表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/4

指輪

      八


 美里とじゃがまるで夕食を食べている。

 きょうはいつもの場所でサーフした。昨夜は泊まったので愛の交換はあった。美緒のいた痕跡、カンチューハイの唇のあとや落ちる髪の毛はすべて片づけてあった。

 美緒は八尾の家に泊まったらしく、月曜の夜は帰ってこなかった。

 火曜の朝、荷物をとりに来て自宅へ帰った。帰り際に『ありがう』といい、ハンカチで涙を拭っていた。別れの言葉と感じとり、八尾と結ばれたとも思った。まだ離婚はしていないため、遠距離となりどんなつきあいになるのか。

「憲さんのおかげでだいぶ上達したよ」

 美里は横へ滑る練習の成果が発揮され、波の条件次第で滑るようになった。

「違うって、美里の練習の成果だ。ぼくはたいしたこと教えてない」

 波は膝から腰でいつもの鵠沼海岸だった。めずらしく人は少なくせいせいできた。暑くなりウエットスーツも半袖半ズボンのスプリングになり動きやすかった。美里も同じ。

「この夏は目標があるの」

 美里はデザートのプリンをほお張る。

「なに?」

「大会に出場したいと思って」

「えっ!」

 わたしは目を見開いた。

「自分の力を試したくて」

 向上心が強い女性だ。落ち込む自分とは違う精神がある。

「美里は偉いね、前向きでぼくとは違うよ。やってみな」

「そんなことない、憲さんから指導受けてそう目標を持ったんだ。だから憲さんのおかげだよ」

「ありがとう、それならもっとコーチする」

 自分を謙そんするところがいじらしく思う。

「憲さんも出なよ」

 ストローで飲んでいたアイスコーヒーを戻しそうになった。

「えー、ぼくはもっと練習しないと。でも美里が出るなら考えとくよ」

「そうしよう、一緒に出て技量を試せば足しになるし」

 大会は若いときに出たが一回戦で敗れた。初心者クラスでもけっこう上手な者がいる。大会はほぼ敏腕がそろい、その中で優勝を決めるので、相当な技が必要だった。レディースでも今の美里では初戦敗退だ。でも目標を持つことが生きる希望につながり、彼女の考えは正しい。

