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018

 今になって、ここにあり得てはならない光景が目の前には広がっていた。

 夕暮れの教室。制服姿の少女――中学時代の佐原愛実が、笑顔を浮かべて僕に手を差し伸べている。

 在りし日の光景。僕の中で黒歴史と成り果てた、あの頃の出来事。

 曽我根とあんな話をしたせいなのか、どうやらそれを思い出してしまったようだった。

 これは夢だ。それも、悪い夢。

 こんな時に、こんな夢を見ることになるだなんて。神様って奴は、どうしてこうも意地悪なんだろう。

「さあ、神崎。一緒に行こう。人を傷付けるだけの嘘は、もう終わりにするんだ」

 笑顔を浮かべたまま、あの日の姿の佐原が言う。その言葉は寸分違わずに、僕が初めて佐原と出会ったあの日に受け取った言葉そのものだった。

 少しだけ、懐かしい気持ちになる。それから、少しだけ胸が痛んだ。

 まるで傷口に塩でも塗り込まれたかのような感覚だった。初めは小さかった痛みが、じわじわと強く大きくなって広がっていく。身体と心を、蝕もうとするように。

「私と一緒に、誰かを幸せにするんだ。お前の嘘で、私の嘘で、涙じゃなくて笑顔を作ろう。お前になら……お前となら、それができる。だから――」

 差し出された手に、ゆっくりと手を伸ばす。指先がその手に触れる寸でのところで、ぴくりと小さく跳ねた腕が動かなくなった。

 やめろ。その手を取るな。

 その手はお前を不幸にする。

 どこからかそんな声が聞こえるような気がした。

――そうだ。僕がこの手を取らなければ、こんなことにはならなかった。

 不幸になったのは僕じゃない。僕がこいつを不幸にしたんだ。

 出会わなければ良かった。寄り添わなければ良かった。ここで僕が、この手を拒めば――。

「どうした? なぜ躊躇う。いいじゃないか、神崎。そんなに難しく考えることじゃない。だって――もう手遅れなんだから」

 鈍い音がして、笑顔を浮かべたままの佐原の首が床に転がる。鋭く呑み込んだ息が、肺を突き刺した。

 けたたましい笑い声。佐原の顔をしたそれが、笑っている。

「そうだよ、神崎。もう遅いんだ」

「手遅れなんだよ。もう戻らないんだよ」

 気が付けば、いつの間にか白木と須藤の姿がそこにはあった。どちらも僕の記憶の中にある姿とはかけ離れた――おぞましく恐ろしい姿で、僕を見て笑っている。

「お前が悪いんだ」

 全身穴だらけの、血に塗れた白木が言った。

「お前がいなければ、こんなことにはならなかったんだ」

 五体が皮一枚で繋がった、人の形を成してはいない須藤が言った。

「全部、全部、どれもこれもがなにもかも、全部お前のせいなんだ」

 床に転がる、佐原の顔をした生首が言った。

 分かっている。そんなことは、自分が一番よく分かっていた。お前たちに言われなくても、僕は――他の誰よりも、自分自身の過ちを知っている。

 だから目を逸らした。そこから逃げた。なかったことにしようとした。偽りの自分を作り上げて、その中に隠れ住んだ。全部、分かっていたから。気付いてしまったから。

「――神崎」

「――神崎」

「――神崎」

 三人の声が、ぐるぐると頭の中を跳ね回る。近くなったり遠くなったりするそれは、僕を何処かへと誘おうとしているようだった。

――分かったよ。行けばいいんだろう、行けば。

 首のない体が差し出したままの手に、再び手を伸ばす。今度こそ、僕の指先はその手に触れ――。

「――神崎くん!」

 誰かの声。横から伸びた手が、僕の手首をがっしりと掴んで引き止める。はっと我に返ると、そこはもう夕暮れの教室ではなくなっていた。

 窓を叩く雨の音。どんよりとした空気。定まらない視界の中、冗談みたいに分厚い眼鏡の少女が僕の顔を覗き込んでいた。

「青葉……さん……?」

 夢か(うつつ)か、そこには青葉さんの姿があった。

「ええ、青葉さんですよ。おはようございます、神崎くん」

 夢の中で僕の手首を掴んだ誰かの腕にそっくりな、白く小さな手を借りてベッドの上に起き上がる。

「随分とうなされていたようですが……大丈夫ですか?」

 痛む頭を押さえながら、小さく頷く。あんな夢を見たせいか、汗でシャツが肌に張り付いていた。

 青葉さんに起こされなければ、僕はどうなってしまっていたのだろう。差し出された手をもしも握っていたら――そんなことを考えるとゾッとする。昨晩、曽我根とあんな話をしたせいなのか――。

