010
いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。瞼を開くと、目覚めた時特有の倦怠感が身体を包んでいた。
体感にして一瞬。時計に目を向けると、既に夕方に差し掛かろうとしている頃合いだった。
部屋に閉じこもったのが午前中のことだから、それから半日近く眠っていたことになる。薬もなしに、よくもそれだけ深く眠れたものだ。
意図せずして朝食と昼食の二食を棒に振ってしまったが、元よりそこまで食事をとらないこともあってか空腹感はない。ただ、僕の為に用意されていたであろう物と好意とを無下にしてしまったことが忍びない、という程度だった。一日一食。何か摘まめばそれで事足りる。僕の身体は基本的に、省エネ設計である。
「さて、と……」
大きく伸びをして、起き上がる。ぎしり、とベッドが大きな音を立てた。客室にあったものより、劣化が進んでいるらしい。だからして、このように物置に追いやられているのかもしれないが、それでも僕が普段使っているベッドよりは数段に質のいい物であることだろう。僕の部屋にあるベッドは、数十年間使い続けている年代物だ。そろそろ、買い替え時なのではないだろうかと常々思っている。
と、そんなことはさておいて。空腹感もなし、時間に追われているわけでもなし、となれば。当然、暇を持て余すことになるわけで。こんなことになるのなら青葉さんから本の一冊でも借りておけば良かったなと今になって後悔した。
手持ち無沙汰。持て余した時間ほど、処理に困るものはない。体を動かすのは不得意であるし、何よりそうしようにもそれほどまでのスペースがあるわけでもなし。段ボール箱を片付けてスペースを確保するというのも骨が折れるし、そこまでしたところで満足して何もしないままに終わりそうではある。
何か暇を潰せるものはないものか。と、手近にある段ボール箱の蓋を開けてみる。特に包装も梱包もされていなかったその箱の中には、ごちゃごちゃと細々した物が詰め込まれていた。
豪奢な造りには見えるが、よく観察してみると安っぽさの滲み出る髪飾り。押し込むと刃先が柄の中に引っ込んでいくナイフ。それから、顔の上半分を覆い隠すようなのっぺりとした表情の仮面。その他、諸々。
どうやら、箱の中には演劇で使う小物が詰め込まれているようだった。佐原たち演劇部が、島の外から持ち込んだ物なのだろうか。
それにしては、演劇部の一行が僕たちに見せた演目には使いそうもない小物がいくつも見受けられるので、或いは過去にこの島を貸していたという先代演劇部が残していったものであるのかもしれない。
――と、そこまで考えて。
はた、と手を止める。今、何か違和感があった。
刹那、思考に入り混じったノイズ。何かとどこかが噛み合っていないような感覚。例えるなら、先程の髪飾りのような。一見してわかるわけではないが、よく観察すればそれに気が付くであろう、小さな違和。この島を訪れてから、断片的に覚えるようになった、喉に刺さった魚の小骨のようなそれ。
今の思考のどこに、どんな違和感が隠れていたのか。もう一度頭からやり直してみても、何かが引っかかるということがわかるだけだった。その正体は得体の知れないもやの向こうに隠れたままだ。
これで何度目だろうか。何かを見落としているのではないかという考えが鎌首を擡げる。その正体に思い当たらないところまで、島を訪れてから断片的に覚えている違和感と同じものだった。
ここまで来ると、さすがに気味が悪くなる。ただでさえこんな状況にあって、気分が沈んでいるというのにだ。こうも身近に、しかも事あるごとに、得体の知れない感覚に襲われていては落ち着こうにも落ち着けない。せめてどれか一つの、原因さえわかればまた違うのだが。
旧友の死を目の当たりにして、物理的にも精神的にも追い込まれて、神経が過敏になってしまっているだけなのだろうか? 考えすぎ、穿ちすぎ。ただの杞憂に終われば、それに越したことはないのだけれど。どうにもそういう問題ではないような気もしていた。
