が殺したいだ。何が殺されたいだ。空想に想いを馳せすぎて、現実が見えなくなってるんじゃないのか。お前も、魔女も」
熱を帯びていた思考が、急速に冷えていくのを感じた。
「愛しているから殺したい? 殺されるほど愛されたい? 馬鹿を言うな。人は死ねば、そこで終わりなんだよ」
死は、どこにも繋がりなどしない。
そこが着地点で、終着点だ。
「言葉を交わすことも出来ない。触れ合うことも出来ない。曖昧な形として、記憶として、そこに残るだけだ」
進みもしなければ戻りもしない。どこに繋がることもない。死ぬということは、記憶の中を漂う沢山の中の一つに成り下がるということだ。
「それに、何の意味がある? 結局はお前も、魔女も、自分が満足したいだけなんじゃないのか。歪んだ欲望を、相手に押し付けるだけ押し付けて。その結果、自分だけが満たされればそれでいいって、そう思ってるだけなんじゃないのか」
何が愛だ。
何が恋だ。
何が――裏切られただ。
「そんなに死にたきゃ、勝手に死ねよ。僕にまでその歪んだ恋愛観とやらを押し付けるな」
相手が恋人を失ってしまったばかりの人間であるとか、そんなことはもうどうだってよかった。
気に入らないものは気に入らないし、腹が立つものはどうやったって腹が立つ。
今の僕はオサ研の部品の一つとしてここにあるのではなく、一人の人間としてここにいるのだから、殊更に。
「それで勝手に愛された気になって、勝手に愛した気になって、そうして一人で、死んでいけよ」
そこまで言い切って、僕は佐原を睨み付ける。
「――ああ。安心した。神崎は、神崎だな」
口を真一文字に結んで、何を考えているんだかわからない表情で僕を見ていた佐原だったが――何を思ったのか、彼女はそこで小さく笑った。
「まあ、そうだろう。それが普通で、正常な感覚なんだろうさ。今になって、私もそう思うよ。あの頃の私は、異常でしかなかったって」
取り繕うような笑顔でもない。作り笑いなどでもない。佐原の顔には、おかしくて、楽しくて、仕方がないとでもいうような、そんな笑顔が浮かんでいた。
「お前が変わってしまっていなくて、安心したよ。お前ならそう言うだろうと、思っていた。期待通りの反応で私は大満足だよ、神崎」
毒気を抜かれ、呆気にとられる僕を尻目に佐原は喉を鳴らし続ける。
そこでようやく――そこに至ってやっと、佐原愛実は敢えて僕の神経を逆撫でするような言葉を選んで並べ立てていたのだということに気が付いた。
僕はまんまと、佐原の質の悪い冗談に乗せられてしまっていたわけだ。
「本気で裏切られただなんて思っていたのなら、無邪気にお前との再会を喜んだりするわけがないだろう。少なくとも、今はそう思っていないから。当時の自分が、異常だったことに気が付いたから。お前に対して負い目を抱いているから、私はお前との再会を喜んだんだよ」
「……相変わらず腹が立つ女だな、お前は。変わってないよ、本当に」
脱力。深々と、溜息が漏れる。
「まあそう言うな、神崎。お前と私の仲だろう。これくらいの冗談は許せ」
「親しき中にも何とやらって言葉を知らないのか、お前は。それに、僕とお前はもう半分他人みたいなもんなんだぞ。少しは気を遣ったらどうなんだ」
「冗談言うなよ。お前に気を遣わなきゃならないなんて、想像しただけでも吐きそうだ。それならまだ、硫酸の中に腕を突っ込めと言われた方がマシってもんだよ」
「……へいへい、左様でございますか」
例えはよくわからなかったが、とにかく僕に対して気を遣うつもりなんて小指の先ほどもないということだけは理解できた。
ここまで来ると、いよいよ心が折れて言葉を返す気力さえもなくなってくる。
そもそもの話、あの佐原愛実と正面からやり合おうというのが間違っていた。
情けない話ではあるのだが、思い返せば当時から僕は彼女に口先で勝った例がない。
言い負かされるか、のらりくらりと躱されるか。話を煙に巻かれるか。
いずれにせよ、僕の勝利という形で決着を迎えたことは、覚えている限りただの一度だってありはしないし、一矢報いてやったような記憶ですらもない。
端から、僕には勝ち目などない戦いだったのだ。
彼女と同じ土俵の上に立つということが、何を意味しているのか。
佐原愛実の言葉の裏に隠された意図に気が付けなかった時点で、僕の敗北は決まっていた。