「――そうだ、曽我根は!?」

 ぼんやりとしていた意識が一気に覚醒する。鍵がかかっていたはずの部屋に青葉さんがどうやって入り込んだのかなんてことは、二の次だった。

「……残念ながら、もう」

 僕の言葉を受けて、青葉さんが静かに首を横に振る。

「私は寝坊助な神崎くんに、それをお知らせしに参った次第です」

「……そう、ですか」

 今度は僕が首を横に振る番だった。

「その様子だと、何かご存知のようですね」

「……ええ、まあ」

 ご存知も何も、彼女を殺したのは僕であるようなものだ。あそこで曽我根を引き留めておけば、こんなことにはならなかったかもしれないのだから。

――もっとも、あんな目をした人間を引き留めることなど僕には不可能であっただろうが。それでも、行動に移していれば何かが変わっていたのかもしれないことを考えるとやりきれない気持ちで一杯になった。

「……曽我根は、どこに?」

「案内します。ついて来てください」

 言うが早いか、青葉さんは「こっちです」と踵を返して歩き出す。慌ててベッドを飛び降りた僕は、急ぎ足でその背中を追いかけた。

 階段を降り、玄関ホールに出る。どこに向かうのかと思えば、青葉さんは廊下に背を向けて屋敷の外へと足を進めた。

 土砂降りの雨の中、傘も差さずに歩く。そうしてしばらく歩いたところにある、屋敷からそう離れてはいない木々が立ち並ぶ一角に、()()はぶら下がっていた。

「曽我根……」

 ゆらり、ぶらり。宙吊りの曽我根の体が、横殴りの雨と風に揺れている。数時間前に見た寝間着姿のままで、曽我根小恋は首を吊って死んでいた。

 その足元には、食堂にあった椅子が一つ横倒しになって転がっている。あれを踏み台にして首を吊った――と、見せかける為に犯人が転がしたものなのだろう。

 噛み締めた奥歯が音を立てた。拳を強く握りしめる。掌に爪が食い込んで、じくじくと痛んだ。

 曽我根小恋の死。それは、最も否定したかった可能性がいよいよ否定できないものになってしまったことを意味していた。

 悔しかった。彼女を見殺しにしてしまったことも、目を背けたかった可能性から目を背けられなくなってしまったことも。悔しくて、悲しくて、腹立たしくて、頭がどうにかなってしまいそうだった。

 分かっていた。曽我根が命を懸けて、それを証明するまでもなく。この島に潜んでいる殺人鬼の正体に、僕は気が付いていた。

 ただ、それを認めたくなかっただけだ。最後の最後まで、それを認めたくなかっただけ。こうして曽我根が殺されてしまったことで、それを認めざるを得なくなってしまった今になってようやく、曽我根を見殺しにしてしまったことへの後悔が押し寄せて来る。

 僕が現実から目を背けていなければ、こんなことにはならなかったのかもしれない。

 あと一歩、半歩でも早く、前に進んでいたのなら。曽我根が殺されることはなかっただろう。

 曽我根小恋が死んだのは、他の誰でもない――神崎千尋のせいだった。

「……ねえ、青葉さん」

 振り返ることなく、半歩後ろに佇む魔女に言葉を投げかける。

「僕は……どうすれば良かったんでしょうか」

 口を突いて出た言葉に、自分でも驚いた。そんなことを彼女に尋ねて、どうしようというのだろう。無意識に口にしたそれは、自分でも理解し難いものだった。

「曽我根は、僕のせいで死にました。認めたくなくて、否定したくて、足を止めてしまっていたから。助けれらたはずなのに、僕は彼女を見殺しにしました。本当は、気付いていたのに。分かっていたのに。それなのに、僕は――」

「――神崎くん」

 言葉を遮った魔女が、後ろから僕を抱きしめる。背中に伝わる温もりに、息が詰まった。

「もうやめましょう。悔やむことは、あとでいくらでもできますから。今はやれることを、やれるだけやってみましょうよ。神崎くんと曽我根さんの間に何があったのかは知りませんが、彼女もそれを望んでいたんじゃないですか?」

 数時間前、曽我根が口にした言葉を思い返す。魔女の言うとおり、死を受けれいていた彼女はそれを望んでいたのかもしれない。

 きっと曽我根は気付いていた。僕が目を逸らした現実に、目を向けていた。

 その上で死を受け入れて、僕に託した。()()()を助けてやってくれ、と。

「……そう、ですね。きっと、そうなんだと思います」

 崩れかけていた理性が形を取り戻す。やらなければならないことが、今度こそはっきりと見えた。

 もう逃げない。目を逸らさない。曽我根の死を無駄にはしない。彼女を見殺しにしてしまったことを、僕は絶対に忘れない。今度は僕が、現実に目を向ける番だった。

 きっとこうなってしまったのも、僕の責任なのだろうから。

「……そろそろ戻りましょうか。風邪を引いてしまっても、いけませんし」

 魔女の体が離れていく。途端に、冷たい雨が背中を襲った。

「ええ、そうですね。戻りましょう」

 差し出された手を握る。冷たいのに、温かい不思議な手。

 その手はやっぱり、夢の中で僕を引き留めてくれた誰かの手に、そっくりだった。

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