まあ、幸いにも時間は持て余すほどにある。それらしい答えに行き当たるまで、考えてみるのもいいだろう。どうせ誰にも、邪魔をされることはない。
「――神崎くん。起きてますか?」
そんなことを考えていた矢先。タイミングの悪いことに、早速邪魔が入ってしまった。ノックもなしに、扉越しに声をかけて来たその声には、聞き覚えがある。
「……青葉さん、ですか?」
「はい、青葉さんです。少しお話したいことがありまして。構いませんか?」
どうせ暇を持て余している身だ。断る理由も特にない。かと言って、内側からでは何かできるわけでもないので、僕は扉の向こうに「どうぞ」と一言声をかけて、彼女が動くのを待った。
閂の外れる音。程なくして、青葉さんが部屋の中に滑り込んでくる。
「おや、神崎くん。殺人の次は窃盗ですか。ダメですよ、悪戯に罪を重ねては」
開口一番。部屋に入って来るなり、青葉さんは僕の手元を指さしながら言った。
「……ああ、これですか」
そういえば、段ボール箱から取り出した小道具のナイフを握りしめたままだった。確かに、見様によってはそんな風にも見えなくはないだろうか。
いや、そもそも誰が殺人犯だ。僕はやっていないと言っているだろう。と、小道具とは言えナイフを握ったまま僕は思った。説得力は言うまでもなく皆無だった。
「何も盗んでやろうってんじゃありませんよ。暇だったから、少し中身を覗かせてもらっていただけです」
「覗き見、ですか。それではこれで前科三犯ですね。きっと田舎のおっかさんも泣いていることでしょう」
ああ言えばこう言う。壁に向かってボールでも投げつけている気分になった。どうしてこうも、この人はこんな調子なのだろうか。
「コントやってんじゃないんですから、逐一突っかかってこないでくださいよ。そんなことする為に、わざわざ顔を見せに来たんじゃないでしょう?」
「ああ、そうでした。実は少し、お願いしたいことがありまして。それで参上した次第です」
終わりの見えない会話に溜息ひとつ。わざわざ部屋を訪ねて来た真意を問うと、青葉さんはそんなことを言った。
「お願いしたいこと? 青葉さんが、僕にですか?」
「お願いと言うよりは、協力していただきたいことがあると言った方が正しいかもしれません」
「はあ……?」
いまいち要領を得ない話だった。この状況、協力を仰ぐべく立場にあるのは僕の方だと思うのだが……。
殺人犯扱い。囚われの無力な小僧一匹に、魔女様が何を願おうというのだろう。
「あれから、色々と考えたんです。どうやったら、神崎くんの無実を証明出来るんだろうって。こうなってしまったのも、私の至らなさが原因で。そのせいで神崎くんが辛い目に遭っているのかと思うと、悔しくて、情けなくて。だから私、改めてちょっと考えてみたんです」
必ず無実を証明して見せる。青葉さんはあの時、僕に向かってそう言った。
言うまでもなく、彼女に責任があるわけではない。なるべくしてこうなった。こうなるのも仕方がない。あれはそういう状況だった。
誰のせいでもない。偶然と、巡り合わせが悪かっただけだ。
あの場であんな言葉を口にした由紀乃に非がないとは言わないが、その由紀乃だって、僕と佐原が顔を合わせている場面を偶然目撃していなかったら、あんなことは言い出さなかったのだから。
――尤もあの女の場合、その場面を目撃してしまったことが本当に偶然であったのかどうかは定かではないのだが。
「……すみません。わざわざ、僕なんかの為に」
「謝らないでください。元はと言えば、私が口下手なせいで植草さんに気圧されてしまって、神崎くんへのフォローが上手く出来なかったことが原因ですから。神崎くんが謝ることじゃありませんよ。謝らなきゃならないのは私の方です」
ごめんなさい、と青葉さんが小さく頭を下げる。
