012
力の限り、絨毯を蹴る。目の前に立つ少女に向かって、僕は身を躍らせた。
彼女は、僕を見つめていた。震えながら、それでも毅然とした態度で、瞳で、まるで僕を非難するかのように。真っすぐに。何をするでもなく、ただ見ていた。
「……っ!」
ナイフを握りしめた腕を振り上げる。部長が身を固くしたのがわかった。
それでも彼女は、僕から目を逸らそうとはしない。最期の瞬間まで、そうやって僕を非難し続けるつもりなのだろう。
如何にも。それでこそ、黒羽原哀歌その人だ。
そうでなくては、面白くない。自然と、口元が緩んだ。
鬼が出るか蛇が出るか。黒か白かの丁半博打。出たとこ勝負で、後は野となれ山となれ。
眼前に迫る部長の体。勢いを殺さぬまま、振り上げた右腕を振り下ろす。赤に濡れた刃は、震える部長の肩に深く食い込み――
「――っざけんな、このクソガキがっ!!」
ちょっとした痛みを、与えるはずだった。
誰かの怒声。振り下ろしたはずの右腕が、弾かれたように跳ね上がる。衝撃で指の間からナイフがすっぽ抜けて、どこかへ飛んで行った。
自分の身に何が起こったのか。それを理解するよりも早く、僕の体は奇妙な浮遊感に包まれる。
天地逆転。息つく間もなく元通り。脳が頭蓋の中で揺さぶられ、視界がぐるりと一回転する。
「ぐっ……!」
丸太でもぶつけられたかのような強い衝撃が胸部に走り、肺の中の空気が押し出される。気が付けば僕は、絨毯の上に組み伏せられていた。
背中に伝わる体温。捻りあげられた腕が、軋んでいる。今にも折れてしまいそうなほどだった。
「テメェの勝手にお嬢を巻き込むんじゃねぇよ、この馬鹿野郎っ!」
一瞬にして部長と僕との間に身体を挟み込み、振り下ろされる刃を意図も容易く跳ねのけて、何らかの手段によって僕を床へと組み伏せたその人物――演劇部部員、扇田凪の怒声が耳朶を打つ。
「そんなに死にたいなら、私がここで――」
「――咎芽、やめなさいっ!」
今にも僕の腕をへし折らんとする扇田に向かって、犬養さんの鋭い静止の声が飛ぶ。
あらぬ方向へと腕を曲げられてしまいそうになりながらも、その言葉を以て、僕は彼女の言葉が間違っていなかったことを確信した。
僕たちの勝ちだ。
予想通り。推論と推測は今、ここに現実のものとなった。
「――なるほど、そういうことでしたか」
水を打ったように静まり返る部屋の中。鈴の音のような声が響く。
静かな怒りを湛えたその声は、僕のものでも、扇田凪だった者のものでも、他の誰のものでもなく。
「これは思わぬ誤算でした。てっきりどこかに身を隠しているものだと思っていましたが、そこにいらっしゃったんですね。咎芽さん」
僕に刺され、死体となったはずの少女――青葉湊のものだった。
「……なんだい、嬢ちゃん。生きてたのかい」
「ええ、お生憎様。ご覧の通り」
死んだはずの少女、青葉湊がゆらりと立ち上がる。
思わず、ぞっとした。
歪な笑顔。三日月の形に歪んだ口元と、水銀のようにどろりとした光のない瞳。立ち上がった青葉湊の顔には、そんな表情が張り付いていた。
「最初から、死んでなんていませんよ。ちゃんと生きて、ここにいます。このふざけた茶番を、終わらせる為にね」
ぴくり、と。僕を捻じ伏せる扇田凪――改め、咎芽さんの腕が小さく震える。青葉さんの言葉に、反応した様子だった。
「茶番って、どういうことなんすか……?」
「見ての通り、聞いての通り、そのままの意味ですよ緋子奈ちゃん。全部が全部、取りに足らない低俗な茶番だったってことです」
咎芽さんへと視線を突き刺したまま、放心状態の緋子奈に向かってそんな風に答えた青葉さんは、
「――そうですよね、部長さん?」
と、黒羽原哀歌へと視線をスライドさせた。
「……参ったね、こりゃ。いつから気付いてたんだい?」
「最初から、と言いたいところではありますが、疑念が確信に変わったのは今の今ですよ。こうして咎芽さんが姿を現してくれたおかげで、全部はっきりしました」
青葉さんの言葉に「そっか」と小さく返した部長は、大きく溜息を吐くと勢いよくその場に腰を下ろした。
拗ねた子供のような表情で。あるいは、悪事を咎められた子供のような表情で。諦めたように、力なく。絨毯の上に、座り込む。
