016
お前には人の心がない。欠けている。どうせ他人のことなんて、どうだっていいと思っているんだろう。冷淡だ。冷血だ。冷徹だ。言葉は違えど、どれも同じこと。悲しむべき時に悲しめず、涙を流すべき時に流せない。お前はそういう人間である、と。幼い頃から、あらゆる場面で言われ続けてきた。
例えば、小学生の頃。クラスのみんなで飼っていた文鳥だったかインコだったかが、死んでしまったことがあった。
教室の片隅で鳥かごに押し込められていた小鳥。寿命だったのか他に原因があったのか、ある日気が付いたらそれが冷たくなっていて。女子はみんなで泣きじゃくり、男子は男子で酷く落ち込んで。担任までも巻き込んで「お別れ会」なるものが開かれたりもして。それなりに、大きな騒ぎになっていたことを覚えている。
忘れもしない。幼馴染の腐れ縁、その頃から金魚の糞のように僕について回っていた由紀乃が、風邪を引いて学校を休んでいる日のことだった。
お別れ会の最中、とある男子生徒が僕に向かってこう言った。
みんなが悲しんでいるのに、どうしてお前だけ平気な顔をしているんだ、と。
そんなつもりはなかったのだけれど、彼には僕がそんな風に見えていたらしい。確かに泣きはしなかったし、顔に出して落ち込むこともしなかったけれど、みんなで可愛がっていた小鳥の死がまったく悲しくなかったわけではない。ただ少し、ほんの少しだけ。周りの人間が悲しんでいるほどは、悲しんでいなかったというだけだった。
命の重さに貴賎なし。死んでしまったのが小鳥だったから、あまり悲しめなかったというわけではない。僕がそれほど悲しんだりしなかったのは、結局のところそれが他人事であったからというだけのことだった。
そこにいたものがいなくなる。ただそれだけのことだ。小鳥がいなければ生きていけないわけでもないし、それが死んでしまったからといって僕になにか影響があるわけでもない。最初からいなくてもいいものが偶然そこにいて、それがたまたまいなくなってしまった。僕にしてみれば小鳥の死とはそれだけのことでしかなかった。
何も変わらない。欠けたり、増えたりもしない。その程度の、その程度でしかない物事に対して、我を忘れて泣き喚くことが、当時の僕にはどうしてもできなかった。
それが異常であるのか、普通であるのかは別として、あの場に限っては異質であったことだけは確かなのだろう。泣き顔や沈んだ顔が並んでいる中に、ひとりだけぽつんといつも通りの顔をしている奴がいるのだから、浮いて見えてしまうのは仕方がない。それが小学生という多感な時期の子供たちの集まりであるとなれば、尚更にだ。
世の中の常、普通という言葉の基準となる多数決の多数派意見。彼らにしてみれば少数派意見の側に立っていた僕は――周りとは違っていた僕は、悪者にでも見えていたのだろう。
その日から僕は、卒業までの間の学校生活のほとんどを、由紀乃と二人きりで過ごすことになった。
外面だけは良い由紀乃が側にいるおかげで、表立っていじめられたりするようなことはなかったが、その日を境に僕に向けられるクラスメイトの視線には、明確な敵意が浮かび上がるようになっていた。
小鳥が死んだのを、周りと同じだけ悲しめなかったからという、ただそれだけのことでだ。
そんな事件がきっかけで、人間が生きていく上で周りに合わせるということはとても大切なことであるのだなと僕は学ぶことになるのだが、それはそれとして。今回の事件に関しても、それは同じことだった。それとこれとで違うのは、死んだのが小鳥であるのか、かつての友人たちであるのかということだけだ。
僕にしてみれば、どちらも同じことだった。
三年もの間、身近にいる友人ではなくなっていた彼らの死。
言ってしまえばそれらも他人事でしかない。なくてもどうにかなっていたものが、再会もそこそこにまたなくなってしまったというだけの話だった。
非情な犯人に憤りを覚えてはいる。かつての友人たちの死に、悲しみを覚えてもいる。けれど、それだけだ。それ以上でも以下でもなく、それ以外のものは持ち合わせていない。いなくなってしまったという事実をありのまま、膨らませもせずに僕は受け止めている。
