#2
全身を貫く衝撃が体に襲い掛かってきていた。終わったと思った。実際終わっただろう。こんな形で終わるとは思わなかった。事故かよ。しかも信号無視で。それも自分のせいだ。
終わってる。笑えてきた。くっくっく……と笑う。笑った。笑った……?
体が動く。目を開く。どこだ。知らない。自分の部屋じゃない。あるべきものがない。そして要らない物はある。それ以前に、部屋の構造が違う。確実に知らない場所だ。
「……夢……」
それとも死後の世界という奴だろうか。しかしどうにも感覚がはっきりしている。まぁ、初めて死んだので、経験なんてない。これがはっきりなのか、ぼんやりなのかも分からない。ただ視界はクリアだし、耳もちゃんと働いている。鼻はどうだろう。触覚はきちんとある。味覚も分からないか。
部屋にはベッドと机だけ。机の上にはひとつ刃物が置いてある。黒々としていて、先が尖っている。知識が間違っていないのなら、ダガーに似ている。
妄想の中でダガーを使った事ともある。というより、古今東西あらゆる武器で奴らを殺した。妄想の中では完璧だ。
触ってみたい。妄想の中では幾度となく使用した武器だが、実際触った事なんてある訳が無い。ベッドから降りて、それに触れる。
「うぉ……」
重い。ずっしりしている。鉄、という感じだ。だけど、ボロッチィ。中古だ。分かる。少なくとも真っ新な新品という事はない。一回以上使われている。それも派手に。普通に考えれば、何回も使って摩耗しただけだ。ダガーを保持するためのホルダーもある。
「カッケェ」
純粋にそう思う。こう武器だけだと、いや、お前、それ普段どうやって携帯してるんだよ思うのだが、こうやって緻密なところまで詰めてあるとより良い。これがいいよ。ホルダーを腰に付けて、そこにダガーを収容した。いいな。かっこいい。
素早く取り出す。サッと抜いて、構える。うわ。カッケェ。大変に気分が良い。ダガーを仕舞った。貰っていいかな。記念品だ。いいよね。誰もいないし。
ダガーを頂戴して、部屋を出た。
扉を開けると、凄い広い部屋に出た。灰色の壁はさっきの所と変わらないのだが、奥の方に凄い数の扉が並んでいる。……全部で十二ある。それぞれに番号が付いている。何か書いてあるが、ここからでは分からない。
左右を見る。こっちの扉がある。何歩か進んで全体を見る。
こっちは間隔が広いが、部屋が並んでいる。全部で六つ。茶色で木製の古そうな扉に、それぞれ白いプレートが貼り付けられている。
「あれ……?」
自分が出てきた扉には『ナナシ』という名が記されている。名前なのか。別に名前はナナシではない。ナナシではないのだが、妙にすっきりする。自然と受け入れられる。それは言うなら、ニックネームに近い。もう一つの自分の呼び名だ。ナナシ。悪くない。
他の扉を見てみるが、名前が書いてある扉はない。
誰もいないという事だろうか。
一つ一つ開けてみる。
いない。いない。いない。いない。いない。
「俺一人か」
これはなんなのだろう。ナナシは考える。ナナシは自動車に撥ねられて、あえなく命を落としたと思っている。そして、これは死後の世界? 三途の川みたいなものか。川なんてないけど。
怪しいのはあれだ。
部屋のど真ん中に置いてある机と椅子。そしてパソコンらしきもの。多分パソコンだ。
怪し過ぎて近寄りがたいが、何か行動しないと駄目だろう。恐る恐るではあるが、椅子に座ってパソコンを弄ってみる。
すぐに電源は点いて、モニターに色々表示されている。
それは『残高』だったり、『ショップ』だったり、『ギルド』だったり色々あった。目を引いたのは、『説明』という項目だ。
ショートカットをダブルクリックして、そこに飛ぶ。
「なんだこりゃ」
