003
恥ずかしげもなく、率直な感想を述べてしまうのであれば。それは一言、ばっさりと、くだらないの一言に尽きる、取るに足らない薄っぺらい物語だった。
中身がないとまでは言わない。ただ、その中身が、少なくとも僕にとっては乏しく味気なく、手垢まみれに見えてしまったという話。
男と女の、悲恋の物語。
数十年前から、ともすれば数百年かそこら前からずっと、人の心に訴えかける名作であるとされてきた、お涙頂戴の御伽噺。
佐原率いる演劇部の面々が僕たちに見せたその物語は、思わず鼻で笑ってしまうような、悲劇と悲恋と悲哀と悲壮の、退屈で傲慢でご都合主義なまさに夢物語そのままのものだった。
場合が場合でなければ、腹でも抱えて笑い出していたことだろう。
口汚く、罵りの言葉を並べ立てていたことだろうと思う。
僕という人間が、理性を持った生き物であることを、今日という日ほど感謝したことはないというくらいに、失望と無関心の中で見せ付けられた物語は無味無臭で如何にもな大衆向け的名作劇場であった。
戦火によって引き裂かれた、愛し合う二人。
姫君と一兵士。身分違いも甚だしい恋。
愛こそすべて。愛し合う力がすべてを変える。
そんな、悲劇の皮をかぶった喜劇にも劣る何か。
これをくだらないと言わないで、何をくだらないと表現するのだろう。今以上に、時間を無駄にしてしまったという思いに駆られたことはない。幻滅したし、呆れかえった。怒りなど、一足飛びに追い抜いて、見えない所へ置き去りにしてしまった。
かつて彼女たちが放っていた輝きは、引け目を感じるほどだった栄光は、見る影もなく錆びつきくすんで目も当てられないくらいに落ちぶれていた。
「どう、だった……?」
ほんの数秒前まで、亡国の王女になりきっていた佐原愛実が、不安そうに視線をさまよわせる。まるで、悪戯がバレて叱られている時の子供のような表情だった。
「うーん、部長さんこういうの詳しいわけではないんだけれどもさ。なんと言ったらいいのかなぁ……。どこかで見たような気がしないでもない、どこでも見られようなお話だった、って感じかな。見せてもらっておいて、こんなことを言うのもどうかと思うけどさ」
ど真ん中火の玉ストレート。彼女にしては珍しく、ややオブラートに包まれてはいたが、それでも素直に率直に、感じたままを言葉にする部長。その横で何とも言えないどっちつかずの表情を浮かべていた巫女人先輩は、部長の言葉尻に乗っかるように「私もそう思ったかな」と遠慮がちに意見を述べた。
「そうっすか? 私は良かったと思いますけどねぇ。いいじゃないっすか、ロミオとジュリエット。王道かつ、ハズレなしの鉄板ネタで」
更にその隣、途中で飽きてしまったのか失礼にも欠伸なんぞを隠す素振りもなく見せていた緋子奈が、棒読み気味の皮肉で続く。普段なら咎めていたところなのだろうが、今はどうにもそんな気分にもなれなかったので、それは緋子奈なりの褒め言葉であると思い込むことにした。
「そうだね。私も良かったと思うよ。如何にも、佐原さんたちらしくてさ」
皮肉に続いたのは、皮肉。今度は由紀乃が、薄っぺらい笑みを浮かべる。理解ある気弱な幼馴染の仮面をかぶっていることを忘れてしまうほどに、腹に据えかねているのだろうとは思う。そうでもなければ、これだけの人目の中でどうやっても皮肉にしか聞こえない皮肉を当たり前のように口にはしないはずだ。なにせ由紀乃は、理解ある内気で気弱な女の子なのだから。
「……なるほどね。その反応、やはりと言うべきか。いやはや、お恥ずかしい限りだよ」
ふっと諦めたように笑った佐原の表情に影が射す。どうやら、演技の出来はともかくとして、根本となるシナリオの部分に問題があることは彼女も自覚しているらしかった。だからこその、この反応なのだろう。芝居に関しては妥協しない。何があろうともそれだけは絶対に許さない人間であったはずの佐原の、曖昧な表情と態度には苦悩と心労の感情が見て取れた。
満足していない。納得していない。不満で、不安。冷静になって彼女の様子を観察してみれば、そういうものが見えてくる。
「そちらは、ええと、青葉さんだったかな? 君も、神崎も、その顔を見る限り、同じ感想みたいだね。率直に言えば、つまらなかった、だろう?」