だからこそ僕は、自分の行いが自分自身でも信じられなかった。
気の迷い。どうかしているとは自分でも思う。けれど、自然と身体が動いてしまった。知りたいと思ってしまった。誰が二人を殺害し、亡き者にしてしまったのか。彼らの死を心底悲しんでいるというわけでもないくせに、僕はそれが知りたくて仕方がなくなってしまっていた。
それでどうにかしようというわけじゃない。かと言って、ただ好奇心を満たす為というわけでもない。僕の貧相な語彙では到底言い表すことができないような複雑な感情がそこにはあった。
こんなことをして何になる。心のどこかで、自分が自分を笑っている。知りたがる神崎千尋と、それをあざ笑う神崎千尋とで、僕は二つに分かれていた。
「……よう、白木」
鼻を突くような不快な臭いがこびり付いた部屋の中、遺体にかけられたブルーシートをまくり上げる。万が一に備えて鞄に忍ばせていた皮手袋がこんなところで役に立った。こいつのおかげで指紋は気にしなくても大丈夫だろう。一つ息を吐いて、露わになった死体をしゃがみ込んで観察する。
無数の刺し傷。背中に刺さったままの、ナイフによるものだろうか。完膚なきまでとはまさにこのことで、白木の背中は刺し傷で埋め尽くされていた。これではどれが致命傷なのかもわからない。裏を返せばそれだけ必要のない傷が目立つということにはなるのだが……。それほどまでに、犯人は白木に対して深い恨みを抱いていたということなのだろうか。
殺しても殺し足りない。刺しても刺してもまだ足らない。白木の遺体に残された傷跡からは、禍々しい狂気の残滓が漂っていた。
何がそこまで犯人を駆り立てたのだろう。妙に自信家で鼻につく部分も時にはありもしたけれど、それでも彼はここまでの恨みを買うような人物ではなかったように思う。
須藤にしたってそうだ。彼は同級生でありながら、僕たち演劇部にとっては頼れる兄貴分のような存在だった。慕われることはあったとしても、恨まれるようなことはない。少なくとも、僕が知る限りは。そう断言できる。
そんな彼らがこうして、恨み辛みをぶつけられたかのように惨たらしく殺されている。僕が知らない空白の三年間に、それだけのことがあったということなのか、それとも――。
そのどちらにせよ、犯人は二人に対して強い恨みを抱いていると考えて間違いなさそうだった。そうでもなければ、ここまでのことはしないだろう。彼らの死に様は素人目に見ても過剰であると言わざるを得ない。単純に殺すことだけを目的としていたとするならばあまりにも不自然だ。
犯人にはそうまでして遺体を破壊しなければならない理由があった、と考えることもできなくはないが、怨嗟に突き動かされて感情のままに刃を突き立てたと考えた方が幾分か自然ではあるだろう。
もっとも、そもそもからして殺人という大罪を犯してしまうような異常な精神と思考の持ち主ではあるわけで、そんな人間に対して一般論が通用するのかどうかは定かではないのだが。この際、それは些細な問題であるのかもしれなかった。
彼あるいは彼女がどんな人生を歩み、どんな理由から二人の人間を殺害するに至り、そして――今現在、どんな顔をして僕たちの中に紛れ込んでいるのか。そんなのはどうだっていいことだ。僕には何の関係もない。重要なのは、この島の中には二つの死体が転がっていて、僕たちの中にその死体を拵えた犯人が潜んでいるということなのだから。
背景や理由なんてどうだっていい。誰が二人を殺したか。僕が知りたいのは、それだけだ。
頭を振って雑念を吹き飛ばし、白木の死体だけに意識を向ける。目を背けたくなるような光景。されど、目的達成の為にそれは許されない。
胃の中身をぶちまけてでも、例えこの先何年も悪夢にうなされることになってでも、僕は読み取らなければならない。かつての友人、白木透の死体から、犯人が残した痕跡を。欠片一つ残さずに、拾い上げなければならなかった。
