002
「いやぁ、凄い風だねぇ。窓割れちゃったりとかしないかな、これ」
何の因果か、砂浜で青葉湊と愛について語らうことになってしまった一幕からほんの数時間。本来なら、空が夕焼け色に染まっているのであろう時間帯になってからのこと。
部長が個人で所有しているという中世ヨーロッパ風(とは部長の談)建築の館の一階部分。東側廊下の突き当りにある遊戯室と銘打たれた部屋の中で。部長は窓の外を眺めながら、どこか他人事のようにそんな言葉を吐き出した。
部長が眺める窓の外。
そこに広がっているのは、地獄のような光景だった。
鉛色で塗り潰された空。バケツをひっくり返したような土砂降りの雨と、横殴りの風。時折思い出したかのように走る稲光が、耳障りな音を響かせている。
「山の天気は変わりやすい、女心と秋の空とはよく言ったものだけれど……まさかここまでとはね」
呆れたような表情でそう言った部長は、小さく喉を鳴らす。何が面白いのか僕にはさっぱり分かりはしないが、彼女の中で何か琴線に触れるものがあったのだろう。
笑っている場合でもなければ、ここは山でもないし今は秋などでもないのだが。
「いやいや、部長さん。他人事みたいに言ってる場合じゃありませんって。いったいどうするつもりなんですか、これ」
部屋の中央に据えられた大きなビリヤード台。その上に腰かけていた緋子奈が、怒気を孕んだ声で部長に噛み付く。
普段から部長に対して攻撃的な態度を取る彼女は今回もまた、他人事のように物を言う部長の態度が腹に据えかねている様子だった。
「どうするもこうするもないよ。海は大荒れだから船は出せないし、こんなに風が吹いてたんじゃ空だって飛べない。誰も島からは出られないし、誰も島には近付けないんだから。嵐が治まってくれるのを待つほかにない、かな」
欠伸混じり。それでもなお他人事のような物言いをやめようとはしない部長に、緋子奈は大きく息を吐く。
「へぇ、へぇ、左様でございますか……」
そう言ったきり、それっきり。咥えていた飴を、わざわざ音を立てて腹立たしげに噛み砕いた緋子奈は、むっつりとした顔で口を真一文字に結んでしまった。
直情直下。感覚と脊髄反射だけでモノを言う生き物である然しもの緋子奈も、部長の態度には閉口せざるを得なかったようだ。
犬猿の仲。火と油。緋子奈と部長の小競り合いも今に始まったことではないのだが……。こんな時くらい仲良く出来ないものなのだろうか。くだらない言い争いをしたところで、状況が好転するわけでもないことはお互い分かっているだろうに。
「まあまあ、二人とも。怒っていたって仕方がないんだし、仲良くしましょうよ、ね?」
緋子奈が部長に噛み付いたことをきっかけに、部屋に漂い始めた何とも言えない不穏な空気。それに耐えられなくなったのか、部長の隣に寄り添うようにして立っていた巫女人先輩が、信じられないような言葉を口にしながら交互に二人の顔を見た。
入学したばかりの部長に一目惚れをし、一緒に卒業をしたいという一念で同じ一年を二度も繰り返した強者。
いつだって判断基準は部長であり、生活指針もまた同じである巫女人先輩のことだから、てっきりいつものように部長の肩を持つものだとばかり思っていたのだけれど。どういう風の吹き回しなのか、今回は緋子奈だけを悪者扱いするつもりはないようだった。
仲良きことは美しきかな。頭痛の種が増えないのであれば、それに越したことはないのだけれど。なにか裏がありそうな気がしてならないのは、僕が悪いのか。それとも、彼女の日頃の行いが悪いのか。
何の下心もなく、気まぐれにでも良かれと思って、巫女人先輩がそんな行動に出たのであれば、それは僕にとっても世界にとっても優しい出来事ではあるのだけれど。人となりが人となりであるだけに、手放しでは喜べないというのが正直なところだった。
「ね、ねぇ千尋君……。巫女人先輩、どうしちゃったのかな?」
巫女人先輩の奇行に驚いたのは僕だけではなかったようで。
それまで不安そうな顔で押し黙っていたカマトト女――オサ研部員四号、僕の幼馴染でもある植草由紀乃が何とも言えない顔で僕を見る。
「僕に訊くなよ、そんなこと……」
巫女人先輩が何を考えているのかなんて、僕に分かるはずがない。
