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019

 自分でも理解していた。()は間違っているのだと。

 気が付いた時にはもう抜け出せない深みにはまってしまっていて、自分ではどうすることもできなかった。

 きっかけは、馴染みの書店で見かけたある一冊の本だった。

 普段なら気にも留めなかったことだろう。手に取ることすら、なかったと思う。ただその時の私は、何もかもがどうでもよくなってしまっていた。

 大切なモノを失って、すべてを否定されたような気分になって、落ち込んで、心底打ちひしがれていた。

 あれほど熱心に打ち込んでいたはずのものにも熱意を向けられなくなって、まるで――そう、まるで死んだように生きている時のことだったから。その本のタイトルが気になって、手に取った。

 結果だけを言えば、それは失敗だった。

 すべての元凶、私の間違いの発端はあの本に出会ってしまったことだろうと思う。

 紙の上に紡がれる物語。どこか他人事であるとは思えない、けれどもそれでいて遠い世界の夢物語。私はその世界にのめり込んで、いつしか自分と物語の主人公とを重ね合わせるようになっていた。

 灰色の世界で生きる少女。男を惑わす魔性の女。愛に生き、愛に飢え、愛に貪欲な歪んだ生き物。

 私はそんな彼女に焦がれてしまった。こんな風に生きていきたいと、そう思ってしまった。

 知らなかった世界。私には縁がないと思っていた生き方。それがこんなにも魅力的なものであったとは、思いもしなかった。

 彼女のようにありたい。彼女のようになりたい。似ているようで、似ていないからそうなりたい。

 簡単なことだった。いつもと同じようにやればいい。いつものように、舞台の上で自分ではない誰かを演じる時のように。他の誰かを――色の名を冠したその少女を演じればいい。

 とは言っても、それはそう簡単なことでもなかった。最初は何度も、失敗をした。その度に私は彼女にはなれないのかと、落ち込んだりもした。

 けれど幸いなことに私は――彼女ほどではなかったとしても――女としての魅力と美貌を、他人(ひと)よりほんの少しだけ持ち合わせていた。

 少し気を持たせてやれば、男が簡単に食いついてくる。恋物語の中途で挫折しなくとも済む程度には、私という生き物は恵まれていた。

 だからこそ、恨んだ。

 そんな私を、打ち捨てたあの男を。

 思い返してみれば、あの男は何もかもが他の男と違っていた。

 出会いも、関わり方も、そして――別れ方も。

 いつまでも、いつまでも、私の中にその男の存在は残り続けていた。他の男といる時も、抱かれている時も、その男のことが頭から離れなかった。

 そうして過ごしているうちに、いつしか怨嗟は恋慕に変わって――恋しくて、愛しくてたまらなくなった。

 会いたい。触れたい。あの頃のように、隣を歩きたい。

 一生を共にし、死後の世界でも寄り添いたい。

 そう思うようになった。

 その為には、もっと魅力的な女にならなければいけなかった。私を打ち捨てたあの男が嘆き、後悔し、そして許しを請うくらいに。女として、成長しなければならなかった。

 もう一度、ひとつになる為に。

 私は私であることを捨てて、有象無象の男たちを練習(エチュード)の踏み台にした。

 そんな日は二度と訪れないかもしれない。

 もう二度と、会うことはできないかもしれない。

 心のどこかで、諦めたまま。それでも、想いを捨てきれないままに。貪るように経験を積み続けた。

 そうしている間に、自分がなんなのか分からなくなってしまった。本当の自分がどんなだったかを、忘れてしまっていた。

 色の名を冠する少女を演じ続ける哀れな生き物。もう一人の私が、私を指さして笑うようになった。

 違う。私はもう、彼女に焦がれるだけの生き物じゃない。彼女と同じ、いやそれ以上に――恋に恋をしている。

 同じにはなれなかったけれど、それ以上にはなれた。私は根っこの部分から、恋に生き、恋に飢え、恋に貪欲な生き物になった。

 いつか後悔する日が来る。お前は哀れな、色のない少女のままだ。

 そんな言葉を残してもう一人の私は消えた。それからはもっと――それこそ病にでもかかったように、恋に対して貪欲になった。

 恋をすることが生きる意味。愛されることが当然で、愛することが自然。それでもどこか満たされないのは――どうしてなのだろう。

 漠然とした疑問。胸の内で燻ぶる、得体の知れない想い。

 何か――何かを忘れてしまっている。何かを見失ってしまっている。

 果たしてそれがどんなものであったのか思い出せなくなった頃になって、再会は突然やってきた。

 嬉しかった。全部、全部思い出した。無邪気な子供のように喜んでから、どうして私は恋に貪欲だったのかを思い出した。

 運命だと思った。私と彼は運命の赤い糸で結ばれているのだと、そう思った。

 今の私はあの頃よりずっと、何倍も魅力的な女になったはずだ。これで振り向かないはずがない。結ばれないはずがない。その為に、その為だけに私は変わったのだから。

 踏み台はもういらない。私にはもう、必要のないものだった。

 だから――殺した。

 踏み台も、私から一番のお気に入りの踏み台を奪った女も。邪魔になったから、消した。

 あとのことなどどうでもいい。彼と結ばれれば、それで。それだけで私は満足だった。

 燃え上がった忘れていたはずの想い。ずっとどこかで燻ぶっていた気持ち。もう、抑えられない。

 あの場所で待っていると、彼は言った。

 踏み台を壊したあの場所で、彼が待っている。

 出会った頃と同じように――あの頃と同じように、舞台の上で私たちは結ばれるのだろう。夢のような話だった。

 自然と笑顔がこぼれる。心の底から湧き出る喜びを抑えつけることができない。

 私は幸せだった。

 そしてこれから、もっと幸せになる。

 これから先、いくつもの困難が待ち受けていることだろう。

 障害は踏み台だけじゃない。彼に近付く悪い虫は、まだ排除しきれていないのだから。

 それでもきっと乗り越えられる。二人でなら幸せになれる。私にはその確信があった。

 これから、彼はどんな言葉で愛を伝えてくれるのだろう。

 これから、彼はどんな風に愛してくれるのだろう。

 この扉の向こうには彼がいる。こんな緩んだ顔ではいけないと、私は頬を軽く叩いた。

 もう大丈夫。一つ息を吐いて、重い扉を押し開ける。

「――遅くなって、ごめん」

 こちらに背中を向けて立つ彼に声をかける。少しだけ間があってから、彼はゆっくりとこちらに振り向いた。

――ああ、愛しい。

 愛しい、大切な人。今日結ばれる、運命の人。

 その愛らしい唇から、どんな言葉が紡がれるのだろう。どんな愛が囁かれるのだろう。

「あんまりにも遅いんで、もう来ないのかと思ってたよ」

 苦笑いを浮かべて、彼――神崎千尋は言った。

「待ってたよ――佐原」

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