初恋
シリアス路線なので、甘めを期待されている方には向かないと思われます。お読みいただく際にはくれぐれもご注意くださいませ。
桜舞い散る季節。
その感情は、まるで嘘のように。
俺の全てを奪っていった。
その想い、あの日のままで――
初恋
「狭山」
呼びかけられて、俺は廊下の真ん中で振り返った。
耳慣れた柔らかな声音は、この感情に気付いてからは、もう『毒にしかならない』とわかっていたが、それでも振り向かずにはおれなかった。
無視など出来ない。
彼は、生徒に無視をされて平気でいられるような教師ではないのだから。
「……なんすか」
「なんすかって、お前な」
俺より10センチも小さいくせに俺より10歳も年上なんて卑怯だろ、なんて無意味な悪態を内心で垂れる。
他の教師陣からするとまだ年若い担任は、青年の面影を残した若々しい顔に苦笑を浮かべて、俺の腕に教材を乗せてきた。
「社会科の係はお前だろ。何一人でさっさと歩いてんだ」
「別に、荷物持ちだけが俺の仕事じゃねえし」
「そうだけど。持ってくれたっていいだろ。重いんだから」
よいしょ、と小さく掛け声を漏らして、担任の向井は肩に背負った別の教材を担ぎなおした。
セットなど一切施されていない少し長めの黒髪が無造作に揺れるだけで、心臓がどきりと踊り、途端に直視できなくなる。
脱色を重ねて痛みきった自分のそれとはまるで異なる、艶のある髪。
触れたい、という衝動を強く抑え込む。
はあ、と溜め息をついて、俺はその肩から教材の詰め込まれた鞄を取り上げた。
仕方ない、というよりは、手を出したくなるのだ。惚れた弱みと言われればそれまでだが、この構いたくなる衝動が何より厄介だった。
「狭山は力持ちだなー」
大袈裟ににこにこと笑うこの無邪気な担任を夜のおかずに、良からぬ妄想をし始めたのは、もう数年前のことだった。
高校に上がった、初日。
入学式で向井を初めて見た時には、もう気が変になっていた。
元々、男しか愛せないような気がしていた己のセクシュアリティのはっきりとしたマイノリティを感じたのが、まさに向井との邂逅だった。
性的衝動、と。
そう言ってしまえば随分綺麗に纏まるが、そんな生易しい感情ではなかった。
初めて男を『抱きたい』と感じた生々しい欲求だった。
驚愕と同時に、自分のセクシュアリティの壁が崩れ去り、恋愛初心者の無防備な心が一緒に奪われていった。
男同士というだけで、この淡い恋心が実る可能性は下限を更に下回るというのに、生徒と教師という立場ではもうそれだけで犯罪である。
何故、自分は子供なんだろう、と。
呪っても呪いたりなかった。
「狭山。お前、自由登校になったらもう学校来ないのか?」
「来ねえよ。だって出席足りてるし、もう進路決まってるし」
「そうだよな」
「なに、向井、俺がいなくて寂しいわけ?」
茶化した俺の言葉に、向井はぎょっとするくらい真剣な顔でこちらを見つめてきた。どき、と一度太鼓を鳴らした心臓は、そこから過剰なまでのビートを刻み始める。
心の内を探ろうとするみたいな視線の応酬に、思わず「やめろ」と叫びたくなった。
ここまで、何も言わず、話さず、悟らせず、やってこれたのだ。
あと数カ月、我慢すれば卒業だ。
そうしたら、もう、こんな感情に苦しむことはないというのに。
今更、こんなところで。
全ての努力を無に帰すというのか。
全てを覆らせるというのか。
「そりゃあ、なぁ。寂しいだろ。一応、お前も可愛い生徒だし」
困ったように少しだけ笑う向井の顔を、だが俺はずっと見ていることができなかった。
本当に? と、喉まで出かかる言葉を飲み込む。
俺は大勢いる教え子の中の一人だから。
だから寂しいのだろうか。それだけなのか。
そう問い詰めたくて、全身を流れる血流がどくどくと唸りを上げた。
「可愛い生徒とか。まじ、キモいんですけど」
裏腹な言葉に、取ってつけたような笑みが凍りつく。
どうか、これ以上は踏み込まないでくれ、と心が悲鳴を上げていた。
「……それ、嘘だろ」
「は?」
「お前も寂しいだろって、言ってんだよ」
「……馬鹿、言えよ」
廊下の中央。
誰もいない管理棟の三階。
しん、とした空気に、何故かぴりりとした緊張感が漂う。
俺と向井はお互いを見つめたまま、視線を剥がせなくなった。