仏頂面。何を考えているんだかわからないような、魔女と僕を同じにしないでいただきたいが、それはそれとして。佐原の目には、青葉さんの無表情がそんな風にも見えたのだろう。事実、口を開こうともしない辺り、近からずとも遠からずといったところか。僕には彼女が返答に窮しているようにも見えたが、返答に窮するということはつまり、見せ付けられたものがそれだけ悪い意味で筆舌には尽くしがたいものであったと思っている、ということになる。
誰が見ても、そういう芝居だったわけだ。
記憶の中にある、もしかすると美化されてしまっているかもしれない光景と重ね合わせて、その落差に失望してしまっていた僕だけにではなく。真っ新な、一も二も知らない人間が見ても、評価に値するような芝居などでは到底なかった、と。そんな裏付けが出来てしまった。
芝居の出来の良し悪しを決めるのは、演じる側ではない。判断を下すのは、舞台の外からそれを眺めていた観客の側だ。何を願い、何を思って、役者が舞台に立っているのか。その物語が生まれた背景には、何があるのか。それらはすべて、演じる側の人間の都合であって、それを見ているだけの人間には関係がない。重要なのは過程でもなければ背景でもない。それらをひっくるめて出来上がった、純然たる結果だ。
感性の違い。受け取り方の相違。そういうものも、あるにはあるのだと思う。誰かにとっての悲劇は、別の誰かにとっての喜劇にもなり得るし、そのどちらにもなり得ないと思うまた別の誰かもいる。十人十色。百人いれば、百通り。人が違えば評価も違うし、感涙にむせび泣く人間がいてもおかしな話ではない。
けれどこの場に限っては、今回だけの話に限定すれば、少なくともこの場にいる人間の中には、そういった感性を持ち合わせている人間がいなかった――もしくは、多種多様な感性と観点から見ても、それは等しく駄作と呼ぶに相応しい物であったということになる。
「いや、佐原。何も僕たちは、そこまで――」
「いいさ。それでいいんだよ、神崎。下手な慰めはこちらとしても不愉快だし、何よりお前の顔にはそう書いてある」
下手な慰めを遮って、喉を鳴らした佐原は部屋の隅へと視線を動かす。
「やっぱり、観客の意見は正直だね。脚本担当として、猛省するばかりだよ」
佐原の視線の先。壁に寄りかかるようにしてそこに立っていたのは、僕のよく知る人物だった。
「素人である僕がこんな言葉を使うのは烏滸がましいかもしれないけれど、スランプってやつでね。どれだけ頭を捻っても、まともな話がひとつも出てこない。夏休みが終われば、すぐに学園祭があるっていうのにさ」
今も昔も、演劇部の脚本担当。旧友の一人でもある白木透は、そう言って自嘲の笑みを浮かべた。
「こりゃまた一から書き直しかな。これじゃあ誰も、納得してくれないだろうし」
物憂げに虚空に目をやり、白木がそう呟いた時だった。
「ふざけないでよ、アンタはいったいどれだけ私たちを振り回せば気が済むわけ!?」
やけにヒステリーな声が、びりびりと食堂の中の空気を震わせた。声がした方に目を向ければ、そこには如何にも気が強そうな少女の姿がある。
彼女は丁寧に切り揃えられた短い髪を振り乱しながら、足音も荒く白木へと歩み寄っていく。その姿はどこか、手が付けられなくなった時の緋子奈を連想させた。どうやら演劇部の方にも、口よりも先に手が出てしまうような野蛮系女子がいるらしい。あちらはあちらで、僕の知らない苦労がありそうな様子ではあった。
その少女、相当腹に据えかねているらしい。これでもかと眉は吊り上がっているし、犬歯が剥き出しになるくらい歯を食いしばっている。これ以上ないくらい、攻撃的な雰囲気だった。近所の犬が、たまにあんな顔で僕を見る。だから間違いない。あれはがぶっと、怒りに任せて噛み付く寸前の顔だ。
「黙って聞いてりゃ好き勝手、他人事みたいにペラペラと。誰のせいで私たちが何回も、一から芝居を作り直さなきゃならないと思ってんのよ!」
怒り心頭。白木に詰め寄った少女は、平手で白木の肩を突き飛ばす。
「アンタは、へらへらしながら消してまた書けばそれでいいのかもしれない。でも、私たちはそうじゃないの。アンタのスランプとやらに付き合わされて、迷惑ここに極まってんのよ! 愛実ちゃんだって、あんたのそういうところが――」
