021
私は私の役目を果たした。だから今度は、貴方の番。
最後の最後にこの私を除け者なんかにしたからには、きっちりと片を付けてきてくださいね。中途半端は許しませんから。
どんよりとした空気の漂う部屋の中、ここにはいないクラスメイトに向かって私は言葉を投げかける。届くはずがないし、届くなんて思ってすらもいないけれど、それでも何もしないでいるよりは、ずっと何倍もマシだった。
「……千尋くん、大丈夫かな」
小さな声で呟いた植草さんが、心配そうな目を私の方に向けてくる。
「さあ、どうでしょう。私には、分かりません」
こういう時、優しい言葉のひとつでもかけてあげるのが上手な人付き合いには必要なことなのだろうけれど、しかし私は植草由紀乃という少女と良好な関係を築き上げようという気持ちを、小指の爪の先の汚れほどにも持ち合わせていなかった。
相手がぶりっ子サイコパス女の植草さんだから、というわけではなくて。単にそうすることが面倒だというスタンスであるだけのことだった。
人付き合いとは煩わしいものだ。特にそれが、自らが望んだものではないともなれば殊更に。頼まれたって、そうしてやろうという気持ちにはなれない。
自分を殺して他人に合わせることが友情を築く為には必要不可欠なことであるとするならば、私は墓の下までひとりぼっちでいたって構わなかった。
それに。
「なにより、無責任なことも言えませんから。根拠のない言葉で期待させておいて、いざそれが違っていました……なんてことになってしまったら、私には責任なんて取れませんし」
言葉というものは、このぶりっ子サイコパスが思っているよりもずっともっと、尊く重たく鋭いものだ。
五十音。それ単体では音でしかないものが、他の音と一緒になることで意味を持つ。意味を持つということはつまり、それは誰かを守る盾にもなれば誰かを傷付ける刃にもなるということだ。それを知っているからこそ私は、理由なくそれを振りかざしたり、どうなるかも考えないで投げつけたりはしない。
今まさに殺人鬼と対峙しているであろう彼は、私が何の考えもなく人の神経を逆撫でする言葉を口にしていると思っているようだけれど。言葉に助けられ、裏切られた経験が何度もある私は、天と地と神に誓ってそんなことはしない。
我欲の為に言葉の刃を振り回し、平気で人を傷付けるような目の前の少女とは違うのだから。
……もっとも、こんなことを言っておいて実はさして親しくもない人間に対しての言葉に、責任を負いたくはないというのが本当のところではあるのだけれど。それはそれで、これはこれだ。
「そう、だよね。ごめん……」
消え入りそうな声で呟いて、植草さんは俯いた。それから、それっきり。何を言うわけでもなく、自分の爪先を見つめている。どうやらこれ以上、私に声をかけて来るつもりはないようだった。
賢明な判断だ。存外に、彼女は私が思っているよりも賢い人間なのかもしれない。
いや、人の感情の機微を目敏く読み取ることに、嫌味なくらい長けていると言った方が正しいか。
どちらにせよ、彼女のその賢さだか世渡り術だかは、私にとって有難いものであった。興味のない人間と交わす言葉ほど、そんなことに時間を浪費してしまうことほど、この世に無駄なことはない。
上辺だけの言葉や、根拠のない言葉もそれと同じだ。それ自体に、何の意味もない。精々が気休め程度――あってもなくても変わらないような、少なくとも私にとっては不必要なものでしかない。
彼女はどうだか知らないけれど、私は神崎くんを信じている。声にしなくとも、言葉で自分を縛らなくとも、私は彼を――彼の言葉を信じていた。
彼がすべてを片付けて、誰も悲しませないように帰って来ると言ったのだから、私はその言葉を信じて待つだけだ。
――ただ、ただほんの少しだけ。
別れ際に、見間違いかと思ってしまうほどの刹那に、思い詰めたような顔をしていたことだけが気になっていた。
妙な胸騒ぎ。
虫の知らせ。第六感。悪い予感ほどよく当たる、とは言うけれど。今回ばかりは、そうでないことを祈るばかりだった。
「……ねえ、あれは?」
目を伏せて、そんな物思いに耽っていると、部長さんの声が耳朶を打った。
部屋中の視線が集中する中で、彼女はどこかを指さすようにして、動きを止めている。
どうしたのだろう、と視線を動かしたところで――。
「なっ……!?」
驚きのあまり、声が出た。