余計なことに意識を向けている時間はない。姿の見えない犯人から身を守る為――あるいは、互いに互いを監視する為、集団行動を徹底する方針が固まりつつある中で、トイレに立つという名目で僕は遊戯室を抜け出して白木の部屋を訪れている。
時間をかけ過ぎれば、僕の立場も危ぶまれる。不安定になりつつある問題児たちの為にも、そして何より僕自身の為にも、それは避けなければならない事態だった。
迅速に、白木の死体から違和感と痕跡を拾い上げる必要がある。とは言え、こうして行動に移してみてから改めて思い知ったことではあるが、残念なことに僕の中にはこういった局面で有用となるような知識が何一つとして存在していなかった。
青葉さんのように、常日頃からミステリ小説を愛読しているわけでもなし。医学方面に明るいというわけでもなく、それ以外の専門知識や超人的能力を有しているわけでもない。
義憤と称する他にない、自分でも理解の追い付かない感情に突き動かされて行動を起こした僕だったが、それもどうやら空回りに終わってしまいそうだった。
僕はあまりにも無力だ。
こうして白木の遺体を目の当たりにしても、残された痕跡の断片の欠片の一粒すら見つけ出すことができないのだから。
わかったことと言えば、犯人が白木や須藤に対して深い恨みを抱いていた――かもしれないということだけなのだから、我ながら失笑ものである。
「さて、どうしたものかな……」
自然とそんな呟きが口を突いて出た。人間、感情に突き動かされて先走るとろくなことにならないとはまさにこのことだろう。そのいい見本だ。
僕としたことが行き当たりばったりどころか、ばったり行き当たってしまうことになるとは。自分のことながら、驚きを隠せない。自分で思っているよりも、僕はこの状況に呑まれてしまっていて、冷静さを欠いてしまっているのかもしれなかった。
「――何やらお困りのご様子ですね。よろしければ、お手伝いしましょうか?」
茫然自失。己の無力さと、後悔に立ち尽くしていたところで。そんな声が僕の耳朶を打った。振り返れば、そこには開け放したままの扉に背中を預けて立つ図書館の魔女、青葉さんの姿があった。
「お手洗いなら、この部屋を出て右手側に進んだところにありますよ。神崎くんがお箸を持たない手の方向ですね」
くすくすと笑いながら、青葉さんは僕に向けてそんなことをのたまう。迷子ではないことなどわかりきっているであろうに、そんな言い方をするなんてとことん意地の悪い女だなと僕は思った。まあ、こんな状況であるというのに、そんな冗談を口にすることができるそのメンタリティは見習いたいものではあるのだが。
「随分と長いお手洗いだなと様子を見に来てみれば、こういうことでしたか。少しだけ安心しましたよ、私は」
「安心……?」
「ええ。私はてっきり、神崎くんには人の心がないものだとばかり。いくら数年間離れていたとは言え、友人であった人たちが殺されてしまったとあってはまともじゃいられないでしょうからね、普通は。だからこうして、白木くんや須藤くんを気にかけたのであろう神崎くんがこの場所にいたことで、少しばかりの安心を覚えたということですよ」
意地の悪い笑みを崩さないまま、青葉さんはそんなことを言った。とぼけて、ズレて、人の心の機微などまるで見えていないようでいて、存外彼女という人間は鋭い観察眼を持ち合わせているのかもしれない。彼女には僕という人間の本質の部分が、よく見えているようだった。
その才能を普段から遺憾なく発揮していただきたいものであると切に思うが、それは叶わぬ願いであるのだろう。おおよそにして何かに長け何かに欠ける人間というものはそういうものだ。その才能は、自らが興味を示した対象にしか発揮されることはない。だからそれが周囲とのズレを生み溝を作り孤立する。往々にして問題児とはそういうものなのだろうと、部長を始めとするオサ研の問題児たちと接する中で僕は思った。
天は二物を与えない。何かに長ければ何かに欠ける。人間とはそんなものなのだろう。きっと、そうやって世の中はバランスを取っているのだろうと思う。