ナナシは呻く。気持ち悪い。ほぼ文字化けしている。ほぼというか、何も読み取れない。言語をなしていない。日本語もでもない。スクロールする。いや、待て。読み取れる。
「各Dから珠玉を手に入れよ……?」
ディヴィジョン。区画とか分割とか。そんな意味だ。そこから珠玉を手に入れる。なんのことだ。ナナシは肩をすくめた。他に読み取れるものはないかと、探ってみたが、やはり何もない。
他の項目のショートカットも踏んでみたが、これと言って収穫はない。面白いのは『ショップ』で色々売っていた事くらいだ。しかしこれが阿呆みたいに高かった。一円も持っていないので、買えない。『残高』を幾ら確認しても、ゼロはゼロだった。
「つまり、俺は無一文なのね……」
悲しいな。どうすればいいのか。ナナシはパソコンを弄りながら、適当に考える。特にこれと言って、思いつく事はない。挙げるとするならば、目の前にたくさんある扉の数々の向こう側には何があるのだろうか。
あれが『説明』にあったDだろう。
近づいてみる。それぞれに番号が振られている。1から12まである。つまりD1~D12まであるという事だ。それに付随してか、扉には動物の意匠が施されていた。
それは鼠であったり、山羊であったり、猿であったりした。一分程度眺めていると、思いついて自分自身に感心した。
「干支だ」
十二支が扉に描かれている。十二種類の動物、または想像上の動物の絵が描かれている。それは写実的に描かれていて、おどろおどろしい物だった。恐怖を煽る絵だ。
「入ってみるか……?」
何もできない状況だ。打開しないといけない。行けないという事も無いのか……?
何しろナナシはすでに死んでしまったのだから。多分だけど。でもあれだけ派手に車に轢かれて置いて、実は生きてます、なんてことはそうそうないだろう。それこそ、奇跡が起こらないといけない。
死んでしまったのだ。暇つぶしだ。余生だ。惜しむらくは、教授陣をぶっ殺せなかったことだ。大変悔しい。所詮は妄想だったが、死んでしまうと後悔に襲われた。
とりあえず、D1――鼠の絵が描かれた扉――に手をかけた。開く。開いている。鍵でも閉まっているかと思ったが、存外何でもなかった。
しかし試練はそこからだった。
「臭っ!」
溝だ。ドブの臭いがする。腐臭が凄まじい。すぐに扉を閉めた。一瞬しか向こう側を見ていないが、結構暗い。例えるなら、夕方でなおかつ雨が降っているくらいの暗さ。結構暗い。それに臭いで鼻が曲がりそうだ。もう一度開けてみるが、すぐに閉めた。
臭い。フツーに臭い。これは駄目な臭さかもしれない。他の所に行こう。
しかし、開かない。どのDの扉を開けようとしても、鍵がかかっているかのように開かなかった。これはつまり、鼠のDに行くしかない……?
ナナシは項垂れた。こんことって、アリ? あの臭い中を進むの? 大きい、大きい溜息が出た。別に行く必要もない。だが、心なしか腹も減ってきた。『ショップ』には食料も売っていた。水を買うにも金が要る。トイレや風呂もかなりピンキリではあったが、金で買えるようだ。金だ。金。何するにも金が要る。
要は何かしないと、汚物にまみれ、最終的に餓死するかもしれない。一度轢殺されておいて、続いて餓死の苦しみを味わうこともない。金を稼がないとな。どうやって稼ぐんだろう。わかんねー。
「とりあえず行くか」
独り言が多いな。これくらいか。前はぶっ殺してェとか言ってたし。
扉を開けると、やはり強烈な腐臭がした。下水道の臭いだ。嗅いだことはないが、そんな感じ。食材を腐らせ、さらに発酵させ、そこに硫黄をぶち込んで、熟成させたようなにおい。つまり酷い。吐きそうだ。「おぇぇ……!」とえづいた。よだれが垂れた。くっせぇぇぇぇえ。心の中で絶叫した。目が痛い気がする。心なしか、空気が目にしみている。涙が勝手に出る。もうやめてよ。それでも後退するわけにはいかず、ナナシは進んだ。
