なぜ
六
六月に入り、わたしは浅草演芸場へ出勤した。
「戸川君、またみんなと頑張ってくれよ」
朝礼で席亭から紹介された。といっても顔なじみで、同僚はにんまりしている。
「出戻りです。厳しくお願いします」
六名の同僚は拍手してくれた。
これから楽屋、客席、トイレなどの掃除だ。番組表の早い順に芸人さんがやってくる。十一時ごろに前座と師匠が楽屋へ入るのでそれまでに掃除をしなければならない。
三カ月振りの演芸場のトイレは相変わらず汚い。新人であるわたしは率先して男子トイレの掃除をやる。鈍った体にむちを入れることで、うつ状態を忘れたかった。
四日前の美里とプリクラを撮ったとき、告白のあとだったので恋人気分になった。撮影後、お互いが当たり前のようにキスをした。
彼女は子供がいることに悲観し、わたしへの告白は自信なかったと、その夕方じゃがまるで聞いた。わたしのほうが仕事もなく年令で悲観したことを話せば『同じだね』といってくれた。
これからサーフへ行くときは休日を調整しないとならない。わたしは火、木曜と固定するので美里がどんなものか。波乗りの前日は泊まるともいったので、彼女と結ばれるだろう。
きょうは月曜。ウイークデーの昼の部はツアー客が入る。月初めは東海地方で、きょうは静岡の日帰りツアーだった。もちろん一般客も入るため場内はほぼ満員だ。
昼から夕方までが昼の部、六時から九時ごろまでが夜の部だ。昼と夜、ぶっ通しで観ることもでき、芸人は変わるため得でもあった。
そんなお客は毎日二、三人いて長い寄席でいつしか寝ている。昼夜通しの常連さんは飯より落語が好きといっていた。
掃除は終わったころ芸人さんが楽屋へ入った。わたしはロッカーでハッピを着た。
「さあ、いらっしゃいませ、昼の部は十一時半からです。どうですか、浅草名物の寄席を見てください」
声を出さずに引きこもっていたせいで、久々の呼び込みは少し照れる。
「お姉さん、寄席おもしろいよ」
通り掛かった二人組みの婦人へ呼びかけた。
「きょうはどんな人出るの?」
「きょうはこの芸人さんです。紙きり、落語、曲芸、漫才など笑いの宝庫がこの小屋にあります……」
寄席文字で書かれたボードの前へ行き、芸人を説明した。
「わたしら静岡のツアーだからこれから見るの。ほかの人たちもそろそろ来るんじゃないかな」
「そうでしたか、ぼくも静岡ですよ。寄席が好きでここへ勤めているのです」
五十代中ごろのご婦人たちは、浅草寺の仲見世通りで買った土
産を持っていた。
「静岡はどこ?」
「ぼくは焼津です」
「なら隣の町ね。わたしたちは静岡の駿河区八幡だわ」
静岡市は清水と合併で三つの区に分けられた。
「そうでしたか、八幡神社は力士が来るんだよね、東関部屋が年に一度」
「そうよお兄さん詳しいね、片山と潮丸が来るんだよ」
「片山は焼津出身ですよ」
「そうだったわ。ねえねえ、この人も静岡だって」
ツアーの客が集まると目を見開いた。知った顔がいる。それは笑顔の耐えない女性だった。
「お久しぶりです」
ブラウンヘヤーにミニスカートをはいている美緒だった。少し太ったようだが随分と色気がある格好をしている。お水にでもなったのか。
「よ、よお、元気だった?」
ツアーに美緒がいるとは思わず、わたしは困惑した。
「あんたっち知り合いだったの?」
美緒はうなずいた。
「ええ、まあ……」
と、わたしは話しづらくなった
「こんなところで同窓会だね。実は元彼じゃない?」
おばさんは美緒の肩を突いた。すばりそうだが、彼女は違うと手を左右に振った。
「再会でよかったね、わたしらは先に入ってるわよ」
美緒はうなずいた。
「まだここにいたんだ」
相変わらずにこにこしている。
「いや、きょうからだよ。それでいきなり会うとは」
「きょうからって?」
美緒に事情を話そうとしたが、開演時間も迫り呼び込みもやらないとならない。
「ごめん、仕事あるので、よければメールして」
「わたしアドレス変わったし、それに戸川さんのもうなくて」
美緒はまだ話しをしたいようだった。寄席を見に来ただろうが、わたしへ会いに来たのもあるのではないか。
「電話番号も変わってないから」
そう伝えると呼び込みに精を出した。美緒から『けん』の呼び名は消え『戸川さん』だった。もう三十三なので結婚したのかもしれない。
「まもなく始まります。まずは前座から……」
初日から元カノに会うとは正直動揺する。今は美里がいるので美緒を忘れようとしているときに会ってしまうとは。
うつ状態のときに会っていれば、たぶん元気づけてくれるだろうが、それはむりなことだった。アパートを知らないし彼もいた。