問題児と周囲とのズレを埋める緩衝材のようなポジションにいる僕にしてみれば迷惑この上のない話ではあるが……文句を言ったところでどうにかなるものでもない。それはもうそういうものだと割り切って、諦めてしまう他になかった。馬鹿と天才はなんとやら、というやつである。
「僕のことをどう思っているんだか知りませんが、いくらなんでもそこまで乾いちゃいませんよ」
「どうやら、そうみたいですね。人を見る目だけには自信があったんですが……魔女さんもまだまだみたいです」
何がそんなに楽しいのか、笑顔を浮かべたままでいる青葉さんに思わず溜息が出る。言っても詮無いことではあるが、この人は本当に自分が置かれた状況を理解しているのだろうか。よくもまあ、そんな風にして笑っていられるものだ。いくら問題児と言えども人の子であることに変わりはないし、死体を目の当たりにすれば悲鳴のひとつでも上げそうなものではあるが。妙に落ち着ているというか、なんというか。この状況を楽しんでいるような素振りさえ見せている。あの黒羽原哀歌でさえ、打ちのめされて塞ぎ込んでしまっているというのにだ。
見た目だけは可憐な少女でも、魔女と呼ばれるだけのズレ方はしているということなのだろう。改めて、目の前にいるそれがまともではないことを認識させられる。
「それで、神崎くん。こんなところでいったい何をしているんですか?」
青葉湊という生き物が抱えた異常性。それを再認識したところで、青葉さんが小首を傾げながら僕に問う。
「ああ、それは……。まあ、なんというか。犯人に繋がる痕跡が残っていやしないものかと思いまして」
相対するそれが到底まともなモノなどではなく、口先で誤魔化したところでどうにもならないだろうと踏んだ僕は、素直にこの場所を訪れた理由を言葉にする。
「……神崎くん、医学方面に明るかったりするんですか?」
すると彼女は、今度は反対方向に小首を傾げながら不思議そうな顔をして見せた。
「……いえ、まったく。医療のいの字も知りません」
「それじゃあ、何かこう……ミステリ方面に自信があるとか」
「どちらかと言えば、興味がないと言わざるを得ないかと」
「……犯人に心当たりがある、とかですか?」
「毛ほども。小指の先ほども」
「……ええと、ごめんなさい神崎くん。何をしに来たんですか?」
「返す言葉がこざいません」
沈黙。それから、溜息。頭を抱えるようにして僅かに俯いた青葉さんは、上目遣いに僕を見た。
「ちょっと感心したらこれですよ……。後先考えないにも程がありませんか?」
お前がそれを言うな、と喉元まで出かかった言葉を飲み込んで。愛想笑いを浮かべるだけに留める。
「まったく呆れて物も言えませんよ。いったいどうするつもりだったんですかそれで」
「それは……これから考えるところでした、としか」
二度目の溜息。僕を見る青葉さんの顔には、いつの間にか呆れたような表情が浮かんでいた。
「はぁ……。まったく、仕方のない人ですね。いいですか、神崎くん」
これまたわざとらしく三度目になる溜息を吐き出した青葉さんは、部屋に踏み込んでくるなり白木の死体の横にしゃがみ込むと、床の上にだらりと力なく投げ出されている彼の腕を指さした。
「ここ、見てください。胴体は傷だらけだというのに、腕には一つも傷がありませんよね」
そう言われて、初めて気が付く。白木の腕は血に塗れて汚れてはいたものの、傷は一つも付いていなかった。
「それが、何か……?」
「神崎くんは、防御創という言葉をご存知でしょうか」
「ぼうぎょそう、ですか……。いえ、聞いたことがありません」
「なんでも医学用語の一つとからしいのですが、防御行動を取った時……例えば、刃物なんかを振りかざされたとしますよね? それを払いのけようとしたり、掴んだりしようとした時にできる傷のことをそう言うのだそうです。見たところ、白木くんの腕や手のひらにはそういった類の傷は見当たりませんし、つまり彼は抵抗する間もなく殺されてしまったのではないか、と魔女さんは思うわけですよ。不意を打たれてしまっただとか、背中を向けた途端に刺されてしまっただとか、ね」