むしろ、僕が訊きたいくらいだった。
「あ、そうだよね……ごめん……」
しゅんとした顔をして、由紀乃は消え入るような声で謝罪の言葉を口にする。
童貞ころり。緋子奈にそうあだ名される、あざとい芝居だった。
望んでもいない幼馴染という立場から、この女はこの程度のことで酷く落ち込んでしまうような人間などではないことを僕は知っている。
頭のてっぺんから爪先まで。一部の隙もなくぎっちりと。何もかもが計算づくの、最低最悪の性悪根暗女。時代が時代なら魔女として処されていてもおかしくはない、そんな女だった。
こんな女に騙されて、血の一滴まで残さず搾り取られてしまった男たちを今まで何度も目にしてきた。
その度に、その尻拭いもさせられた。
おかげでさまで僕の前歯は、半分くらいが人工の物である。
幼馴染として、彼女の本質を知る人間として、責任をもって首に縄でも括り付けて、柱にでも縛り付けておくべきなのだろうが、僕だって我が身は可愛いし何よりそこまでしてやる義理もない。
偶然、生まれた家が隣り合っていたというだけで。便宜上、幼馴染と表現しているだけで。特別な感情など小指の先ほども抱いていない。
殺せるものならとうの昔に殺しているし、捨てられるものなら出会って二日で捨てている。
僕にとって、植草由紀乃とはそういう存在だった。
「――はい、握手。これで二人は仲直り。ここから先は、喧嘩はなしだからね」
由紀乃に対する根強い殺意を再確認している間に、どうやら事態は前に進んでいたようで、いつの間にやら緋子奈と部長は、巫女人先輩の仲立ちを受けてがっしりと握手をさせられていた。
何故、握手をさせられているのか分かっていない顔をしている部長と。苦虫を噛み潰したかのような顔をしている緋子奈と。やりきったような顔で頷いている巫女人先輩と。
なかなかに、混沌極まった光景である。
部屋の隅で読書に勤しんでいたはずの青葉さんは、気が付けば居眠りを始めているし。カマトト女はカマトト女で落ち込んだふりを続けたままだし。
こんな状況だというのに、どいつもこいつも緊張感の欠片もなかった。
――ああ、頭が痛くなってきた。
薬はどこにやっただろうか。
「黒羽原さん、ちょっと失礼するよ」
錠剤の詰まった小瓶を探してポケットをまさぐっていると、ノックの音が耳朶を打った。
部長の返事を待たずに開いたドアの向こう。
目を向けると、そこには雨に打たれたのか全身ずぶ濡れのジャージ姿の少女が立っていた。
「……え?」
その顔を見て、ようやく探り当てた小瓶がするりと指先から抜け落ちる。
毛足の長い絨毯の上を小瓶が転がる音に、こちらに目を向けたその少女は
「……神崎?」
僕の名前を呼んで、大きく目を見開いた。
「佐原、だよな……?」
佐原愛実。
かつて同じ中学校に通っていた同級生。
演劇部に所属し、同じ夢を追いかけていた時期もある、僕の元恋人だった。
「神崎、神崎じゃないか! 久しぶりだなぁ、元気にしていたか!?」
僕の顔を見るなり駆けだした佐原は、勢いもそのまま人目も憚らず体当たり同然に僕に抱き着いてくる。
「……うん、まあ。それなりに。お前も元気そうで何よりだよ」
棒読み。これでもかというくらい、感情のこもっていない声が出た。
「卒業式以来か? まさかこんなところで再会できるなんて、思ってもみなかったよ」
裏表もなく、ただ旧友との再会を喜んでいる様子の佐原。
対する僕は、とてつもなく複雑な心境だった。
僕にとって、佐原愛実との再会は決して喜ばしい出来事ではない。
僕が現在、毎朝一時間近くをかけて、隣町の黒羽原学園まで電車で通っている理由。
その原因、その元凶が、まさに目の前の少女であったから。
喜ばしいどころか、うっかりと吐き気を催してしまうくらいだった。
――なんでこの女がここにいるんだ。
胸の内、ひっそりと毒を吐く。
佐原たちと共に過ごした中学時代は、僕にとって暗黒期にして人生に無数にある汚点のうちの一つであり、誰にも知られたくないと思っている恥ずかしい過去だった。
ネットスラングで言うところの、黒歴史というやつである。
当時を知る人間と顔を合わせたくなかったから、あの頃のことを思い出したくなかったから。だから、距離を取ったのに。逃げ出したのに。まさか、こんなところで鉢合わせてしまうとは。