美里と初めてサーフし昼寝のとき、美緒とのサーフを夢で見た。
一体なぜ見たのか、まだ未練があったためか。美里をコーチしたので、美緒とのサーフをただ夢に出ただけかもしれない。
わたしは美里とのプリクラを思い起こし、美緒の姿をどうにか消
したかった。
昼の部が終わると客出しがある。昼、夜を観る人も一度外へ出な
ければならなかった。
美緒と顔を合わせればあいさつのみで婦人たちと場内を出た。こ
のあとは忙しく、客席や楽屋の掃除も従業員で行う。わたしはトイレを簡単に掃除してから客席を手伝った。飲み食いできる客席は、ゴミやこぼれた飲料水の始末があった。初日なのかすでにくたくただった。これが終えれば自分の休憩だ。
すべて終わったと思い、楽屋横のロッカーのある控室に入ろうと
した。
「よおー、久しぶり」
楽屋から出てきたのは、昼の部とり前を演じた曲芸の薩川二郎だった。六十くらいで髭を生やした小柄の芸人である。
傘の上でまり、リング、枡を回したり、クラブでジャグリングもする。
「どうも、久しぶりです」
「帰ってきたじゃん、なにしてたの?」
「一度辞めまして、それで就職しようとしたけどダメで」
「そうだったのか、最近みないから旅行かなって」
自分の話題など芸人同士しないだろうから、だれも辞めたとは思わない。マジシャンのゼータ真野も知らなかった。
「旅行などむりです。バイトですので」
薩川はにやりとして、手提げバッグからまんじゅうのような包みを出す。
「これ食べてよ、おれ甘いものダメなんだ」
薩川から酒好きなことを聞いた。顔はいつも赤くすでに飲んでいるのかと思うほどだが、楽屋で飲んではいけない。それに曲芸は技を見せるので、酒など飲めば感覚が鈍り失敗する。
「ありがとうございます。これから一杯ですか?」
おちょこを口にあてるゼスチャーをした。
「自宅近辺でな」
漫才や落語家とは違う曲芸や手品師は道具が必要だ。あすもここへ出演する。芸人は十日で移動するので道具は置いていくのだった。
道具がなくなると偉いことになるので、本音は毎回持ち帰ってもらいたいと席亭はいっていた。
「ではお疲れ様でした」
「またあしたな」
薩川がわたしの肩を叩いた。やはりここへ戻りよかった。
なぜなら今のように芸人と振れ合える。自宅で落ち込んでいたときは一体なんだったのか、と。あのとき『サーフチップ』で仲間募集の検索をしていなければここへはいなかった。美里と知りあったからだ。じゃがまるへ行き、真野と会ったのが運命だった。
それを思うと人生は枝分かれしていて、わたしはいい道へ来れた。
腹が減ったのでコンビニへ向かうことにする。
仕事が終わり自宅へ向かっているとき、美里からメールが入った。
『憲さん、お仕事お疲れさま。初日なので疲れたと思います。ビールでも飲んでゆっくり休んでください』
疲れ果てたとき美里からの励ましで少し和んだ。彼女がいなければこんなことは一切なく、疲れたまま酒を食らい寝るだけだ。
彼女のメールは友だちとは違いなぜか気持ちが潤う。これがいいのだろう。美里も返事を待つので、お疲れメールと会いたいことをほのめかした。メールはすぐ返すことで相手への気持ちが伝わるらしい。
待ち合わせに使ったコンビニへ入り発泡酒とサンマの缶詰を買った。
自宅へ入ると窓を開け部屋の換気をした。そして窓辺に干した洗濯物を入れた。
風呂場のウエットスーツは乾いたのでスーツ入れに掛けた。するとチャイムが鳴った。
だれだろう、時計を見ると九時四十五分。
「はい」
わたしはドアを開けると、目が飛び出そうになった。
「先ほどはどうも」
折り菓子の土産を二袋持つ美緒だった。
「な、なぜここを知っている?」
過去にアパートの住所を教えてあったのかと思い起こす。
「あとをつけてきたの、ごめんなさい」
「どういうこと?」
ツアーのはずだ。
「あなたと話がしたかったので、添乗員には事情を伝えて離れたのよ。自腹で帰ることも話したわ。突然来てすいません」
美緒は恐縮して頭を下げた。
「うーん、で、話ってなんだ?」
部屋へ入れるか迷うところで、ここで話すのも狭い。
「ファミレスがあそこにあるから、そこへ行きません?」
美緒は敬語を使う。申し訳ないという素振りが表情からわかり、笑い上戸の美緒らしくなかった。
部屋でもよかったが今は美里がいる。近くにいないが、なにかあれば女は敏感だ。でもせっかく買ったビールと缶詰で一杯やり疲れをとることを描いていたが。
「なら部屋でいいよ。そのかわり一杯やりながらだけど」
「わかった、わたしも買ってくるよ」
