020
「待ってたよ――佐原」
情けないにもほどがある、自分自身に対する嘲笑。目の前に立つ少女とは別の方向に向けた感情。
吹き出しそうになるあれやこれやを呑みこんで――僕は、笑顔を浮かべる殺人鬼の名前を呼んだ。
「お前がここで待ってるって、青葉さんに聞いて驚いたよ。わざわざこんな所に呼び出すなんて、そんなに誰かに聞かれたくない話なのか?」
「お前と、僕以外の、他の誰にも聞かせたくないような話さ。じゃなきゃ、こんなところに呼び出したりなんてしないよ」
佐原の脇をすり抜けて、開け放たれたままだった扉を閉める。それから僕は、壁に立てかけてあった閂をそこに突き刺した。
これで、外からこの扉を開ける術はなくなった。静寂を取り戻した劇場は、僕と佐原だけを閉じ込めた小さな箱に成り下がる。須藤の遺体は既に別の場所へと移してあるから、これで本当にこの場にいるのは僕と佐原の二人だけになった。
この島を訪れてから何かと行動を共にすることが多かった、青葉湊の姿もここにはない。彼女は今頃、生き残った他のメンバーにこの惨劇の真相を語って聞かせている頃だろう。出来るだけ時間をかけて、ゆっくりと。まるで時間稼ぎでもしているかのように、だ。
「……まあ、とりあえず」
時刻は深夜零時を回っている。激しく吹き付けていた雨風も、既に随分とその勢いを失ってきていた。
この分では、夜明け前には警察がこの島にやって来ることだろう。
それまでに、なんともしても決着を付ける必要が僕にはあった。
「舞台にでも上がろうか、佐原。せっかくこんな所に、いるんだしさ」
ひとつ、息を吐く。
それから僕は、はやる気持ちを抑えて、佐原の手を引きながら舞台に立った。
「……久しぶりだよな。こうやってお前と、二人で舞台に立つのもさ」
こうして最後に二人で舞台に立ったのは、いつのことだっただろうか。ほんの数年前の出来事しかないはずなのに、上手く思い出すことができなかった。
あの時、僕はどんな顔をしていたっけ。
あの時、佐原はどんな顔でそこに立っていたっけ。
佐原たちと過ごしたあの頃の思い出が、頭の中を駆け巡る。
何度も何度も、まるで走馬灯のように同じ光景がぐるぐると回り続けて――。
あれ? と。そこに至って、僕はようやく気が付いた。
あんなにも忘れたいと願っていたはずなのに、いつまでも記憶の片隅にこびりついて離れようとしなかったのに、どうして――どうしてこんなにも、どれもこれもが不鮮明なのだろう。
色褪せていて、曖昧で、不確かな夢のようで。うなされて、昨日のことのように思い出して、そこから逃れようともがき続けていたはずだったのに。
どうしてこんなにも、はっきりと思い出すことができなくなってしまっているのだろう。
「……何を言ってるんだよ、神崎。お前と私の二人で舞台に立ってことなんて、一度だってなかったじゃないか」
どこか悲しそうな声。佐原に目を向けると、彼女は呆れたような諦めたような、何とも言えない表情を浮かべていた。
「いつも、誰かがいた。舞台の上で結ばれた時も。舞台の上で、殺し合った時も。舞台の上で、奪い合った時も。そこには別の誰かがいた。お前は絶対に、私と二人きりで舞台に立とうとはしなかった。私がどれだけそれを望んでも、お前は……。お前はそれを、許してはくれなかったじゃないか」
佐原の言葉に、心臓が大きく脈を打った。視界が揺れて、佐原の声が遠くなる。
「……卑屈だったよ、あの頃のお前は。周りを見下していたのも……いや、見下したような振りをしていたのも、自分を騙す為だったじゃないか。本当は、自分が誰よりも劣った存在であると気が付いていたから。気が付いてしまっていたから。それを認めたくなくて、お前は現実から目を逸らしていたんだ。自分は優れた存在なんだって、自分自身に言い聞かせて」
大きく心が揺さぶられる。何かが割れるような音がした。途端に、次から次へと黒い感情が噴き出してくる。
そうだ。あの頃の僕は、そういう人間だった。
周りを見下すことで、見下されることを避けようとしていた。それを、何より恐れていた。
だから見下した。見下される前に見下ろしてやろうと思った。そうやって僕は、心のバランスを取っていた。
「理想の偶像。現実とはかけ離れた虚像を作り出して、その陰に隠れた。そうやってお前は――」
「違う、そうじゃない。僕は、僕は――」
「違わないさ。違わないんだよ、神崎」
それは僕が今まで目の当たりにしてきたどんな表情よりも美しく――。
「――だって私は、そんなにもちっぽけで哀れで可哀想なお前が……大好きだったんだから」
そして、醜悪な笑顔だった。
