017
――彼女の見る世界は、灰色だった。
その本は、そんな書き出しから始まっていた。
僕に宛がわれた部屋の中、パイプ椅子の上にぽつんと置かれた革表紙の古びた本。灰と愛憎のエチュード、と銘打たれたそれは、青葉湊の愛読書だった。
以前、この部屋を訪れた時にうっかり忘れていってしまったのだろう。そういえば、このパイプ椅子に腰かけて、青葉さんがこの本に目を通していたような記憶がある。
たった数日、ほんの数十時間前のこと。けれどもそれが遠い昔の出来事のように思えるのは、それだけ色々なことがあったからなのだろう。
まさか、こんなことになってしまうだなんて。あの時は考えもしなかった。
一つ息を吐いて、少し黄ばんだ紙の上に躍る文字を目で追っていく。米粒みたいに小さなそれに、すぐに目の奥が重くなった。
根本的に、読書という行為は僕には向いていないのだろうと思った。今に始まったことでなく、思い返してみれば昔からそうだ。こうして紙の上に羅列されている文字を目で追うだけで、すぐに頭が痛くなる。目の奥がズキズキと痛んで、それ以上のことを拒もうとした。
別段、何かその行為そのものにトラウマがあるわけではない。慣れ親しんでこなかった。だから、不必要に肩が凝る。ただ、それだけのことなのだろう。
「……ここらが限界か」
三分の一ほど読み進めたところで、いよいよ眼底の痛みが無視できないものになってくる。鈍い痛みはいつの間にか刺すような鋭い痛みへと変わっていた。これ以上、読み進めることはできそうにない。一つ息を吐いて、僕は本を閉じた。
それから、後悔する。好奇心で、こんな本を手に取るのではなかったと。
「なんてものを読んでるんだか、あの人は」
灰と愛憎のエチュード。青葉湊の愛読書は、その名の通り愛と欲望渦巻く殺人劇を描いたものだった。
話の内容はこうだ。
あるところに、それはそれは美しい一人の舞台女優がいた。闇夜に浮かぶ月を思わせる金色の長い髪。見るものすべてを吸い込んでしまうような深さを湛えた翡翠色の目。この世のモノとは思えないほど白く透き通った肌に、鈴を転がしたような愛らしくも涼やかな声。二物も三物も与えられてこの世に生を受けた彼女は、しかし一つだけ失ってしまっていたものがあった。
色だ。その目に映る、色。
恵まれた容姿と引き換えに、彼女は色を失った状態でこの世に生まれ落ちた。だから、彼女は知らない。自らを構成する色が、どんな色であるのかを。褒め称えられるそれが、どれほどに美しいものであるのかを。
分かっていたのは、自分が見ているこの世界が灰色と呼ばれる色に包まれているということ。
それから、どうやら自分は誰からも愛されるような美貌を持って生まれたらしいということ。
そしてどうやら――自分という人間は、根底からひん曲がったような性格をしているということ。
紆余曲折、様々な経験を経ながらもすっかりと歪み切って育った彼女は、やがて舞台女優となる。
その目的は一つ。真に自らを愛し自らが愛せる男が現れるまで、言い寄ってくる有象無象を踏み台に経験を積むことだった。
彼女が練習と称するその行為は、様々な男の人生を踏みにじり、時には命までをも奪って――。歪んで、曲がって、どこまでも間違い続ける。
ある日、そんな彼女の目の前に一人の男が現れて……と、僕が読んだのはそこまでだった。
それだけでも十分、この本に綴られている物語が歪んでいることが分かった。タイトルからして、真っ当な――いや、誰しもが笑顔になれるような話ではないだろうなとは思っていたけれども。それにしたって限度ってものがあるだろう。読んでいるだけで気分が滅入ってしまいそうな話だった。
趣味は人それぞれ。それをとやかく言うつもりも、否定するつもりもないけれど、僕には到底理解できそうにもないと思った。カラーという女性が今後どのような人生を歩んでいくのか、それが気にならないでもないけれど、おそらく僕が続きを読むことはもうないだろう。
悪女に振り回されるのは現実だけで十分だ。創作物の中でまで、そんな様は見たくない。
一つ大きく伸びをして、部屋の隅の柱時計に目を向ける。時計の針は、深夜一時過ぎを指していた。部屋に戻ったのが二十二時少し手前のことだったから、三時間ほど読書に勤しんでいたことになる。そんなことをしている場合ではないというのに、僕はいったい何をやっているんだか。
呆れつつ、そろそろ寝ようと横になったところで、ノックの音が耳に飛び込んできた。
青葉さんが忘れ物でも取りに来たのだろうかと扉を開けると、そこには俯いて立つ曽我根小恋の姿があった。
