014
「はい。単刀直入に申し上げますと――神崎くんに、私を殺してもらいたいんです」
話は、少しだけ遡る。
まだ、事件の全容が判明する前。この島で起こってしまったことのすべてを、僕がまだ真実であり事実であると思い込んでいた頃の話だ。
時間にして、たった数時間ほど前の出来事。藪から棒に自分を殺してくれだなんてのたまった青葉湊を、僕は可哀想なものを見るような目で見つめていた。
脈略も道理も、道筋もへったくれもあったものではない。どうして今の話の流れから、そんな言葉が飛び出してくるのか。僕にはまったく、毛ほども小指の先ほども、理解出来なかった。
「どういう……ことですか?」
「どうもこうも、言葉通りの意味でしかないに決まっているじゃありませんか。神崎くんに、私を殺して欲しいんです」
そう問えば、そんな言葉が返ってくる。至極、当然のように。まるで僕の方が、間違っているとでも言わんばかりに。
「さっぱり話が見えてこないんですが……。そんなつもりは毛頭ありませんけど、例えばの話、僕が青葉さんを殺したとして……それでどうなるっていうんです?」
神崎千尋が、青葉湊を殺害する。
島の中に死体が一つ増えて、推定人殺しが本物の人殺しに変わる。
それが、なんだというのだろう。そうすることで、それがどんな結果に結びつくのか。皆目見当もつかなかった。
僕の理解力が足りていないとか、想像力が欠けているだとか、そういう話ではないように思う。圧倒的に、足りていないものがあるのだとすれば、それは僕の理解力でも想像力でもなくて、青葉湊の言葉と頭の方だと思う。
補足がない。説明がない。言葉が足りていない。それですべてを理解しろという方が、無理な話だろう。
「ああ、すみません。言葉が足りませんでしたかね。何も、本当に殺してくれって言っているわけじゃないんですよ。そういう振りをしてくれと、そうお願いしているわけでして」
「殺す、振り?」
「そうです。例えば……それ。その、玩具とかで」
と、そこで青葉さんは僕が握りしめたままだった舞台の小道具――押し込むと刃が柄の中に引っ込むタイプのナイフを指さした。
「血糊も、探せばどこかにはあるでしょう。あれだけ大量にぶちまけられていたのですから、相当な数を島の中に運び込んでいるはずですし。余っていてもおかしくはありませんからね」
彼女の言葉に、なるほど――と、頷きかけて。
「ちょっと待ってください。血糊って……何のことですか?」
はたと、彼女の言葉に引っかかりを覚えた。
血糊。人間の血液に似せた、芝居に使う小道具。かつて演劇に触れていた身ではあるからして、何もその存在を知らないというわけではない。過去に何度か、芝居の中で使ったこともあった。
だからして。わからないのは、血糊というものがどういったものであるのかということではなく、ここに至って青葉湊の口から「大量にぶちまけられていた」ものとして、その名前が挙がったことだった。
記憶にある限り、この島を訪れてから、一度だって血糊を見かけた覚えは僕にはない。それがぶちまけられていたという状況には、出くわしてなどいないはずだった。
――いや、確かに。白木透の殺害現場や、佐原愛実の最期の姿を思い返すに、それに類した別物の何かを目撃してはいるのだけれど。あれは彼らの体から流れ出した正真正銘本物の血液であるはずで、血糊などという紛い物などではなかったはずだ。
もっとも、そうは言えど、あれほど大量の血液を目の当たりにしたことは人生の中で今までに一度だってなかったわけで、あれが紛い物などでない正真正銘の血液であったかどうかを断定することができるのかと言われれば、自信を持って頷くことはできないのだけれども。
「まさか、白木や佐原の死体にぶちまけれらていたあれが、血糊だった……なんて、言うつもりですか?」
「半分正解、半分不正解といったところでしょうか。正しくもあるし、正しくもない。頷き半分、否定半分ですかね」
三度似たような言葉を口にして、再びぐっと僕に顔を近付けた青葉湊は、口元を三日月の形に吊り上げた。
「神崎くんの言うそれ、つまりあの時のあれが血糊であったことは確かですが……それらは、死体の上にぶちまけられていたというわけではありません。あの血糊は、死体の振りをした生きた人間の上にぶちまけられていたんですよ」
がつん、と。後頭部を、何か固いもので強打されたような衝撃が走った。
なんだって? 死体の振りをした、生きた人間……?