「わかった。美里は素晴らしい女性かも」

 というと、照れ笑いをした。

「それと話しは変わるけど、親に憲さんのこと話したの、それで一度自宅で食事会やろうというので、憲さん来てくれる?」

 いつになるかと思ったが、とうとうその日を迎えるのだ。結婚を前提なら親と会うのはわかっていたが、こんなに早くとは。それに美里へ結婚などの話しはまだしていない。

「……」

 考え込んでしまった。

「どうしたの?」

「年令も話したの?」

「うん、親はなにもいってなかった」

「わかった。行くよ、そして美里との今後も伝えるよ」

 美里は目を丸めた。

「未来を伝えてくれるのね」

 美里は顔を緩め傾けた。知り合ってまだ一カ月はたっておらず、一年以内に結婚するのはあり得なく思うが、自分も年だ。ここは早く決めてもいいかもしれない。

「そうだよ、美里との今後をね」

 笑みを浮かべる彼女はもじもじしている。いいほうに考えてウエディングドレスでも想像するのか。だがそんなことはない。婚約した人と失敗をしているので慎重になっている。

 辺りを見渡しゼータ真野がいないかたしかめた。が、そうじゃがまるにいるわけない。浪曲演芸場でマジックを披露しているのだろう。

 お互い食べ終わり、時計を見ると六時を過ぎた。

「じゃあ、行くか」

 美里と手をつないで店を出た。

「ここからわたしが運転するよ」

 きょうは行き帰りとわたしが運転した。いつも美里ではわるいし道も覚えたためだった。

「頼むね。あれから子供どう?」

 美里は車へ乗ると座席を調整した。

「もう大丈夫、元気だよ」

 エンジンが掛かり発進した。

「食事会のとき会えるんだ。美里に似てかわいい子かな」

「たぶんね」

 横顔を見ると舌を出した。四歳ならどんな子でもかわいい気がする。親が子供の面倒をみないで餓死した事件をニュースで見た。

 美里も親だ。わたしとサーフしていいものか。でも母が面倒みているため、サーフはできるし自分と知り合ったのだ。

 本来の美里は自身で育てないとならない。朝は慌しく子供を幼稚園へ連れて行き、それから仕事に行く。そして終われば迎えに行き食事の支度をしなければならない。それを考えるとかなり恵まれている。そんな環境のため子供を産んだのかもしれない。家もあり支えがなければ、自身が大変で産めないと思う。

 もし一緒になれば、わたしとの子を美里は欲しがるだろうか。経済的によくないのも承知していると思うがどうだろう。わたしは彼女の実家へ住んでもよかった。食事会のときに親から問われるかもしれない。

 黙っていたので美里があくびをすると、自分もつられた。

「ぼくの実家の話しをしてなかったのでするけど、親は母のみで今は妹と住んでいる。長男であるぼくは妹に任せて十年くらい前に出てしまった。妹と仲もよくなかったしね。持ち家もなくずっと借家暮らしだったので、正直貧乏だったよ。自分は好き勝手に東京に来てのんきに暮らしているけど、ときには母と妹を考えてしまい、忘れることはない。このままでいいものかとね」

 信号が赤になり停まった。

「憲さんの今がよければいいんだよ。過去を思うとどうしても後悔するからね。わたしも過去を思うと悲しくなるからさ、今を生きることにしたの。だからここから未来に向かいましょう」

 美里の話すことは正しく、今がよければいいのだった。

「そうだね、わかった。今を大事に生きるよ。美里はなんでも前向きで感心する。知り合ってよかった」

「わたしもよ」

 笑みを溢す美里を見ると、夕方というのに目が輝いていた。先の不安などない横顔で、子を産んだという強みかもしれない。

 持ち家もあり生活も安定しているので不安などないということか。

 それは自分の思うことで、同じ立場でも美里なら前向きに生きそうだった。

 コンビニではなく自宅近くへ車で来た。そして車内で別れのキスをした。

「あすから仕事だからがんばろうな」

「憲さんもね。食事会早いほうがいいと思うけど……」

「えっ?」

「父と母に早く会って欲しいの、父さんはそういうとこ急かせるのよ」

「わかった、美里が決めてくれればいい」

 一緒になれば婿と決めたので、すべては彼女任せでよかった。

「ありがとうね」

 車から降りると手を振り別れた。



 昼の部が終わった五時に早退し、自宅へよらず上野駅へ急いだ。

 渋谷駅で地下鉄に乗り換え三軒茶屋で降りた。東友デパートの前へ行くと美里が手を振った。

「日曜にごめんね、父さんが火曜だと残業だから」

 美里も早退してここで待っていた。白のワンピースにバックが肩に掛かっている。

「いいって、しかしこんなに早いとはね」

 木曜に別れた三日後、食事会となった。

「こうゆうのは早くやって親に認められたほうがいいのよ」

 正直緊張が走っていた。一人娘のお嬢の両親にあいさつをしなければならない。相手もどんな男がくるのかと臨戦態勢と思う。

 東友デパートを北に進み一つ目の信号を左に曲がる。五十メートル歩くと美里がここといった。

 住宅街というより道に面した奥行きがある長方形の住居だった。

「三階建てなんだ」

「でも一階が車庫と倉庫だしね。そこにカラオケもあって歌えるのよ」

 美里の車と、白のセダンが停まっている。奥が倉庫のようだがレールの戸があるので自宅にも見えた。二階につながる階段を上がると『内藤』の表札。美里はドアを開けた。

「ただいまー」

 わたしはいつものジーンズにTシャツの格好である。こういうときはネクタイをしたほうがいいのではないか、と美里へ問うといつもの格好でいいという。

 玄関は広く、花畑の絵が飾ってある。ヒールやカジュアルの靴、父の革靴、ゴルフのバッグ、サンダルと下駄箱がある。

 小走りの音が近づいた。

「どうも初めまして、母の俊子です」

 上品なセレブを想像していたが、少し太めでジーンズを履きエプロンをしていた。髪も美里と同じショートで、目元が彼女と似ている。母のジーンズ姿が普段着でいいことを納得した。

