022
「――私は私で、勝手に死ぬよ。お前に私は、殺させない」
ずるりと、佐原の体から力が抜けた。
抱えていた身体が重みを増して、支えきれなくなった僕は舞台の上に崩れ落ちる形で膝を折った。
「お前、どうして……!」
佐原の腹部には、武骨なナイフが根元まで深々と突き刺さっている。それは白木の背中に突き刺さっていたナイフと、まったく同じものだった。
「本当は、お前に突き刺してやるつもりだったんだけどな……。気が、変わったよ」
微笑みを浮かべ、そんなことを言った佐原は血に濡れた指先で僕の頬を撫でる。
「私を、私を愛してくれないお前なんて、殺して、やろうって思ってたのに……。どうして、だろうな……」
何度も、何度も。佐原の指先が、頬を撫でた。生暖かい液体が、僕の顔を汚していく。
「白木も、須藤も、それから曽我根も……私が、殺したんだ。私、が……この手、で。それなのに、どうして……どうしてお前は、お前だけは、殺せないのかなぁ……」
湿った音。佐原の口から、赤色が噴き出した。目の前で緩やかに命が零れ落ちていく。焦点の合わない彼女の目は、既に僕の姿を捉えてはいなかった。
「なあ、神崎……。最後に、最後にもう一度だけ……愛してるって、言ってくれないか」
口を開く度に佐原の口からは鮮血が溢れ出し、その体を抱き抱える僕の服を濡らしていく。光を失いかけているその目が、その瞬間だけは確かに僕に向けられた――そんな気がした。
「……愛してる。愛してるよ、佐原」
自然と言葉が口を突いて出た。そんな気持ちなんて微塵もなかったはずなのに。意識とは関係のないところで、言葉は音になって口から飛び出した。
それは多分、僕の短い人生の中で最も無責任で――残酷な言葉だったと思う。
上辺だけの、中身の伴わない言葉。その場を取り繕うだけの、誰も幸せにしない嘘。あの頃の僕と同じ、言葉だった。
「――――」
血の気のない佐原の顔に、力のない笑顔が浮かぶ。唇が何か言葉を紡ぐように小さく動いて――。
「――行けっ!」
それから佐原は、信じられないような力で僕を突き飛ばした。
どこにそんな力だ残っていたのだろう。身構えていなかった僕は、情けなく舞台から転がり落ちる。
「くっ……佐原っ!」
慌てて立ち上がったところで、噴き上げた炎が舞台の上にいる佐原の姿を隠してしまった。
「……行けよ、神崎。私には、もう何もない……。でもお前は、違うだろう。まだこれからが、あるじゃないか。待っている人が、いるじゃないか」
炎の壁の向こうに、薄っすらと形の見える佐原の声が耳に届く。
「私はもう、駄目だけど。あいつらのところに、行くけれど。お前は、生きろ……生きてくれ……。もう二度と、私みたいな人間を――」
言葉尻は、降り注ぐ瓦礫の音に掻き消された。佐原の姿が、完全に見えなくなってしまう。
「そんなのって……そんなのってないだろ、佐原っ! おい、返事をしろ!」
瓦礫の向こう。舞台の上にいるはずの佐原に、言葉を投げかける。けれど、何の返事も返っては来なかった。
「ふざけるなよ……。お前は生きろ、だって……?」
勝手なことを言うなよ。そんなこと、できるはずがないだろう。
ほんの気まぐれで生かされている。何となくで飼い殺されている。そんな立場にいる僕を、待っている人間などいるはずもない。
二年前のあの日――彼女の秘密を知ってしまったことで、神崎千尋という人間は死んだ。
ここにいるのは、ここにあるのは、歯車としての役割を持たされた人形だ。与えられた役目を果たすだけの部品だ。
そんな僕に、生きろなんて残酷な言葉を突き刺して死んでいくのか。
お前を壊してしまったという責任を、抱えたまま生きろというのか。
「おい、佐原! 返事をしろ、佐原っ!」
彼女はもう、死んでしまっているのだろうか。どれだけ声を投げかけても、ひとつも返っては来なかった。
一緒に死ぬはずだったのに。生きろ、という彼女の言葉が頭の中で反響する。
否定しろ。何かの間違いだったと、今すぐに。一緒に死ねと、そう言ってくれ。僕を残して――逝かないでくれ。
「――神崎くん!」
不意に、聞こえるはずのない声が耳朶を打った。
この場にはいないはずの――いてはならないはずの少女の声。
「青葉、さん……?」