「やめろ、曽我根。いくらなんでも言い過ぎだ」
今にも噛み付かんばかりの勢いで白木を責める、曽我根と呼ばれた少女。そんな彼女を諫めたのは、目を伏せて須藤の隣に立っていた、三人目の昔馴染みである須藤だった。
当時からして、須藤は何かと暴走しがちな演劇部のメンバーのストッパー役を務めていた。須藤の一言で曽我根が口をつぐんだところを見るに、場所や面子が変わっても、その役割だけは変わらなかったのだろう。
損な役回りだ。今の僕になら、須藤の気苦労が理解出来る気がする。もっとも、その気苦労の中身は似ても似つかないものであるだろうけれど。
「仲間割れなんてしている場合じゃないことくらい、お前だってわかってるだろうが。お前たちにはお前たちの苦労があるだろうし、須藤には須藤の苦労があるんだ。大変なのはお前だけじゃない。いつも言ってることだが、悲劇のヒロインを気取るのも大概にしろ」
曽我根を諫める須藤の口調には、随分と棘が目立っていた。おそらくあの曽我根という少女、素直に人の話を聞くタイプの人間ではないのだろう。どこかの、直情直下の原始人みたいな問題児と同じで。何度言い聞かせても、それを受け入れようとしないのだと思う。いつも言っている、という言葉が出てくる程度には、何度も同じやり取りが繰り返されているのであろうことは推測出来た。須藤の口調からは、それが滲み出ている。
「はぁ? 誰が悲劇のヒロインなんて気取ってるっていうのよ。小道具弄ってるだけの分際で、随分とデカい口を叩くじゃない。アンタみたいな裏方に、私の何がわかるっていうのよ。馬鹿言わないで」
「だから、そういうところだって言ってるんだよ。可哀想な私を誰も理解してくれないだなんて恥ずかしげもなく言えるところが、悲劇のヒロイン気取った大根役者だっつってんだよ。自覚もないなら、尚更にな」
売り言葉に買い言葉。閉塞的なこの状況がそうさせるのか、それとも他に原因があるのか。どちらも心の余裕を欠いてしまっている様子である二人の口論は、僕たちを置き去りにして加熱の一途を辿る。白木を責める者と庇う者の関係であったはずの二人はいつしか、白木を蚊帳の外に置いての直接的な殴り合いを始めてしまっていた。
馬鹿げている。幼稚園児でもあるまいし。高校生にもなって、いったい何をやっているんだこいつらは。
どんな理由があるのかは知らないが、どちらも周りが見えていないにもほどがある。喧嘩なんてしたところで、根本的解決になんてならないだろうに。ましてや、それがわからない歳なんかでもないだろうに。いつまでも、子供みたいに。僕が私がと、騒ぎ立てて。
「大根役者はどっちだか。一番白木を責めたいのは、アンタなんじゃないの須藤。だってアンタは――」
「――いい加減にしろっ!!」
喉が震えて、熱がこみ上げる。雄たけびに近いそれに驚いたらしい青葉さんが、ぴくっと小さく肩を揺らした。
大声を上げるなんて僕の柄じゃない。そんなのは、僕のやり方ではなかった。
しかし、けれども。あまりにも耳障りな罵り合いに堪えかねて、僕は数年ぶりに腹の底からの大声を上げた。
「喧嘩ならよそでやれ、目障りだ。自分たちですらも満足できていないような、幼稚園児のお遊戯会みたいな三文芝居を見せつけられたかと思えばお次はこれかよ。いくらなんでも、くだらないにもほどがあるだろ。お前たちはこんなものを見せる為に僕たちをここに呼んだのか?」
湧き上がる怒りに任せて、感情的に言葉を叩き付ける。二人の喧嘩を目障りだとまで評しておいて、その自分が感情を露わにしていては世話がないが、そうでもしないと腹の虫が治まりそうになかった。
「頼むよ、須藤。幻滅させないでくれ」
僕はこれ以上、お前たちの落ちぶれた姿を見たくない。
「……悪かった、謝る。言い過ぎた」
須藤がばつの悪そうな顔をして、目を伏せる。
曽我根の方は何かを言いかけた様子だったが、結局は口を開くこともなく不機嫌そうに顔を背けると、そのまま足取りも荒く部屋を出て行ってしまった。
そうして、部屋の中には気まずい沈黙だけが残る。その空気を作り出した張本人――とまでは言わないものの、その一端を担ったことになる僕自身、耐えられなくなってしまうような重苦しい空気だった。