「初めまして、戸川憲三と申します。あの、これをどうぞ」

 昨日買った雷おこしの折り菓子をバックから出した。

「まあ、気を使ってすいません。じゃあ、入ってください」

 セレブの母ではガチガチに固まりそうなのでよかった。

 美里はずんずん奥へ行ってしまった。わたしは母に案内され、奥のキッチンへ来た。そこは広いわけではなく、食器棚をのぞけば十畳あるかないかだ。

 四人掛けのテーブルにはフライやビール、チャーハンの盛り、サラダ、刺身などごちそうがある。そしてポロシャツにジャージ姿、オールバックの父が子供と一緒にキッチンへ来た。

「初めまして、戸川憲三です」

 わたしは腰を折った。

「いいですよ、そんなあらたまらないでください。さあ座ってください」

 彼女の父に会うのはだれでもあらたまってしまう。わたしは鼓動が猛烈に飛び跳ねていた。

「憲さん、緊張しないで。優実あいさつは」

 短パンと赤のTシャツ姿でショートヘヤーの子だ。内藤家の女性はショートで育つのがわかった。

「こんにちは、優実です」

 目線を外し照れているがしっかりする声である。かわいらしい切れ長の目が美里に似ている。

「こんにちは、戸川です」

 自分も中腰になり話す。バックに手を入れ演芸場の売店に売っているイチゴミルクの棒キャンディーをあげた。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 子供の登場で少し緊張はとれた。

 そして父の横の席へ座ると、優実以外ビールで乾杯をした。父は一杯目を一気に飲んだ。

「どうぞ」

 わたしは父と母へお酌をする。

「戸川さん気を使わなくていいからさ、どんどん食べて飲んでよ」

 父がビールを注いできた。浅黒い肌はゴルフ焼けだろうか。五十六と聞くがメタボリックなど関係ない細身の体だった。背は自分よりやや低く、スポーツマンといった感じだ。

 遠慮していると美里がわたしの皿にどんどん食べ物を載せた。

「ダメだよ、食事会なんだから。遠慮しないで食べてよ。うちの親はどんどん食べるからなくなるわよ」

「わかったよ」

 たしかに母と父はどんどん食べている。優実も負けずと食べていた。その光景を見ていると徐々に緊張も収まった。

「戸川さんは、サーフィンうまいんだってね、行くたびに美里がいっているわ。きょうは横に滑るの教わったとね」

 母が話し終えると、フライドチキンをわたしの皿に載せた。

「いえいえ、そんなことないです。しばらく離れてまして下手です。美里さんが車を出してくれるので行けるわけです」

 美里を見るとにやけている。わたしはビールを父へ注いだ。

「今、演芸場に勤めてると聞きました。それはアルバイトかな」

 いよいよ父に攻められそうだ。

「はい。三年前に好きで入りました」

「そうですか、好きなことならいいですよ。嫌なことをやるとストレスがたまるしね。今の世の中はアルバイトを掛け持ちの人もいますし、そういう時代です。今がよければそれでいいのですよ」