振り返ると、揺らめく炎の向こうに青葉さんの姿がある。どういうつもりなのか、彼女は炎の中をこちらに向かって進んできている様子だった。
「――きゃあっ!」
逃げろ、と声にするよりも早く。入り口付近の天井が崩れ落ちて、青葉さんの近くに降り注いだ。その余波で体勢を崩してしまったらしい彼女は、床の上に倒れ込んだまま動かなくなる。
「青葉さんっ、青葉さん!!」
動かない。倒れ込んだままの体を、炎が包み込もうとしている。僕のせいで、無関係な人間が命を落とそうとしていた。
「神崎、くん……」
小さく、僕の名前を呼ぶ声が聞こえる。
彼女の頭上にある天井が――大きく、崩れた。
「――青葉さんっ!」
僕の中で何かが弾ける。炎の壁を突き抜けて咄嗟に彼女に駆け寄った僕は、彼女の上に覆いかぶさった。
「ぐ、う……っ!」
瓦礫が背中を打ち付ける。息が詰まって、目の前が真っ白になった。
――死なせてなるものか。
その一心で、飛びそうになる意識をどうにか繋ぎ留める。僕はどうなったっていい。でも、青葉さんだけは――。
「く……そ……!」
体を押し潰そうとする瓦礫を力いっぱい跳ね除ける。刺すような痛みが背中を襲う――が、そんなことに構ってなどいられなかった。
「すみません、少しの間……我慢してくださいね」
立ち上がり、意識を失ってしまっている魔女の体を抱きかかえる。それから僕は、瓦礫と炎と煙の中を出口に向かって歩き始めた。
死ぬことが怖くなったわけではない。佐原の生きろという言葉に背中を押されたわけでもない。
くだらない人生をこの場所で終わりにする。その気持ちに変わりはないし嘘もない。
ただ、それでも。彼女を――青葉湊を死なせたくないという一心が、僕の足を動かしていた。
一歩、また一歩。前に進む度に、死が遠ざかっていく。すぐそこまで迫っていたはずの結末は――僕にとっての救いとなるはずだったその結末は、手の届かない所にまで逃げ去って行こうとしていた。
とんだ邪魔が入ってしまったものだ、と僕は思う。君子危うきに近寄らずという言葉があるように、聡明な彼女であればこんな危険な場所に飛び込んでなど来ないだろうと思っていたのだが……。
青葉さん然り、佐原然り。どうしてこう、僕には人を見る目というものがないのだろうか。これでも人を見る目には定評があると思っていたのだけれど。この結果を見るに、どうやらそれは僕の勘違いであったらしい。我ながら自分が自分で嫌になる。
人選ミスか、はたまた日頃の行いか。理由はどうあれここで死ぬことは許されないようだった。
「……良かった、隙間がある」
天井の崩落で塞がったように見えていた出口。幸か不幸か、横に回り込んでみれば瓦礫と瓦礫の間には大きな隙間があった。そこから外の景色が見えている。これなら、青葉さんを抱えたままでも外に出ることができそうだった。
そうしたいかしたくないかは別として。そうしなければならない理由がここにある。僕はどうあっても、この隙間を通り抜けて死ぬことを諦めなければならないのだろう。
まったく余計なことをしてくれたものだ。目が覚めたら、文句のひとつでも言ってやることにしよう。死に場所はまあ、また探せばいいだろう。
「悪いな、佐原。もう、行くよ」
一度だけ、舞台を振り返る。瓦礫と炎と煙に阻まれて、佐原の姿はもう見えない。あの向こうにいる佐原は、もう死んでしまっているのだろうか。それとも――。
「……ごめんな」
それが何に対する謝罪だったのか、自分でもよく分からないけれど。小さく、本当に小さくそんな言葉を呟いた僕は、瓦礫の隙間から劇場を出た。
随分と小降りになった雨が顔を叩く。この島を襲っていた嵐はもう、過ぎ去ろうとしているようだった。
「――ちーくん!」
足音。燃え盛る劇場から少し離れたところで、僕たちは駆け寄って来た部長たちに取り囲まれる形になった。
部長も巫女人先輩も、緋子奈も由紀乃も。涙を浮かべて、僕を見ている。犬養さんと咎芽さんは、安堵したような表情をこちらに向けていた。
「すみません、彼女をお願いします」
「あ、ああ。分かった」
抱きかかえていた青葉さんを咎芽さんに預ける。慌てたように頷いた咎芽さんは、犬養さんと一緒に屋敷の方へと足早に歩いて行った。