「それじゃあ……。白木も、佐原も、死んでなんていなかった……と?」
「……はい。私は、そう考えています」
やや間があって。青葉湊が、僕の言葉に静かに頷いた。再び、ぐらりと大きく視界が揺れる。
「そんなはずない、だってあいつらは――」
「確かに死んでいた、と。言える要素が、果たしてどこにあったでしょうか? 死体に触れて、心臓が止まっていたことを確認したわけでもなし。部屋中に飛び散っていた血が、彼らの体から流れ出したものであると確認したわけでもなし。私たちはただ、そう思い込んでいた……いえ、思い込まされていただけなんですよ。誰がどう見ても、死んでいるとしか思えない状況を見せつけられて、ね」
そう言われて、初めて気が付いた。確かに僕たちは、誰がどう見たって死んでいるとしか思えないような状況を――例えば、部屋中が血の色に染まっていたり、首から下の部分がなくなってしまっていたりしているのを目の当たりにしただけで、直接的に死体に触れて、本当に死んでいるのかどうかを確認したわけではない。
どう見ても、死んでいる。殺されている。
だから当然、目の前にあるのは死体以外の何物でもないのだろう。
と、思い込んでいただけだ。
青葉さんの言葉を借りるのなら、何者かによって、僕たちはそう思い込まされていた、ということになるのか。
考えもしなかったけれど、確かにその可能性がないとは言い切れなかった。
「白木君は、全身に血糊を纏って床に寝転がっていただけ。須藤君は、どこかに身を隠しているだけ。佐原さんは……そうですね、机に穴でもあけて、首だけを机の上に出していただけ、とか。彼女に関しては、首から下、身体の部分が見付かったわけでもありませんし、そう考えるのが妥当なんじゃないでしょうか」
至近距離で僕の目を見つめながら、青葉湊は矢継ぎ早にそう捲し立てる。その言葉には、それが事実にして真実なのではないのだろうかと思わされるような、不思議な説得力があった。
彼女の言うことは、理に適っている。奇妙な説得力は、そこからくるものなのだろう。違和感なく、抵抗なく、僕はその言葉を素直に受け止めることができた。
先入観と思い込み。殺されてしまったものだと、思い込んでいた。死んだものだと、思い込んでいた。
そう思い込んでいたからこそ、もしかしたらの可能性に目を向けることなんてしなかった。
僕一人では、一生かかったって思い至らなかったであろう可能性。もしかしたらの向こう側。青葉湊は、僕とは違う視点を以て、そのもしかしての先にある答えに辿り着いたわけだ。
「私たちがこの島を訪れたことも、嵐によって島の中に閉じ込められてしまったことも、演劇部の皆さんが下手くそな芝居を私たちに見せ付けて、仲違いをしてみせたことも。先代の演劇部部長さんに合宿場所としてこの島を提供していたという黒羽原さんの話と、演劇部は廃部寸前だったという須藤君の話が矛盾していたことも。血の臭いのしない血に塗れた死体が転がっていたことも。全部が全部、予定通りの台本通りだったのではないか。と、私は疑っています。それにしたって、そうであるという確証があるわけではないんですけどね。当たらずとも遠からず、それでも大きく外してはいないだろう、といったところではないかと」
「……なるほど」
この島を訪れてから断片的に覚えていた小さな違和感の正体はそれだったか、と一人納得する。
僕が見落としてしまっていただけで、真相に辿り着く為のヒントは最初からそこら中に転がっていたということなのだろう。
「……でも、仮にそうだったとして。もし本当に、誰も死んでなんていなかったんだとして。いったい、誰が、何の為にそんなことを?」
青葉湊の推理が、正鵠を射たものであったと仮定して。本当に、誰一人死んでなどいなかったとして。
いったい、どこの誰が、何の為にそんなことを仕出かしたのかという疑問がそこには残る。……まあ、こんなことを仕出かせる人間は、一人くらいしか思いつかないわけなのだが。
「誰って、そんなの決まりきってるじゃないですか。舞台を用意することができて、人を動かすことができて、尚且つこんな胸糞の悪い悪戯を思いついて実行してしまえるような、無邪気な箱入り娘さんでしょうよ」