 美里の考えは親譲りだった。

「嫌なことはストレスがたまりますが、自分は好きなことしかやらない感じで避けているだけで……」

 美里が注いでくれる。

「いいのよ好きなことやれば、たった一度の人生だわ」

 母が空いた皿を流し台へ下げるとそういった。わたしは遠慮気味にうまそうなチャーハンを皿に盛った。

「ええ、まあそうですね」

「このチャーハンおいしいわよ」

 美里もチャーハンを盛りながらいう。

 食べてみるとオイスターソースが効いていて、中華料理屋と同じ味だった。

「おいしいですね」

「俊子のチャーハンは一流なんです。ところで戸川さんは一度も結婚はなかったの」

「はい、ないです」

 早めに酔いたくビールを飲む。美里は優実用にフライドチキンを細かくしていた。

「ご存知のように美里は子供がいるのだけど、この先のことを聞きたくてね……まあ、飲んでください」

 父が注いでくれた。

「美里も三十になるし」

 母はビールを父へ注ぐとそういった。

「美里さんとはまだ浅いつきあいですが、とても前向きで向上心がある優しい人とわかりました。こんなぼくにはとてももったいない人ですが、できれば一緒に暮らしたいのが本音です」

 優実の足がいすにバタバタと当たる音以外静かになった。向かいの美里が目を丸めた。

「わかりました。それは結婚するということですね」

「はい」

 と答え、ビールを父と母へ注いだ。

「美里は一度失敗しているのでね、わたしはそこを知りたくて」

 父は表情を緩めながらそう話す。

「はい、その話は美里さんから聞きました。お子さんもできたのに少しかわいそうにも感じました。でもこのように知り合えたのでとてもうれしく思います」

 彼女のおかげで病気が治ったことを話そうとしたが、この席ではやめた。

「それなら美里も安泰だよ、なあ母さん」

「ええ、戸川さんなら優しそうだし。美里を幸せにしてくれれば文句はありません」

 母はそう話すと子供の皿へチャーハンを盛った。わたしは小刻みにうなずいた。

 父は立ちあがり食器棚からウイスキーを持つと、母はグラスへ氷を入れた。

「レミーマルタンだよ。これ飲みましょう」

 わたしはいわれるままに注いでもらうとのどへ流した。

「けっこう濃いですね」

 のどが一気に熱くなり顔も火照った。わたしは父へ注いだ。

「うーん、これはいい。ビールのあとはこれがいちばんですよ」

「父さん、あまり飲まないでください。まだ話しがあるんだから」

 レミーマルタンは高価な飲み物だが、わたしに味はわからなかった。安物の焼酎が食感を鈍らせていた。でもウイスキーのおかげで酔いが回ってきた。

「それで戸川さん、結婚の意志があるなら早めに籍だけでも入れてほしいんですけど」

 父はウイスキーをわたしへ注ぐといった。

「えっ!」

 わたしは耳を疑う。籍を入れるのもそうだが、まだアルバイトの身分であり、そう早く結婚しなくてもいいのではないか。

「美里は失敗してるので、本音かどうか不安なんです。子供もできて破棄になったものでね」

 父はそう話すとウイスキーをぐっと飲んだ。

 もう美里と一緒になることを決めたのだ。つきあいは浅いが早くてもいいのだろうか。向かい合う美里と母が自分を黙って見ている。

「わかりました。では早く籍を入れることにします」

 母は笑みを溢した。

「そうしてくれるのね」

 美里も笑顔になり聞くのでわたしはうなずいた。これで食事会の趣旨がわかった。

「ご両親に聞きますが、年の離れるぼくでいいのですか?」

 横の父を見た。

「憲さんそんなこと気にしないで、わたしはあなたが好きなの」

 というと、美里は優実の口元を拭った。

「そうです。美里は年などにしてませんから。わたしたちも同じです」

 父はグラスを離して答えると母もうなずいた。

「ありがとうございます」

 わたしは頭を下げた。それはアルバイトや年の差、美里から愛されていることだった。

「そんな頭など下げないでください」

 母が手の平を左右振りながらいった。笑う優実が母の姿を真似した。

「戸川さんの気持ちはわかりました。じゃあ、どんどん食べて、飲んで」

 父はウイスキーを注いでくれたのでわたしも父へ注いだ。

 しばらく美里の子供時代からの話を父と母から聞いた。小学校では剣道をやり中学、高校はバスケットをやっていて活発な女性だった。大学ではバンドを組み、ボーカルとしてライブハウスへ出演したらしい。飲みながら聞いていたのでいい気分になった。