「仕方ありませんよ。弁明の余地なく決めつけられてしまったことに関しては、そりゃ腹立たしくはありますけど……。生きている佐原に最後に会ったのが、僕かもしれないのは事実ですから。状況を鑑みるに、疑わしきは罰せよで間違ってはいなかったんじゃないかな、と。多分逆の立場でも、そうしていたことでしょうし」
状況が状況であるだけに、致し方のないことであったのは事実だ。何度も言うが、僕が彼女たちの立場であってもおそらくは同じことをしていると思う。
人を殺したかもしれない人間を身近に置いておくことに抵抗があるのは、当たり前のことではあるだろう。事実がどうあれ、あまり気分のいいものではない。
「最後に会ったかもしれないから犯人、なんて言いがかりにも程があると私は思いますけどね。その後に、佐原さんが誰かと接触していた可能性だってあるわけですし。判断材料としては、弱すぎます」
「それは確かに、そうかもしれませんけど……」
青葉さんの言うことも、もっともではある。彼女が言うように、あの後になって佐原が僕以外の誰かと接触していた可能性だってあるわけだ。
「でも、誰かに会っていたという確証があるわけでもないんですよね。そうであったかもしれないし、そうでなかったかもしれないし」
「ええ、そうですね。目撃者がいた、というわけでもありませんし。本当のところがどうなのかは、死んでしまった佐原さん本人にしかわかりません。まさか死体に向かって訊ねるわけにもいきませんし、真相は永遠に闇の中ってやつです」
死人に口なし。死体に語り掛けたところで、答えが返ってくるわけでもなし。僕以外の他の誰かと会ったのか、会っていないのか、今となっては僕たちがそれを知る術はない。もしかすると、あの後に誰かと顔を合わせていたかもしれない。それはあくまでも、推測、仮説、仮定の話でしかないわけだ。
現実問題として、僕は佐原を殺してなどいないのだから、真に彼女と最後に顔を合わせたのは事件の真犯人ということにはなるのだが……。
由紀乃の一言から、まるで僕が犯人であるかのような空気が出来上がってしまっていたあの場において、他に犯人候補がいるのかもしれないという方向に思考を持っていった者など誰一人いなかったことだろう。
当事者である僕自身の頭にも、浮かびすらしなかった『可能性』なのだから。
「もっと言えば、植草さんだって立派な容疑者になるわけですよ。神崎くんが生きている佐原さんと顔を合わせた最後の人間であるかもしれない。というのが、即ち佐原愛実を殺害したのは神崎千尋である、という結論に行き着くのであれば、その『最後』を目撃していたという植草さんも神崎くんと同じように疑われなければ筋が通りませんからね。その辺、彼女は上手くはぐらかしたようでしたが……。存外、策士ですね彼女も」
なるほど、言われてみれば。直接顔を合わせたのか、そうでないかの違いはあるけれど、由紀乃も生きている佐原に『最後』に会った人間の一人にはなるわけか。
あの口振りからして、彼女が目撃したのは「僕の部屋に入っていく佐原」の姿なのだから、厳密に言えば『最後』というわけでもないのかもしれないけれど。誤差、と言っても差し支えない程度の違いではあるだろう。
どうせあの性悪女のことだ。入って行ったのを見たのなら、出て行くところまでをきっちりと見届けていることだろう。神崎千尋を自分の所有物だと勘違いしているあの女は、そのくらいのことは平気でやってのける。あれはそういう生き物だ。
僕を守る為だ、なんて言っておきながら、ちゃっかり自分に疑いの目が向けられることは避けている辺りが、なんともあの女らしい行動だった。いや別に、自分の身を挺して守って欲しかっただなんて思ってもいないし、身体の裏と表がひっくり返ったって頼みもしないけれども。
「それじゃあ青葉さんは、由紀乃が佐原を殺した……と?」
「そうですね――と、言ってしまいたい気持ちはありますが。残念ながら、違います。嘆かわしいことに、植草さんは佐原さんを殺した犯人では、ないでしょうね」