誰も口を開かず、目を合わそうともしない。特に、演劇部の部員なんかは顕著に。僕の視線を避けるように、窓の外に目を向けたり目を伏せたりしている。オサ研のメンバーは、どちらかと言えば僕が大声を出したことに驚いているという表情だったが、それでもこの空気の中で僕の奇行に言及することもなく。木々を揺らす激しい風と、窓を叩く横殴りの雨の音が、息の詰まる空気を伴って部屋の中に充満していた。
「幼稚園児のお遊戯会みたいな三文芝居、か……」
そうして、どれくらいの間そんな空気の中で立ち尽くしていただろう。灰色の空を舐めるように走った稲光が四度目の音を響かせた頃になって、俯いたまま黙していた白木が不意に小さく呟いた。
冷たい手でぐっと、心臓をわしづかみにされたかのような感覚に襲われる。白木がぽつりと口にした言葉は、つい先ほど僕が怒りに任せて吐き出してしまった言葉だった。
脚本を担当している彼にとって、僕が放ってしまったその言葉は何よりも深く胸に突き刺さるものだったのだろう。その言葉は、彼自身を否定してしまっていると言っても過言ではない。いくら頭に血が上っていたからといって、本人を目の前にして吐き出していいような言葉ではなかった。
すぐに周りが見えなくなるのは、僕の悪い癖だ。
問題児たちの飼育係としての立場と義務を背負った頃から、常に平等にして平静であろうと心掛けてはいるけれど、そんな人間であろうと努力をしてはいるけれど、人間はそう簡単に変われる生き物でもない。上手く取り繕っているだけで、そういう仮面をかぶっているだけで、本質の部分は何一つ変わってなどいない。僕は今でも、捻くれていて素直じゃなくて、緋子奈と同じかそれ以上には短気で口の汚い生き物だ。だから、少しでも油断すればこうやってすぐにその化けの皮が剥がれる。かつて演劇部に所属していた人間だとは思えないほど、僕の芝居はお粗末なものだ。役者としては、失格である。全の為の一にして無にして平坦であらねばならない立場にある僕が、感情を露わにするなどあってはならないことだ。そんな如何にも人間らしい行為は許可されていない。
ましてそれが、脚本づくりに行き詰まるかつての友人を傷付けてしまうような言葉であれば、尚更に。
僕もまだまだ、認識が甘いようだ。
その立場と、義務に対する認識が。
「気を悪くしたのなら謝るよ、白木。さすがに言葉が過ぎた」
一つ息を吐き、白木に目を向ける。
「いや、いいんだよ神崎。お前の言う通りだ。幼稚園のお遊戯会の方が、可愛げがある分まだマシだろうしな」
そう言って、白木はひらひらと手を振って見せた。その顔には、力のない笑みが浮かんでいる。怒っているというわけではなさそうだったが、気にしていないというわけでもない様子だった。
当たり前といえば当たり前か。あんな言い方をされれば、誰だって傷付く。僕が白木の立場だったら、激怒していてもおかしくはない。なのに白木がそうしなかったのは――怒りの矛先を僕に向けなかったのは、白木自身あの脚本の出来に満足していないからなのだろう。精魂込めて書き上げた脚本を幼稚園児のお遊戯会だなんて評されれば、誰だって傷付くだろうし腹を立てもする。けれど白木は落ち込んでいる様子は見せたものの、食ってかかるような素振りは欠片も見せなかった。それは自信のなさの表れなのだろうと、僕は推測する。
僕が知る白木透という人間は、往々にしてぞんざいで、気取った態度が鼻につく高慢ちきな自信家で。けれど何故だか嫌いになれない、不思議な魅力を持った人間だった。そんな白木が、自分が手がけた脚本をここまで馬鹿にされて気分を害さないわけがない。僕がよく知る当時の彼なら、角材でも持って殴りかかって来ていたことだろう。
そうしなかったのは、そうならなかったのは、自信がなかったからだ。
言い換えれば、愛がない。
芝居を愛し、芝居に生かされている佐原と同じように、自分は物語を紡ぐという行為を他の何より愛している。いつだったか、白木はそんなことを言っていた。作品とは自分の子供のようなもの。愛を持って接するべきで、それがない作品には色も中身もない、というのが当時からの白木の持論だったと記憶している。僕が覚えていた違和感の正体は、そこにあったのだろう。僕が三文芝居と評した彼らの芝居には、白木が描いた作品には、愛が感じられなかった。ただ文字を並べただけ。ただ形を整えただけ。どこかから拾って来た材料を、着飾らせて舞台の上に置いただけ。佐原たちが演じた物語に、僕はそんな印象を受けた。