恐縮した表情が一転し声を弾ませた。美緒は玄関へ手荷物を置くとドアを閉めた。
ツアーで来たが帰りは自腹では金が掛かる。ファミレスへ入って割り勘もそう安くはない。
突然の訪問で布団を畳み、テーブルの上も片づけた。散らばる衣服を押入れへ収め、テーブルの下にある雑誌を重ねた。
掃除は半年ほどしてない。座る範囲をクイックルすると、髪の毛やほこりがすぐにこびりつき粘着がなくなった。三度ローラーすると、見栄えは自分なりによくなった。
ジャージに着がえているとチャイムが鳴った。
「失礼します」
袋にはビールとカンチューハイが五、六本、ポテトチップなどが入っている。
「これでも急いで片づけたよ、ここへ座って」
美緒はまわりを見ながら座った。
「わたしが勝手に来たのでごめんなさい、気を使わせて」
テーブルに美緒はビールなど並べた。とりあえず乾杯をした。
「演芸場のどこかで待ってたんだ」
「うん、周辺で食べ物巡りや、また仲見世に行ったりして潰してたの」
別れた男に会うとは、なにかをわたしに話したくて来たのか。普通は会わないだろうから美緒に執念があるのかもしれない。
「敬語を話さなくていいからさ。それで話しとは?」
美緒はビールを一気に飲んだ。
「わたし、結婚したのよ。前に演芸場で会った人と」
「やっぱそうか、結婚したと思ってた」
「結婚して二年はたたないけど、夫の酒癖のわるさと暴力で……」
美緒はぐんぐん飲んでいる。
話を聞くとこうだった。三つ上の男と結婚し、しばらくは家庭的だったが、なかなか子供が身篭らない。それからというもの酒を飲み遅い帰宅になる。美緒は夫へしびれを切らすと暴力を振ってきた。
夫は翌日に謝るが、酒を飲むと暴力を繰り返すということだった。
「夫は子供が欲しいと結婚前から聞いていたのでわかるけど、暴力は怖いわ」
美緒のペースは早く、わたしが一本飲み終わると二本目を開けた。
「そうだな、つまり話を聞いてもらいたかったということ?」
「捌け口がなくて、このごろ笑ってなかった。ツアーを紙面で知り、また演芸場に行きたくなってね。ツアーだと安く見れるし、それで応募して来たの。まさか、けんがまだいるとは思わなかった。でも少し期待もしたのかも」
「それでぼくがいたから、急きょ話したくなったってわけね」
美緒はうなずくとチューハイを差し出した。栓を開けて一口飲むと甘いオレンジがのどに流れた。
「子供ができるまでこの状態が続くなら別れようと思っている」
ドメスティックバイオレンスだった。女性の大敵は暴力だ。これは婚前ではわからなく、一緒になってから場合によっては起こること。美緒は笑いが好きで暴力など真っ向から否定の女だった。それでは夫と合うわけがない。
「暴力だもんな。子供いないなら今のうちじゃないか?」
「世間体や親なども考えると離婚はやめようと思ったけど、限界もあるし」
「限界なら早くしたらいい。夫はそんな話をすればたぶん酒を飲み、また暴力をしそうだから」
「そうよね。つまらない話でわるかったわね」
美緒はうつむいた。
「いいよ、捌け口になったなら。話せば気持ちも楽になるしな。ぼくの話しもあるから、きょうの仕事は初日だったんだ……」
と、今までの経緯、うつ状態になったことや彼女のいる話をした。
目を開くと壁がある。雑魚寝でタオルケットが掛かっていた。
とっさに体をひねり起き上がると美緒の姿はなく、タオルケットが折り畳んでありその上に便せんがあった。時計を見ると七時半だった。
昨夜は美緒と飲んだが、もらったチューハイ三本目あたりから眠気と酔いで覚えがない。
便せんを手にとった。
『昨夜はわたしの愚痴につきあってくれてありがとう。お酒飲んで聞いてもらい憂さ晴らしになり、久しぶりに会ったのもうれしかった。けんがうつ? になったなど考えられなかったが、引きこもりになったんだね。そんなに悩むなんてつきあっていたときを思えば信じられない。でも彼女のおかげで治ったならよかったよ。わたしは暴力が嫌なので離婚を考えるわ。正直に過去を思えば、けんと一緒に上京すればよかったと思うこともあった。何度もけんかをしたけど暴力は一度もなかったね。今さら伝えても遅いけど、夫に暴力されてからけんの顔を幾度も思い浮かべていたの。まさか演芸場で会えるとはね。もしわたしが夫に耐え切れなくなった場合、おかしくなりそうだから電話をするかもしれない……。でもそんなときは実家に帰り離婚の準備をしてるかもね。ごめんね、わたしばかり一方的で。けんだって彼女がいるので迷惑掛けないことにします。昨夜シャワーを借りました。ありがとう。では体に気をつけて仕事がんばってください。 美緒』