これで彼女は大丈夫だろう。多少の火傷はしてしまっていたようだが、そこまで大きな怪我はなかったように見えた。このまま目を覚まさないということは、ないだろう。咄嗟に飛び出して、身を挺して庇った甲斐があるというものだった。
……まあ、その原因を作ったのは他ならぬ僕ではあるのだけれども。それは、それとしてだ。
「先輩、先輩っ……! 良かった、生きててくれて……!」
「私、千尋君が死んじゃったんじゃないかって、それで……」
屋敷の方へと消えていく二人の背中を眺めていると、緋子奈と由紀乃が両脇から僕に僕に抱き着いてきた。涙に震える声が、耳の近くで聞こえる。
「……ごめんな、心配かけて」
僕の言葉に巫女人先輩が小さく頷いて、それで――。
「――この、馬鹿っ!」
ぱんっ、と。部長の手が、僕の頬を打ち据えた。
「どうして、こんなことしたの」
怒りか、悲しみか。小刻みに震える部長が、鋭い目で僕を睨み付ける。
「ちょっと、哀歌ちゃん。今は――」
「巫女人は黙ってて。私は今、ちーくんとお話してるんだよ」
諫めようとした巫女人先輩をぴしゃりと跳ね除けて、部長は僕の胸倉を掴んだ。
「火をつけたの、ちーくんだよね。佐原さんに、そんな準備をする時間なんてなかっただろうから」
部長の目が僕を刺す。呆けているようで察しの良い彼女は、この騒動の犯人が誰なのかを理解している様子だった。
「それは……」
「誤魔化さないで、答えて」
「……はい。すみません。僕が、やりました」
二発目の平手。今度は反対側の頬を叩かれた。加減なく打たれた頬に、目の前を火花が舞う。
無理もない。僕が彼女の立場なら、拳のひとつでも叩き込んでいるところだった。
自らの所有物を燃やされたばかりか、あまりにも身勝手な理由によって大切な仲間の命が――事件とは無関係である魔女の命が危険に晒されてしまったのだから。これで怒らない方が、どうかしているというものだろう。――と、そう思っていた。
「もう二度と、こんなことしないで。自分を粗末にしたりなんかしないで。本当に、本当に、心配だったんだからね……!」
けれど、それは違っていた。
そんな風に言葉を続けた部長は、正面から僕の体を抱きしめた。
「――お帰り、ちーくん」
その言葉を聞いて、僕はまた自分がとんでもない思い違いをしていたことに気付かされた。
ああ、そうか。そうだったんだ。
心の中で見下していた彼女たちは、蔑んでいた少女たちは、遠くにいると思っていた問題児たちはこんなにも――こんなにも近くに立っていたんだ。
立場という言葉に、役割という言葉に、僕一人だけが勝手に縛られていた。不幸なのは自分だけだと思い込んでいた。炎の向こうに消えていった初恋の相手――佐原愛実と出会ったあの頃と同じように。僕は、勘違いをしていた。
変わったつもりでいた。けれど、なにも変わってなんていなかったんだ。
僕だけがいつまでも、あの頃のままで取り残されて――。
「……はい。ただいま、です」
ここにいてもいいんだ、と。気持ちが軽くなった。僕の知らないところで、僕はこんなにも想われていたんだ、と。初めて気が付いた。
「……成長してないんだなぁ、僕って」
ぽつり、呟く。その声は誰かの耳に届く前に、連続して風を裂くような音に掻き消された。
「あ、あれって……」
緋子奈の指さした先。そこには、こちらに向かって飛んでくる二つの影がある。
「……私たち、助かったんだね」
耳朶を打った由紀乃の声に、張り詰めていた緊張の糸が解れていく。力の入らない足が身体を支えられなくなって、背中の傷が酷く痛み始める。
――ああ、終わったんだ。
これで、終わったんだ。
「ちょ、ちょっとちーくん大丈夫!?」
崩れ落ちるように膝を折る。倒れかけた僕の体を、部長がしっかりと抱き留めた。
「すみません。少し……休みます」
意識が遠のいていく。抗う間もなく、輪郭が溶けてぼやけていくのを感じた。
いつ以来だろう。薬の力に頼らなくても、これほど温かな眠気に包まれるのは。
「……うん。そっか。そうだよね。ちーくん、疲れてるんだもんね。後のことは、私たちに任せて」
部長の小さな手が、僕の髪を撫でる。
それから僕は――。
「……おやすみ、ちーくん」
部長の柔らかな声を最後に、意識を手放した。