「謝るなり、煽るなり、お前の好きにしろ。僕はもう、お前と一言だって言葉を交わしたくない」
大きく息を吐いて、天を仰ぐ。佐原の小さな笑い声が、再び僕の鼓膜を震わせた。
完敗だった。
完膚なきまでに打ちのめされた。
ここまで屈辱的で、覆しようがない敗北感を味わったのは、いつ以来だろう。
ぐうの音も出やしない。子供みたいに駄々をこねる気力だって、僕には残されていなかった。
それだけ、真正面から佐原の言葉を受け止めて投げ返したということなのだろう。
真っ向勝負。背中を向けて、耳を塞ぐのではなくて。相手の言葉を受け止めた上で、投げ返す。オサ研を構成する部品としての役割を与えられてから、意図的に避けていた――いや、避けなければならなかった行為。
本音で、愚直に実直に、誰かと言葉を交わすということ。
久しく経験しなかったその感覚を、僕は佐原愛実との会話の中で味わった。
「それでは、謝罪の言葉を粛々と――なんて、思ったりもしたが。なんだかそういう雰囲気でもなくなってしまったな。非常に、心苦しくも残念なことに」
誰のせいだ。とは、言わなかった。その言葉もまた、丸め込まれてしまうような気がしたから。
「せっかくの機会ではあったが、過ぎてしまったことを言っても仕方がない。謝罪はまたの機会ということにして、今日はこのくらいでお暇しようか」
「引っ掻き回すだけ引っ掻き回して、そそくさと帰るつもりなのかお前」
「まさか同じベッドで寝るというわけにもいかないだろう? 植草さんに何を言われるかわかったものではないし、何よりお前の言葉を借りれば私とお前は他人も同然だ。それに私は……白木のモノ、だったからな。操を立てた身でいながら、不貞を働くわけにもいかにないだろう。本心としては、こうしてお前と朝まで語り合いたいところではあるがな?」
「それは遠慮しておくよ。こんな調子じゃ、僕の身と胃がもたない。由紀乃のことなんてどうだっていいけれど、白木に申し訳が立たないしな」
「ふふ、そうか。それは残念だ」
ちっとも残念でなさそうにそう言って、佐原はゆっくりと立ち上がる。
「お前と話せてよかった。少し、気が楽になったよ。ありがとう、神崎」
「僕はお前におちょくられていただけだけれどな。まあ、気分転換になったのなら良かったよ。もう二度と、こんなことは御免だけれど」
「まあまあ、そういうなサンドバッ君。恋人を失ったばかりの女を慰めると思って、積極的に殴られてくれよ」
「人を変な名前で呼ぶな。あと、恋人を失ったばかりの悲しい女は軽快なフットワークで人に拳を叩きこんだりしない」
この数十分の間だけで何度目かになるかわからない溜息を吐いて、僕は重い腰を上げた。
「部屋まで送るよ」
「いや、ここでいい。これ以上お前に迷惑をかけるわけにもいかないからな」
立ち上がりかけた僕を、開いた掌を突き出した佐原が制する。
「それに、子供じゃないんだ。一人で帰れる。もしも何かあれば、大声でも出すことにするさ。だから、大丈夫だよ神崎」
そう言った佐原の顔には笑顔が浮かんでいたが、その表情と声色の裏側には、絶対に譲らないという強い意志が見え隠れしていた。
「……ああ、そう。なら、いいんだけど」
一度こうなってしまった佐原は、梃子でも動かない。過去の経験から、僕はそれを知っている。
これ以上、この話題について議論することは無駄である、と。そう判断した僕は、一度は浮かした腰をパイプ椅子へと戻した。
「すまないな、神崎。せっかくの好意を無下にしてしまって」
「別に、それは構いやしないけれど……。本当に大丈夫なのか? お前にもしも何かあったら、僕は――」
椅子に座ったまま、そこまで言いかけて。はたと、言葉に詰まる。
もしも、佐原に何かあったら。
例えば、白木や須藤のように。いなくなってしまったとしたら。
その時、僕は――僕は、どうするのだろう。
何を思い、何を考え、佐原がいなくなってしまったという事実をどんな形で受け止めるのだろう。
悲しむのだろうか。
憐れむのだろうか。
それとも、僕には関係がないと切り捨ててしまうのだろうか。
元恋人。元友人。されど今は赤の他人。他でもない、僕自身の言葉だ。
ただの顔見知り。知らないわけじゃない仲。そんな人間が一人いなくなったところで、過去の遺物がひとつ消えてなくなったところで、それが僕の人生にどんな影響を及ぼすというのだろう。
僕は、何を言いかけた?