ぐちゃぬちゃとした坑道だ。やはり下水道の中を歩いているような気分だ。汚物がそこらじゅうにあるし、腐った食料が汚水で押し流されている。途轍もなく不快だ。不快指数がうなぎ登りだ。じめじめしているし、空気も悪い。長い間ここに居たら、病気になってしまいそうだ。
帰ろうかなと思った時、奥の方に何か動く影が見えた。
小さい。いや、大きい。人間に比べたら小さいが、あんなデカい生き物は見た事が無い。動物園にでも行かないとお目にかかれないレベルの大きさだ。犬だってあんなに大きな個体はなかなかいない。
ナナシは慎重に進んだ。次第にそれの姿がはっきりし始めた。
全身毛むくじゃらだ。灰色の毛ではない。汚物にまみれ、真っ黒になっている。それは二足歩行をしていて、背が曲がっている。さながら鼠を無理やり立たせて、巨大化させたようだ。いや、まんまそうだ。体長は一.二メートル程度だ。小学生程度だ。デカい。なんてデカさだ。そいつはつぶらな瞳をギョロギョロ動かし、汚物を貪り食っている。ナナシは気分が悪くなった。
鼠人間(今命名)はナナシを見つけた。こっちに気付いた。ナナシはどうするべきか迷った。鼠人間は食事をやめて、置いてあった棒切れを手に取った。涎をまき散らし「ヂュァァァァァ!!」と猛進してきた。ぞっとした。本能的に察した。喰う気だ。ナナシを食料と見做している。ナナシはすぐに回れ右をして、逃げ始める。ばちゃばちゃ水音が鳴る。その度に強烈な腐臭が鼻につく。
やばいやばい。どうする。なんだ、あれ。ナナシは必死に手足を振る。脇目も振らず走る。全力を振り絞る。暗い。薄暗くて、足元が覚束ない。走る速度があまりでない。でも鼠人間は違う。鼠人間は速度を落とさず、こっちにきている。見る事は出来ないが、汚水が跳ねる音がだんだん近づいている。速ェ! このままだと追いつかれる。
「……ッ……!!」
ナナシは一瞬だけ後ろを見た。思いのほか近かった。もう五メートルも無い。生存本能に火が付きそうだ。脳汁がドッパドパ出る。テンションが変だ。上がりまくりだ。くっは。やべぇ。なんだこれ。鼠人間も「ヂュラガラァァァガ!」とか、もう鼠の原形をとどめていない叫び声を出している。
「うっひ……! なんだこれ! やべぇぇぇ!!」
ナナシは絶叫する。腹に力を込めて、全力でガハハと笑った。変だな。死にかけだろう。いや、死んでんのか。そうじゃないだろう。いやぁ。「ぶっ殺してェ」と呟いた。
ナナシは急停止した。鼠人間は構わずツッコんできた。手にはどこから拾ってきたのか、木の棒を持っている。あんなので殴られたら、結構痛いでは済まないな。すぐ死にはしないが、そのうち死んでしまう。ナナシは腰に下げていたダガーの事を急に思い出した。ギャッハ。これ使えってか。良いぜ良いぜ、良い感じだぜェ。ナナシはダガーを手に取った。鼠人間が棒を振る。避けれなかった。無様にも左腕に攻撃を喰らい「ぐっはぁ……!」と呻いた。だが、ナナシも頑張った。ナナシはそのまま鼠人間を蹴った。鼠人間は倒れはしなかったが、体勢が崩れた。体格では勝っている。ナナシはダガーを振り下ろした。
「ナハハ! ワハハ! 死ねェ!」
だが鼠人間はナナシの攻撃を辛うじて防ぐ。防ぐ。ナナシはイラついた。鼠のくせに生意気なんだ腐れドブネズミ。鼠人間は一歩下がると、大きく壁に向かって跳んだ。「あぁ?」とナナシは間抜けな声を出した。鼠人間は三角跳びの要領で、ナナシに組み付いた。
「おわぁ……ッ!」
「ヂュッハ……!」