「……話があるの。入れてくれる?」
俯いたまま、呟くように曽我根が言う。予想外の来訪者に戸惑いながらも、僕は頷いて彼女を部屋の中へと招き入れた。
曽我根の顔を見るのはこれが数時間ぶりのことだった。遊戯室を出て行ってから、それっきりだ。それから一度も、彼女の姿を見かけることはなかった。
あれだけの言葉を吐き捨てて部屋に閉じこもった曽我根が、どうして僕を訪ねて来たのだろう。後ろ手に扉を閉めながら、そんなことを考える。当たり前のようにベッドに腰かけた曽我根は俯いたまま、こちらを見ようともしなかった。
「……多分、長くなるから。座りなさいよ」
奇妙な沈黙が流れること数分。ようやく口を開いた曽我根が顔を上げて僕を見る。まるで自分の部屋であるかのような物言いだなと、内心溜息をついてパイプ椅子に腰を下ろそうとしたところで。
「違う。そっちじゃなくて、こっち。ここ、空いてるでしょ」
ぽん、と。曽我根は平手で、自分の隣を軽く叩いた。
「……隣に座れって言うのか?」
「そう言ってるでしょ」
「いや、でも……」
「いいから。座って」
有無を言わさぬ口調と態度。躊躇いながらも、少し間をおいてベッドの上に腰かける。その間、曽我根は僕の顔をじっと見つめていた。
「……あんたってさ、近くで見ると結構整った顔してるんだね。その野暮ったい前髪で、よく見えなかったけどさ」
「なんだよ、急に。褒めたって何も出やしないぞ」
「別に褒めてるわけじゃないわよ。あんたみたいなのが、そんな顔してるだなんて意外だなって思っただけ。優男って感じで私の趣味じゃないけど……なんとなく、分かる気がするな。愛実ちゃんが、あんたを好きになった理由」
僕を何だと思っているのか、曽我根はそんなことを言って僅かに表情を緩めた。
「……ねえ、神崎」
しかし、それも一瞬のこと。
「まだ、愛実ちゃんのこと……好き?」
すぐに表情を切り替えた曽我根は、真剣な顔つきで僕に向かってそう問いかけた。
「……だったら、なんだっていうんだ?」
質問の意図が読み取れず、返答に窮する。質問に質問で返す形になってしまった。
「お願い、答えて。大事なことなの」
適当にはぐらかしてしまおうか。そう思ったところで、曽我根の真剣な眼差しが僕を射る。誤魔化すことは許されない。そんなことは認めない。その目に宿る光が、そう物語っていた。
「……好きか嫌いかで言えば、大嫌いだよ。二度と顔なんて見たくなかったし、関わりたくもなかった。アイツが僕をどう思っているのかなんて知らないし、興味もないけどさ。少なくとも僕は、そう思ってる」
心からの言葉。それは、嘘偽りのない本当の気持ちだった。
確かに、僕と佐原は過去に恋人関係にあった。でも――いや、だからこそだ。そんな経歴を経たからこそ、僕は佐原愛実という人間が嫌いだった。
恨んでいるわけではない。憎んでいるわけでもない。未練だってそこにはない。単純に今の僕は彼女という人間が大嫌いで、関わりたくなくて、思い出すことすらもしたくないと思っている。
奇しくもこの島で再会を果たしてしまったがゆえに、関わることにはなってしまったけれど。それがなければ、忘れ去りたい記憶の中にある彼女のことなど忘れて生きていたことだろう。それが可能か、不可能かは別としてだ。特に意識することもなく、過去の汚点として、黒歴史として、記憶の奥深くに封じ込めたままであったと思う。現にそうしてきたからこそ、今の僕がここにあるのだから。
過去から逃げるように、一年の間をおいて地元から離れた高校に通い始めた。そこで、問題児たちに出会うことになった。何の因果か、ひょんなことからそんな問題児たちと時間を共にすることになった。その根底にあるのは、佐原愛実とそれに付随する過去の出来事だ。
佐原愛実を嫌っているからこそ、神崎千尋は成り立っている。嫌っていたからこそ、今の神崎千尋であることができている。
そういう意味では感謝していないわけでもないし、それと同時に恨んでいないわけでもないけれど、だからと言ってこれ以上嫌いになることはあったとしても好きになることなどあり得なかった。
恋人関係にあったのも、今では昔の話だった。一時の気の迷い。恋愛という精神病に浮かされたことによって生まれた過ち。どう足掻いても変えることのできない、過去の出来事。
それ以上でも、以下でもない。今の僕にとって、佐原愛実とはそういう存在に過ぎなかった。
「本当に、そう思ってる?」
「ああ、間違いなく。僕は佐原が、大嫌いだ」
重ねての問いかけに頷く。
「……そう、なら良かった。あんたになら、安心して話せるみたいね」