わたしのことをときには思ってくれたのはうれしい。でもそれは結果論で夫の暴力がなければ思い浮かべないだろう。
手紙は心を打たれる。話せないことを書くので伝わるのか、ジーンと来るのだった。
昨夜は理性を抑えたのはよかった。酒も入りミニスカートの美緒をよく抱かなかったと。疲れが先行していたために欲情しなかったのか。手紙内容から彼女は待っていたのかもしれない。わたしを思うことで夫を消したかったのではないか。
美里からメールが二件入っている。
『憲さん、疲れて寝ちゃったかな?』、『わたしも寝るね、おやすみ……』
マナーにしてあり美緒と話しに夢中で開いてなかった。急いで返した。
『おはよう。昨夜ごめんね、ビール飲んでそのまま寝てしまった。ミサちゃん、きょうもがんばろうな』
送信するとシャワーを浴びることにした。が、すぐ携帯が振動した。
『おはよう憲さん。きょう火曜だよ、仕事かな?』
よく考えると本日は休みだ。昨日はやることがたくさんあり、久しぶりで感をとり戻せず席亭に聞くのを忘れていた。ローテーションの表も見ていなかった。
『そうだった、電話して聞いてみるよ。疲れが残っているのでちょうどいいかも。あすはぼくのアパートへ来るのかな?』
メールで木曜にサーフへ行くことになったので、水曜に泊まりそうだ。携帯を握り冷蔵庫をのぞくと、美緒が買ったつまみのソーセージが入っているのでそれを朝食にする。
食べていると手に振動が起こった。
『木曜にサーフするので、車で行き憲さんち泊まるね。今からシャワー浴びるので一旦切るよ』
ソーセージのあと牛乳を飲んだ。美里が泊まるためきょうは食材を買いに行くことにした。
『わかった。仕事がんばってなー』
送信すると裸になりシャワー室へ入った。美緒が入り濡れてはいるが、きちんとシャンプーなどが揃えてあった。
午前は布団で休み、午後はスーパーでお好み焼きの具材、野菜類、酒類、卵、米など買いに行った。こんなに買うのは久しぶりだ。引きこもるときはキャベツ、カップラーメン、卵、牛乳程度で毎回同じ食材に近い。食べればよくて希望もなかった。このまま自然と死ぬのかとも思った。
すべて美里のおかげである。生きていることの素晴らしさを彼女が教えてくれたので、お好み焼きをごちそうすることにした。
ネットで作り方を検索するとたいしてむずかしくなかった。粉と卵、水を混ぜた生地をフライパンへ流し、たっぷりのキャベツ、ねぎ、紅しょうがを載せて焼くのが基本だった。肉を入れればさらにおいしくなり、水と粉の目分量をしっかり合わせれば成功しそうだ。
紅しょうがを買い忘れた。練習として夕食用にお好み焼きを作り始めると、下準備に時間が掛かった。でもあとは炒めるだけ。
できあがると微妙で、キャベツがぼそぼそになっている。ソースとマヨネーズをつけて食べると一応はうまい。こんなものか。あすは仕事なので、二人分の下準備をしておくことにした。
月曜のような疲れはなく、仕事帰りに肉と紅しょうがを買った。
美里は一度自宅へ帰り車で来るため、十時過ぎに来るとメールがあった。わたしとしては都合よかった。シャワーを浴びたあと、お好み焼きを焼いて一杯やりながら待っていればいい。
すべてが順調で怖い気もしたが、落ち込んだ反動とも感じた。
十時半にすべてが完了。焼酎の用意もしてあり、あとは美里を待つだけだ。彼女はわたしに合わせて焼酎のお茶割りでいいというが、飲めるのだろうか。今夜結ばれることを思うと胸が高ぶる。美里も自分と同じ心境であればいいが。
わたしは焼酎を飲み出すとメールが入った。
『憲さんごめんなさい。行けなくなりました』
わたしはメールを疑った。なぜだ。当然来るものと思ったので、石につまずいて小鹿を逃したトラのような心境だ。
お茶割を飲み干すとお好み焼きを見つめ、ため息をついた。そしてメールを打った。
『どうしたの? さっきまでは来てくれるはずだったのに』
メールは五分たっても来ない。仕事を終えたいつもの美里ならすぐに返してくる。
電話を掛けるとすぐに美里が出た。
「もしもし、ミサちゃん」
『ごめんなさい、子供が下痢と嘔吐で手が離せなくなってしまい、ほんとにごめんなさい』
わたしは一息ついた。
「そうだったの、とても心配だったよ。メールも来ないから」
子供のことでわるいが安心した。わたしになにか不備でもあったのかと感じたからだ。
『あすも行けないかも……』
「いいよ、子供の病気なら医者に行ってきて」
『ほんとにごめんなさい』
「また来てくれればいいよ。じゃあ」
『またメールするね』