言葉の端々に滲む悔しさ。発言を一蹴されてしまったことを根に持っているのだろう。植草由紀乃は犯人ではない、と否定の言葉を口にすることが、心底嫌で仕方がないといった表情だった。
「それについては、僕も同意見です。今回の一件に関しては、由紀乃は無関係なんじゃないかなと。そう、思います」
どちらかと言えば、こちら側。不幸にも事件に巻き込まれてしまった登場人物の一人、ということになるのだろうか。おそらく、植草由紀乃は今回の事件に関与していない。あの女がやったことと言えば、ひん曲がった親切心と歪んだ感情から来る厄介な押し付けで、僕をこの部屋に閉じ込めたことくらいのものか。僕にしてみれば、迷惑極まりのない話であるけれど。
「動機はあっても、損得勘定が損の方に傾けば、頑として動かない生き物ですからねアレは。口振りからしても、佐原を殺したのはアイツではないんだろうな、とは」
「多分、そうなんでしょうね。付き合いの長い神崎くんがそう言うのだから、きっとそうなのでしょう。植草由紀乃は、佐原愛実の殺害に関与していない。これはおそらく、確定事項です。白木くんや須藤くんに関しても、似たようなものでしょう」
「その二人に関しては、由紀乃には何の動機もありませんからね。アイツが二人を恨んでいた様子はありませんでしたし、そうなるとアイツがわざわざリスクを背負ってまで動くはずがありませんから。それは自信を持って、断言できます」
死者二人に行方不明者一人。そのいずれにも、植草由紀乃は関与していない。魔女の意見と僕の意見が、そこで合致する。
植草由紀乃は完全にシロだ。腹の中身は、真っ黒だけれど。容疑者であるか否かという点だけで言えば、青葉さんの肌の色にも負けず劣らずの、驚きの白さであると言えた。
三人もの人間を殺害した犯人は、他にいる。
この島のどこかに、今この瞬間も潜んでいる。
それが生き残りの中にいるのか、それともまったくの見ず知らずの人間であるのか、それはわからないけれど。
その人物を特定しない限り、事件は終わらない。次は自分の番かもしれないという恐怖が、常に付きまとうことになる。
探偵ごっこなんて趣味じゃないけれど、そんなことも言っていられないような状況だった。一刻も早く犯人を特定しなければ、次は僕が無残な姿となって床に転がることになるかもしれない。
何も追い詰める必要はないんだ。特定して、隔離してしまえばいい。そこから先は、警察の仕事だ。
身の安全さえ確保できればなんだっていい。安っぽい正義感や義憤に駆られて、犯人を追い込むような真似をするつもりもない。
どうせ何をやったって、死んだ人間は帰って来ないのだから。犯人を突き止めて、それを糾弾したところで、すべてが元通りになるわけでもない。
旧友たちの死を、悲しんではいる。その最期の悲惨さに、憤ってもいる。
けれど、それだけだ。
それ以上でもなければ、それ以下でもない。
神崎千尋という人間の立ち位置。それを逸脱するような行動に走るつもりは毛頭ない。自分の立場と力量と、それから成さねばならないことは、十二分に心得ている。僕に探偵役なんて、到底務まりはしないだろう。
振りかかる火の粉を払うだけ。それが最善の選択。それ以上のことは、他の誰かにでも任せておけばいい。我が身可愛さに勝るモノなど、この世にありはしないのだから。
「でも、青葉さん。それとお願いしたいこととやらに、なんの関係があるんです? 由紀乃は誰も殺していないってことがわかっただけで、さっぱり話が見えてこないんですが」
「ああ、すみません。話が脱線してしまいましたね。それはそれ、これはこれで、神崎くんだけが疑われる必要はなかったでしょう、ということが言いたかっただけなんです。あながちそのすべてが無関係であるとは言えないんですが……まあ、お願いとは別件ではありますね」
行き着く先は、似たようなものかもしれませんが。と、そんな風に魔女は言葉を付け足した。
「で、そのお願いというのは?」
「はい。単刀直入に申し上げますと――神崎くんに、私を殺してもらいたいんです」