僅かに品定めでするような間があって、それから曽我根は大きく息を吐きだした。
「この話をする前に、それだけは確認しておきたかったのよ。あんたがまだ愛実ちゃんのことを好きでいるのなら……きっと、辛い話になるだろうから」
言って、佐原は深く息を吐いた。
「これからする話を信じるか信じないかはあんた次第よ。受け入れられないのなら、それでもいい。でも、聞いて。いい?」
その言葉に頷く。と、曽我根は一瞬だけ躊躇うような素振りを見せてから言葉を続けた。
「……実はね、愛実ちゃんと白木はもう恋人同士じゃなかったの。あんたと、この島で再会した時には既に。あの二人は、喧嘩別れをしてたのよ」
原因は、と言葉を続けようとした曽我根は、しかしそこで言い淀む。そこにはなにやら切り出しにくい事情がある様子だった。
「原因は?」
「……愛実ちゃんの浮気。男をとっかえひっかえ、あちらこちらに手を出していたのが、原因」
その背中を押すと、曽我根はぽつりとそんな風に答えた。
「白木はね、最後には自分のところに帰って来てくれるって信じてたみたいだけど……。そうじゃなかったの。愛実ちゃんは白木のことも、踏み台の一つだとしか思っていなかったのよ」
踏み台。曽我根が口にした言葉に、重なるものがあった。
それじゃあ、佐原はまるで――。
「アイツを振り向かせる為なんだって、愛実ちゃんはそう言ってた。全部、アイツの為だって。その為に、今は経験を積んでいるだけだって。そう、言ってたの」
どくん、と心臓が跳ねた。吸い込んだ空気が胸に引っかかる。自然と視線はベッドの上に置かれたままの革表紙の本へと吸い込まれた。
「……そうね。この本に出てくる、あの悪女みたいに。愛実ちゃんは自分に言い寄ってくる男を、練習相手にしてたのよ」
曽我根の指が表紙に刻まれた文字を撫でる。言葉の感じからして、どうやら曽我根はその本の内容を知っているらしかった。
「私は、それが許せなかった。だって、私は――」
時間が止まってしまったように、そこで曽我根の動きがぴたりと止まる。そこに続く言葉を音にすることを、躊躇っている様子だった。
「……好きだったのか。白木のことが」
小さく、曽我根が頷く。
なんとなく、言わんとしていることが分かってしまった。言葉にしてから、自分の無神経さを呪いたくなる。切った張った、惚れた腫れたの問題は至極デリケートな問題だ。その想い人――好意を寄せている相手が、親しい友人の恋人であったというならば尚更に。
同じ部活という狭いコミュニティーの中での話だ。いつから想いを寄せていたのかは知らないが、佐原と白木の関係性には日々鬱々とした思いを抱いていたことだろう。曽我根がどんな思いで二人を見ていたか、それは想像に難くない。
「白木が幸せなら、それでいいと思ってた。私なんかより、愛実ちゃんといる方が幸せならそれでいいって。そう、思ってた。そう思ってたのに……」
吐き出して、曽我根は服の胸元を掴む。小刻みに震えるそれには、指先が白むほどの力が込められていた。
「……助けてあげられなかった。あんなに近くにいたのに。白木も、須藤も、愛実ちゃんも。私は助けてあげられなかった。見ていることしか、できなかった。おかしくなった皆を、見ていることしかできなかったの!」
髪を振り乱し、目には涙を浮かべながら、曽我根は震える声で言葉を叩きつける。
「だから、だからお願いだよ神崎。あの子を……愛実ちゃんを、助けてあげて。あんたならきっと、それができるはずだから。あの子だけは、お願い……助けて……」
それから曽我根は、小さな手で縋りつくように僕の両腕を掴んだ。
「……それでいいのか、お前は」
自分でも驚くほど、平坦で冷めた声が出た。
「……え?」
曽我根の潤んだ瞳が、僕を見上げる。
「たった今、自分で言ったばかりじゃないか。白木を傷付けた佐原のことを、許せないって」
「……そうだね。許せないよ、絶対に。今でも、愛実ちゃんのことは恨んでる。でも、私は間近で見てきたから。愛実ちゃんも愛実ちゃんなりに、苦しんでいたのを。どうしてこんなことになってしまったんだろうって、悩んでいるのを。だから……私は愛実ちゃんを助けたい。こんなことになっても、私は愛実ちゃんを友達だと思っているし、仲間だと思っているから」
真剣な眼差しを僕に向けたまま、曽我根は大まじめにそんなことを言った。その言葉に、胃の中身を全部ぶちまけてしまいそうになる。何十年かかったって、僕の口からは絶対に出てこないような言葉だった。