「……ですよね」
至極当然。今更、言葉にするまでもなく。当たり前に、当たり前のような返答に、頷くことしかできなかった。
オサ研部長、黒羽原哀歌。
青葉湊の仮説が、正しいものであるとするならば。今回の事件の黒幕は、あの女ということになるのだろう。
まったく、あの問題児は……。いったい何を考えているのだか。
「まあ、話はわかりましたよ。つまりそうやって、予定や台本になかった行動をすることで、慌てさせてボロを出させようってんでしょう?」
ようやく話が繋がった。これはまた厄介なことになってしまったなと、ズキズキと痛みを放ち始めたこめかみを押さえながら、青葉湊の言葉を繋ぎ合わせて辿り着いた答えを口にする。
これもまた、青葉湊の言うように、この島で巻き起こった出来ことがすべて、茶番であると仮定しての話ではあるが。
神崎千尋が青葉湊を殺害する。予定にも台本にもなかったはずの事件が起こってしまうことで、茶番の首謀者たちはさぞや混乱することだろう。
台本を用意したのはおそらく、演劇部の脚本担当である白木透である。
僕が覚えている限りでは、白木の脚本には昔から予想外の出来事には殊更弱いという弱点があった。それで何度か実際に、舞台が失敗しかけてしまったこともある。
言い換えれば白木の脚本は、極端にアクシデントに弱い。例えば、舞台に使う予定だったライトがひとつ壊れてしまったというだけでも、成り立たなくなってしまうほどに。
素人なりに、緻密に。一つでも欠けてしまえば、成り立たなくなるほどに。繊細な感性によって寸分の狂いなくきっちりと組み上げれた骨組みは、一見丈夫なようでいて、その実風吹けば飛ぶほどに脆い。
そこに神崎千尋が青葉湊を殺害するという予定外をぶつければどうなるか。それは想像に難くない。
「……わかりました。協力しましょう。青葉さんほどではないにしろ、僕だって気分を害していないわけではありませんから。人殺しでも、死体役でも、喜んで引き受けますよ」
子供じみているとは思う。そんなことをして何になるんだ、とも思いはした。
「それでは、そういうことで。こんな茶番を見せ付けてくれた方々には、きっちりと反省してもらいましょう。元演劇部、神崎くんのお芝居……期待していますよ?」
けれど、そう言ってぱっと顔を輝かせた青葉さんを見て、僕は何も言えなくなった。どうやら僕という人間は、とことん彼女に弱いらしい。
花が咲いたような笑顔を見つめながら。どこか、他人事のように。そんなことを、僕は思った。
それが、数時間前の出来事。
僕たちがまだ、誰も死んでなどいないと思い込んでいた頃の話。
けれど、どうだろう。
青葉湊の仮説は、こうして無残にも。間違っているのだと、確かな物証をもって否定されてしまった。
今度こそ、本当に。どこの誰が、どう見ても。部屋の中で、白木透は死んでいた。
部屋を汚すのも、彼の亡骸を濡らしているのも、今度は血糊などではない。鉄臭い、薄気味の悪い臭いを漂わせた、正真正銘本物の、人の体を流れる液体だ。
そんな液体の中に、白木透の体は横たわっている。
あの時と、同じように。
今度は、本当に物言わぬ骸へと姿を変えて。
「おいおい、どういうことだよ……。なんだって、マジで死んでやがるんだ」
腕で顔を庇うようにしながら、咎芽さんが吐き捨てる。
「冗談じゃねぇ。芝居だっつー話じゃなかったのかよ……!」
芝居のはずだった。誰も死なないはずだった。
白木透が本物の死体に姿を変えてしまった今となっては、それも過去の話だ。
芝居でも、茶番でもなく、本当に人が死んでいる。殺されている。
嵐の孤島もの、と。青葉湊がいつだったか口にした言葉が、ふと脳裏に浮かんだ。
「おい、しっかりしろ嬢ちゃん!」
ふらり。糸が切れた人形のように佐原の体が崩れ落ち、咎芽さんが慌ててそれを抱き抱える。目の前の惨状に耐え兼ねたのか、どうやら気を失ってしまったようだった。
嘘から出た実。死体役を演じていた恋人が、死体に変わった。そんな受け入れがたい事実に、押し潰されてしまったのだろう。無理もない、とは思う。