ナナシと鼠人間は下水の中を転げまわった。口の中に糞ころが入って「ベッベッ!」と吐きだす。全身が汚れる。鼠人間が頭突きを見舞ってきた。効・い・た。イッテェ。クソが。いつの間にかダガーが無くなっている。鼠人間も棒切れを落としていた。ナナシは殴る。蹴る。噛みつく。ガッツガツ殴り、ドッカンドッカン蹴り、ガブッと噛む。その度に鼠人間は「フギュッ」とか「アギャゥ」とか呻く。その度に、ナナシは喜んだ。うっほ。やっべぇ。想像以上だ。一方的な殺害じゃない。ナナシの想像を超えて、ナナシは戦っている。教授陣を惨殺していたよりも、スリリングで楽しい。「ぐひひっ!」と笑う。ナナシはごろごろ転がって、鼠人間の上にのしかかった。
「オラオラオラオラオラァ……!」
ナナシは殴る。殴って、殴って、息をせず殴る。息をするよりも早く殴る。何をおいても殴る。殴り方なんて知らないから、鼠人間も反撃してくる。ナナシが二発殴ると、鼠人間も一発殴る。「ぐへぇ」「ヂュァ」と呻き声が連鎖する。なかなか死なねえ。ナナシの殴り方が悪い。ナナシは恐れている。殴る時、とんでもなく、拳が痛いのだ。怪我したらどうしようとか考えてしまっている。その間に鼠人間が殴ってくる。鼠人間の顔面はボコボコだ。効いているが、死にはしない。そんな感じだ。まったく。駄目駄目だ。ナナシは自嘲した。ナナシは一発殴った後、鼠人間の左目に指を突っ込んだ。
「ギュアアァァビャァァァアァァァァアアアアアアアアアア!!」
「ギヒヒヒヒ」
誰が笑っているのだろう。ナナシしかいない。ナナシは突っ込んだ指をほじくりまわす。抉る。掻き混ぜる。鼠人間はナナシの右腕をひかっく。なんとかして引きはがそうとする。でもナナシは離れない。
ナナシはもはや正気を失っていることを自覚していた。正常じゃない。右腕から結構な血が出ている。それでもまぁ、かすり傷だ。ちょっと引っかかれただけだ。
ナナシは空いた左腕で、鼠人間の顔面の毛を鷲掴みにした。ナナシは笑った。
「フン……! オラァ……! 死ね、死ね、死ね……!!」
ナナシはコンクリみたいな地面に鼠人間の頭を叩きつける。どうにも効率が芳しくない。水が邪魔している。叩きつけるときに、若干クッションの役割を果たしている。関係ないけど。鼠人間は抵抗しない。ぐったりしている。血が跳ねかえる。ナナシの顔が血に彩られる。何度も何度も打ちつける。ゴンッゴンッと何度でも打ちつけた。そのうち、汚水が赤黒くなり始め、一回鼠人間の体がビクッと振動した。痙攣だ。それっきり抵抗が止んだ。
ナナシは徐々に熱が引いて行くのを感じた。しかし同時に歓喜に沸き立っている。氷の様な冷静さと炎のように熱い情熱が渦巻いている。ナナシは雄たけびを上げた。勝利の雄叫びだ。勝った。ぶっ殺した。やってやった。ナナシは歓喜した。ナナシには出来る。殺す事が出来る。最初は怖かった。でもそれは一瞬で吹き飛んだ。ナナシは何度もイメージトレーニングをしていた。それだけで、こうなるとは思えない。そう。ナナシは楽しかった。何度も笑った。殴り殴られながら笑っていた。なんと刺激的な時間だっただろうか! 過去を思い返しても、今の数分も無い攻防を上回る刺激的で情熱にあふれた時間はなかった。
ナナシは今の勝負の余韻を味わいたかったが、そうもいかなかくなった。
足音だ。結構な数がこっちに向かって走ってきている。増援だ。結構暴れていたので、気付かれてしまったようだ。
ナナシはあちこち探して、ダガーを見つけた。ホルダーの中に入れて、逃げ出した。流石に数が多かった。四体はいる。手には刃物を持っている奴もいた。鈍器を持っている奴もいた。逃げるしかない。
ナナシは走って、すぐに元居た部屋に戻った。
中に入ってくるのではないかと思ったが、その心配はなかった。背中を扉に預けて、座り込んだ。結構疲れた。
頭の中は次はどうやって鼠人間をぶっ殺すかを考えていた。色々考えた。たくさん考えた。
ふと、口からこぼれる言葉があった。
「ぶっ殺してェ」