015
「……そうか。須藤も、駄目だったか」
そう呟いて、俯いた佐原愛実の両肩は小さく震えていた。
須藤統児の変わり果てた姿を目の当たりにしてから、しばらくして。
重い足取りで遊戯室へと帰り着いた僕と青葉さんは、そこで待っていた面々に須藤を助けられなかったことを告げた。
「すみません。私たちが見つけた時には、もう……」
沈んだ空気の中。言いながら、青葉さんが口元を押さえる。あの凄惨な光景を、思い出してしまったのだろう。
「そんなに、酷かったのか?」
「……ああ。一目見て、もう手遅れだってことがわかる程度には、な」
須藤の最期の姿。その詳細を伝えることは、避けた。
知らないままでいられるのなら、それに越したことはないだろうという判断だった。
世の中には、知らない方が幸せなままでいられることもある。
――まあそれも、こんな状況では焼け石に水といった調子ではあるのだが。
「それで、これからどうするんすか? ただの悪戯だったはずが、マジになっちゃったってことなんでしょ? 警察に連絡とか、しなくていいんすか」
「それはもう犬養のおっさんがやってるよ。つってもまあ、この嵐じゃあ誰も島には近付けやしないだろうがな」
不安げに辺りを見回しながら、震える声でそんな言葉を口にした緋子奈に、不機嫌顔で煙草をふかしていた咎芽さんが答える。
彼女の言う通り、外部と連絡が取れたところでこの嵐では同じことだ。嵐が過ぎ去るまでは、警察の介入はまずないと見ていいだろう。警察だって人間だ。なにも万能の存在であるというわけではない。この状況下で島に近付くことは、それこそ余計な犠牲を増やすことにもなり兼ねないのだから、そう簡単には手出しできないことだろう。
「おっさんの話じゃ、明後日の明け方まではこんな調子だそうだから……まあ、それまで辛抱するしかないってことだわな」
苦々しい顔で灰皿に煙草を押し付けた咎芽さんの言葉に、誰かが大きな息を吐く。仕方のないことであるとはいえど、理解と納得とじゃ話は別だ。溜息をつきたくなる気持ちもよくわかる。
正直なところ、僕自身こうやって立っているだけでも精一杯だった。目の当たりにしてしまったあの光景を思い返しそうになる度に、腹の底からとてつもない吐き気が込み上げてくる。喉を刺し少しばかり戻っては再び込み上げることを繰り返すそれは、どうやっても飲み下すことができなかった。
それでも吐き出すことをしなかったのは、ひとえに佐原愛実の存在がそこにあったからだった。
不幸比べをするつもりはないけれど、恋人と親しい友人を同時に失うことになってしまった佐原の方が、何倍もひどく打ちのめされていることだろう。そんな人間の前で、三年間も関わりを絶ち続けていた僕が、一番の被害者面をする気にはどうにもなれなかった。
オサ研に所属する問題児たちでさえ、必要以上に自らの不幸を嘆き悲しみ喚き立てることはしていないのだから、その彼女たちをフォローしなければならない側である人間のこの僕が、打ちひしがれて不貞腐れているわけにもいかない。内心がどうであれ、僕はいつものように振舞わなければならなかった。
「とにかく、犬養さんを待ちましょう。どうするかは、それから――」
寄せては返す吐き気の波を堪えながら、そう切り出したところで。外部との連絡を取る為に席を外していたらしい犬養さんが帰ってきた。
「犬養さん、どうだった……?」
部長の言葉に、犬養さんは苦虫を噛み潰したかのような顔で横に首を振る。
「やはり、この嵐ではどうにも……。到着は、明後日の明朝になるそうです。力及ばず、面目次第もございません……」
もしかして。そんな僅かな希望が打ち砕かれた瞬間だった。咎芽さんが言うように、やはりこの嵐では警察も島に近付くことはできないらしい。
「……そっか」
犬養さんの言葉を受けて、短く呟いた部長が力なくソファーの上にへたり込む。ただでさえ小さなその体は、いつも以上に小さく、そして弱々しく見えた。さしもの黒羽原哀歌でも、この状況は相当に堪えているらしい。こんなことになってしまった原因の一端を担ったのが自分である、ということも少なからず関係しているのだろうか。覇気もなければ生気もなく、その弱々しさは一見して他の誰かと見紛うほどのものだった。
「ごめんね、みんな。私が、みんなをこんな所に連れてきたりなんかしたから。あんな悪戯を、仕掛けたりなんかしたから。だから、こんなことに……」
後半は、ほとんど言葉になっていなかった。涙と嗚咽で揺れに揺れて、痛々しくてか細くて。
「大丈夫。大丈夫よ。哀歌ちゃんのせいじゃないわ……」
そんな部長を抱きしめる巫女人先輩の声もまた、弱々しく小さく、震えていた。
不安と恐怖が充満している。誰も彼もが、今にも押し潰されそうになっていた。余裕のある人間など一人もいない。ここにいる全員が、ギリギリのところで踏みとどまっていた。
限界だった。状況は、最悪の一言だった。いつか青葉湊が口にした、嵐の孤島ものという言葉が重く僕たちに伸し掛かる。この島を襲う嵐のように僕たちに覆いかぶさるそれは、膝から崩れ落ちた者から喰らっていこうとするかのように牙を剥く。茶番だったはずの殺人劇はいつしか本物の恐怖へと変わり、逃れようのない現実となって僕たちを押し潰そうとしていた。
「……私、部屋に帰る」
沈黙と静寂。窓を叩く雨音が充満する部屋の中で。ぽつりと呟いた曽我根が、扉に向かって歩を進める。
「ちょっと待ってください、一人になるのは――」
「うるさいっ! 二人を殺した犯人が、この中にいるかもしれないのよ!? そんなところに、いられるわけないじゃない!」
引き留めようとする青葉さんにヒステリックな声を叩きつけて、曽我根は足取りも荒く遊戯室の扉の向こうへと消えていった。その背中を追おうとする者は僕を含めて、誰一人としていない。
いや、追わなかったのではなく追えなかったと言うべきだろうか。
誰かが言葉にしたわけではないが、僕にはわかった。わかってしまった。去り際に曽我根が放った一言が、全員をその場に釘付けにしてしまったことが。
――この中に、二人を殺した犯人がいるかもしれない。
知らず知らず、目を背けてしまっていた可能性。この場にいない第三者の存在がないのだとすれば、それはつまり――。ここにいる誰かが、二人を殺害したということになる。
殺されてしまった人間がいるということは、どこかに殺してしまった人間がいるということだ。一人で死ぬことはできても、一人で殺されることなどできはしない。自分以外の誰かの存在と、誰かに向けられる殺意があって、初めて殺されるという結果に辿り着く。
僕たち以外の第三者、例えば通りすがりの快楽殺人鬼なんかが、この島に潜んでいるとは考えにくい。僕たちの中の誰かが、二人を殺したと考える方が何倍も自然だった。
この中にいるのだろう。
白木と須藤を殺した犯人が。
当たり前のように、何食わぬ顔をして、この場に潜んでいるのだろう。
寒気がした。曽我根のように、この部屋を飛び出してしまいたい衝動に駆られる。この中に二人を殺害した犯人がいるのだとすれば、こんなにも恐ろしい話はない。
「一体、誰がやらかしたってんだよ、こんなこと」
唸り声にも似た低い呟き。咎芽さんの口から飛び出したそれに、反応を示す者はいなかった。
茶番の終わりは事件の始まり。
終わったはずの物語は形を変えて、望まれずにしてここに始まった。