「初めてお前の姿を見た時に、私は思ったよ。あれが本当に私と同じ生き物なのか、ってな。私はこんなにも高い所にいるのに、そこから見下ろせないくらいに低いところで地べたに這いつくばっている。この世のすべてを恨むような顔をして、虚勢を張って、強がっている。そんな風に、とてもじゃないが同じ生き物だとは思えないようなお前が、私は大好きだった」
踊るように、佐原は舞台の上を移動する。
「だから私は、手を差し伸べた。同じ舞台に、引き上げた」
スポットライトを浴びるように、両手を広げて。佐原愛実は、僕を見る。
「惨めで、哀れで、ちっぽけで。どうしようもないお前こそが、私の隣に立つのに相応しい人間だと、そう思ったから」
歌うように言葉を紡ぐ佐原に、僕は何も言い返すことができなかった。ただただ、馬鹿みたいに突っ立って彼女を見つめていることしか出来ない。丁度、僕と彼女が出会った、あの頃のように。
「光と影が、はっきりと見えてしまうから。どう足掻いたって、その場所に届きはしないから。だから……嫌だったんだろう? 私と、二人きりで舞台の上に立つことが」
鼓膜から入って来た佐原の声が、容赦なく内側から脳を殴りつける。ぐらぐらと揺れる視界の中で、立っているのがやっとだった。
「……そうだよ。その通りだ」
それでも、僕はどうにか口を開く。
焼けて、溶けて、くっついてしまったように剥がれない唇をこじ開けて。
胸が爛れてしまいそうなほどに熱い空気を吸い込んで。
「僕は、お前に憧れていた。焦がれていた。舞台の上で結ばれた時も、殺し合った時も、奪い合った時も、きっと。僕はそんなお前のことが大好きで、そんな自分のことが大嫌いだった。全部、全部、お前の言う通りだ」
気道を焼き、削り、抉る空気を言葉にして押し出した。
「お前だけじゃない。白木も、須藤もだ。憧れていたし、妬んでもいた。僕にはないものを持っているアイツらが、お前と対等でいられるアイツらが、僕は……」
嫌いで、憎くて、仕方なかった。
けれどアイツらは、そんな僕を――そんなどうしようもない僕を、友達と呼んでくれた。仲間だと呼んでくれた。少なくとも、上辺だけは。そんな風に呼んでくれていた。
「分かってるんだよ、そんなことは。お前に言われるまでもなく……!」
自分のことは自分が一番知っている。気が付いていなかったわけじゃない。知らなかったわけじゃない。僕はただ、その事実から目を逸らしていただけだった。
憧れている人間と、対等になれないなんて思いたくなくて。
仲間を恨んだりなんかしたくなくて。
向き合おうとしなかった。目を逸らして逃げた。偽りの自分を押し付けて、都合が良いように記憶を書き換えた。
そんなことは分かっている。お前なんかに、言われなくても。
「――だったら! だったら、どうして! どうして私を捨てたんだ、神崎! そんなお前が、どうしたって劣ってしかいなかったお前が、お前如きが、どうして私を捨てることなんて出来た!?」
悲痛な、叫びにも似た声。深く突き刺さったそれは、ほんの僅かに震えていた。
「悔しかった、お前に捨てられて。お前はずっと、私を引き立てる影だと思っていた。いつまでも惨めで、哀れでちっぽけで、私がいなければどうにもならない奴だと思っていた! そんなお前が大好きだったのに、愛していたのに。ずっと隣にいるはずだったのに。それなのに、お前は……お前は、私を捨てたんだっ!」
大粒の涙を流しながら、佐原愛実は僕の両肩を強く掴んだ。
震えている。か細いその腕が。その声が。震えて揺れて――僕を揺さぶっていた。
「悲しかった。許せなかった。お前を失って、何もかもがどうでもよくなった。お前がいなきゃ、駄目になってしまっていたんだ。だから、だから私は……!」
歪んだ愛情。ひび割れ砕けたその欠片が、いくつも僕に突き刺さる。
きっと佐原愛実は最初から――出会った頃には、もう歪んでしまっていたのだろう。
どうしてそんなことになったのか。知りたくもなければ、興味もない。理由なんてどうだってよくて、とにかく彼女は最初からそういう人間でしかなかった。
変わったわけじゃない。見えていなかっただけなんだ。
僕が目を背けていただけ。向き合おうとしていなかっただけ。
彼女はきっと最初から、どうしようもなく間違っていたのだろう。
「辛くても、痛くても我慢した。どうしてこんなことをしているんだろうって、何の為にこんなことをしているんだろうって、分からなくなった時もあった。でも、お前に会って思い出したんだ。やっと、思い出せたんだ。全部、お前の為だったんだって。お前が憎かったんだって。お前を、愛していたんだって!」
佐原の目が、僕を捉える。額と額が、火花が散るほど激しくぶつかった。
「私を見ろぉ、神崎ぃ! いい女になっただろう、振り向きたくなっただろう!?」