饒舌にそう語った青葉さんは、白木の死体から目を逸らさないままで言葉を続ける。
「扉に頭を向けて倒れていることから考えるに、窓から侵入してきた犯人に驚いて、逃げようとしたところで背中を刺されてしまったのか、あるいは部屋の中に招き入れた誰かに背中を向けたところでぐさりと刺されてしまったのか、といったところなのでしょうが……。これだけ雨が降っているんですから、当然地面はぬかるんでいるでしょうし、そうなると靴には泥が付着しますよね。窓枠にも床にも泥はついていないわけですから、犯人が窓から部屋の中に侵入したという可能性は極めて低いと考えていいでしょう」
いつかどこかで見たミステリ物の主人公のように。つらつらと言葉を並べた青葉さんは、立ち上がって僕に向き直る。
「そうなるとつまり、犯人は扉から堂々と部屋の中に侵入したということになるわけで。見ず知らずの人間を部屋の中に招き入れるとは考え難いですから、白木くんは部屋に招き入れてもいいような、顔見知りか親しい人間に殺されてしまったのではないか、と。私は思うわけですよ、神崎くん」
なるほど、と。青葉さんの言葉には感心するばかりだった。その言のすべてが正鵠を射ているとは限らないけれど、彼女の言うことには妙に説得力がある。
「まあ、そもそもからしてこの島の中に私たち以外の誰かが潜んでいるとは考えられないですし……残念ながら、いるのでしょうね。私たちの中に、二人を殺した犯人が。考えたくもない、ことではありますけどね」
少しだけ目を伏せて、そう続けた青葉さんの言葉が深く突き刺さる。
僕の中に生まれた疑念。それを払拭する為に、この場所を訪れたというのに。それどころか、余計に疑いは強まってしまった。
ずきりと、後頭部に鋭い痛みが走る。今にも破裂してしまいそうなほどに、心臓が大きく跳ねていた。
――なあ。二人を殺したのは、本当にお前なのか?
「……神崎くん? どうか、しましたか?」
「……いえ、なんでもありません」
どこか遠くへと飛んでいた意識が、心配そうな青葉さんの声で引き戻される。
落ち着け。まだそうだと決まったわけではない。幸いなことに警察が島にやって来るまでにはまだ時間がある。それまでに、僕があいつの身の潔白を証明してやればいいだけだ。
その為には――魔女の協力が必要不可欠なものになるだろう。
彼女の知識は武器になる。手段を選んではいられないこの状況で、彼女の存在は有用だった。僕一人では不可能なことでも、彼女という存在があればあるいは――。
「それにしても、随分と色々なことを知っているんですね青葉さんは。いざ動いてみたはいいものの、僕一人ではどうにもなりませんでしたよ。助かりました、ありがとうございます」
愛想笑い。どこか腑に落ちない様子の青葉さんに微笑みかけながら、僕は小さく頭を下げる。裏を見せてはいやしないが、その言葉に嘘はなかった。青葉さんが現れたことで、結果として助かったのは事実だ。悔しいけれど僕一人では、何時間かけたって前には進まなかったことだろう。
「別にお礼を言われるほどのことでもありませんよ。どちらかといえば、神崎くんの為でなく自分の為であると言うべきでしょうし」
「……え?」
濁すように放たれた言葉尻。些か歯切れの悪いそれに、問い返したところで。
「さて、それはそれとしてそろそろ戻るとしましょうか。みんなに怪しまれてしまう前に、ね」
それには答えず、青葉さんはそう言ってくるりと踵を返して僕に背を向けた。
「――あ、そうそう。須藤くんのところにも行くつもりなんですよね? その時は、また声をかけてくださいね。神崎くん一人じゃ、不安ですから」
この話はそれで終わりだとでも言うように。廊下に向けて一歩踏み出したところで、青葉さんが首だけを回してこちらに振り返る。
冗談めかした声色で、悪戯な笑みを浮かべた彼女の目は――今度こそ、心底それが楽しくて仕方がないとでも言うように、笑っていた。