日頃の行いの悪さが祟ったのか、それとも神の悪戯なのか。
もし後者なのだとすれば、出会い頭に拳でも叩き付けたい気分だった。
今までの努力が、水泡に帰した瞬間である。
「ええと、ちーくん? もしかしなくても、佐原さんとはお知り合いで?」
「知り合いなんてものじゃないさ、元恋人だよ。私と神崎はね」
「ええっ!?」
佐原の返答に驚いた部長の目が点から丸に変わり、目玉が落っこちてしまうのではないかと心配になるほど大きく見開かれる。
「こ、こっこここっ、恋人!? ちーくんと、佐原さんが!?」
「……ええ、まあ。そういう時期もあったというか、なんというか」
今まで語ることを避け続けて来た黒歴史。知られたくはなかった過去。それがこんな形で暴露されてしまうことになろうとは。
「なんだ、神崎。別に恥ずかしがることじゃないだろうに。私とお前が付き合っていたのは事実だろう?」
どうにかして口を封じることはできないだろうかと思案するあまり、険しい顔になってしまっていたのをどう受け取ったのか。ようやく体を離した佐原は、僕の肩をバンバンと叩く。
力加減。頭のネジでも外れているのか、必要以上の衝撃だった。
この女、相変わらずである。
大変、不愉快にして腹立たしいことに。
「……そんなことより佐原、お前なにか部長に用事があったんじゃないのか?」
苛立ちを飲み込み、僕は露骨に話題を逸らしにかかる。
「ああ、そうだった。お前との再会を喜んでいる場合ではなかったよ。すまないね、黒羽原さん」
露骨な態度に怪訝そうな顔をした佐原だったが、それも一瞬のこと。すぐに顔を引き締めると、佐原は僕から部長へと視線を移した。
「……相変わらず、嫌な女」
その背中に、由紀乃の小さな声が飛ぶ。
敵意に満ち満ちた、おおよそ人に向けるべきではない声色だった。
こちらもこちらで、中学時代から続く遺恨を断ち切ることができていないらしい。
まったく、頭の痛い話だった。
「実は、黒羽原さんにお願いがあってね。それで、こちらに伺った次第なんだ」
「ん? お願い?」
「うん。実は先程、貸していただいていた別館の方に雷が直撃してしまってね。犬養さんが言うには、それで電気系統がおかしくなってしまったらしくて、向こうの設備が一切使えなくなってしまったんだ」
佐原の言う犬養さんとは、この屋敷の管理を任されているという初老の男性のことだ。
燕尾服に身を包んだ、上品な雰囲気を漂わせるまさに召使いといった風体の男性。
この島に到着してすぐ、僕たちとは一度だけ顔を合わせていた。
「え、直撃?」
「そう、ずどんと。狙いすましたかのようにね。直撃した」
「そんなことってあるんだねぇ……って、そうじゃなくって。怪我とか、大丈夫だった?」
「舞台装置がいくつか壊れてしまったが、幸いにも怪我人は出なかったよ。驚いて腰を抜かしてしまった奴はいたけれどね」
「そっかそっか、不幸中の災難ってやつだね。怪我した人がいなくて何よりだよ」
と、部長。
不幸中の災難では、悪いことだらけだと思うのだが、それに対して茶々を入れる人間は誰もいなかった。
「それで、お願いっていうのはなんなのかな? こんな状況だし、今すぐに復旧するってのいうのは、残念ながら無理だと思うけど」
「だろうね。さすがにそんな無茶は言えないし、言うつもりもないよ。私たちは、黒羽原さんのご厚意に甘えている立場だからね。黒羽原さんにお願いしたいのは、もっと別のことだよ」
「と、言いますと?」
「稽古場として食堂を貸していただきたいんだ。あそこなら、机をどかせば十分な広さを確保できるだろうからね。もちろん、迷惑をかけないようにするつもりだし、黒羽原さんの気が向けばで構わない。どうかな?」
小首を傾げ、部長の返答を待つ佐原。
部長は少し考える素振りを見せたあと、小さく頷いた。
「うん、大丈夫。自由に使ってくれて構わないよ。ご飯の時間には机を戻しておいてくれさえすれば、それで」
「そうか。ありがとう、無理を言ってしまってすまないね」
「いいよいいよ、別館が使えなくなっちゃって大変だろうからね。困った時はなんとやらさ」