だから、怒らなかった。
いや、怒れなかったと言うべきか。
自信がなかったから、愛がなかったから、そこに負い目があったから、白木は声を荒げることも不快感を露わにすることもなかった。と、そんなところか。
白木らしくもない。あの嫌みったらしいまでの自信と、深すぎる作品への愛は、どこへ消えてしまったのだろう。
「白木、僕は――」
「悪いな、神崎。あとで聞くわ。今はちょっと、一人にしてくれ」
僕の言葉を遮って、白木は曽我根が出て行ったのと同じ扉から部屋を出て行く。肩を落とした小さく見える背中が見えなくなるのを見送って、やりきれない思いになった僕は口の中だけで悪態をついた。
かつての仲間たちへの怒り。そして、自分自身への怒り。複雑で、煮え切らなくて、すっきりしなくて。こんなことになるのなら、この場に顔なんて出さなければ良かったと後悔する。彼女たちの口から僕の過去が暴露されてしまうかもしれない可能性については、もうどうだって良くなっていた。
「どうしちゃったんだろうね、白木君。あんな人じゃ、なかったよね?」
部屋を出て行く白木の背中を見つめていた由紀乃が、小さく呟く。僕の幼馴染である由紀乃もまた、佐原や白木とは旧知の仲だ。深い関係にあったわけでもないが、それでも彼女は当時の白木の姿を知っている。僕だけでなく、由紀乃もまた白木の変化には戸惑っているようだった。
「変わっちまったのさ、俺たちは」
ぽつり。やや間を置いて、須藤が由紀乃の言葉に応えた。
「あんなことがあって、それで――」
「やめろ、須藤」
何事かを言いかけた須藤。佐原が食い気味にそれを遮る。
「語る方も、聞かされる方も、気分のいい話じゃない。その話は、なしだ」
両腕で自分の体を抱きかかえるようにしながら、佐原は目を細めて須藤を睨む。その目に浮かんでいたのは、間違っても仲間に向けるべきではない感情――鋭くとがった敵意の色であるように見えた。
「私に、思い出せさせないでくれ」
白むほど力の込められた佐原の指先が、小さく震えていた。まるで、何かに怯えているかのように。小刻みに。けれど、確かに。誰が見ても、震えているのだとわかるほどに。
いったい、何があったのだろう。僕と彼女たちが関係を絶ってから、今日までの間に。 何がここまで、彼女たちを歪めてしまったのだろう。
何があれば、人はここまで変わってしまえるのだろう。
「え、あ、ちょ、ちーくん!?」
怯えた素振りを見せたきり、俯いて動かなくなってしまった佐原をそれ以上見ていられなくて、僕は現実から目を背けるように、足早に食堂を後にする。部長の声が背中を追いかけてきたが、それでも僕は振り向かなかった。――いや、振り向けなかった。きっと、振り向いてしまえば、もう一度でもあんな佐原の姿を見てしまえば、今度こそ怒りを抑えることができなくなってしまうだろうと、そう思ったから。だから僕は、振り向けなかったし、振り向かなかった。
「なんでだよ、佐原……!」
二階へと続く階段の途中。僕は力任せに、拳を壁へと叩き付ける。
感情と理性の剥離。制御を失った体は糸が切れた操り人形のように、力なくその場に崩れ落ちた。
痛い。熱い。苦しい。鮮明に脳裏に蘇る光景。唐突に目の前に現れたあの日の幻影――あの頃の、制服姿の佐原の腕が、指先が、ぎりぎりと僕の首を締め上げる。
幻痛。わかっている。これは、現実の痛みではない。あの日に囚われてしまった僕が、勝手に思い出に殺されそうになっているだけだ。この痛みも、熱も、苦しみも、現実のものではない。そのどれもが過去のものだ。
失せろ。消えろ。纏わりつくな。
久しく見ることのなかった、あの日の幻影に吐き捨てて、僕はポケットから取り出した小瓶の中身を口の中に流し込む。
一つ。二つ。三つ。四つ。苦みのある錠剤を噛み砕けば噛み砕くほど、忌まわしい幻影は薄れて形を失っていく。
『――嘘つき』
形を失って、霧散する幻。その去り際に、唇が確かにその形に動いた。
五月蠅い。黙れ。嘘つきはどっちだ。お前の方が余程に立派な――役者じゃないか。
呼吸を荒げ、苦悶の表情を浮かべる僕をあざ笑うかのように。
また一つ、大きな雷鳴が轟いた。