といい切った。美里は申し訳なさそうでわたしへの思い入れが伝わった。これから自分で焼いた二枚のお好み焼きを寂しく食べるのだった。
携帯のマナーモードで目が覚めた。メールではなく電話だ。
開くと美里だった。
「おはよう」
時計を見ると六時半。
『おはよう、憲さん。昨日はごめんなさい』
「子供大丈夫だった?」
こんな早くにどうしたのか。
『病院行って薬飲んだら治ったわ、軽い腸炎らしくて』
「治ったならよかった」
『うん。それでね、ちょっと疲れてしまい波乗りはやめようとして電話したの。でも憲さんと待ち合わせたコンビニからだよ』
「えっ?」
突然で耳を疑った。
『だから憲さんちで休ませて』
「いいけど……」
『近くに駐車場ある?』
「コンビニの先へ五十メートルくらい行くとあるよ」
『わかった、少ししたらコンビニへ来てね』
「わかった、行くよ」
切ると、急いで顔を洗った。美里が来る。昨夜はがっかりするが、けさに移動しただけだった。それにわざわざ早朝に来てくれるなどマメな女性でかわいくも思う。また胸が高ぶってきた。
ジャージを履き玄関を出るとコンビニまで走った。
ジーンズに長袖の白いTシャツを着た美里が手を振っている。
「ここまで来てくれてありがとう」
美里へ近寄ると伝えた。
「だって昨日わるいことしたから」
美里と手をつなぎ歩いた。
「それはもういいよ。なにもわるくないしね」
「うん」
返事をした美里はアパートまで黙った。
「ここだよ」
「コンビニからすぐだね」
ドアを開けて中へ招いた。布団を畳むのを忘れていたので急いで畳もうとした。
「いいわ、だって休みたいんだもん」
美里へよると唇を奪い、そのまま布団へ入った。
結ばれたあとは寝てしまった。起きると十一時を過ぎている。
美里はまだ寝ているので起こさないように布団を出た。
昼飯をどうしようか。お好み焼きはもう粉はなく、わたしは二枚も食べて飽きている。
ご飯も炊いてない。食パンがあるので卵サンドでも作ることにした。溶かした卵をフライパンで炒め塩コショウを振る。軽く焼いたパンにマヨネーズを塗り、レタスとともに挟むとできあがった。
カンチューハイはあるが、美里は車なので飲まないほうがいい。
牛乳にした。
「憲さん、こっち来て」
パンを皿に載せていると美里が起きた。彼女は寝ながら目を擦っている。
「おはよう」
といい、軽くキスをした。
「いいにおいがするけど、なにか作ったの?」
「卵サンドをね」
布団の真横にあるテーブルへ皿を載せた。
「おいしそう、作ってくれてありがとう」
タオルケットで胸を隠した美里は上体を起こし見ている。
「いえいえ、ミサちゃんのためだよ」
「だめ、美里にして」
「わかった。じゃあ食べよう。牛乳だけどいい?」
美里はうなずくとTシャツを着た。
そしてテレビを見て昼食をとることにした。
「わたし子供がいるので結婚したといったけど、実は未婚なの」
「えっ?」
突然そんな話しをするため目を見開いた。
「ごめんね、子供がいると離婚と結びつくから結婚したことにしたの。優実は未婚の子なんだ」
「どうして?」
「大学四年のときからつきあった男で、婚約もして子供ができたの。そのあたりから男が子供をおろしてくれとなり、婚約したのに結局別れた。わたしはどうしても生みたくて、優実を生んだの」
よくある話しだ。親権のことで再現ドラマを見たことがある。
「そうだったか、未婚なら自分と同じだ。その男はどうしようもないやつだ。結婚に自信がなくなったのかもしれない。男は仕事してたの?」
美里はパンを皿に置いた。
「一流の商事会社の営業をやっている。コンパで知り合いつきあって成りゆきで婚約したけど……」
「ということは、まだ遊びたかったのではない?」
「かもしれないわ、でも婚約したし子供もできたのだからルールを守らないと。優柔不断な人だった。ごめんね、憲さんにしっかりと話したかった」
美里が寄り添うので両手で抱しめた。
「話してくれてありがとう。ぼくは美里を大切にします」
「憲さん優しい」
美里の腕が力強くなる。
「不思議だな、サーフチップスの仲間募集で知り合うとはね」
「そうよね、サーフィンを教えてくれる人がいいと思っただけだもん」
「ぼくはうつ状態の気分が変わるかなと」
美里はパンを持った。
「憲さんもよくなり、わたしもよかったんだね。本当に不思議だね」
わたしはうなずいた。パンを食べ終わり、午後はなにをしようか考えていると美里の携帯が鳴った。
「もしもし、……うん、……うん……、えっ、また……、わかった。じゃあ」
美里の表情が曇りかけた。
「どうした?」
「また優実が吐いたらしいの」
「また?」