「上手くいったと思ったんだけどなぁ。こんなところに、思わぬ伏兵がいたか……。どうやら部長さんも、まだまだのようだね」
他人事のように、そんなことを言った部長が天井を仰ぐ。
「咎芽ちゃん。ちーくん、放してあげて。もう大丈夫だから」
「いや、でもお嬢……」
「いいから、早く」
小さな舌打ちを一つ。渋々といった様子で、部長の言葉に従った咎芽さんが僕を解放する。
「大丈夫ですか、神崎くん」
「ええ、なんとか。まさかこんなことになるなんて、思いもしませんでしたけどね」
捻り上げられた手首の具合を確かめつつ、青葉さんの横に並ぶように立つ。部長を庇うようにして立つ咎芽さんと、正面から視線がぶつかった。
「なんだよ、少年。なにか文句でもあるってのか?」
「……いいえ、何も」
敵意剥き出しの言葉に軽く答えて、転がっていたナイフを拾い上げる。
「ただ、こんな玩具と本物とを見間違えるだなんて、お嬢様の側近様も案外大したことないんだな、と。そんな風に思っただけですよ」
人差し指の腹で、手にしたナイフの刃先を押し込んでやる。と、それは軽い音を立てて沈んだり戻ったりの動きを繰り返した。
「それって……芝居用の、小道具だよね? そんな物、どこから持ち出したの?」
「僕が軟禁される予定だった部屋にあったんだよ。段ボール箱の中に、他の小道具と一緒にね」
人が変わったように気弱な表情を浮かべる曽我根に、僕は答える。
「佐原様たちの私物、でございますな。私が、旧館からあの部屋に移動させた。それがまさか、このような形で使われることになるとは、思いもしませんでしたが」
と、今度は犬養さん。
なるほど、こいつはどうやら佐原たち演劇部が持ち込んだ物であったらしい。元からこの場所にあった物というわけでは、ないようだ。
「ええと、つまりそのナイフは偽物で、千尋君は湊ちゃんを殺したわけじゃなくて、今のは全部お芝居だった……ってことで、いいのよね?」
「ええ、そういうことです」
僕が答えるよりも早く、巫女人先輩の言葉に青葉さんが頷いた。
「でも、どうしてそんなことを……?」
「やられて嫌だったことを、やり返して見せただけですよ。昔からよく言うでしょう、目には目を歯にはを、って」
今度は、巫女人先輩の肩が小さく跳ねた。
おそらく、気付いてしまったのだろう。青葉湊の目が、小指の先ほども笑ってなどいないことに。
言葉を交わした今になって、気が付いた。だから、身を引いた。つまりは、そういうことなのだろうと僕は思う。
あれでなかなか、巫女人先輩は状況の見えている人だ。部長さえ関わらなければ、比較的常識人の部類であると言ってもいい。
藪をつついて蛇を出す。その行為の愚かさが、わからないような人間ではない。猫をも殺す好奇心で我が身を滅ぼすようなことは、まずないだろう。
図書館の魔女が身の内に秘めた怒り。それを感じ取ったからこそ、彼女は口を噤んだ。
これ以上ない、賢い選択だと思う。
出来得ることなら、僕も彼女に倣って口を噤んで、他人事のような顔をしていたいところだった。
僕自身、人殺し扱いされてしまったことに対して、腹を立てていないわけではない。
大声で喚き散らして、首謀者を怒鳴りつけてやりたい気持ちもあった。
けれどその程度の怒り、青葉湊の抱えた憎悪に近しいそれの前では、吹けば飛ぶようなちっぽけなものでしかない。
この島で起こってしまったことのそのすべて、それらが一切、余さず残さず不幸にも、魔女の逆鱗に触れて障ってしまったが為に。当事者で、被害者である僕の怒りなんて、取るに足らないそこらに転がる石ころのように、どうだっていい存在へと成り下がってしまっていた。
僕の怒りも、魔女が抱えた憎悪の前ではさすがに霞む。
そこまで真摯に向き合って、気分を害し、怒りの念を抱くことは、僕にはできなかった。
「にしたって、趣味が悪いぜお嬢ちゃん。何もこんなことをしなくたってよかっただろうに」
呆れたような咎芽さんの言葉に、青葉さんは静かに目を細める。
それが嵐の前の静けさである、と。彼女の目を見て、僕はそれに気が付いてしまった。
「趣味が悪い? よくも、そんなことが言えたものですね。趣味が悪いのはどっちだって話ですよ」
