男子の心と体は別なのです
公園の隅にある薄暗いトイレに入ろうとした。
一瞬立ちどまると俺はすぐに引き返した。
俺が入ろうとした入口の標識を確認した。
間違いない男子トイレだ。
なぜだ?
天使ちゃんがいるではないか。
俺は入口から少しだけ顔を出し、覗き込んで様子を窺った。彼女は必死に石鹸を泡立てて両手をこすり合わせていた。
その目つきは正直少し怖かった。
とてもじゃないけど声をかけられる雰囲気じゃなかった。
他には彼女の後ろで仁王立ちしているガタイのいいオッサン。
今朝トイレに入ってきたオッサンだ。
もう一人、何やらでかいバックをゴソゴソしている貧相な感じのオッサンの姿があった。
気が付きたくなかった。
トイレには俺が彼女にしてもらった時と同じく白い衝動のニオイが広がっていた。
三人がどんな関係か気になって仕方がない。
村木たちのところに戻ることもトイレに入ることもできないでしばらくそうしてた。
彼女が手を洗いながら話し出した。
「すいません。後のことはお願いします」
彼女の声だった。
さっきまでより少し低い声。
地声ってやつか。
丁寧だけど疲れ切った何かを諦めたような声だ。
「わかったならそれでいい。デジカメは我々の手で取り戻す。二度と勝手な真似するんじゃないぞ」
男の声だった。
上から目線の偉そうな言い方だ。
彼女のために何かしてあげたい。そう思った俺は思い切ってトイレに入ることにした。
三人とも俺を見る。
俺と目が合うと彼女はぎこちない笑顔を見せた。
重力に逆らえなくなったみたいに床にへたりこんだ。
俺は駆け寄って彼女を励ました。
「今度は俺が助けてあげる」
「できるもんならやってくれ」
ため息をつくようにそう言うと彼女は俺の腕の中で力尽きたように瞼を閉じた。
顔をあげてオッサンを睨みつけてやろうとした。
だけどいつの間にか二人のオッサンはトイレからいなくなっていた。
それならそれでいい。
彼女を背負ってトイレから出て目に着いた木陰のベンチに座らせようとゆっくりと慎重に歩いていると彼女は目を覚まして俺の肩を叩いた。
「もう平気。降ろして」
俺は彼女が降りやすいようにしゃがんだ。
彼女は俺の肩に手をかけながらゆっくりと立ち上がって周りを見渡す。
「さっきの人たちならいないよ」
「あっ、そう。私も行かなきゃ。バイバイ」
彼女は軽く手を振ると歩き出した。
あいつらのところに行かせちゃだめだ。また、なにかやらされちまう。
「ねえ」
呼び止めた。
「うるさいっての」
彼女は野良犬でも追い払うみたいに手首を振った。でも、黙っていられなかった。
追いかけて隣に並ぶ。それでも、彼女は歩くのを止めてくれなかった。歩きながら話しかける。
「ねえ、お金が必要なの?」
「別に」
「だってさっきのオッサンにも何かしただろ。俺、ニオイでわかったよ。それに聞いちゃったんだ。なんだよ? あのオッサン、威張りくさってたし。なんで言いなりになってるの?」
「君には関係ない」
「朝の奴らとも金のことで揉めたたんじゃないの?」
彼女は一旦立ちどまって驚いたような顔をして俺の瞳を見つめた。
何かに気が付いたみたいにクイっと顔をあげた。
もう一度、俺の顔を見た時には笑っていた。
俺を小馬鹿にしているような。
憐れむような。
そんな笑顔。
腹が立った。
言ってしまった。
「それとも君はそういう女なのかよ」
彼女は一瞬、息を呑んだ。
勝ったと思った。
あっという間に自分を恥じた。
後悔した。
言い過ぎた。
彼女の顔を見られなくなって俯いた。
すごく長い間そうしていた。
「私が悪いよね。あんなことしちゃったから。でも君とは住む世界が違うから。もう忘れてよ」