場合が場合なら吹き出しているところだった。お前は本気で、そんなことを言っているのか――と。
「僕は佐原のことが大嫌いなんだぞ。そんな人間が、助けてくれと頼まれたからって、はいそうですかじゃあ助けますとでも言うと思ってるのか?」
「助ける。あんたなら、絶対に」
「どうしてそう言い切れるんだ」
「あんたが、そういう人間だから。他人を不幸には、できない生き物だから」
「お前に僕の何が分かる」
「分かるわよ。現にこうやって、こんな時間に訪ねて来たさして親しくもない女の話に耳を傾けて、向き合ってるじゃない。そんなあんただからこそ、こうしてお願いしてるのよ」
これでも人を見る目だけはあるの。曽我根はそう言葉を続ける。一つ息を吐いた僕は、うっかりその言葉を否定してしまいそうになった。
間違ってるよ、曽我根。お前の目は、節穴だ。僕はお前が思っているような人間なんかじゃない。全く以て、見当違いだ。
そう言って突っぱねることもできた。いや、そうするべきだったのかもしれない。曽我根のことを考えれば、僕は彼女の言葉を否定するべきだったのだろう。
「……約束はできない。でも、努力はするよ」
でも、そうしなかった。僕は結局、曖昧な言葉でその場を濁した。
「そう、よかった……。本当に、よかった……」
するりと曽我根の手から力が抜ける。だらりと垂れ下がった手は、ぽとんとベッドの上に落ちて小さく跳ねた。
「愛実ちゃんのこと、よろしくね神崎。多分次は……私の番だと思うから」
言って、曽我根は力なく笑う。どこか、諦めたような笑顔だった。
「……そこまで分かっていて、どうして」
理解できない感覚だった。曽我根はどうして、当たり前のようにその理不尽を受け入れることができるのだろう。
「今ならまだ、間に合うかもしれないのに。助かる方法だって――」
「それじゃあ駄目なんだよ、神崎。私も、許されない人間の一人だから」
僕の言葉を遮って、曽我根は続ける。
「私が死ねば、つまりはそういうことだしね。あとはアンタに、安心して任せられる。それにもう、疲れちゃったんだ。だから……だからもう、いいんだよ」
すべてを諦めた笑み。いつかどこかで見たような笑顔を浮かべた曽我根はそう言って、目尻に涙を浮かべたまま僕を見た。
何も言えなかった。どんな言葉をかけるのが正解なのか、皆目見当も付かなかった。
「面倒事を押し付けるみたいになっちゃって、ごめんね」
その沈黙をどう受け取ったのか、笑顔を浮かべたままそう続けた曽我根はゆっくりと立ち上がった。一歩、また一歩と背中が遠ざかっていく。僕は何も言えないまま、小さなその背中を見つめ続けていた。
「……愛実ちゃんのこと、お願いね」
ぽつりと吐き出した曽我根が、ドアノブに手をかけたところで立ち止まる。
「――それじゃあ、バイバイ」
消え入りそうな声でそう続けた曽我根は、振り返ることなく扉の向こうへと消えていった。足早に部屋の前から遠ざかっていく気配がする。結局かける言葉が見付からないままで、曽我根と別れることになってしまった。
今ならまだ間に合うのかもしれない。扉を開けて、その背中を追いかければ、止めることはできるのかもしれない。そうすれば、僕は曽我根を見殺しにしなくても済む。
でも――。
「……できるわけないだろ、そんなこと」
衝動的にベッドから飛び降りて、ドアノブにかけた手を動かすことができなかった。
覚悟を決めた人間の目だった。曽我根は、これから自分に訪れるであろう不幸を――いや、結末を受け入れている。
覚悟を決めて、腹を括って、生きることを諦めた人間の目。僕には、曽我根がそんな目をしているように見えた。
僕の言葉は、曽我根の耳には届かないだろう。誰かの命を救うには、僕の言葉はあまりにも重みがなさ過ぎた。上辺だけの軽い言葉では、覚悟を決めて諦めた人間に届くことも響くこともない。
曽我根はきっと、犯人に目星がついているのだろう。僕と、同じように。
だから、あんなことを言った。だから、諦めた。あとは頼んだと、託した。そういうことなのだろうと僕は思う。
否定したかった可能性。知らず知らず、目を背けてしまっていた真実。それが重くのしかかる。
もしも曽我根が殺されることがあれば――僕が彼女を見殺しにしたということになれば、それはつまり最も否定したかった可能性が、否定できない裏付けを以て襲い掛かってくるということだった。
信じたくはない。でも――。
「僕に、どうしろって言うんだよ……」
視界が揺れる。立っていられなくなって、ベッドの上に倒れ込んだ。
世界が回っている。甲高い音が、いつまでも頭の中で鳴り響いていた。