部長さんが指さす先。窓の外。立ち並ぶ木々の向こう側。
黒い煙が、風に吹かれて立ち上っていた。
「なにか、燃えてるの……?」
植草さんの言葉に、私は椅子を弾き飛ばして立ち上がる。脳裏には、考えられる限り最悪の光景が浮かんでいた。
まさか。いや、そんなはずは。でも、あの方向には――神崎くんがいる、劇場があったはずだ。
「青葉さん、待って!」
引き留めようとするその声が、誰のものかも分からないまま。気が付くと私は、部屋を飛び出していた。
廊下を駆け抜け、玄関を抜ける。弱まったとはいえまだ横殴りではある風と雨が、私の体を打ち付けた。
構うものか。ぬかるみに足を取られながら、それでも私は前に進む。吹き飛ばされそうになりながらも、私は立ち上る煙の根元へと急いだ。
「神崎くん……!」
小さな林を抜けて、開けた場所に出る。
無情なことに、そこには最も見たくなかった光景が広がっていた。
「嘘、どうして……」
燃えていた。
神崎くんがいるはずの劇場が、燃え盛る炎に包まれている。
雨にも負けず、風にも負けず、炎は空をも焦がそうと建物を呑みこんで激しく吹きあがっていた。
「――青葉さん!」
いくつもの足音が私の後を追いかけて来て、ぴたりと私の近くで止まる。
「おいおい、嘘だろ。なんだってこんなことになってやがんだよ……」
呆けたような咎芽さんの声に応える者は――答えられる者は、誰一人としていなかった。
「だ、大丈夫……だよね? これだけ雨が降ってるんだから、すぐに消えてくれる、よね? ね?」
「……いえ、残念ながら。簡単に消えてくれるようなものでは、ないと思います」
焚火やコンロから出る火とは訳が違う。この勢いで燃えているのなら、少々の雨では鎮火には至らないだろう。
タイミングの悪いことに、雨脚は弱まる一方だ。それでも普通の火災なら、幾分かは勢いが殺されもするのだろうけれど……。
そうではない、と。鼻を突く臭いが告げていた。
どこかで前にも嗅いだことがあるような臭い。
燃えているのは多分、ガソリンだ。
ガソリン火災は雨では消えない。そんな話を聞いた覚えがある。それが嘘か本当か、確かなことは言えないけれど……現状を見る限り、正しくはなくとも大きく間違ってもいないのだろう。
詳しいことは分からない。が、これが絶望的な状況であるということだけは私にも理解できた。
「大変だよ、早く助けに行かないと――」
「いけません、お嬢様!」
燃え盛る劇場に駆け寄ろうとする部長さんを、犬養さんと咎芽さんが抱きかかえるようにして引き留める。
「お願い、放して! 早く、早く助けなきゃ!」
「落ち着けっ! お嬢が行って、それで何になるっつーんだよ!」
「大切な仲間なんだよ、お友達なんだよ! 見捨てるなんて、私にはできない。だから、だから放して!」
二人がかりで動きを封じられても、部長さんは前に進もうとすることをやめなかった。必死の形相で、涙を流しながら、ぬかるんだ土を蹴り上げて力いっぱいにもがいている。
「私のせいなんだ。私がみんなを、こんなところに連れてきたりなんかしたから。私があんな悪戯なんかしたから、こんなことになったんでしょう!? だから、だからお願いだよ、行かせてよ! 私が助けないと、行かないと!」
悲痛な声が鼓膜を震わせ、胸を締め付ける。
世間知らずゆえの向こう見ずか。それとも、重くのしかかる責任が彼女の目を曇らせているのか。そうしたところで、どうにかなるわけでもないというのに。それを微塵も理解していない様子で、部長さんは子供のように喚き続けていた。
「……私たち、何も出来ないの? ここで、千尋君が死んじゃうのを見ていることしか……出来ないの?」
ぽつりと呟いた植草さんが、力なくその場にへたり込む。
「大丈夫、大丈夫よ。大丈夫、だから……」
それに寄り添い、抱きしめる桐谷先輩は、歯痒そうに唇を噛み締めて燃え盛る炎を睨みつけていた。
「先輩……先輩っ! 嘘ですよね、先輩っ!」
その隣では、小見波さんが涙を流しながら叫び続けている。炎の中にいる彼に、声が届くはずなどないのに。それでも彼女は、彼に向かって叫び続けていた。
「……何をやってるんですか、神崎くん」
ふつふつと、私の中に怒りが込み上げる。
ねえ、神崎くん。見えていますか。聞こえていますか。
貴方はいったいそんなところで何をしているんですか。
必ず帰って来る。誰も不幸にはしない。そう言ったのは、嘘だったんですか。