「じゃあ、一階で歌おうか」

「賛成!」

 父がそういうと美里が声を張った。母はつまみを大皿にまとめている。カラオケとは困った。自分は古い歌しか知らなかった。

「戸川さんはどんな歌を唄うの?」

 母が両手に皿を持つと聞いてきた。わたしは美里から渡された缶ビール詰めを持った。

「そうですね、古い日本のロックなど」

「へえー、永ちゃん?」

「いえ、ボウイやRCなど」

 母がうなずくということは知っているのだ。

「母さんはああ見えても若者の曲をよく聴くの、だからけっこう知ってるわ。最近の歌姫なるものも聞いてるのよ」

 美里は階段を降りながらいう。

「でもわたしはキャンディーズが十八番よ」

 母は口に手をあてた。

 美里の誘導で一階に入ると、入り口横に扇風機など家電が置いてあった。先に入った父が奥の厚いドアを開けた。防音の部屋らしい。

 入ると八畳ほどの部屋に薄紫のジュータンが敷いてあり、テーブルとL字のソファーがある。そこにカラオケ機材があって、カラオケハウスそのものだった。

「すごいですね」

 母へ向けた。

「主人が好きで造ったの。三年前にね」

 母がいうと美里はうなずいた。

 さっそく父が曲を入れたので美里がドアを閉めた。母はつまみをテーブルへ置いた。部屋にある時計は九時に近い。あすは月曜で父も仕事だろうが、一体何時まで歌うのか。

 父は五木ひろしが好きのようで、母がキャンディーズ、美里はプリプリなど女性ロックバンドを主に歌い、わたしがボウイを歌った。

 すでに二時間たち十一時。わたしはそろそろ眠くなり帰りたかった。父と美里がマイクを離さなく、この家庭は楽天的なのがわかった。

 終わったのは零時前だった。

「きょうは戸川さんのおかげで最高だったな」

 顔の汗をタオルで拭く父は美里へ向けた。

「うん。ごめんね、遅くまで」

 美里が自分へ向ける。

「いいよ。ぼくも久々に歌ったから」

「戸川さん、泊まってってください」

 母が片づけながらいった。今から帰っても酔いもありきついだけだ。

「はい、そうします」

 美里も母の片づけを手伝ったのでわたしは皿を持った。父は早々に二階へ上がった。

 キッチンへ来る途中、風呂場からシャワーの音が聞こえる。父はそのままシャワー室だった。

 美里が手を引いてくれ、部屋に入ると眠気が限界になり彼女のベッドへ入った。

 目を開くと窓が明るく、横では美里が寝息を立てていた。この前の美里が自分のアパートへ来たときみたいだ。

 わたしはジーンズを履いたまま寝ていた。ポッケから携帯を出すと七時半だった。静かに布団を出ると美里が目を開けた。

「おはよう、ぼく行くよ。ここ三茶だし、電車乗り換えないとならないから」

「えー、でも仕事だもんね。玄関まで送るよ」

 美里は起きた。キッチンでは物音がするので母が食事を作っているのだろう。

「おはようございます」

 わたしは顔を出す。父はまだ寝ているのか。

「あら、おはよう。戸川さんご飯食べてって」

「いえ、仕事がありますので、電車で帰らないと」

「何時から?」

「十時です」

「ならこれだけでも飲んでって」

 母は味噌汁を茶碗へ入れたので飲まないわけにはいかない。

「すいません」

 といい、いただいた。いつも自分で作る味噌汁はまずく、久々にお袋の味だった。