「憲さんごめん、帰らないと……」
「そうか、腸炎は病気だからね」
美里の表情は曇り服を着た。わたしも服を着る。
玄関で美里へキスをすると外へ出た。
「きょう来てよかったわ。一緒になったしね」
「そうだな、またいつでも来てよ。サーフも行こうな」
わたしは美里へ笑みを向けるとうなずいた。駐車場の清算をし、自分も車に乗るとまた唇を奪った。
わずか五十メートルのドライブ。再度彼女へ口をつけ車を降りた。
美里へ手を振るとけさの柔肌を思い出す。愛し合うことはなにもかもいい。好きという愛が人間にやる気を起こすのではないか。世間でのうつ病は、愛情の薬で治るのではと感じた。
七
日曜日。
さすが寄席のメッカ浅草である。昼夜と立ち見客もいて満員御礼になることを忘れていた。あすで一週間たち、体も慣れてきた。
日曜のたびに寄席へ来る常連さんは、今までどこにいたなどわたしに聞いてきた。辞めたことを知るので、多々会社を受け面接に落ちたことを話し、ここしか働けないとも伝えた。客は、ここがいちばんだよ、と。
美里の子供は体調がよくなり幼稚園へ通った。でも彼女が体を崩し昨日から熱を出していた。
大丈夫というが、わたしは心配だった。きょうは仕事を休み医者へ行くと朝メールがあった。子供の腸炎がうつるとは思えなくかぜかもしれない。先週はサーフへ行かないため仕事場でうつったのだろうか。
仕事をすると自炊が減り、帰りはほか弁を買っていた。以前と同じ生活だった。
自宅で食べていると電話が掛かった。
「美里、大丈夫か?」
わたしは飛びつくように問う。
『薬を飲むと熱は下がったよ。心配してくれてありがとう』
「心配するよ、で、かぜか?」
『うん……』
心細い声を出した。
「咳やのどの痛みは?」
『ないよ、大丈夫だって』
ようやくいつもの声になった。
「気をつけてな、海行けなくなるから」
『うん。このごろ暑くて裸で寝てたのが原因かも』
「ダメだ、母なんだしぼくの彼女なんだ。体は大事にしてくれ」
『憲さんありがとう、うれしい』
美里の声が小さくなり、鼻水をすするのが聞こえた。泣いているのかもしれない。
「じゃあ、早く寝てね、切るよ」
『うん、おやすみ』
わたしは美里に助けられたので、今度は自分が返す番だ。泣いたということは、心配する嬉し泣きだろう。
『体は資本だよ、早くよくなってな。大切な美里へ』
メールも送り愛情は伝わったと思う。
シャワーを浴びて冷茶を飲んでいるとマナーモードが響いた。
「もしもし」
美緒だった。
『今、上野駅にいるよ』
「えーっ!」
時計を見ると十一時近い。
『家出しちゃった。また暴力するから』
「それでぼくのところに」
『うん……。彼女がいるならやめとく』
今は美里という恋人がいる。でもなにもしなければいいだろう。
田舎のときは美緒にも世話を掛けた。街で酔ったとき、何度も迎えに来てもらった。それを考えると彼女のピンチも助けないとならない。
「今はいない。アパートまでの道、わかるか?」
『わかるわ、ありがとう。ビール買ってくね』
「じゃあ」
子供ができずに暴力するなら、遺伝子で作らないのか。
美緒が来ても仕事に響くので遅くまでは飲めない。
洗濯物を部屋の窓越しへ干しているとチャイムが鳴った。
ドアを開けるとコンビニの袋を二つ持つ美緒が笑みを浮かべた。今夜はジーンズに黄色のTシャツ、それに白の薄いカーディガン
をはおっている。再会からまだあすで一週間だった。
「ごめんね、遅くに」
「仕方ないよ、来たんだから」
部屋へ入ると香水のにおいが漂った。布団の上に腰を下ろさせた。
テーブルにビール四本とカンチューハイ二本を並べ、ビーフジャーキーを美緒が開けた。
「夫はまた暴力をしたのか」
というと、美緒は胸元へ飛び込んできた。そしてしくしくと泣いた。
「わかったから、な、仕方ないよ。そんなやつと結婚したんだから」
わたしは美緒の体を離した。
「もう嫌だわ、少しこうさせて」
美緒が抱きついた。自分を頼ったので仕方ないか。この体勢はしばらく続きそうだ。
夫からの暴力とは蹴られたり殴るのか。顔にあざはないので平手打ちかもしれない。
わたしは片手でビールの栓を開けた。
「よし、飲もう」
手を離した美緒へティッシュを渡した。
「そうね」
美緒は涙を拭うと栓を開けた。
「どうする、夫と別れるのか?」
美緒は半べそをかきながらぐっと飲んだ。
「うん……そう決めた。子供も産めないならと、あの人もそんな感じだったのでちょうどいいよ」
「それはよかったな。でも子供生めないならどっちが原因か調べ遺伝子で産むのもあるんじゃないか」