「……咎芽さんは、佐原をお願いします。犬養さんは、警察に連絡を」
白木の死体と、崩れ落ちた佐原愛実から視線を切り、僕は犬養さんへと目を向ける。
意外なことに、初めて白木の死体――いや、死体の振りをしていた白木を目撃した時よりも、冷静でいられる自分がそこにいた。
「この分だと、須藤も危ないかもしれません。彼は、どこに?」
「は、須藤様は別館の方にいらっしゃるかと思いますが……」
「わかりました。探してきます」
一抹の不安。白木透がこうなった今、須藤統児が安全であるという保障はない。
犯人が誰であれ、状況がどうであれ、合流しておくに越したことはないだろうという判断だった。
――もっとも。それも、既に須藤が白木のようになってしまっていなければ、という話ではあるけれども。
「ちょっと待ちな、少年」
白木の死体に背を向けて、駆けだそうとしたその刹那。咎芽さんの声が、僕を呼び止めた。
「こいつを持っていきな」
ひゅっと風を切って、鈍い光を放つ何かが弧を描いて飛ぶ。咄嗟に受け止めたそれは、円形のリングにいくつかの鍵がぶら下がった、小さな鍵束だった。
「これは?」
「別館の鍵さ。頭が丸い鍵で全部の扉が開く。あっちの坊主が隠れてるところに鍵がかかってるとは限らねぇが、持ってた方が何かと便利だろ」
佐原の体を支えて立ち上がりながら、咎芽さんは言う。
「すみません、ありがとうございます」
彼女の言葉に、一つ頷いて。今度こそ、僕は別館に向けて走り始める。
エントランスを抜け、雨風の吹き荒れる外の世界に飛び出し、森の中に伸びる小道を泥に足を取られながら駆け。そうして最初に行き当たったのは、黒ずんだレンガの上に無数の蔦が這う、古めかしい建物だった。
「ここは……」
別館、と呼ぶにはその建物はあまりのも小さすぎた。少しばかり豪勢な一軒家より、ほんの一回り程度大きいくらいだろうか。
その建造物の背後に控える、大きな建物が別館であるとするならば、この建物はいったい何なのだろう。
「――劇場、だそうです。部長さんのお父様が、趣味でこの島に建てたそうですよ。演劇部の方たちは、この場所を借りてお芝居の練習をしていたのだとか」
その言葉に、なるほどと頷きかけて。
そこに至ってようやく、半歩ほど後ろに青葉湊の姿があることに気が付いた。
「別館の電気系統に異常が発生した、という話も茶番の一環だったのでしょうし、見ての通り扉には閂がかけられているわけですから、須藤君がこの中にいる可能性は低いとは思いますが……。気になるなら、中を確認してみましょうか」
当たり前のようにそこにて、さも当然のようにそんなことを言う青葉さんに呆れつつ、しかしそれを口に出すことはせず僕は頷いてみせる。
今更帰れとも言えないし、ついて来てしまったものは仕方がない。そんなことよりも今は、須藤の安否の確認が先だった。
「何があるかわかりませんから、離れないようにしてくださいね」
言い添えて、扉の閂に手をかける。ずっしりと重い木製のそれは、雨のせいか若干の滑りを帯びていた。
僕が閉じ込められていた部屋の扉を塞いでいたものと、同じタイプのものだろうか。扉から突き出た金属の上に、置かれるような形で木製の太い板が扉を塞いでいる。
内側からどうにかできるものでもないところを見るに、誰も中には入っていないのか、中に入ったあとに外から別の誰かがきっちり施錠を済ませたのかのどちらかなのだろう。
何にせよ、潜伏するには便の悪い場所だ。青葉さんの言葉通り、この中に須藤が潜んでいる可能性は極めて低いことだろう。
――もっとも、それも須藤が生きていればの話ではあるが。
「…………」
脳裏に蘇った白木透の最期の姿。
もしも須藤が、白木と同じように殺されてしまっていたとしたら?
もう既に、取り返しがつかなくなってしまっていたとしたら?
この扉の先に、死体に姿を変えた須藤統児が転がっていたら?
そもそも僕は何故、こんなにも身を隠すのには適さないであろう場所から、手を付けようとしているんだ?
心のどこかで、須藤は既に死んでしまっているのだと、諦めてしまっているからではないのか?