約束を違えて、彼女たちを悲しませるんですか。
形は違えど、熱量は違えど、貴方はこんなにも想われているんですよ。自分で思っているよりも、ずっと、もっと。
それなのに、貴方は――。
「――っ!? 青葉様、いけませんっ!」
犬養さんの声を置き去りに、私は駆け出す。
私は何をしているんだろう。冷めた目をしたもう一人の私が思った。
馬鹿げている。炎の中に飛び込むなんて。とても正気であるとは思えない。私一人が飛び込んだって、それで何になるというのだろう。
無駄に焼け死んで、死体が一つ増えて、それで終わりだ。
そんなことは分かっている。
けれど、私は湧き上がった怒りに体を突き動かされていた。
私は、嘘つきが嫌いだ。
自分の言葉に責任を持てない人間が嫌いだ。
約束を違える人間が嫌いだ。
誰かを悲しませてしまう――そんな人間が嫌いだ。
だから許せない。神崎千尋という人間が。文句の一つでも叩き付けて、頬っぺたでも張り倒してやらないと気が済まない。
理性を怒りが塗り潰して、私を凶行へと走らせる。
「――神崎くんっ!!」
半分ほどが焼け落ちて、機能を失ってしまっている扉の間から、二つの人影が見えた。
舞台の上。燃え盛る炎の向こう側に、二人がいる。
「っう……!」
肌を、肺を、容赦のない熱が焦がす。崩れ落ちた天井が、私が見ている目の前で床に叩き付けられて散らばった。
ここに飛び込めば、その先に待っているものは――。
「それが、どうした……っ!」
どうせ一度は捨てた人生だ。今さら何を恐れることがある。
この先の一生を後悔を抱えて生きていくなんて私は嫌だ。例えここで死んだって、後悔だけはしたくなかった。何も出来ないまま、目の前で人が死んでいくのはもう見たくない。そんなのはもう沢山だ。
「くっ……!」
飛び込む。
生き物みたいに蠢く炎の舌先が、私を撫でた。爆ぜて吹き上がる炎に、眼鏡が吹き飛ばされてしまう。それでも、ぼんやりとした視界の中で、私は必死に前に進んだ。
火の粉が飛ぶ。肌を焼く。吸い込む空気が、体を内側から壊そうとする。一歩足を進める度に、命を削られていくような感覚。構うものか。それでも、それでも私は――。
「――きゃあっ!」
轟音。やや遅れて、衝撃。突如として背中を襲ったそれに、大きく体勢を崩されてしまう。幸いにも、炎の中に倒れ込むことはなかったが……。首だけを動かして振り返ってみれば、そこには私の背丈よりも高く瓦礫が積み上がっていた。
焼け落ちた天井が、逃げ道を塞いだのだろう。扉が見えなくなってしまっている。
――ああ、もう駄目だ。
その光景を目の当たりにして、全身から力が抜けていくのを感じた。怒りによって正常な判断力を失っていた脳が、最悪のタイミングで冷静さを取り戻す。
怖い。身体が動かない。じわじわと心が恐怖に浸食されていく。ここ数年流した覚えのなかった涙が、つっと頬を伝った。
もう立ち上がれない。前に進めない。視界が涙に滲んでいく。すぐそこまで迫っている死の恐怖に、私は打ちのめされてしまっていた。
犬死だ。心底自分が嫌になる。
怒りに任せて炎の中に飛び込んで、何も出来ないまま焼かれ死んで。私はいったい、何をしているのだろう。
「神崎、くん……」
せめて最後に、彼の顔が見たかった。
初めて私を、魔女ではなく一人の人間として見てくれた人。
こんな私と、正面から言葉を交わしてくれた人。
私にとって――大切な人。
ああ、これが恋か。と、そんなことをぼんやりと思った。そんな場合でもないというのに、私は初めてそれを自覚した。もっとロマンチックなものを夢見ていたけれど、人が人を好きになる理由なんて、この程度のものだったんだなと。そんなことを思って、目を閉じた。
倒れ込んだ私の背中に、ぱらぱら細かい欠片が降り注ぐ。天井が崩れ落ちようとしているのだろう。燃え広がる炎は、既に私の指先を焦がし始めていた。
炎に巻かれ、その向こう側へと消えていった、あの色のない少女のように。私は今日、ここで死ぬ。
それでもいいか。そう、思った。
魔女と呼ばれた少女が炎に焼かれて死んでいく。それはまるで、何かの物語みたいじゃないか――と。
「あ……」
先程よりも大きな欠片が、私の背中を何度も叩いた。暗闇の中で、意識が遠のいていく。
頭の上から、一際大きな音がして――。
「――青葉さんっ!」
誰かが、私の名前を呼ぶ声がした。