「あの人がそれは嫌といった」
美緒はビールを飲みぼそぼそと話している。
「つまり正当に産みたいわけね」
美緒はうなずき二本目を開けた。
「わたしは暴力で嫌になったから、だから離婚する。そして東京に来ることにした」
「えっ!」
「だって東京は仕事もあるし、落語も聞けるわ。わたしに適した街だよ」
なにをいっている。そんな簡単に仕事が見つかるわけがない。
現に自分がそうだった。あらかじめ職を見つけてなければ来ても大変だ。
「そんな簡単ではないよ。美緒は地元がいいって。遊びに来れば泊めてあげるから」
美緒はぐいぐい飲んでいた。
「だってけんがいるもん」
また抱しめてきた。これでは美里にわるく、入れなければよかった。こんな場面を彼女が見れば、別れる原因をわたしが作ったことになる。
「おれはもう彼女がいるんだ。だから美緒とはつきあえなく友だちだ」
「そうよね……、わたしの一方的だね」
美緒が胸から離れた。
「本音をいっただけだから、謝らなくていい」
しばらく無言でテレビを見ながら飲んだ。
「急に来てごめんなさい」
「もうここにいるんだ。おれあすも仕事だから寝るよ。シャワーは勝手に使っていいからな」
美緒はうなずいた。先週と同じくわたしは壁側で布団に入った。
彼女は自然とテーブル側になる。
マナーモードで目を覚ますと横で美緒が寝息を立てている。
八時四十分。
静かに起きると彼女が一瞬目を開けた。
「おはよう」
わたしがいうと、美緒は寝返りをしてまた寝に入った。低血圧だったことを思い出す。早朝からサーフへ行くとき、何度起こしても起きなかった。でも先週は早起きだったので、夫のことで悩み一睡もしなかったのではないか。
食パンにハムを挟み食べた。二つ作ったのでラップを掛けてテーブルへ載せた。
身支度をすると美里から元気になったとメールが入った。これで海へ行けるので安心だ。
帰る場合、鍵は新聞へテープではり、ポストへ挟んでくれと書き置いた。偽装新聞とガムテープもテーブルへ置いてアパートを出た。
歩きながら美緒はいつ帰るのかと思った。家出したというが夫は一応探すのか。でも離婚に同調するのならそうはしないのかもしれない。
木曜は美里も休みだから一緒に海へ行きたかった。そうなれば水曜の夜に泊まることになるため、美緒には水曜までに帰ってもらわないとならない。
昨夜は彼女からわたしを抱しめたので、抱いてもらえなかったのはショックだったのではないか。彼女がいても抱いて欲しいというのがわかった。それを二度も断ったからだ。
これが先月なら違った。引きこもりのときに美緒が現れるならそれは天使が現れたことになる。もちろん抱き合っただろう。
でもそのときは演芸場での再会はむりだ。わたしは辞めていたため、アパートを知らない彼女からは、携帯へ掛からなければ会えない。そうなると美里とは会ってなく、美緒と同棲になったかもしれない。これが運命だった。
演芸場近くのコンビニへ入ると驚いた。雑誌コーナーで八尾が自分を見て笑みを浮かべている。
「久しぶりです、戸川さん」
細身で中背、スラックスにワイシャツ姿の八尾は、逆三角の輪郭と細顔で髪はおかっぱに近い。垂れ目なので人懐っこい顔である。
「久しぶりだね、一度電話したんだけど忙しかったようで」
「あのときは携帯をしまっていて」
終始にこやかの彼はなぜここに。
「そう、どうしてここに?」
わたしを待っていたかのようだった。
「戸川さん、演芸場に戻ったのは知ってます。だからここで待ってたんです。美緒さんが泊まったようですね」
「えー! なぜ知ってる?」
やはり待ち伏せだ。しかし美緒のことも知ってるとはなぜか。
「美緒さんは昔から演芸場来てたからアドレス交換してたんですよ。出演者教えたりして、それで昨夜戸川さんちに泊まるってメールが来たのです。それで今夜飲みに行くことになって、戸川さんにわるいかと思い、前からここによるの知ってたから待ってたんです」
「そういうことか。別に美緒は昔の彼女だし、それに結婚してるしね。ならうまくいってないことも知ってるんだ」
「ええ、なんか暴力などあるようで」
「ぼくに断りなどいらないよ、慰めてやってな。そういえば年も同じではない?」
八尾はわたしと十違うはずだった。
「ぼくが一つ上です」
「話し合いそうだし、飲みにいってよ」
「わかりました。ぼくは今パチンコ店で主任してます。上野駅のゲーセン近くの」
自分が面接しようとした近隣にパチンコ店があるのでそこだろう。
「大体わかったよ。もしかしたか打ちにいく。じゃあ、落ち込む美緒と楽しくね」
「楽しくさせますので」