「そのまま仕事ならシャワーも入ってって。遠慮しないでね」

 美里が味噌汁を一口飲むといった。

「では借ります」

 飲み干すと、わたしは急いで風呂場へ向かった。

 アパートとは違い広い風呂でせいせい入れたが、急ぐため細かくは洗ってはいられなかった。

 美里に父のことを聞くと、月曜は早朝会議があり七時前に家を出たらしい。

「昨夜はありがとうございました。また遊びに来ます。父さんによろしくお伝えください」

 キッチンへ立つ母に向けていった。

「いつでも来てください」

 頭を下げると玄関へ急いだ。玄関で母たちに見送られ、寝巻き姿の美里へ軽く手を振った。

 外へ出ると駅目指して走った。途中で汗が出てきたので風呂へ入った意味がなかった。もしかすると、今後ここから出勤するのかもしれない。それは優実の義理の父となることだった。


      九


 七月に入るが梅雨はまだ明けない。雨の呼び込みは傘を差して行った。

 きょうは十四日の金曜日で美里の誕生日だ。わたしは木曜と金曜を入れ替え、休みの変更をしてもらった。三十年の人生を祝うのもそうだが、もっと重要なことがあった。美里と籍を入れる日となったのだ。誕生日に籍を入れるとはよくある話しだが、美里の要望でこうなった。

 初めて美里の家族と会ってから四度も食事会をした。結納はない。

 前回の婚約で手間暇掛けてやった無意味さが生じているようだ。

 わたしはお金が掛からずむしろ助かった。

 とにかく籍を入れたいようで、家族と初対面からわずか一カ月以内で結婚となった。式はいつになるか、後日ということだ。

 なによりも内藤家の三階が新居になり、姓は『戸川』になる。美里の両親の希望であるし、自分もそうだった。

 三軒茶屋駅で十一時に待ち合わせ、ステーキハウスで美里の誕生日を祝った。高級ステーキとはいかないが美里は喜んでくれた。

 食べ終わったのでいよいよあれを差し出すことにした。わたしは籍を入れる日に渡そうと、通販だがホワイトゴールドダイヤモンドのペアリングをイニシャル入りで購入していた。

 メンズ、レディースともにK14で、レディースは0・1カラットのダイヤがある。メンズは二万五千ほどでレディースは四万だった。

 結婚指輪としては安いだろうが、自分の精一杯のプレゼントである。

「おいしかったわ、ごちそうさま」

 美里はアイスコーヒーを飲み終わると両手を合わせた。

 わたしは表情を緩めてバックに手を入れた。

「ジャーン、美里へのプレゼント」

「えっ! なに、なに?」

 指輪ケースにラップをし、赤い小さな造花がついている。自分のものはバックに入っている。

「開けてみて」

 顔をほころばせて開けている。

「うわー、すごーい!」

 美里の笑みは増しうれしさが伝わった。

「ぼくのはこれ」

 バックから指輪ケースを出して開けた。

「わー、おそろいだね。うわー、ダイヤもついてる。憲さんありがとう」

「きょうは美里とぼくの祝いだし、貸して」

 わたしはダイヤを手にとり、美里の指へはめた。

「ありがとう」

 満面の笑みを崩さなかった。

「よかった。サイズちょうどいいね」

 美里は指輪に見とれていてうなずかなかった。薬指の細めはわかるがサイズは聞いてなく、電話で身長や体重で平均を算出してもらうとさすがプロだった。わたしもはめて美里と見せ合った。