絶対零度。熱のない言葉の刃に、咎芽さんがぐっと喉を鳴らす。
「物事の良し悪し、冗談でもやっていいこととそうでないことの区別もついていないような人間に、そんなことを言われる筋合いはありませんね」
淡々と。抑揚なく、平坦に。部長と咎芽さんに冷え切った視線を浴びせながら、魔女は言葉を紡いでいく。
「どうして、止めなかったんですか。どうしてそれが、間違ったことだと教えてあげなかったんですか。大人のくせに、子供みたいに、一緒になって、馬鹿なことやってる場合じゃないでしょう」
怒気を孕んだ声。犬養さんが、静かに目を伏せたのが見えた。
咎芽さんに向けた魔女のその言葉は、同時に犬養さんへ向けられた言葉でもあった。今更になって言うまでもないが、彼もまたこの茶番劇の仕掛け人の一人である。
「……おいおい、嬢ちゃん。こっちの事情も知らないで、随分なこと言ってくれるじゃねぇか」
部長を庇うようにして立つ咎芽さんの眉間に、薄っすらと青筋が浮かぶ。
「いいぜ。いくらだ? お望み通り、買ってやるよその喧嘩」
「――やめなさい、咎芽」
一歩前に踏み出して、凄んで見せた咎芽さんを犬養さんが窘める。
「いや、爺さんよ。いくらなんでもさすがに今のは――」
「黙れ、と言っているんだ。わからないのか、咎芽」
ぴしゃり。と、空気を打ち付けるような鋭い声。食ってかかろうとした咎芽さんが、半歩下がって言葉を呑み込んだ。
「我々に、返すべき言葉はない。すべてそのまま、青葉様の仰る通りだ」
咎芽さんを責めるその声に、僕たちが知る優しさは微塵もなかった。
「それ以上も、以下もない。身の程を弁えんか、半人前が」
余分なものを削ぎ落し、ただ人を傷付けることだけを追い求めた刃物のような。冷酷で、無慈悲で、取り付く島もない、そんな声。
この島を訪れてからずっと、にこやかな表情を浮かべていた犬養さんの顔に今浮かんでいるのは、思わず息を呑んでしまうような怒りの表情だった。
老練の召使。主の為なら、人を殺めることさえ厭わない。何なら既に、一人か二人は殺めている。まさしくそんな雰囲気を、今の犬養さんは纏っていた。
「……ちっ、わかったよ。黙ってりゃいいんだろ、黙ってりゃ」
睨み合う二人。張り詰めた空気の中、先に沈黙を破ったのは咎芽さんだった。
「だが、これだけは言っておく。口の利き方と夜道にゃ、気を付けるこったな。お嬢ちゃん」
舌打ちを一つ。吐き捨てて、それきり咎芽さんはそっぽを向いて黙り込んでしまった。
まるで子供みたいだな。案外見た目通りに、僕たちとそう歳は変わらないのかもしれない。と、そんなことを僕は思った。
「……あー、そのー。すみません、ちょっといいっすか?」
水を打ったような静寂の中。そろそろと、控えめに緋子奈が天井に向かって手を伸ばす。
「今更になって、こんなこと訊くのもどうかとは思うんすけど……。つまり、何がどうなってこうなってるんです? さっぱり状況が呑み込めないんすけど」
おっかなびっくり。落ち着きなく視線をさまよわせながら、緋子奈がそんなことを言う。
「置いてけぼり感が否めないというか、わかってる奴らだけで勝手に話を進めてんじゃねぇよ、というか。いったい何が起こってるんだか、アタシに説明しちゃくれませんかね?」
この期に及んでまだ事態を理解していないらしい緋子奈が、すっとぼけたようなことを言う。
何を言っているんだこの女は、と僕は思ったが、考えてもみれば緋子奈の反応は至極真っ当なものなのであろう。
単に、他の被害者側の人間――巫女人先輩と由紀乃は、察しが良すぎるだけなのだ。
一を聞いて十を知る。その場の状況を読むことに長けている彼女たちは、会話の端々に散らばるそれらの要素を読み取って、今この島で何が起こっているのかを察している様子ではあった。
巫女人先輩も、由紀乃も、どちらも部長に呆れ顔を向けている。それは偏に、彼女が今回の茶番の首謀者であることを、その全部ではないにしろ大まかには察しているからなのだろう。
でないと、あんな心底呆れかえったような放心した表情は出てこないだろう、と僕は思う。
呆れ半分、怒り半分。気持ちの整理が追い付かない、といった様子だろうか。