したり顔。もっともらしく頷く部長と、それを眺める僕たち。
僕たちを置き去りにして進んだ交渉は、無事に両者合意の形で決着を見せたようだった。
「うん、ありがとう。あとでみんなを連れて、改めてお礼に伺うとするよ。未完成なもので申し訳ないが、もしよかったら稽古の様子も見ていってくれると助かるな。その方が、私たちも張り合いがあると思うしさ」
「え、見せてもらっちゃってもいいの!?」
「ああ、いつでも大歓迎さ。まだ胸を張ってお見せできるレベルに達してはいないけれど、それでもよければいつでもどうぞ」
そこで、首だけを回してこちらを振り返った佐原と目が合う。
「もちろん、神崎もな。お前が顔を出してくれれば、須藤も白木も喜ぶよ」
「……ああ、気が向いたらな」
須藤と白木。佐原の口から出た懐かしい名前に、思わず顔を顰めてしまいそうになった。
そう言えば、アイツらは佐原と同じ高校に入学したんだったか。今もまだ、あの頃のように、佐原と行動を共にしているらしい。
これはいよいよ面倒なことになった。佐原だけならまだなんとか、誤魔化して避けることも出来たかもしれないが、他に二人も僕の過去を知っている人間がいるとなると話が変わってくる。
万が一、僕の目の届かない所で、消し去りたい過去が暴露されてしまうようなことがあれば。
考えただけで、ぞっとする。
気乗りはしないが、監視の意味も込めて極力佐原たちとは顔を合わせておいた方がいいだろう。
嵐によって閉ざされた島の中で、問題児たちの子守りをしなければならないというだけでも頭が痛いのに、その上こんなことにまで気を裂かなければならないとは。とんだ災難だ。いったい僕が、何をしたと言うのか。
「みんなにも早速、その話を伝えて来るよ。別館の方で待たせているんだ、あまり長く待たせるとまた腰を抜かす奴が出るかもしれないからね。本当にありがとう、部長さん。またあとで!」
一礼。佐原は駆け足で部屋を後にする。
彼女の背中が扉の向こうに消えて見えなくなる頃には、僕の胃痛と頭痛は最高潮に達していた。
相も変わらず嵐のような騒々しさを好き勝手に振り撒いて、他人のことなどお構いなしに自分の欲求だけを満たせば跡形もなく消えるような女だ。
そういうところは、数年前と変わっていない。
窓の外を吹き荒れる嵐の方が、まだいくらかお淑やかで心的負担も軽いように思える。僕は佐原のそういう部分が何より嫌いで、許せなかった。
今も、昔も。改めて。
「えっと……あの、部長さん。今の人はいったいどちら様で……?」
握り拳くらいの大きさの豆鉄砲を撃ち込まれた鳩みたいな顔をして、事の成り行きを見守っていた緋子奈が部長に問う。
「佐原さん、でしたっけ? 神崎先輩の恋人だとか――」
「元、な」
「失礼しました。えー、元恋人? だとか仰ってましたけども……」
「私の従妹が通ってる高校の、演劇部の人だよ。彼女の何代か前の部長さんの頃から、従妹伝いにちょっとした交流があってさ。この時期になると、そのよしみで合宿場所としてこの島の一部を提供させてもらってるわけ」
呆けた緋子奈に、部長はそんな風にして答える。
なるほど、そういうことか。どうやら諸悪の元凶は、その従妹殿とやらであるらしい。
どうしてこんなところに佐原がいるのかと思ったら、そんな裏があったとは。
世間は案外、広いようで狭いようだ。
「しかし、まさかちーくんと佐原さんが知り合いだったとはねぇ。部長さんもびっくりだよ」
「驚いているのは僕も同じですよ。佐原と部長が知り合いだなんて、思いもしませんでしたし」
にこやかな部長に向かって、僕は肩をすくめて見せた。
もし、二人が知り合いであるということを知っていたのなら。僕はきっと、今この場にはいない。
オサ研の飼育係なんてやってはいなかっただろうし、常識人ぶって問題児たちのまとめ役なんてしていなかったことだろう。
抜け出せない状況に陥ってから、こんな致命的な欠陥が発覚してしまうとは。僕もとことんツイていない。前世では極悪人でもやっていたのだろうか。
「……面倒なことにならなきゃいいけどな」
すやすやと寝息を立てる青葉湊の向こう側。ぽつりと呟いて、目を向けた窓の外。
吹き荒れる嵐が、僕をあざ笑うかのように喧しくがなり立てていた。