彼女の冷たい声が脳天から響いた。彼女が歩き出したのが気配で分かった。芝生の上を歩いているってのに彼女の足音が聞こえた気がした。
叫んだ。
「じゃあなんで俺にあんなことしたんだよっ」
彼女は振り向くことなく歩き続けた。
その体がふらつき始めた。俺は駆け寄って体を支える。そのときに偶然、彼女のお尻を掴んでしまった。手に何か湿り気を感じた。思わず何が付いたか確かめる。俺の指先にはうっすらと、ほんの少しだけ赤いものが付いていた。
「大丈夫?」
彼女に尋ねる。
「しばらく休んでれば大丈夫よ」
彼女は立ち上がろうとはした。
でも力尽きてへたり込んでしまっった。
「救急車呼ぶからっ」
俺はポケットに手を突っ込む。
何もなかった。
焦りながら鞄をあけて中の物をぶちまけた。
スマホが転がった。
飛びついた。
「いいよ。救急車は。逆に困る」
「え、でも」
「肩を貸して。トイレに行きたい」
「わかった」
「あと、それも」
彼女が指さす方に目を向けると俺が桂木を誤魔化すために買った生理用品のあまりが転がっていた。
俺は生理用品を引っ掴むとポケットにねじ込んで彼女のことを背負った。背中に胸があたる。
こうしてみると微乳とはいえボリュームがあった。耳元に微かに息が当たる。体温が伝わってくる。
クソっ。こんなときじゃなきゃ最高のシチュエーションだったのに。
手から汗が出まくっている。手を滑らせないかと気が気じゃない。
全然、エロい気持ちになれなかった。どう考えても背中の彼女は気を失っている。早くなんとかしなきゃ。
女子トイレに入ろうとすると後ろから声をかけられた。
「大丈夫?」
俺たちの様子を見ていたのかいつのまにか桂木と村木が来ていた。村木も心配そうに俺を見ている。
「大丈夫だから。お前らあっち行ってろよ」
こいつらにやらせたら、この娘が可哀想すぎる。俺は自分に後悔するか、と一度問いかけた。答えはノーだ。
あとで、この娘がどう思うかはわからない。それでも俺がやることに決めた。俺はグッタリした彼女を背負って桂木たちに言った。
「こいつ、生理が重いんだ。前にもこういうことあったから心配するな」
俺がそう言うと二人は何か言いたげだったけど曖昧に頷いた。
桂木はポケットから小さな黄色いポーチを取り出した。
「もしかしたら、持ってないかもだから。その人の鞄の中、空っぽだったし」
「サンキュ。用意してるけど一応もらっとく」
桂木からポーチを受け取ると俺は彼女を背負ったまま女子トイレに入って行った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「自分で立てるから」
彼女はベンチに横たわりながら俺たちを見上げて言った。フラつきながらもなんとか体を起こしベンチに座りなおした。
「気を付けて。薬を飲んてもらったから、ボーっとしちゃうかも」
桂木が心配そうに彼女に言った。
「え、マジで?」
彼女の口から似合わない間抜けな声が出た。
「ごめんね。薬って合う、合わないがあるから迷ったんだけど。すごいフラフラしてたから」
彼女は桂木に取りすがるように質問する。
「なに? なに? なに? 何の薬?効用は?」
「コレなんだけど」
桂木はポケットから薬の入ったパッケージを渡す。彼女は目を細めてそのパッケージを見つめた。
俺は何が書いてあるかわかっていた。
『生理痛によく効きます』
彼女はそのまましばらく動かなかった
「すごく、つらそうだったし、それに」
桂木が言いにくそうに言葉に詰まる。
「気にしないから、言ってくれる?。」
彼女が笑顔で言おうとしてるのは伝わって来たけどが眉間にしわが寄っていた。
「血がすごい出てるって聞いたし」
その言葉を聞くなり、彼女はすごい勢いでにスカートの中に手を突っ込む。そのまま思わずという感じで目を見開いて桂木の顔を見つめて固まっていた。