「憲さん……うれしい」

 美里の目が赤くなった。そんなに喜ぶとは思わなかった。実際より高価なのをもらっているはず。二つで十万もしないので、わたしの対処が困った。

「そんな高いものではなく、こんなのでごめんな」

「そんなことないよ。憲さんは時給で働いて生活するのだから、わたしにとっては高価な指輪よ。本当にありがとう」

 美里は何度も頬に指輪をつける。

「喜んでくれてこっちがうれしいよ。じゃあ、区役所へ行こう」

 美里と手を握りレジへ向かう。四千でおつりが来る店だったが美里は満ち足りた表情だった。わたしたちは三茶から私鉄で役所へ向かうことにした。



 妻のところに美里の名を書き入れ、夫に自分の名を書いた。それに判を押し、証人を記入した。わたしの証人は席亭だった。

 三十分ほど待ち、ようやく番号が表示して四時近くに提出した。

「これで夫婦になったね、優実も『戸川』に変更しないと」

「そうだな。これから海も自宅から行けるよ」

 美里は薬指を触り結婚した喜びに浸っていた。自分はまだ引越しておらず結婚したという感覚はなかった。でも美里の自宅へはこれでいつでも泊まれる。きょうはアパートの荷造りや片づけもあり帰ることにした。

 美里と区役所を出て私鉄まで歩いた。

「きょうは特別な日なので憲さんと過ごしたいわ」

「うん、でも引っ越すためアパートの荷造りがあるので、ぼくは自宅へ行きたいけど」

 仕事を終えると疲れてまったく手をつけていなかった。

「ならアパートで過ごす」

「手伝ってくれる?」

 美里は笑顔でうなずいた。

「ならそうしよう」

 美里は自宅へ電話し泊まることを伝えた。

「記念日に荷造りとはごめんな」

「だって憲さんがやってないからだわ」

「ぼくは切羽詰らないとやらないもんで、ダメなんだ」

 美里は頬を膨らませた。お茶目な彼女を見ると自分は幸福を感じた。一カ月半前まではやる気のないわたしがアパートを暗くしていた。サーフ仲間を通じて美里と知り合いここまでになった。

 人生はまったくわからない。野球でいうサヨナラホームランになるのか。でも美里との出発地点でもある。わたしを救いこれから二人で苦難を乗り越えなくてはならない。年の差もあり自分は健康面でも気をつけなければならなかった。優実を育てていくのもあって、娘の父親として堅実に生きていくつもり。これから三人で波に乗るのも楽しそうだった。

 美緒の存在を忘れていたが今、電車の中で思い出した。まったく電話もなく、夫とどうなったのだろうか。八尾とうまくやっているのか。もしかするとすでに八尾と住んでいるのかもしれない。

 だが彼はそういうことを報告してくる男とわかったので、伝えてこないとは住んでいないと読んだ。

「そんな憲さんち荷物ないからわたしのワンボックスで二回運べばいいじゃない?」

「そうかな?」

「だって冷蔵庫と洗濯機はいらないし」

「そうか、中古屋へ売ればいいのか。それなら二回でいいかも」

 雑誌などは捨てればいいし、汚れた服や布団もすてればいいか。

 美里は前向きに女性なので考えも早い。わたしのほうが年上なのに彼女が何歩も上に感じる。もしかするとカカア天下になるのか。

 今は優しいが何年も住むと美里が強くなりそうだ。それでもいいか。自分の救世主だからだ。

「ねえ憲さん、きょう中に洗濯機と冷蔵庫積んでリサイクル屋へ売りにいかない?」

「きょう?」

「そうすれば負担が減るから。もうすぐ三茶へ着くし」

 機転の利く彼女だ。

「そうだな、美里にしたがうよ。こんな日にありがとう」

「だって一緒に住むのを早めたいだけ」

 こんな幸せでいいのか、いつかわるいことが起きやしないのか。

 人生は波があり、いいときばかりではないのを知っている。たしかにうつ状態の日々が続き就職にも失敗した。でも知り合った美里が運命を変えてくれた。また仕事も戻れて今が幸福の時期だ。今後またうつ状態のような日々でもくるのだろうか。うつではなく大変なことがわたしたちを襲ってくるのかもしれない。でも美里が回避してくれそうだ。

 彼女にはなにかある。前向きな姿勢が不幸にしない力がある感じだ。わたしが美里について行けばよき家庭になりそうだ。カカア天下でもいい。戸川家と内藤家が楽しく生きればそれでいいのだった。








                             (了)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