閂にかけた手が止まり、小さく震える。この扉の向こう側に広がっているかもしれない光景のことを考えると、まるで水の中にでもいるように動きが鈍ってしまった。
事実を確かめる前から、諦めて、もう駄目だと決めつけている自分に、嫌気が差した。
冷静なつもりでいたのだけれど、白木の死体を目の当たりにしてしまったことで、自分が思った以上に気分が滅入ってしまっていたのだろう。雨に打たれ、風に吹かれ、正常な判断や思考ができないくらいに加熱した思考が冷やされたことで、僅かに時間を経たことで、埋もれていた恐怖心がひょっこりと顔を出してしまっていた。
そのまま埋もれてしまっていてくれればいいものを。と、内心毒を吐く。
何もこんな時に、こんなタイミングで、顔を出さなくてもいいじゃないか。
「――神崎くん」
そっと、小さな手が閂に添えた手の上に重なる。とん、と軽い衝撃を伴って密着した青葉さんの体は、雨に打たれたせいか少しだけ冷たかった。
「大丈夫です。私もいます。だから、行きましょう」
耳朶を打つ声。止まってしまっていたように静かだった心臓が、大きく脈を打った。
冷え切って、上手く動かずに震えているだけだった指先に熱が戻ってくる。
「……はい」
悪い方向ばかりに傾く思考を頭を振って撥ね飛ばし、閂を一息に引き抜く。強風に煽られた両開きの扉が、吹き飛ばんばかりの勢いで内側に向かって大きく開いた。
吹き込んだ雨が、バタバタと音を立てて木製の床を叩いて濡らす。走り抜けた稲光が照らした薄暗い建物の中には、しかし人の気配は感じられなかった。
床に血溜まりが広がっているでもなし。
物言わぬ骸が転がっているでもなし。
ただ、薄暗く冷たい空気が充満する光景が、そこには広がっていた。
「……ここからだと、よく見えませんね。中に入ってみましょうか」
胸を撫で下ろし、引き抜いた閂を外壁へと立てかける。そうして一息ついていると、ぽつりと呟いた青葉さんが僕に先んじて建物の中へと足を踏み入れた。
「電気は……付きませんね。電気系統が故障したという話は、本当だったんでしょうか」
慌てて僕がその背中を追うと、彼女は壁に埋め込まれたスイッチをカチカチと指先で押し込んでいるところだった。
「仕方ありません、これを使いましょう」
そう言うと彼女は、どこからともなく手のひらサイズの小さなライトを取り出した。
持ち手の部分にあるスイッチを押し込むと、かちっと小さな音がして、眩い一筋の光が走る。
「こんなこともあろうかと、持ってきておいて正解でした」
「……随分と用意周到なんですね」
「常日頃から、備えだけは欠かしていませんからね。生き馬の目を抜くようなこのご時世、何にしても備え過ぎということはないでしょう? それにほら、こうも言うじゃないですか。備えあれば嬉しいなって」
多分、言わない。
「……そんなことより、須藤君を探しましょうか。ここにいてくれるといいんですけどね」
こほん、と咳ばらいを一つ。背筋を伸ばした青葉さんは、手にしたライトで正面奥にある舞台を照らす。
学校の体育館にあるような、床からは僕の身長より少し低いくらいに小高くなっている舞台。そこには、特に異変は見受けられない。
薄暗闇の中、目を凝らして辺りを見回してみても、だだっ広い空間が広がっているだけで、目を惹くようなものは何一つとしてなかった。
劇場というよりは、体育館とでも言った方がしっくりとくる。妙に既視感のある光景だった。
「おや、あれは……?」
右に左に、忙しなく動かされるライトの光。それが、ある場所でぴたりとその動きを止めた。
「……扉、ですね」
舞台の右。舞台に上がる為の小さな階段のすぐそばに、ぽつんと木製の扉がある。
ここからではよく見えないが、どうやらそれは半開きになっているらしく、開いた隙間から顔を出す闇が青葉さんの持つライトの光を半分ほど呑み込んでいた。
「なにか見落としがあってはいけませんから、確認しておきましょうか」
正直言って、心霊映像めいたその光景に、まったく気は進まなかったけれど、そんなことを言っていられる場合でもなく。僕たちは慎重に、その扉へと近付いた。
「……須藤君、いますか?」
半開きになった扉を、青葉さんが押し開ける。小さく軋んだ音を立てながら、ゆっくりと開いた扉の向こうには――
「――きゃっ!?」