相手が相手であるだけに、表立って責め立てるわけにもいかないし、そもそもからしてそんな空気感でもない。と、どこに気持ちを持っていけばいいのかよくわからない雰囲気ではある。
吐き出せないし、呑み込めないのでは、気持ちの整理が付かないのも無理はないだろう。僕が二人の立場でも、きっと同じ顔をしていたことだろうとは思う。
察しが良すぎるというのも場合によっては考え物だ。せめて緋子奈の半分でも鈍感でいられれば、生きていくのも楽にはなるのだろうが。
――と、そんな話はさておいて。
理解していないというのなら、語っておかなければならないだろう。
この島で、何が起きていたのか。
僕たちが、どんな事件に――いや、茶番という他にない出来事に巻き込まれていたのかを。
「僕たちがこの島を訪れたことも、嵐によって島の中に閉じ込められてしまったことも、次々と人が死んでいったのも、全部が全部、そこにいる部長の思惑通りだったってことだよ」
「……はい?」
緋子奈の視線が、部長へと向けられる。
困惑という言葉を絵に描いて形にしたような表情。いつもは好奇心と悪戯心で爛々と輝いているその瞳には、今は不安と疑心の陰が揺れていた。
「いつもの部長の悪い癖だよ、緋子奈。僕たちはまんまと、部長の悪戯に騙されてたんだ」
その言葉に、はっと弾かれたように緋子奈が僕を見る。
「今、僕たちがそうして見せたように。最初から誰も死んでなんていなければ、殺されてもいない。だから犯人なんて、どこにもいない。そういうことなんだよ、つまり」
それが、この島で巻き起こった悲劇の真相。
すべては黒羽原哀歌の思い付きから始まった、大掛かりで悪趣味な茶番だった、というわけだ。
「……なんすか、それ。冗談にしても、質が悪すぎるでしょ」
「僕もそう思うよ。いくらなんでも、やっていいことと、そうでないことがあるだろう、ってな」
もっとも、僕も青葉さんに言われるまでは、本当に人が殺されたと思い込んでいたわけだから、あまり偉そうなことは言えないのだけれども。
それにしたって、あんまりだというのが率直な感想ではあった。
緋子奈じゃないけれど、冗談にしては質が悪すぎる。世の中には笑える冗談と、笑えない冗談があるけれど、今回の冗談は間違いなく後者の方だった。
人殺し扱いされてしまったことを差っ引いたって笑えない。いくらなんでも度が過ぎる。悪戯と呼ぶにはあまりにも悪質な行いだった。
「マジで頭おかしいんじゃないすか。普通、考えないでしょこんなこと」
ようやく事態を理解したらしい緋子奈が、苛立ち混じりに吐き捨てる。
「ダメよ、緋子奈ちゃん。そんな言い方しちゃ。きっと、哀歌ちゃんにも考えがあったのよ」
世界の中心、黒羽原哀歌を庇うべく巫女人先輩がやんわりと口を挟む。
「考えって、なんすか。どうやったら人を極限まで不愉快に出来るのか、とかですか?」
いつもなら、それで緋子奈も落ち着くのだけれど。今回に限っては、そうもいかない様子だった。
無理もないだろう。それくらい、怒りを覚えて当然だ。なにせ部長は、それだけのことを仕出かしてしまっているのだから。
今回に限っては、僕も緋子奈を止めるつもりはない。存分に好きなだけ、好きなように、許される範囲で怒りを露わにすればいい。
例えば、神崎千尋のように。
あるいは、青葉湊のように。
世間知らずの箱入り娘に、教えてやればいい。
過ぎた好奇心は、時に悪意よりも他人を傷つけ、貶めることがあることを。
すっからかんの、綿毛よりも軽い脳みそに、叩き込んでやればいい。
存分に。十分に。十全に。二度と忘れることのないように。
――何せお前は、その為にここにあるのだから。
「――そういうわけじゃない。黒羽原さんには、悪意があったわけじゃないんだよ」
緋子奈の口から、どんな尖った言葉が繰り出されるのか。内心ワクワクしていた僕は、思いもよらない方向からの声に振り返る。
「彼女はただ、巻き込まれてしまっただけなのさ。私たち、演劇部の我が儘にね」
遊戯室の入口。僕たちから、数メートル離れた位置。
開け放たれた扉の前、扉に背中を預けるようにして、その女は立っていた。
「だから、そこから先は私が引き受けよう。君たちが言う茶番の黒幕――この、佐原愛実がね」