既に終わってしまった関係にある人間に、どんな上っ面だけの言葉を投げかけようとした?
何とも思っちゃいなくせに。心配なんて、小指の先ほどもしていないくせに。――そうでなくては、ならないくせに。
「……どうした?」
「いや、何でもない。勢いと、言葉の綾だ。縁起でもなかったな。聞き流してくれ」
途中で言葉を止めてしまったことを訝しむ様子の佐原に、僕は適当な言葉を並べて取り繕う。
それが、限界だった。
気が付いてしまったのだ。
憤っているつもりでいて、悲しんでいるつもりでいたけれど、どこかでかつての友人たちを過去の人間であると割りきってしまっていて――その死も、失踪も、これから起こり得るかもしれない悲劇にも、心の底から悲しんだり憂いたりなんて、していないことに。
「気を付けて帰れよ」
それだけ何とか吐き捨てて、ふらふらと立ち上がり、ベッドの上に身を投げる。
自分という人間に絶望するあまり、吐き気が止まらなかった。
もうどうだっていい。真人間を気取るのはやめだ。佐原が出て行ったら、小瓶の中身を口に流し込もうと枕に顔を深く埋めたまま僕は決意する。
「あ、ああ。そうするよ。長居してしまって、すまなかったな」
急激な僕の変化に戸惑った様子を見せた佐原だったが、それも一瞬のこと。それ以上何かを言うでもなく、佐原は僕から遠ざかっていく。
ドアノブが回って、扉が開く音。
粘り気のある、不愉快な熱を持った感覚に包まれる中。佐原が部屋を出て行こうとする音だけが僕の耳に響く。
「――ああ、そうだ神崎。一つだけ、言い忘れていたことがあった」
それからやや、間があって。扉の向こう、廊下に出たところで足を止めたらしい佐原が倒れ伏したままの僕に言葉を投げかける。
「今なら、お前が言っていることの意味がわかる気がするよ。昔の私が、どれだけ間違っていたのかもな」
そんな言葉を口にしている時、佐原がどんな表情を浮かべていたのかは僕にはわからない。
困ったような顔をしていたのかもしれないし、今にも泣きそうな顔をしていたのかもしれないし。もしかすると、僕が見たこともないような――想像することも難しいような、複雑な表情を浮かべていたかもしれないし。
どんな顔で、どんな風に、何を思ってそんな言葉を口にしたのかは彼女にしかわからないことだけれど。
「白木が死んで、やっと気が付いた。もうアイツの声が、私の名前を呼ぶことはない。もうアイツの指が、私の髪を撫でることはない。それは、こんなにも悲しいことだったんだなって。やっと、気が付いたよ」
しかし、彼女が次に発したその言葉は、枕に埋めた頭を持ち上げるには十分すぎるほどに、弱々しく疲弊しきった声色で放たれたものだった。
「おやすみ、神崎。また明日」
僕が顔を上げた時には既に、彼女の姿は扉の向こうへと消えていた。
「佐原、お前――」
遠ざかっていく足音。
きっと、扉の向こうの彼女には僕の言葉は届かなかったことだろう。
まったくとことん性格の悪い女だ。
最後の最後にあんな台詞を吐かれたら、一人にしたことを後悔してしまうだろうに。
僕という人間は呆れて物も言えないくらいに薄情であって中身のない人間ではあるけれど、それでも情や良心がまったくないというわけではない。と、自分では思っている。
それを知ってか知らずか、僕に心配をかけまいと気丈に振舞って見せていたくせに。
別れ際に、なんて言葉を残していったんだあの女は。
「……馬鹿女。辛いなら辛いって、そう言えよ」
それを聞いたところで、僕に何が出来るかはわからないけれど。
そんな言葉を付け足して、僕は再び枕に顔を埋めた。
流し込もうと決めていた、小瓶の中身のことなんて、すっかりと忘れたままで。