可愛らしい悲鳴。どん、と身体を襲った鈍い衝撃に倒れ込んでしまいそうになる。
遅れて、鼻孔を擽る甘い香り。
一拍遅れて、青葉さんが僕に抱き着いたのだということを理解した。
「白い、白いのが、ゆらゆらって! ひらひらって!」
「し、白いの……?」
彼女が顔を背けながら指さした先。青葉さんからライトを借りて、照らしてみる。
そこには、ぼんやりと佇む幽霊の姿――ではなく、開け放たれたままの扉から吹き込む風に揺れる、いくつかの布切れがあった。
目を凝らしてみると、その布は服の形を取っていることがわかる。
どうやらこの小部屋の正体は、芝居に使う衣裳を保管しておく為の衣裳部屋のようだった。
「青葉さん」
「お、おばけはダメ……おばけだけはダメなんです……。なんまんだぶなんまんだぶ……」
「青葉さんってば」
「成仏してくださ……は、はい? なんですか?」
間近から、青葉さんが潤んだ瞳で僕を見上げる。
「服です。洋服。幽霊じゃありませんよ」
なんとも庇護欲を掻き立てられるその表情にどきりとしながらも、僕は青葉さんの言う幽霊の正体を彼女に伝えた。
「へ、あ、へ? ふ、服?」
恐る恐る。小動物のような仕草で、僕に抱き着いたまま青葉さんが振り返る。
じっと風に揺れる衣裳を見つめた彼女は、やがてこれでもかと大きな息を吐いた。
「なんだ、ドレスじゃないですか。びっくりさせないでくださいよ……」
言って、青葉さんは拳でこつんと僕の肩を小突く。
「いや、そんなことを僕に言われましてもですね……」
離れていく体温に、若干の名残惜しさ。どことなくばつの悪そうな表情で僕を睨む青葉さんに、無実を訴えたその時。
一際強い風が、部屋の中を吹き抜けた。
耳障りな音を立てて、吊るされた衣装が大きく揺れる。
いくつかの衣装が床に落ちて、体操選手よろしく吊るされた部分を支えにしてくるくると縦に回った衣装は衣裳掛けへと巻き付いて――。
「……? 神崎くん、どうかしましたか?」
開けた視界に広がっていた光景に、僕は言葉を失った。
きょとんとした表情で僕を見つめる青葉さんの背後。今の今まで、衣裳に隠れていて塞がれていた視界の中に。僕が言葉を失うだけの、それはあった。
「……ま、まさか本当におばけが――」
「――振り向くなっ!」
振り向こうとする青葉さんを抱き留め、不躾ながら抱え込んだ彼女の頭を胸板に押し付ける。
「振り向かないで、ください……」
あれは決して、目にしていいような代物ではないから。
「か、神崎くん? いったい、なにが――」
「須藤です。須藤が、いました」
「いたんですか!? それなら早く……」
言いかけて、唐突に言葉が途切れる。
察しの良い彼女のことだ。きっと、理解したのだろう。
「……そんなにですか?」
「ええ。こうして立っていられるのが、不思議なくらいには」
「詳しくは……訊かない方がいいみたいですね」
「そうしてくれると、助かります。僕もあれがどうなっているのかを、口に出して説明するのは憚られるので」
説明を求められたとしても、僕はそれを拒む。断固として、拒否する。
目の前のあれを正確に、誰かに伝えられるモノがいるのだとすれば、そいつはきっと何かが抜け落ちているか狂っているかのどちらかだ。
誰だって、例え僕でなくたって。目の前に広がっている光景を、声に出して説明したくなどないだろう。
四肢を捥がれ、捥がれた四肢と頭のついた身体とが、人の拳ほどの太さもある鉄の杭で、人の形を取るように壁に縫い付けられているだなんて。
頼まれたって、口にしたくはなかった。
「……そう、ですか。間に合わなかったんですね、私たち」
青葉さんの指が、僕の衣服の肩口を握りしめる。
「残念ながら、そういうことみたいです」
やり場のない怒り。ぎちりと、噛み締めた奥歯が音を立てた。
間に合わなかった。助けられなかった。僕たちはあまりにも、遅すぎた。
「……戻りましょう。犬養さんたちに、知らせないと」
「……ええ、そうですね」
悔しさと怒りを抱えたまま、壁に縫い付けられたそれに背を向ける。
まだ、続くのだろうか。
それとも、これで終わりなのだろうか。
いったい、誰が、何の為にこんなことを。
「……行きましょう」
嵐の孤島もの。
再び脳裏に浮かんだその言葉に、僕は吐き気と眩暈を覚えた。
誰が死に、誰が生き、そして誰が殺すのか。
その答えは――まだ、僕の中には生まれていなかった。