「あ、気にしないで。山川がやったから」
「え?」
ポカンと口を開けて彼女は俺と桂木を見比べる。
「どういう、こと?」
「ホラ、やっぱり。だから、俺はあーちゃんにやってもらえっていったんだよ。第一、男のお前にうまくできるわけないだろ」
と村木が言う。
「うるせえな。ちゃんとできたから大丈夫だっての」
俺が答える。
「つ、つ、付き合ってたんだよね。変わったプレイだってするような仲だってたんじゃないの。」
桂木の声は震えていた。
「サイアクだ」
彼女の呟きは小さかった。
でも確実に俺の鼓膜を打ち抜いた。
鈍い音が響いた。
気が付くと俺は腹を抑えて地面に顔を埋めるようにうずくまる。
桂木が軽くステップを踏む音が聞こえた。
「やめてっ」
彼女の短い叫び声。
聞こえた時には俺は嗚咽を漏らしながら吐いていた。
口からいくつか長く糸が引いていた。
「あーちゃん。やりすぎだ」
村木が俺に寄り添い背中をさすりながら諭すように言った。
あー君は男だからわかんないんだよっ!」
桂木が叫んだ。
沈黙が場を支配した。
俺は両手で腹を抑えてうずくまりながらも顔だけ動かして彼女を見あげた。
彼女は静かに俺を見ていた。
「どうしてこんなことまで?」
怒りを抑えているのはすぐにわかった。
「ちょっと、場所変えよう。俺、この辺り汚しちゃったから」
そう言うと俺は膝に手をつきながら起ちあがった。
村木が肩を貸そうとしてくれたけど思わず乱暴に押しのけた。
つま先でとった土を吐いたものにかける。
「やっといてやるから彼女とちゃんと話してこい」
村木が男らしく言いきると俺の背中を軽く押した。
俺は軽く手をあげ、歩き始めた。力が出なくてフラついた。
誰も支えてくれなかった。
村木たちに話が聞かれそうにないところまでやって来た俺は立ちどまる。恐る恐る振り向くと彼女はついてきてくれていた。
「君を守りたかっただけなんだ」
「そんなことより大丈夫? お腹」
心配してくれるのか。
ホントにいい娘なんだな。
「もう大丈夫。ほら」
俺は学ランの裾をめくって見せた。そこには漫画雑誌が仕込まれていた。
「なんでそんなもの?」
「癖なんだ。中学の時よく絡まれてたから」
「そう。わかった。無事ならそれでいい。でも着替えさせるなんてやりすぎよ。これでも女の子なのよ」
俺は激しく頭を振った。
そんなことはわかってる。
「君があいつらに笑い者にされるような気がしたんだ」
彼女は黙っていた。
「ほら、あいつらさ、キレイで明るいだろ。上手く言えないけど」
振り返って見てみると村木たちはベンチに腰をおろし、こちらを見ていた。美男美女で二人でいると絵になる。
だけど、それが一体なんなんだ。
あいつらに俺たちみたいな日陰者の気持ちなんてわかるはずがないだろう?
俺は顔をあげて何か言おうとした。でもいくら口を動かしても言葉が出てこなかった。
俺は何度か咳払いをしたあと、俯きながら言った。
「住む世界が違うんだ。あいつらと俺たち」
彼女はただ怒りも悲しみも感じさせない表情でただ俺を見ていた。
俺は続けた。
「男の方は村木っていうんだけど、私立中学に行ってたような奴で、あの見た目だろ。女の方は桂木っていってさ、村木の幼馴染なんだ」
彼女は言った。
「悪いことしたって思っていないならそれでもいい。だけどね、こんなことされた女の子の気持ちちょっとは想像してみて」
彼女はそのまま歩き出した。俺とすれ違いざま、目が合った。目を逸らす俺に彼女は言った。
「おチンチン大きくなった?」
俺の体は勝手にビクッと一度だけ震えた。
「ヘンタイ」
彼女は冷たく言いきると振り返ることなく行ってしまった。