呼吸の音が。
煩い。
身体が。
熱い。
「なあ、狭山。俺、もう無理だよ。誤魔化しきれないって」
困ったような顔で苦笑した教師は、僅かに俯いて溜め息を漏らした。
確信めいた言葉に一瞬で心拍数が跳ねあがる。
「あんた、なに言ってんだよ」
「だから。こんな探り合いみたいなの、もうやめないか」
「向井っ、待て、お前」
「俺もうわかってるんだよ。それ、もう無視できないんだ」
とん、と向井の指先が伸びてきて、俺の心臓をつついた。
よろりと傾いた俺の腕から、どさりと授業の資料が零れ落ちる。
「わかってるって、何が……」
「だからさ、お前の――」
「言うな! だめだ、向井!」
俺はとっさに叫んで、向井の腕を強く引っ張った。
使われていない科学室のドアを開けて、そこに転がるようにして飛び込む。後ろ手にドアを閉めると、とん、と向井の額が胸にあたった。
その暖かさに、ぎょっとして息が詰まる。
「む、向井っ」
「なあ、狭山。もう、言わせろよ」
泣き笑いのような声を上げる年上の男をどう扱っていいのかわからず、俺はそろそろと向井の肩に触れた。
抵抗はなく、動揺した風もない。
どうにも出来ない衝動にかられて、俺は年上の男を強く抱きしめた。
腕におさめた瞬間、かっと全身が熱くなる。
ああ、好きなのだ、と。
奔流のような感情が込み上げた。
そして、それを目の前の男が受け入れてくれている現状に、眩暈がするよな幸福を感じた。
だが、それでも。
今、それを言ってはいけない。
「ごめん、先生、でもまだ言っちゃだめだ」
「こんな時だけ、先生って言うな、馬鹿野郎」
「ごめん、でも、まだダメだ」
好きなのに。これほどに、好きなのに。
『好き』と言ってはいけない。
このまま腕の中に閉じ込めてしまえたら、どんなにいいだろう、と。
そう思うが、今はまだその選択を選べないということを、俺も、目の前の男も、哀しいくらいに分かっていた。
「なあ狭山、俺はいつまで待ってりゃいい?」
胸の中でぽつりと呟いた教師の声に俺はぎゅっと目を瞑った。
心臓が。呼吸が。
何もかもが苦しい。
それほどに、この男が愛しい。
「卒業したら、ちゃんと言いに来るから、俺」
「それまで? まだ何カ月も先じゃねえかよ」
「約束すっから、俺、絶対――」
「狭山」
向井はちらりと笑って、ゆっくりと俺に向かって腕を伸ばしてきた。
俺よりも僅かに細い指先が、俺の頬を撫で、唇に触れる。
「む、向井」
「分かってるよ。何も言わなくていい」
何も言わなくていいから、と。
向井は小声で囁くと、踵を浮かせて触れるだけのキスをしてきた。
目を瞑ることも出来なかった、その一瞬。
まるで羽のようで。
軽く触れて、掠めて、去っていく。
「これくらいの約束はくれよ。こう見えて、不安なんだ」
そう言って泣きそうな顔で笑う男を抱き締めたくて、俺はただ強く拳を握りしめた。行き場のないこの手を自制するのが精いっぱいで、今は言葉すら出てこなかった。
「待ってるよ、狭山。ずっとな」
「向井!」
行くぞ、と。
次に見た時はもう教師の顔をして、向井は笑った。
強い、その眼差しに囚われるのは、これで何度目だろう。
好きだ、と胸の中で悲鳴のように叫んだ。
好きだ、と何度でも叫んだ。
「先生!」
俺は手を伸ばして、向井の髪のひと房にそっと触れた。
指に馴染む柔らかい漆黒に、告げられない想いが溢れて零れ落ちる。
「約束するよ」
髪に口付けて、俺は強く目を瞑った。
気障でも、無様でも、構わなかった。
今はただ、その髪のひと房に触れたくて。
どんな約束でもいいから、彼を縛っておきたくて。
「いつか。絶対に、伝えにくるから――」
だから、どうか……
また、逢えるその日まで。
再び出会える桜の日を想って、俺はそっと離れた。
桜舞い散る季節。
その感情は、まるで嘘のように。
俺の全てを奪っていった。
その想い、あの日のままで――
ここまでお読みいただきまして、誠に有り難う御座いました。
今作、数時間で書きあげたスピード作ですが、決して思い入れが薄いわけではありません。
『言いたくても言えない感情』というものを、誰しもが一度は経験したことがあるのではないでしょうか。
そういった葛藤を描きたかったのですが、短編でやりきるには私の腕が足りなかったようです。精進します。