八尾は手を振りコンビニを出た。携帯を開くと十時近くになり急
いで弁当を買った。
美緒はわたしが寝静まったとき八尾へメールしたのか。自分とビールを飲んだときは携帯をいじってなかった。抱かないことが八尾へ照準を合わせたのかもしれない。彼女からすれば二度も裏切られたのだ。しかし八尾は律儀だ。美緒はわたしのアパートへ泊まったが、人妻であるし自分へ飲みに行くことを伝えなくてもよかった。
そうすると今夜は八尾のアパートへ泊まるのか。でも彼に彼女がいるとわたしのアパートへ来ることになる。
彼はわたしが演芸場へ戻ったのを知っていた。美緒か場内のだれかに聞いたのだろう。上野のパチンコ屋に勤めるのは意外だったが、マイクパフォーマンスなら合っている。主任ということは社員だろうし生活は安定する。まだ上野に住んでいたとは思わなかった。
主任なら道は上っているが自分はまたバイト。でもここが天職ということがわかり、ここで時給を上げていくしかなかった。演芸場に着きロッカーでタイムカードを押した。
「おはようございます」
楽屋の畳を掃いていると、半年前に真打昇進した落語家の柳亭銀五郎がよってきた。まだジーンズの軽装スタイルであり、髪は角刈りで眉が太いのが特徴だ。新米前座が銀五郎へ出すお茶を入れていた。ほかの前座は、お囃子部屋で太鼓や三味線の練習をしている。
「おはようでございます、昨日ね、芳太郎さんのサイフがなくなったのよ。また泥棒が発生かと内輪で話題なの」
銀五郎の年は四十ほどで、年下の柳亭芳太郎は入門が早く兄弟子にあたる。楽屋は八畳が二部屋あり、高座近くなると入る。早くから来る芸人もいるが、出番二十分前ごろに入り、終わると帰るのだ。
「またですか?」
従業員は入らないので泥棒は付き人や芸人になる。二年ほど前も楽屋で金品がなくなった。それは上、中、下席のどこか十日間が過ぎると収まった。つまり十日間いるだれかが泥棒をするのだ。
「そう、だれと目星はついているけど、現行犯ではないから突きとめられない。席亭も知っているが、芸人なので呼ばないわけにはいかないと話してた。金品は各自の弟子や振袖に入れるなりして管理してくれというが、弟子はいないためサイフを袖に入れて高座すると重くてね」
わたしは苦笑いした。が、銀五郎の話しは切実だ。目星がついているというがだれだろうか。
「そうですね。いくらほどやられました?」
「兄さんにはわるいんだけど、たった五千」
五本指を立てると笑うので口に手を当てた。自分も顔を下へ向けると笑った。
「芳太郎さんには申し訳ないですが、泥棒もがっかりだったのでは」
急いで盗ったのが目に浮かぶ。
「みんな寄席で食べているが、それにしても少ないね。ぼくでもこれくらいは……あれ?」
銀五郎はジーンズのうしろからサイフを出し自分に広げると、千円札が三枚ある。
「参りました、ハハハハハハ」
「おかしいなー、すでに二万やられたかな」
銀五郎は首をかしげた。
「まだ来てるのは前座さんと銀太郎さんだけですよ、まさか目星は銀……」
「ばれた?」
というと、お茶をすすった。わたしは笑みを浮かべながら楽屋を出た。内情を知ることができるのはここへ勤める特権だった。ほかの職場ではあり得ないことだ。
昨日もきょうも芸人の出番は同じ。呼び込みをするためわたしは入り口へ行き番組表を眺めた。特に柳亭芳太郎の近隣を見た。
「はーい、まもなく昼の部始まりますよー。すべて自由席ですから入場券買い求めたら、入り口へ並んでください。いらっしゃいませ、寄席のメッカ浅草で笑ってください、いらっしゃい」
平日の昼はツアー客が多くすでに並んでいる。土産を買ったため手には二、三袋を持っていた。
番組表を見るが依然に犯人はわからない。みんなおもしろくいい人で、サイフ泥棒をするように思えない。落語家、漫談家、太神楽で顔を浮かべても想像がつかなかった。わたしは芸人へ敬意を払っているため、もし知ればその人の品格が落ちる。知らないほうがいいかもしれない。
「おっ、がんばってるね」
漫談家はわたしの肩を叩いた。次々に芸人が付き人とやってきた。
「おはようございます」
と、芳太郎へ向けた。彼は笑いながら手を上げた。
楽屋泥棒など通常芸人の弟子や付き人を疑うが、最近の弟子はそんなことをしない。なぜなら簡単に弟子にはなれず、内弟子では必ずばれて波紋だ。就職難の世の中、せっかく目指した芸人道を捨てられない。それに楽屋では師匠につきっきりで、高座のときも袖で待つためそんなことはできなかった。前座修業の弟子はさらに忙しいためむりだ。だれだろうが自分は従業員なので探らないことにした。