一際激しく叩き付けられる声。
佐原の体から、ゆっくりと力が抜けていく。
「愛したいって、一緒にいたいって、お前はそう思っているはずだ! だって私は、その為に、その為だけにこんなにも……」
言い終わる頃には、彼女の体は舞台の上に崩れ落ちていた。
「頼む、頼むよ神崎。私と、これからの話をしよう。私にはもう、お前しか……いないんだ……」
恋に焦がれて焦がされて、愛を乞われて壊された一人の少女が、泣いている。
観客のいない舞台の上で、静かに。スポットライトを浴びることもなく、惨めに。立ち尽くす僕の前で、泣いていた。
「……その必要はないよ、佐原」
涙で滲む視界の中、泣き腫らした目をした佐原が僕を見上げる。
「お前を壊したのは、殺したのは、僕だ。ただでさえ間違っていたお前を、どうしようもなく歪めてしまったのはこの僕だ」
出会ってなどいなければ、神崎千尋という人間さえ存在していなければ。佐原愛実という一人の少女が、ここまで歪んでしまうこともなかったのだろう。
「その責任は、僕にある。けれど、だからといって、アイツらを殺したお前を許すこともできない。だから――」
言いながら、僕はポケットに忍ばせていたそれを取り出して握りしめる。
「だからさ、佐原」
咎芽さんから借りた、銀色に光るオイルライター。
「神崎、お前――」
目を見開き、口を開いた佐原の言葉を遮るように。
「――ここで、一緒に死のう」
指先で小さく弾いて火をつけたそれを、僕は部屋の隅に向かって放り投げた。
――オレンジの光が、爆ぜる。
轟音と熱風が、僕たちに強く吹き付けた。
炎が床を舐めるように這い、逃げ道を塞ぐように一気に燃え上がる。
「まさか、最初からこうするつもりだったのか……?」
炎に包まれ始めた劇場の中。佐原の言葉に、僕は頷く。
発電機を動かす為に倉庫に保存されていたガソリン。それを勝手に拝借して、床にばら撒いた。佐原が劇場に現れる、ほんの少し前のことだ。
最初からこうするつもりで準備していた。過去と向き合って、その責任を取ると決めた時から。こうしようと思っていた。
我ながら、穴だらけの杜撰な計画だったとは思う。
現れた佐原が部屋に充満する奇妙な臭いに気が付いて、踵を返していたかもしれない。
降り続く雨が、僕たちを包むはずの炎を消し去ってしまうかもしれない。
そもそもガソリンが上手く着火してくれないかもしれない。
急ごしらえの思い付き、薄っぺらい知識だけを頼りにした、他人の迷惑なんて考えない、上手くいく方がどうかしているお粗末な計画だった。
気付いていたのかいなかったのか、佐原が異様な臭いに言及することはなかったし、雨風にも今やガソリン火災を消し去ってしまえるほどの勢いはない。投げ込んだライターは、しっかりとガソリンに火を灯してくれた。
不幸なことに、幸運なことに、とんとん拍子に事が運んだ。
最期の最期になってやっと、偶然に恵まれた。
残された人間に多大な迷惑を振り撒きながら、僕はここで死ぬ。死んだ後のことなんて、これっぽちも考えてなどいなかった。
どうだっていいさ。誰が、どれだけ困ろうと。
それこそ僕には関係のない話だ。
だって、僕はここで死ぬのだから。
「……どうして笑っているんだ、お前は」
「笑ってる? 僕が?」
「ああ、それはもう。心底、おかしくて仕方がないとでも言わんばかりにな。笑ってるよ、お前」
指先で自分の顔に触れてみる。確かに佐原に言われた通り、僕の顔には笑顔が張り付いていた。
「どうかしてるんじゃないのか、神崎」
「どうかしてるのはお前の方だろ。お前にだけはそんなこと、言われたくないっての」
沈黙。そこに、少しばかりの間があって。
「……ぷっ、う、くくっ。確かにそうだな。お前より、私の方が余程どうにかしていたよ。こんなことに、なってしまう程度にな」
それから佐原は、笑った。
あの頃の僕が憧れていた、あの頃のような笑顔で。
「お前となら、こんな結末も悪くない。夢みたいで、芝居みたいで、私たちにはお似合いの結末かもしれないな。残された方の気持ちなんて、小指の先ほども考えたくはないが」
笑いながらそう言った佐原は、しかしふと何かを思い出したかのように真面目な表情を作ると、静かに立ち上がった。
「――ただ、ひとつ。死んでしまう前に、ひとつだけ。お前にお願いがあるんだ」
「それはこの状況で、僕にできることなのか?」
「ああ、勿論。と言うか、お前以外にはできないことだ」
軽やかに床を蹴った佐原の体が、胸に飛び込んでくる。
反射的にそれを抱き留めた僕は――。
「――死ぬなら、一人で勝手に死んでくれないか」
膝から、舞台の上に崩れ落ちた。




